しりとり
「想也君、しりとりをしない?」
6時間目の能力学が終わり、さて帰るかと頭の中に夕飯の献立を浮かべつつノートを鞄に入れて居た時だった。隣に座っていた実咲さんが僕を捕まえて提案してきた。突拍子が無さ過ぎて驚いた。
「え、別にいいけど二人でやるの?」
「ん……それもそうね。じゃあ、八雲と一葉も一緒にやるわ」
「いや、勝手に決めんなよ。やるけどな」
「き、今日は特に用事もないから大丈夫だよ!」
僕と実咲さんの前に座っていた海と内宮さんが巻き込まれてしまったが、すんなりと受け入れてくれた。
内宮さんは何故かやる気満々だ。
ガタガタと椅子を動かして、僕の机を中心に四人が輪になる。
僕の正面には栗色の髪をくるくると回している内宮さん。右前には何処から取り出したのか、菓子パンをほおばっている海。そして、左前には海から菓子パンを一つ貰い受け、幸せそうに銀髪を揺らす実咲さん。
クラスメイト達が帰っていく中、第一回しりとり大会が慎ましく開催された。
◇
「じゃあ、誰から始めようか」
「言い出しっぺの現乃から時計回りでいいんじゃねえか?」
「そうね……『しりとり』」
「『リンゴ』」
「『ゴリラ』」
「まあ、ここまではテンプレだよね。『ラッパ』」
「そうね。『パン粉』」
「さ、最初の内って大体決まっちゃうよねっ。『駒』」
「確かにな。『マジック』」
「そういえばルールはどうするのさ。『クジャク』」
「決めて無かったわね。同じ言葉は二回使っちゃダメ、長音の時は、長音のひとつ手前の文字にしましょう。『クッキー』」
「い、今みたいなときは『くっきい』の『い』じゃなくて、『き』にすればいいんだね。じゃあ、『金塊』」
「『~~ティ』みてえな時はどうすんだ?『イ』にすんのか『テ』にすんのか。『石』」
「それも手前のでいいんじゃない?『シンクロニシティ』」
「『テ』ね。『手巻き寿司』」
「じ、人名はどうかな?『師匠』」
「まあ、有名な偉人とかならいいんじゃねえの?『牛若丸』」
「あんまりガチガチにしてもつまんないしね。その都度アウトかセーフかやればいいんじゃない?『ルーレット』」
「『トルティーヤ』」
「あ、あの、実咲ちゃん?トルティーヤってなあに?」
「パンみたいな物よ。とうもろこしか何かから作られているはずよ」
「「へー」」
そんなこんなで10分後――
「ええっと、『ライト』」
「『豚カツ』」
「豚カツか……今日の夜はカツも有りだなぁ。『ツヴェルドパンサー』……って実咲さんそんなに僕の事みて何!?あ、いや、カツっていうのはあくまで選択肢の一つであって、多分作らないと思うんだけど……っとおおおおお!やっぱカツだよねうん!僕も今日はカツ以外有り得ないと思ってたところだよ!」
「えへ。そう?夜ご飯が楽しみね。『秋刀魚』。ところで『ツヴェルドパンサー』って何?」
「この前、実咲さんが倒した虎みたいなやつ」
「ああ、あの筋ばってたやつね?」
「何で食ってんだよ」
「想也君も食べたわ」
「人数の問題じゃねえよ」
「そんなことより、Bランクレベルの怪物だよ!?大丈夫だったの?」
「あんまり美味しくはなかったわ」
「味の心配はされてないからな!?」
「冗談よ。想也君と二人だったから大丈夫に決まっているじゃない」
「あはは。僕は見てただけだったけどね」
「それより、一葉の番よ」
「あっ、えっと、……『マンモス』」
実咲さんが肩を落としてしゅんとしてしまった為に、夜ご飯が豚カツで決定してしまったり、
「ええっと、うーんと、『柑橘類』」
「結構言葉がなくなって来たな。い、い、『インフォームド・コンセント』」
「柑橘類と言えば……実咲さん、家にグレープフルーツが買ってあるよ。『蜻蛉』」
「ホント!?」
「うん。一個だけだけど」
「半分こしましょうよっ、半分こっ」
「何だ現乃のテンションの上がりようが半端ないんだが。グレープフルーツが好きなのか?」
「ん?ん~、グレープフルーツも、だね。オレンジもみかんもレモンも好きみたいだよ。つまり柑橘類が好きらしい。そういう海は何が好きなの?」
「や、八雲君はパンが好きなの」
「へぇ~、言われてみれば、いつもパン食べてるよね」
「もふっとした感じが好きでな。パンに合う食いもんも好きだぞ」
「八雲君」
「何だ一葉」
「あの……その……この間ね、八雲君の為にホームベーカリーを買ってみたんだけどね、一緒にね、その、やっ、やってみない?」
「お、ホームベーカリーか。自分で作ってみたいとは思っていたが、めんどくさかったんだよな」
「どうかな!」
「ん……そうだな。一葉、今度お前ん家にお邪魔させてもらっていいか?」
「お邪魔だなんてとんでもない!いつでも来てよ!」
「甘酸っぱいわね」
「柑橘類だけに?」
「一葉、ちゃんと教えたとおりに出来たのね。『牡丹餅』」
「あれ?無視?今のつまらなかった?」
内宮さんが海を家に呼ぶことに成功して喜んでいたり、
「えーと、うーんと、あ、『コバルト』」
「あー、『騎兵』」
「んー、『放棄』」
「『シチュー』」
「シチューか……。パンに合うんだよな……」
「そういえば想也君。この前の茶色の豚みたいなヤツの名前って何ていうの?」
「茶色い豚?ああ、ポイズンボアの事かな。あれは大きかったねぇ、1メートル半は有った気がするよ。因みにあれは豚じゃなくて猪なんだけどね」
「あら、猪なの?牙とか無かった気がするわ」
「良くは知らないんだけど、猛毒を持ってるから毒に耐性があるやつ以外に天敵がいないんだよね。だから牙とかが退化しちゃって、ぶくぶくと太ってるってわけ」
「だからあんなに美味しかったのね」
「ちょっと待て」
「確かにツヴェルドパンサーよりはかなり美味しかったね」
「普通の豚肉よりおいしいんじゃないかしら」
「だからちょっと待て」
「何よ」
「何よ、じゃねえよ!ポイズンボアっつったら条件付きでAランクになってる超危険モンスターじゃねえか!何を平然と美味しくいただいてんだよ!普通死ぬわ!」
「そんな強くなかったわ」
「戦闘能力だけがランクになるわけじゃないからな。危険性も考慮されるんだよ。ポイズンボアは戦闘能力だけならCランクにも満たないが、触れただけで効果を発揮する毒の所為でAランクになってんだ。死ぬ時に致死性の毒を撒き散らすとかえげつない特性をどうやって切り抜けたのかは知らんが、食うのはあり得ないだろ」
「想也君に頼んだら、毒を無くしてくれたわ」
「やってみたら出来た」
「いや、そんな簡単なレベルじゃないんだが……」
「細かい事はいいじゃない。脂が多いのにしつこくなくて、ギュッとなった肉がホロッと口の中で崩れて溶けるのよ。ビーフシチューにしたら美味しいわ」
「断定かよ。しかし、そこまで言うんだから美味いんだろうな……。本当に毒を無くせるのか?」
「何よ想也君のこと疑ってるの?」
「いや、信じられないだけなんだが」
「想也君、八雲はあの肉要らないって」
「残念だね、美味しいのにね。今度僕たちだけでビーフシチューにしてパンに絡めながら食べようね」
「「本当に美味しいのに残念」」
「息ピッタリだなお前ら」
「わ、私は食べてみたいかな!」
「よく言ったわ一葉。じゃあ、今週末に行きましょう。八雲は留守番よ」
「わかった、わるかったって。俺も行かせてくれよ」
次の土日にポイズンボア狩りをすることになったりした。
◇
「これ終わらないよ……」
しりとり開始から約30分。
高等生のボキャブラリーの豊富さを舐めていた。
流石に開始当初のような素早いテンポではなくなったものの、言葉の引き出しを開け閉めしていれば目的の言葉は引っ張り出せる。
しりとり自体が終わることはないが、言葉を探す時間が増えるばかりで、冗長だ。
皆も同じ事を思っていたのか、飽き始めていた。
「飽きて来たわ」
「そうだね。ここまで終わらないとは思ってなかったよ」
「どうする?適当に切り上げるか?」
「いえ、ルールを追加しましょう」
実咲さんが、人差し指をピンと立てながら切り出した。
「一つ、これから先は制限時間を付ける。まあ、二十秒くらいでいいでしょう」
続けて中指を追加で立てながら、
「二つ、誰かにヒントをあげたりするのは禁止」
薬指を最後に加えて、左右に揺らす。
「制限時間付けたって、焦る理由にはならないものね。だからここから先が重要よ」
「もったいつけるね」
「ふふっ、きっと楽しいわよ」
実咲さんが、僕に微笑みながら三つ目の追加ルールを定めた。
「三つ、言葉が出てこないで二十秒たった場合、前の順番の人の言うことをなんでも一つ聞く、でどうかしら」
「えーっと……それはつまり?」
「つまりも何も、そのまんまよ。例えば、一葉が失敗したら私が一葉になんでも一つ命令できるのよ」
と、ということは……順番的に僕の後である実咲さんがミスった場合、僕は実咲さんになんでも言うことを聞いてもらえる……?
それはあんなことやこんなことでもいいのだろうか。僕とて健康的な思春期男子。なんでもなんて言われたら思考がそっち側に飛んで行ってしまうのは当然の事である。
しかし、自分の欲望をそう簡単に晒すほど僕は愚かではない。実咲さんはああ言ったが、限度があるだろう。ここは一つ大人になって、実に残念ではあるが実咲さんを諭すとしよう。
「なんでもとは言ったけど、エッチなのはダメよ」
ですよね。
「でも、相手の同意が得られるなら構わないわね」
ついつい実咲さんの方を向くと、彼女と目があった。よく見ると、口が微かに動いている。えーと、なになに?『い、い、わ、よ』かな?
「!」
「突然どうした。座れ」
ガタッ、と椅子を蹴り飛ばしながら立ち上がる。
な、何ということだ。
『いいわよ』ってあれか?そういうのオッケーってことか?
よし、全力を出そう。
いや、別にエロいことを口走る気は無い。
しかし、実咲さんにメイド服を着てもらう程度なら大丈夫だろう。メイド服だメイド服。全体的に紺を基調とする、長いスカートと広い袖口の長袖。所々にアクセントの白を散りばめることで、視線を誘導する。あとガーターベルトは必須だ。太ももに伸びるガーターベルトのベルト部分は魔法のベルトだ。総合的に見て、しっとりとした雰囲気の中で実咲さんの銀髪と翡翠色の瞳が、紺の服装との対比によってより一層美しく映えるはずだ。む、カチューシャはどうしようか。メイドさんにカチューシャは必須……とまでは言わないが、言わばメイド性を高めるための重要なファクターであることは確実だ。色合いは白が普通かもしれないが、それだと銀髪と被ってしまうな。あえて、黒系統にするのもありだな。うぇっへっへっへっへ。ジュルリ――おっと、涎が。
とにかくこの勝負、負けるわけにはいかない!
決意を新たに周りを見てみると、海と内宮さんもやる気になっている。
耳をすませて聞いてみると、二人の口から言葉がこぼれていることに気付く。
「デートデートデートデートデートデートデートデートデートデートデートデート」
「メガネ……長方形フレームにす……色は……明るい茶色に合……いや、楕円形か……」
聞かなかったことにしよう。
内宮さんはまだいいとして、海は完全に変態のそれである。まさか、海にメガネに対する異常なまでのこだわりがあったとは知らなかった。
脳内で何を考えているかは大体予想がついたが、そもそも、何故海は自分が勝つことが前提になっているのだろうか。性癖からしてブッとんだ野郎だ。実咲さんにメイド服を着せるのはこの僕だというのに、それすらも分かっていないらしい。メガネの色なぞどうでもいい。カチューシャの色を決める方が大切だ。
「みんなやる気になったわね。『オイスターソース』」
「す、す、す、す、『吹奏楽』」
「く……『黒魔術』」
実咲さん、内宮さん、海と来て、僕の番だ。
内宮さんの目がギラついていて怖い。
全員、目がマジになっていた。
「つ、『ツアーコンダクター』」
「……。『タルタルソース』」
「す!?また『す』!?実咲ちゃんまさかさっきからずっと私に『す』を多くしてた「10、9、8、7」あっ、ちょっと待ってすすす『ストライプ』!」
「ふ…………『不活性ガス』」
「えっ」
ヤバい。
内宮さんに猛威を振るった『す』が僕に牙を向いた。
「…………………。」
「くははっ、残念だったな想也。お前はここでゲームオーバーだ」
勝利を確信し、僕に憎たらしく笑う海。
きっと、奴の頭の中では内宮さんに好みのメガネをかけさせているのだろう。いや、まさか実咲さんにも黒縁のメガネをかけさせようと考えているやもしれない。
この変態め!
実咲さんを守るため、僕は負けられない!
「『スライス』!」
この僕の起死回生の一手。
言葉数を減らしつつ、減らした言葉で攻める。どうだ!自らの策によって負けるがいい!そして、おとなしくメイド服を着るんだ!!
「……『スライスチーズ』」
ぐ。くっそおおおおおおおお!やるじゃないか実咲さん。でも最後に笑うのは僕だよ!
「えっ、ええっ!?また『す』ーーー!?ちょと待って思いつかな、あっ時間がっ。もおおおおお!」
あ、内宮さんアウト。
ゴンッ、と机に頭を打ち付けて突っ伏した。
「…………す………ないぞ畜生」
海アウト。
ゲームオーバーなのはお前だったな。
ざまあみろ。
そういえば、内宮さんに勝つためには、海の順番だと僕と実咲さんを倒さなくちゃいけないんだよな。結構大変だ。
そして、僕に勝ってたら何を要求するつもりだったのだろうか。
ま、コレで僕と実咲さんの一騎討ちだ。
あとは、僕が勝って終わりだ。
メイド服確定である。
――そのとき、僕の灰色の脳内に電流走る。
四角い黒フレームのメガネをかけたメイド服の実咲さんが、僕の部屋と共にフワッと浮かび上がってきた。
ベットの上で少し解けて肩が見える紺色のメイド服、ズラした黒縁のメガネの奥で、翡翠の眼が僕の全てを見通しているかのように射抜く。パサッ、と白のカチューシャを落とすと、銀髪が微かに揺れて、木漏れ日の様にメイド服の上で踊る。
そして、科を作りながら四つん這いでにじり寄ってくる。
手をついた所が沈み込んで、アリ地獄の如くシワができる。
衣擦れの音が段々とこちらに近づいてきて、ピタリと止まる。
数瞬して、ふと顔を上げると触れ合いそうなほど近くに実咲さんの笑みがあった。
そして、銀髪を耳の後ろにかけながら小さく囁くのだった。
「――――。」
「うへへ……うぇへへへぇ」
「想也君?想也くーん?あと三秒よー?」
「ダメだこいつトリップしてやがる」
「ううう……。何で負けた後に思い付くのかな……」
「さーん、にー、いーち。ねーえー、そーうーやーくーん。……抱きしめて良いわよね、これは」
「いやまあ現乃の好きにしたらどうだ。この勝負、お前の勝ちだしな」
「嫌よ。それなら、想也君の方から抱いてもらわないと」
「その言い方、かなり誤解を生むから注意しろよ」
「それにしても、想也君が戻ってこないわ。……ていっ」
「痛っ」
ハッ!
あれ!?さっきまでベットの上だったのにいつの間にか教室に居るぞ!?どういうことだ?
目の前に誰かの手があったので、掴んでその先を辿ってみると、実咲さんまで伸びていた。
「何やってんのメイドさん――間違えた、実咲さん」
「何を間違えたんだお前は」
「ふっふっふ。実咲さん、悪いけどこの勝負、勝たせて貰うよ!」
「あら、自信たっぷりね」
「負ける気がしないよ」
「じゃあ、お願いする内容を三つに増やしてもいいわよ?」
「ふ、ふーん。その勝負受けて立つよ」
「おいおい、辞めといた方がいいんじゃ……」
ヤケに自信満々な実咲さんの言動から、やめておいた方がいいんじゃないか、と僕の中の弱気な僕が囁いてくる。海もそう言っているじゃないか、と。
ふざけるなよ、僕。
ここで逃げるような僕は、僕に非ず。
勇気とは、陣陣荒れ狂う向かい風の中で、それでも一歩踏み出すことだ。足を上げたら飛ばされるかも知れない恐怖の中、それでも前に進むことだ。
「ここで引き下がる?否!ギャンブルはかけた金額が多ければ多いほど、勝利の美酒が美味しくなるのさ!」
「本当にいいのね?」
実咲さんが、僕を試すように問いかけてくる。しかし、僕の決意は固い。右隣の海が、あーあー、などと呆れ気味にのたまっているが、そんなことは気にしない。
考えてもみろ。今回のルールは全て実咲さんが考えたものだ。その実咲さんが『なんでも命令出来る』ルールを制定したのだ。
仮に僕が同じ事を言い出したとしよう。
下心丸出しだと取られかねない。実際、その通りで下心はあるが、実咲さんにゴミを見る目つきで「半径5メートル以内に入らないでください」などと敬語で言われる可能性がある。
そんなことになったら、三日は寝込むと思う。
僕は勇気と無謀を履き違えることはしない。
「勿論やるよ!」
「じゃあ、私の言うことを聞いてもらうわね」
「実咲さんが勝ったらだよ?」
「だから、聞いてもらうわよ」
「ん?」
「もう勝ってるもの。命令権は私のものよ」
「ちょ、ちょっと待って意味分からない」
「だからやめとけって言ったのに……」
「……説明プリーズ」
「ルール1。制限時間は二十秒。アーユーオーケー?」
「oh……」
ギャンブルでかけた金額に比例するのは、勝利の喜びだけでなく、負けた時の敗北感もだ。そもそも、ギャンブルにすらなっていない。今の状況は崖に向かって全力でダッシュしていたようなものだ。
呆気に取られている僕の隣で、それはそれは嬉しそうにはにかむ実咲さん。
とても魅力的だが、同時に底知れぬ不安の泥沼に足を取られるビジョンが頭をよぎる。
ま、まあそこまで酷い命令は無いだろう。
と、信じたい。
「と言うか、何気に現乃は三枚抜きしてんだよな」
「ま、負けちゃったのは仕方が無い……かな?ところで実咲ちゃんは私と、八雲くんと、理崎君に一回ずつ何を頼むのかな?」
いつの間にか復活した内宮さんが、会話に戻ってきた。
「想也君は三回だけどね。うーん、言われてみると八雲と一葉は考えて無かったわ」
「お、お手柔らかにね」
実咲さんは、目を閉じ顎に指を当てて、微かに唸った。
「ん~、そうね。一葉は今度の休日……土曜はポイズンボアを食べに行くから、日曜ね。日曜日に八雲とどっかへ出かけてきなさい」
「み、実咲ちゃん……!」
内宮さんが感極まったように美咲さんを見つめる。実咲さんは、礼は要らないわ、と海から見えないように机の下で親指を立てていた。
「八雲は……そうね、なんかプレゼントしてあげたら?似合いそうな『眼鏡』とか」
「現乃……!」
特定の言葉だけを強調した条件だった。
海も言葉が出ないようだ。
なんで知ってる、って顔をしているな。
寧ろ、なぜあそこまでブツブツ言ってて隠し通せていると思っていたのか。
「じゃ、コレで今日はお開きね」
「そうだね。僕も夜ご飯の支度があるし」
「ああ、帰るか」
「あ、ありがとう実咲ちゃん!また明日ね!」
足早に教室を出て行く海と内宮さん。
二人ともスキップしそうなほど浮かれていた。
◇
帰り支度をしながら、ふと周りを見ると、教室が西日で赤く照らされていた。しりとりに夢中になって気がつかなかった。地球だと、雲のせいでただ暗くなるだけだから、こうも美しく紅にはならない。『シャンデリア』の気象は、二百年ほど前の地球上の気象状況を元に設定されているという。何百年か前の人類は機械仕掛けの人工陽ではなく、太陽と地球だけが織り成す自然な空色の変化を見ていたのだろうか。
作られた空ではなく、ただそこにあった空はどのような色合いをしていたのだろうか。
実咲さんは、どんな気持ちでこの作り物の空を見上げているのか。
窓から差し込む偽物の夕陽が、実咲さんの横顔を隠す。銀髪は金色に輝き、前髪の奥は暗く塗りつぶされている。
「実咲さん」
「……?なあに?」
「実咲さんはさ、今、楽しい?」
「そんなの、決まってるじゃない。楽しいわよ。きっと、これ以上なく」
「実咲さんは――」
本当にここでいいのか、それでいいのか、と続けようとして、遮られてしまった。他でもない、実咲さんに。
彼女は、学校指定の鞄を机の上に置き、おもむろに教壇へと歩き出した。列だか行だかわからない並び方の机を、水切り石のように手で触れながらゆっくりと歩く。
「――私は!……あの島に閉じ込められていた頃、私は毎晩の様に夢を見ていたわ。誰かが私を助けてくれて、救ってくれて、独りにしないでくれる。そういう、あり得ない夢物語ばかり想い描いていたわ。
理想の王子様が私をなんとかしてくれる。
理想の王子様がここではない何処かへ連れて行ってくれる、ってね」
「…………。」
「それが、今はどうかしら?想也君があの島から助けてくれて、想也君は私を独りにしないでくれている。こんな、素性も分からないような女に優しくしてくれた」
「でも僕は、王子様なんかじゃないよ?」
「まあ、想也君は『王子様』って見た目じゃ無いわね」
悪かったね、眉目が良いと言える面構えじゃなくて。そういうのは、僕よりも海の方がまだそれっぽく見えるだろうな。
実咲さんは、僕が眉をひそめたのが分かったのだろう。慌てたように、でも、と続けて、
「例え、王子様じゃなくっても貴方は私の『理想』よ、想也君」
「僕は、そんないいものじゃないよ。そんな理想的な人間じゃない。優しくしてたのだって自分の為なんだから」
「それでも、よ。理想的なんて、曖昧な物じゃないわ。理想そのものなの。私の中の理想は、想也君なのよ。ずっとずっと、想い続けた夢がこの手にあって、隣には理想がいる。楽しいかどうかと聞かれたけど、こんなに幸せなのに楽しくないだなんて言ったら、罰当たりよ」
そして教壇に登り黒板の前で振り向いて、彼女は僕を見つめた。
四角い世界がまばゆいオレンジに埋め尽くされ、辛うじて列をなしている机の影が刻一刻と伸びていく。その中で対抗するかのように、彼女の翡翠の目の色だけが際立つ。
「今日なんて、ふふっ、みんなとしりとりなんてしちゃったわ、くふふっ」
実咲さんは思わず、と言った感じで堪えきれず笑い出した。ひとしきり笑った後、僕を見て表情を引き締めた。
「私ね、とっても自然に笑えるようになったのよ」
初めて彼女と会った時、全くと言っていいほど表情に乏しかった。まるで、顔の筋肉の使い方だけを何処かに忘れて来てしまったかのように。
最初にそれと分かる面差しをみたのは平日の朝だっただろうか。あの時は笑顔にドギマギして分からなかったが、今なら気付ける。今の僕が昔の実咲さんの笑顔を見たら、あまりのぎこちなさに驚くだろう。
それほどまでに無理矢理に作った顔だった。
「私は貴方のお陰で生きていられる。いえ、むしろ私が私で居られるのは貴方が、想也君が居たからなのよ」
そして、彼女は一瞬だけ息を呑み、口を閉じる。 翡翠色の瞳が何かを探すように地面を這うが、そこにあるのはオレンジと黒だけ。迷いを断ち切るようにまばたきを挟むと、その目は揺れることなく真っ直ぐなものになった。
「私はね。もうこれ以上は望まないって決めたの。私の両手は塞がってるから、もう要らないって。でも、次は失うことが怖くて仕方なくなってしまったのよ。私の手のひらから消えてしまうのが怖い。必死に抱き抱えても、スルリといなくなってしまうかも知れないと考えると、泣き叫びたいほど不安になるの」
実咲さんは、意を決して言い放った。
「ねえ、想也君。私はここにいるのかしら。私は、私なの?本当の私は今もあの島にいて、今の私は、夢の世界に居るだけなんじゃないのかな。夢を見ているだけなんじゃないのかなぁっ……」
途切れ途切れに届く声は、悩みや辛さに削られて掠れていた。
僕は、それに応えられる言葉を持ち合わせていなかった。絞り出されたボロボロの言葉は、僕の耳朶に染み込んで消えない。
潤んだ瞳が赤の光を乱反射させる。
実咲さんは、小さくなるように自身を抱きながら続けた。
「私は幸せよ。でも、幸せが辛い。幸せが痛い。幸せが怖い。幸福がこんなにも苦しいだなんて思いもしなかった!愉快な気持ちの後ろに、愉快ではない何かがつきまとってくるの!」
「実咲さん……」
感情の発露。
実咲さんの、生の、何の装飾も施されていないグチャグチャの気持ちがぶつかってくる。
どれだけ心細いのか、どれだけ心苦しいのか。他人の気持ちなんて、そんな物を言葉だけで理解するのは不可能だ。でも、解った気になって上っ面の言葉を投げつけられられるのがどうしようもなく嫌で、辛いことは知っている。
幸せが怖い、というのも良く分かる。
それを実咲さんに言葉で伝えたとして、きっとその中身まで伝わらないだろうことも分かる。
僕は、どうしたら良いんだ。
いや――僕はどうして欲しかったんだろうか。
「どうやったらこの不安は消えるの!?」
「実咲さん」
「いつも夜中に目が覚めて、その度に、焦りながら周りを見て、ああ夢じゃなかった、って安心するの!」
「実咲さん!」
「すると次は眠れなくなる!次に寝たら目が覚めてしまうかもしれない!それを何回も何回も繰り返す!」
「実咲さん!!」
「ひぅっ……そ、想也君……その……私はっ……怖いの……夢なら早く、覚めて欲しい。無いはずの希望をちらつかされるのが、一番辛い!」
僕は教壇に上がって、実咲さんの目の前まで来た。肩を掴んでこちらを向かせる。
目元は赤く、涙をボロボロと流し、制服に斑点が出来ていた。
「こっちを見て」
「だって……だって……私は、私はっ」
「私は?」
「ひう…………お、怒らないでっ」
「別に怒ってるわけじゃないよ。ただちょっと落ち着いてってば」
「ひぐっ……グスッ……」
膝をついて座り込んでしまった実咲さんの顔を覗き込んで、目を合わせる。
あんまり人の目を見るのは好きじゃないがそんなことも言ってられない。
きっと、彼女も自分が今何を言っているのか分かっていないだろう。
だから、少し待つ。
「落ち着いた?」
「ひっく……うぅ……おち、ついた……」
「そ、良かった――」
「で、でも、私はっ、う、ううわあああああん!」
落ち着いてなかった。
まあ、そう簡単に落ち着く訳がないか。
仕方が無い。最終手段である。
かなり恥ずかしいからやりたくないが、泣いている人の周りにいるだけで何もしないっていうのは結構いたたまれない気持ちになる。
やらざるを得ない。
「実咲さん、ちょっとゴメンよ」
「グスッ……グスッ……うぷっ!?」
僕は、全力で、目の前で泣いている女の子を抱きしめた。
何も言わず、ただ抱擁するだけ。
それにしても座り込んでいて助かった。
実咲さんは僕より少しだけ背が高いから、もし立っていたら、なんとも締まらない感じになっていただろう。
実咲さんは、その後も僕の腕の中で泣き続けた。
五分ほどだろうか。
いや、更に長かったかも知れない。
抱き締めて少ししてからメチャクチャ恥ずかしくなって逃げたしたい衝動に駆られた。
こんなところを人に見られていたら、僕は完全に社会的に抹殺される。
幸いにも誰かに見つかってしまう前に、実咲さんは泣き止んだ。
「……大丈夫になった?」
「グスッ、ええ、もう大丈夫」
「そっか、なら良かった」
「あの……ごめんなさい。制服、汚してしまって」
「ん、気にしないよ、別に」
途中から、実咲さんの方から抱きついてきた為、制服はシワくちゃ、僕の胸の辺りは涙でかなり濡れていた。
「本当にごめんなさい」
「いや、こういう時もあるって」
謝っている実咲さんの顔は、目尻は腫れて、頬には涙の跡が残っている。崩れた前髪と涙の膜の奥で、翡翠色の瞳が行き場を失ったようにふらふらと揺れる。
おおよそ、人に見せられるような形相ではないが、僕にはこの上なく扇情的に見えた。
雰囲気に流されたわけじゃないけれど、僕も言いたいことがある。
「そのね、僕も同じなんだよ。今が凄い幸せ。だから、幸せが逃げちゃうんじゃないかって、思う。君が――実咲さんがいつか僕を見限って何処かに行っちゃうんじゃないかって、いつかまた昔みたいに一人でごはんを食べる時が来るんじゃないかって、そう思ってた」
「わ、私はそんなこと――!」
「しないと思う。でも、いつか心変わりするかもしれない。今までが嘘だったからじゃなくて、本心が別の本心になるからこそ、絶対にないとは言い切れない。それこそ、これは今僕が見ている夢なのかも知れないよ。でもね、実咲さん。僕はこの夢が大好きだ。何時覚めるかわからない夢だけど、何時崩れる幸せなのか分からないけれど、僕はこの夢を見れて良かったと思ってる。君はどう?」
「……私もよ。私も、この夢に浸れて良かったと思ってるわ」
「それなら良かった。……『例え世界が君の敵に回ろうとも、俺は君の味方でいる』――なんて、良くある使い古された言葉だけど、僕は『君の為なら世界だって創ってみせる』。君が夢を見ているのなら、その夢の世界を創る。夢の様な現実なんて、最高でしょ?」
少しおどけて言うと、彼女は小さく微笑んだ。
「ふふっ、そうね。これからは、私と貴方の理想世界を夢見ることにするわ」
「それなら僕は、君と僕の理想世界を叶えることにするよ」
そうして僕らは顔を見合わせ、くつくつと、心の底から笑った。
「……ありがとう」
「あー、ほら、今日は夜ご飯カツにするんでしょ。早く行こう」
不意に恥ずかしさが襲ってきた。
紅潮した顔で早口に捲し立てる。
赤くなっているのは夕陽のせいだ。
さっさとこの微妙な空気を払拭しようとするが、実咲さんは動かない。
どうしたのかな。
「その……多分今見れた顔してないと思うから……先に行っててくれないかしら?」
「ん。そうだね、ちょっと配慮が足りなかったよ。夜ご飯を楽しみに待ってて」
「わかった。……本当にありがとう」
鞄を引っ掴んで教室を出た。やっぱり慣れない事はするもんじゃないな。
「ああ、やっぱり想也君は私の理想。私の両手の中には想也君しかいない。私には想也君しかいない。私は、もうこれ以上要らない。想也君さえいれば、八雲も一葉も周りの人間も、この世界でさえ要らない。想也君は、私だけの世界。私の全て」
実咲さんが小さく、恍惚とした表情で呟いた言葉は、紅の世界で儚く朧に溶け入り、僕に届くことはなかった。
「想也君はとてもとっても優しいから、きっと屑のような人間に騙されてしまうかも知れない。私が守ってあげないと。私が。他の誰でもない、私だけが。想也君を分かっているのは私だけなんだから。そう、私だけ」
その翡翠色に強い意志を秘め、フワフワと熱に浮かされたように歩く女が一人。
その目に宿るのは、狂気的な決意。
逢魔が時に、微かに笑う声が世界に響いた。
「くふっ、くふふ、ふふふふ、あは、あはははははははは……」
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