油断
殆ど無呼吸運動を続け、走ること三分。
強化をしていなければ、一分と持たずに座り込んで動けなくなってしまうレベルの速度で走り続けた。最短距離を踏破する為、屋根の上だろうが壁だろうが関係無く足場にして突っ走った。
強化した脚力に物を言わせて、三角跳びの要領で壁を蹴りつつマンションの屋上から道路へと降り立つ。
眼前には、自分の家であるマンションが立ちそびえている。
焦る気持ちを抑えつつ、マンションの中に足を踏み入れる。いくら身体機能を底上げして超人的な動きが出来る様に成っているとは言え、疲労は感じるし、今も毛穴の一つ一つから汗が噴き出している。
空調の整った設備内は涼しく、あと数分もすれば制服に染み込む汗が冷たく感じる様になるはずだ。
だが、汗が引くほど休んでもいられないし、何より体の熱とは無関係に冷や汗が滲み出ている。
「外から見た感じじゃあ、騒ぎになってる様子は無かったし、戦闘痕も残って無かった。藤堂の話だと、もう逮捕されてる風だったけど、案外間に合ったかも。……いや、この目で見るまでは安心は出来ないや」
エレベーターに乗り込みつつ呟く。
垂直上昇する鉄の箱が、やけに遅く感じる。
「それにしても、先生には感謝しないと。今度お礼しよう」
ここは俺に任せて先に行け、と足止め役を買って出た先生にはありがとうとしか言えない。そこらへんの物語なら死亡フラグも良いところなんだけど、先生が負ける姿など全く想像出来ない。
通路を走り、理崎のネームプレートの前で急停止。滑り込む様にして家に入った。
「ただいまー」
……。
返事が無い。
リビングまで続く壁に声が吸い込まれて届かなかったのかも知れない。
靴を脱ぎながら再確認。
「たーだーいーまー!?」
……返事無し。
静かだ。
静かすぎる。
何時もなら、僕がただいまと言った直後には現乃さんがお帰りなさいと言いながらとてとて歩いてくるのだ。
その姿にぼくは癒されていたわけだけど、そうしなくてはいけない決まりを作った覚えは無い。
今日はたまたま、お出迎え無しデーになったのかも知れない。
エレベーターで少しは引いたと思っていた汗がいつの間にか噴出していた。首元を拭うと、粘っこい水が掌に纏わりついた。ここまで汗ばんでいたのか、と心の中で呟きながらズボンでてのひらを拭い取った。手形が投影されてしまったズボンを見て、後で洗濯しようと心に決め、どうせ洗うならと肩を動かして首からこめかみまでを伝う汗を制服に染み込ませた。
「強化」
万が一。
万に一つの可能性の内容は、僕自身想像出来ていないが、それでも何かがあった時の為に強化を発動する。
差し足忍び足で、なるべく音を立てない様に移動する。ドアを開けた直後に大声を出したから殆ど無意味な行為だと思うが、そうしなくてはいけない気がしたのだ。
リビングへと続くドアに手をかけ、息を殺しながらドアノブを回す。
「……!…………ッ!」
リビングの中央で、銀色の芋虫がジタバタとしていた。
一瞬、目を疑ったが、よく見れば現乃さんだった。
よく見なくても現乃さんだった。
テーブルは粉砕されて木材に還元され、ガラスのコップが割れて、足の踏み場を無くす様に大量に部屋中に飛び散っている。
「んー!んんんー!」
ダストテープで両手両足を縛られ、タオルで猿轡を噛まされている現乃さんがくぐもった声で呻りながら首を横に振っている。
肘から上を固定されて手首を回すことしか出来ず、左右の上腕を体にくっ付ける様にグルグル巻きにされていた。
足首と膝を固定されているため、現乃さんが身じろぎする度にスカートが捲れて非常に目の保養になる。間違えた、目に毒だ。
良く見ると、首のあたりに幾何学的な文様の描かれたシールが貼られていた。なんじゃありゃ。パッと見は魔法陣の様だけど。
「今助けるよ」
細かい事を考えるのは、現乃さんを救助してからでも遅くは無いだろう。
なるべくガラスが落ちていないところに跳び移り、摺り足でガラスの尖った破片を踏みつけない様に前進して現乃さんの元へ到達した。
「んー!んんー!!!」
「大丈夫大丈夫、今解いてあげる」
猿轡を外す。
口の戒めから解き放たれた彼女の第一声は感謝の言葉でも謝罪でもなく、端的な警告だった。
「後ろっ!」
「……ッ!」
現乃さんの方向を指定した短い警告の意味を理解する前に、体が反応した。
気配を掴んだから、などでは無く、ただ単純に現乃さんの翡翠の瞳に映り込む僕の後ろで、人影が動いたのが見えたからだった。
「きゃっ!」
現乃さんを突き飛ばす。
小さな悲鳴を上げてガラスの破片群に倒れ込んでいく。
僕は振り向きざまに上体を出来る限り後ろに反らして襲撃者の攻撃を勘で躱す。
現乃さんが怪我をしていないかを確認する余裕すらなかった。
持てる限りの瞬発力を活かして、不恰好ながら回避に成功した。強化しておいて正解だった。もし、強化をしていなかったら、僕は物言わぬ死体と化していただろう。
髪の毛一本ほどの距離を何かが通り過ぎて行ったのを気配で感じつつ、フローリングの床を蹴って襲撃者との距離を離す。
瞬時に強化に使う魔力を増やしたので、ガラス程度を踏み抜いても怪我はしない。飛び散ったガラス片を踏み砕きながら、襲撃者を見定める。
「……お前は」
無意識のうちに言葉を発していた。
真っ黒な覆面を被る一人の男が、剣を振り切った体勢で僕を見ていた。
男は剣を――燃える炎の様に波打つ形状の剣――フランベルジュを無造作に構えた。
「なんで……なんでお前がそこに居るんだよ!死んだはずだろ――いや、殺したはずだ!」
感情のままに叫ぶ。
人違いかも知れないし、思い違いかもしれない。だけど、僕はその姿を見て確信した。
両親を襲った犯人たちの片割れだ。
憎しみが心を凍らせていく中、返答があった。
「死ね」
語尾が聞こえるか否かのタイミングで、男はフランベルジュを振りかぶりつつ突っ込んできた。
僕は近距離戦闘が得意ではあるが、武器を持った保持者相手に素手で挑むのは得策ではない。男の力量を正確に把握できていない上、リーチに差が有りすぎる。一旦引いて仕切り直したいが、室内では距離を取ろうにも限度があるし、何より現乃さんを守れなくなる。僕ら三人の位置関係は丁度三角形になっていて、僕が後ろに下がると現乃さんと離れてしまう。
よって、取れる選択肢は迎撃しかなくなる。
「『理想世界』――『打刀』!」
リーチを補うために、打刀を創る。
長物は室内では使いにくいから、一メートル未満で打刀を創造した。概念封入が出来れば、男を圧倒できる自信があるが、そんな隙を見逃してくれるとは思えない。
加えて、概念を創るだけの魔力がもう残っていない。頑張れば、あと一度くらいは魔法系の代わり程度になるだろうが、それにしたってゼロ距離で急所に撃ち込まなければ有効打にはなり得ないだろう。
短時間で魔力を使いすぎた。
学校で、衝撃波を創造した『理想世界』が一回目。
家に来るまでに強化をし続け、打刀の作製に二回目の『理想世界』。
今も強化の維持に魔力を使い続けている。今にして思えば、衝撃波に費やす魔力を節約しておけばよかった。
剣戟をぶつけ合い、一進一退の攻防を繰り広げる。
戦闘能力はほぼ互角。
鍔迫り合いに持ち込まれるが、半歩分引いて力をすかし、男の体勢が少し崩れたところで左足で踏み込みつつフランベルジュの腹に沿わせる様にして打刀を滑らせ、柄で男の喉を狙う。
男は右回りに回避しながら、右脚で僕の踏み込んだ左足を払いに来た。
僕は左足を軸にして、右足を男の浮き上がった右脚の内側に滑り込ませて更に懐に潜ろうとした。
男は舌打ちして、飛び退る。
フランベルジュと打刀の鋒が触れ合う程度に距離が空いたが、依然として、互いに有効的な手は打てていない。このままではジリ貧だ。遠からず僕の魔力が尽きて負ける。
「現乃さん!まだ動けない!?」
現乃さんが戦闘に加わってくれれば、少なくとも撃退程度は叶うだろう。
ダストテープ如き、現乃さんの魔力量を持ってして強化すれば綿飴のように千切れるはずだ。なのに、縛られたままでいると言う事は、何か理由がある。
「さっきからやってるのに、強化出来ないのよ!」
「それなら、クッ、首に貼られたシールが魔力操作の邪魔になってるはず、グッ、だから、ラアッ!なんとかしてシールに傷をつけて!セイッ!!それで使えるようになるはず!」
「分かったわ!」
視界の端で、現乃さんが床に首を押し付けているのが見えた。
散乱しているガラス片で、シールを切ろうとしている。
何回か頭を上下させると、強化していない生身の体だった為に首にガラスが突き刺さり、血をダラダラと流してはいるが、シールを無効化することに成功したようだった。結構無茶するな、現乃さん。下手したら、死ぬレベルの勢いだったぞ。
「あと一秒待っ――!」
「――やばっ!」
油断はしていなかった。
単純に、僕の不注意だった。
「『爆炎波』」
「ッ!『理想世界』!」
男は僕を見たままで、突然フランベルジュから左手を離し、現乃さんの方へ魔法系を放った。現乃さん――確保する対象に向けて攻撃するとは思わず、魔法系の発動を邪魔出来なかった。
現乃さんの前に割り込んで、即座に『理想世界』を発動させる。
直後、男の左手から紅蓮の炎が迸る。部屋の中を焦がし、僕と現乃さんを呑み込む熱の奔流が全てを燃やし、消し飛ばす。炎の届かない距離にあるテーブルが自然発火した。
流石に三千度を超える熱波を受けて、ケロリとしていられるほど人間をやめてはいない。
『理想世界』を使って、爆炎が通り過ぎるまでの数秒間を防ぐ。
せめて、『氷槍』や『氷弾』の様に物理的なものだったら打刀で弾けたのに、残り少ない魔力を使うハメになった。
男の発動した『爆炎波』は、僕と現乃さん以外の全てを焼き払った。
背中に風を感じる。
部屋は原型を留めておらず、外界の空気を直接取り込む前衛的なリフォームとなってしまった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「あ、ありがとう、理崎君」
「いいから、早く、強化して……」
後ろは見ないで、指示だけ出す。打刀を構え、フランベルジュを構える男を見据える。
ヤバい。魔力が足りない。
まだ手は残っているけど、奥の手だ。
出来れば最終手段は使いたくない。
現乃さんさえ戦える様になれば、十分に勝機がある。
それまで、隙を悟られない様に――。
「……?」
違和感。
僕の思考は、一つの違和感によって断ち切られた。盤石の定石をワザと置かれなかった事が、疑問符となって僕を埋め尽くした。
何故。
何故、攻め込んでこないんだ。
たった一度の魔法系によって、流れは男が主導権を握る形になっている。
隙と言うなら、今の僕は隙だらけで、あと数秒もあれば現乃さんが戦闘に参加する。
攻め込むなら、今しか無いはずだ。
絶好のチャンスを見逃すに足る、何かがあるのか。あるとすれば、それはなんだ。
「理崎君!」
現乃さんの呼び声と同時に、僕は突き飛ばされる。突然だったが、なんとか倒れ込まないように姿勢を制御する。
僕を押したのは、現乃さん以外にあり得ない。反射的に、現乃さんを見る。
そこで、僕の思考はまたしても遮られてしまった。
疑問では無く、ただ目の前にある変えようのない現実に起きた事実として。
「かっ……こふっ…………」
なんだ。何が、何が起きてる。
遠くからタタァァーン……ァァーン、と小さな音が反響してきた。
彼女の制服が、胸の辺りから血色に染まって行く。
現乃さんは僕を見て強張った顔で微笑むと、手を伸ばしてきた。足が震え、手先は弱弱しく、開閉さえ出来ないのに。必死に。僕に少しでも近づこうと。
「り、ざ……く……」
でも、僕が駆け寄ってその手を取る前に、ゴトン、と頭から崩れ落ちた。
焼けたフローリングの床に、現乃さんの命が流れ出て行った。彼女の銀髪が真っ赤な液体の上に投げ出され、不気味に光を反射している。
「……嘘だ」
そこまでして、やっと理解が追いつく。
現乃さんは僕を庇い、どこからかの狙撃をその身で受けた。
ただそれだけの事だった。
それだけの事で、現乃さんは凶弾に倒れたのだ。
「嘘だ」
何をやってんだよ僕は。
奥の手は使いたくないだ?出来ればやりたくないだ?その考えが、現乃さんを殺してしまったんだ。全部全部僕が悪い。
「なんでだよ悪い事なんてしてないだろ嫌だよなんでこんな目にッ!」
また手を取れなかった。
これじゃあ、何も変わってないじゃないか。
――あの時と同じじゃないか。
「クソッ!クソッ!クソッ!クソがッ!!!『理想世界』ああああああああああああッ!」
――ぶっころしてやる。
読んでいただきありがとうございます




