呼び出し
歴史とは、過去の積み重ねである。
パラパラマンガの様に、一瞬を積み重ね続けて『今』が作られている。
人には、その人生の行く先を大きく左右する折り目の付いたページ――ターニングポイントとでも言うべき時がある。
『あの出来事があったから、今の自分がいる』
些細かも知れないけれど、それでも自分と言う矢印の向きを変更なり確定なりさせた何かがある。
ただ、それを自覚出来ることはあまりない。ターニングポイントが、決断と言う形で目の前に転がっていること自体が幸運だ。
自分の感知出来ない範囲で、手も目も届かない所で自分の意思とは無関係にレールの切り替えスイッチを押されていることだってある。
無意識に選択をしてしまうことだってある。
それは、いつも通る道を少しだけ変えて歩くことかも知れないし、誰かの問にノーと答えることかも知れない。
どんなターニングポイントにせよ、一度決定してしまえば後戻りは出来ない。
後戻りが出来ないからこそ、あの時こうしておけば良かったと悔やむのだ。
後悔とは、そう言うものだ。
では。
自分が選んだ末に後悔するのと、他人が決定した行く先に向かうだけで、わけも分からないまま後悔せずに終わるのとでは、どちらが幸福だろうか。
ここで重要なのは、選んだ時には後悔するかどうかなんて分からないし、他人が決めたからといって後悔しないとは限らず、そして仮に後悔するとしてもそれが何時になるかは分からないと言うことだ。
――まるで、ギャンブルみたいだ。
でも、人はそうやって日常を重ねていく。
僕は、この日。
四月二十八日と言うターニングポイントを、何時になっても振り返り続けるだろう。
何ヶ月後か、何年後か、何十年後かに、過去を懐かしんだ時に――もしかしたら、明日にでも後悔してしまうかは分からないけど。
立ち止まって振り返った時に、はたとそこが分かれ道であったことに気付く時が来るかも知れないけど。
少なくとも僕は、その日。
何気ない日常であるはずの四月二十八日が、僕の行先を変える分岐点になるとは微塵も思っていなかった。
四月二十八日は、彼女が――
現乃実咲が、死んだ日だ。
◆
朝、目が覚めると金縛りにあっていた。
金縛りは、レム睡眠とノンレム睡眠が逆転してしまう事が原因だと言われている。つまり、脳が覚醒しているのに体が眠っている状態だ。実は眠ったままで、体が動かない夢を見ている事が金縛りの原因だと言う人もいる。
では、夢ではない事が分かっていて、体が物理的に動かせない状況の事は何と言えばいいのか。
そういう点では、金縛りにあっていた、と言うのは間違いか。
まず、意識が覚醒した所で、腕が動かないことに気付いた。
状況を整理しようと思い、瞼を開けると、僕に馬乗りになっている制服を着こなした現乃さんの姿があった。僕の肘の上辺りに膝を沿えて、足全体で僕の腕を体に押さえつけるように固定していた。枕に乗った僕の顔を挟むように現乃さんの手が深く沈み込んでおり、僕を覗き込むように見る翡翠色の瞳と目があった。銀の長髪が垂れて、現乃さんと僕を繋ぐ筒の様なカーテンになっている。
遮光装置を解除していない為、部屋の中は薄暗い。
かろうじて部屋の四隅の輪郭が判別できる程の光量だったが、現乃さんの翡翠の眼がやけに爛々としていた。瞳孔が開き気味なのは、薄暗いからだろう。
現乃さんは息遣いさえしっかりと聞こえるほどに僕に密着していて、お互いの脈拍のリズムまで伝わってしまいそうだ。
僕らを隔てるのは、服と布団だけ。
布越しに感じる現乃さんの体温が、寝起きの温もりと混じり合ってなんとも言えない幸福感を醸し出していた。
冷静さを装って、自身の状態を観察してはみたものの、状況は依然理解不能なままである。頭の上に疑問符が浮かび、その疑問符からまた新たに疑問符が生えてくる。
疑問に押し潰されそうになる前に、思考を止める。
迷っていても状況は改善しないし――
「はぁはぁ……!」
――荒くなり始めた現乃さんの呼吸を落ち着けることは叶わない。
僕の胸中は疑念と疑心が混ざり合って、この部屋のような暗い不安色になっているが、ほんの少しの安堵が溶け込んでいる。
腰の辺りに乗っかられていたら、寝起きだと言うことを鑑みて非常にマズい事になっていたのだが、幸いにも彼女は僕の胸の辺りに腰を下ろしていた。その代わりに重心を抑えられていて、起き上がることが出来ない。
どうにか動こうと背筋を総動員させるが、ベッドが軽く軋んだだけで現状の打破には繋がらなかった。
無様に足をジタバタさせてもがくが、上半身の拘束はちっとも緩まない。
「僕、何かしたっけ……!」
「何も。何もしないのが問題なのよ」
「どう言うことか分からないけど、取り敢えず何でこんなことになってるのか説明プリーズ」
「朝だから起こそうと思って」
「両手を足で抑え込まれてなければ、その言葉を信じてたよ」
「信じる信じないではなく、私が上をとっていると言う事実を受け容れた上で、どう発言するか考えて?」
「…………お、おはようございます」
「おはよう、理崎君」
「……」
「……他に言うことは?」
「……太ももが近くて目のやり場に困ります。あと、今日も良い匂いがしますね」
「やだもう理崎君ったら。ご褒美をあげるわ」
現乃さんはそう言ってスカートの裾を摘まんだ。
そして、ゆっくり、ゆーっくりと焦らすようにスカートをたくし上げようと――
――見えないッ!ギリギリ見えないッ!
あと少しでスカートの奥の聖域を拝見出来ると言うのに、ピタリと手を止めてしまったのだ。
生殺しである。
だが、この胸の高鳴りは何だろうか。見えない方がエロスを感じる。
「興味が無いわけじゃないのよね……何故かしら」
「……?何の話?」
「いいえ、なんでもないわ。朝ごはんにしましょう」
体から圧迫感が消える。
それと同時に、強化を解除する。
はっはっは。現乃さんは上に乗っかるくらいなら、と甘い考えでマウントポジションを取ったようだが、僕を舐めないでほしい。こちとら、青春を謳歌する若き男子高校生。女性に密着されるだけで十分に満たされるんだよ!
強化によって増幅された感覚器官から伝わってきた現乃さんのぬくもりと感触は、脳の記憶領域に深く刻み込んである。
とっても興奮しました。
「あぁ、それと――他人が強化しているのって、結構わかるものなのね」
現乃さんはそう言い残して部屋を出て行った。
……バレてる。
怒っているみたいでも無かったから大丈夫だろう。大丈夫だよね?
……明日の朝ご飯は、ちょっと豪華にしようかな。
「今日は遅刻せずに済んだね」
「理崎君がもっと早く起きてくれたら小走りで学校に行く必要も無かったのだけれどね」
教室にダッシュで滑り込み、一息付いた後、現乃さんに愚痴られる僕。
「現乃さんが僕をからかうのが悪いと思うんだよね」
部屋を出た後に上着をはだけさせて僕を待っていたり、朝ご飯の最中に所謂「あーん」をしてきた。
無表情でやられたもんだから状況を呑み込むのに時間がかかった。
「さて、何のことかしらね」
「なんてベタなトボけ方……!」
「何だ。また馬鹿やってんのかお前らは」
わなわなと震えていると、座席に座る海から
ツッコミが入った。
海の隣では、内宮さんがメガネのレンズを丁寧に拭いていた。
「ムッツリスケベなのよ、理崎君は。私の体を舐め回す様に見てくるの」
「人聞きの悪いこと言わないでよ!現乃さんが半脱ぎになってたんじゃん」
「オープンスケベね?」
「いやそう言うことを言ってるんじゃない――『まさか……ッ!』みたいな表情しないでくれる?」
「あら、失礼」
「仲良いなお前ら。なんだ?付き合ってんのか?」
海がニヤニヤしながらからかう。
良くあるからかい方である。
「付き合ってるだなんてそんな……!うふふふふふ」
「付き合ってるとか海お前なんてこと言うんだお前……!――後でジュースおごるよ」
「うおお?なんか違う反応だな」
海は予想していた反応を得られずに肩透かしを食らったような顔だ。高等生にもなれば、ガキ臭い冗談に狼狽えたりしないのだ。
こういうのは下手に引き摺ると微妙な空気が流れるので、さっくりと一区切りつけてしまうのが得策である。
冗談はさておき、と言うやつだ。
「んで、今日の授業は何だっけ」
「物理、化学、数学、能力学ね」
「うわあ、面倒だ」
「理数科目が一纏めになってるからな。ちょっと気を抜くといつの間にか分からなくなってるぜ」
「わ、私はそうは思わないけど……」
「内宮さんは勉強出来るからそう思うんだよ……。中間テストが今から憂鬱だよ、僕は」
「取り敢えず、授業中に寝るのを止めたらどうかしら」
「…………頑張ってみる」
「向上心があるんだか無いんだかわかんねえな」
寝てなくても献立を考えているうちに授業が終わる。
今はまだ授業に着いていけているが、置いていかれるのも時間の問題だろう。
ペーパーテストなんてやらなくて良いのに。
簡単に点数を取る方法はないものか。
「あれっ?僕、今凄い良い事思いついちゃったんだけど。やべえ、僕天才かも知れない」
「ロクな事じゃない気がするが――まあ、聞くだけ聞いてやるか。何を思いついたんだ」
「僕って他人と思考を共有できる超能力系を持っ――」
「「却下だ(だよ)」」
内宮さんと海が声をハモらせて否定してきた。
完璧な作戦だと思ったんだけど、何が駄目だっていうのさ。
「カンニングじゃねえかそれ」
「え?答えを頭の中で思い浮かべたら、僕に伝わるだけだよ?」
「だ、だからそれカンニング……」
「君らと僕のカンニングの定義は大きく異なっている様で残念だよ、まったく」
「残念なのは想也の頭だろ」
「おや、僕が悪者ですかそうですか」
「『やれやれ、困ったもんだぜ』みたいな表情してんじゃねえよ」
「現乃さんも言ってやってよ、この分からず屋に」
「えっと、理崎君には悪いけど、確かにそれはカンニング――」
「――今日の夜はオレンジをデザートにしようかな」
「――だとは思えないわね。私は理崎君の味方よ」
「何をしれっと買収してんだよ」
「何言ってるのかさっぱりだね、現乃さん」
「そうね、理崎君」
現乃さんと結託して海を弄っていたが、授業開始の鐘が鳴り響いて終わりとなった。
登校時間が遅めだったから、何時もより雑談時間が減ってしまった様に感じる。
「今日は一井先生が来なかったわね」
「……言われてみれば」
何時もなら気だるそうに教室に表れて二、三言は伝えている。たとえ連絡事項がなくても、顔を見せにだけは来ていたと言うのに今日は来なかった。
まあ、こういう日もあるだろう。
少し現乃さんと話しているうちに物理の先生が教室に入って来て授業が始まり、雑談が一区切りした。
そして特に何か問題が起きることもなく、恙無く全ての授業が終わり――
――ターニングポイントに行き当たった。
しかしそれを、僕が見抜くことは叶わなかった。
『それ』は、当たり前の様に当たり前の日常の一コマとしてやってきたからだった。
無精髭をさすりながら教室に現れた一井先生の問いが、僕の未来を左右した。
「理崎、ちょっと居残ってくれ。ERCの藤堂って男が、お前と話がしたいんだとよ」
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