大事な話1――理想主義者の苦悩
いつの間にやら、マンションまで来ていた。
グルグルと考えの纏まらないフラフラとした気持ちを引きずって、自分の家のドアを開ける。
鬱念の糸が、学校から家までずっと僕にくっついて来る。
ああ、ネガティブ思考っていうのは、中々消えてくれない。こういう時は、さっさと風呂入って寝るに限る。
家でうだうだと悩みたくない。
「あ、お帰りなさい」
靴を脱いでいると、奥から雑巾を持った現乃さんが出迎えてくれた。
長い銀髪を後ろでまとめ、ポニーテールのようにしていた。
残念ながら僕は、スカートを家に常備する上級者ではないため、現乃さんが履いているのは僕のズボンだ。
その膝辺りが少し濡れていた。
何故か顔が少し紅い様にも見える。
そういや、現乃さんもどうするか決めないと。やることがいっぱいだ。
こっちも有耶無耶にするわけには行かない。
ドアを閉めて断ち切ったと思った糸が、また僕と鬱状を結びつける。
こんな気持ちは早く解いて燃やしてしまいたいが、結び目も無いのでどうすることも出来ない。
あえて言うなら、結び目は僕の目の前にいるけど。
今日のご飯後にでも問い詰めるか。
「ん、ただいま。よいしょっ、と」
「たくさん買ってきたわね」
「まあね。これ冷蔵庫に入れといて」
「はーい」
現乃さんは、パンパンに食材の詰まった袋を二つ同時に持つのは重くて無理だったらしく、諦めて一つずつ両手で持ち運んでいた。
リビングに入ると、違和感を感じた。
なんか……綺麗になってる?
さっきの現乃さんの格好は、掃除をしていたからか。わざわざそんなことしなくていいのにな。
リビングを抜けて、自分部屋にカバンを放り投げに行くと、此方は手がつけられていないようだった。流石に遠慮したのかな?
まあ、ベッドの下とか見られてたら終わっていたけど。
さて、さっさと風呂入って夜ご飯を作らねば。
晩御飯はカレーだ。
台所までついてきた現乃さんと一緒にクッキング。
現乃さんが冷蔵庫から食材を取り出し、僕が食材を切る、そして焼いてもらう。 この役割でやろう。
「現乃さん、そこの冷蔵庫から人参と玉ねぎとジャガイモとお肉、あとはバター出して」
「えーっと、冷蔵庫ってこれよね。これと、これと、これね。……全部凍ってるみたいだけど?」
「ああ、それは中に仕切りがあるはずだからそこに入れてボタン押して」
「……。へぇー、最近の冷蔵庫って凄いのね……。はい、どうぞ」
「ん、ありがと。じゃあ、僕が切るから、どんどん炒めてって。そこに塩と胡椒あるから」
「分かったわ」
肉に下味を付けてから、肉、野菜の順で炒める。玉ねぎだけは最初に入れた。キッチンには肉と野菜のいい香りが立ち込める。水を入れた鍋に具材を投入して、煮込みながらカレーの固形になったルーを落とす。
スパイスの効いた、食欲を刺激する香りがキッチンを支配した。
「あっと、ご飯焚いてなかった。……っと、多分間に合うな」
「全く、便利になったものよね」
炊飯器に水とお米を入れてボタンを押すだけで、二十分もしないでホカホカの白米が炊き上がる。
ERCの仕事で地上に降りた時など、依頼の種類によっては丸一日かかることもあるが、そういう時にはこの炊きたての白米が恋しくなる。
魔力を使った魔道具で白米も炊けるが、依頼で怪物と戦闘になるのに、米と携帯炊飯器など持っていく馬鹿はいない。そもそも、携帯炊飯器と据え置きの炊飯器では味に差がある。
とにかく大量に作る。
鍋は満タンだ。カレーは二日目からが本番だし。
ご飯が炊ける頃を見計らって、リビングで色々と準備を進める。
リビングと台所を行ったり来たりしている間に、現乃さんに呼び止められた。
なにやら、合鍵が欲しいらしい。
そこらへんも後で話し合おう。
準備が終われば現乃さんが待ちに待った夕食の時間だ。
僕はお代わり含めて二食でお腹いっぱいになったので、携帯をしながら時間を潰していたら、まさか現乃さんに二日目の分のカレーにまで手をつけられているとは思わず焦った。
明日も朝ごはんがカップ麺になるところだった。
「食べ終わったー?」
「ええ、ご馳走様でした」
「お粗末様。あー、ちょっとこの後大事な話があるから、そのつもりで」
僕の真剣な表情が伝わったのだろう。
現乃さんの表情も真剣そのものだ。
その目の奥からは、強い覚悟の様なものが窺えた。
「えっと……一回お風呂入ってきた方がいいよね?ほら、私、今ちょっと汚れちゃってるし」
「え?うん。その方がいいかもね」
確かに一度風呂に入って、意識をリフレッシュさせたほうがいいかもしれん。
少なくとも、今後に関わることなのだから。
「さ、三十分くらいで戻ってくるから!」
何故か早歩きで風呂場に向かう現乃さんに疑問を抱きつつ、椅子に座る。
さて、何から話すべきだろうか。
きっかり三十分後に戻って来た現乃さんに、氷を入れたグラスに水を入れて手渡す。
ぶかぶかのワイシャツに短パンのラフな格好だ。
確か、あのワイシャツは通信販売で買ったやつだ。サイズが合わなくて失敗した品である。
対面に座る現乃さんはなんとも落ち着かない様子だ。
俯いて、ちらりと僕を見たと思ったら目をそらして、ちみちみと氷水を口に含む、の繰り返し。
お湯に浸かっていたので、顔はほんのりと上気し、赤みを帯びている。
可愛くて、目の保養になるが、見惚れている場合ではない。
「現乃さん」
「はっ、はい!も、もうするのかしら!?」
「うん。そのつもりだけど」
「えっと、ここでいいの?理崎君の部屋に行かなくていいの!?」
「何で?」
「だってその、ベッドあるし……」
「……?別にここでも出来るよ?」
「えっ!?初めてだし、せめてソファーとかがいいんじゃないの?」
現乃さんが、テーブルから少し離れた部屋の壁際に置いてある白いソファーを指差す。
安かったから買ってみたけど、実際にはあまり使われていない置物と化した家具だ。
それにしても、ソファー?
何か話が噛み合ってない気がする。
何が言いたいんだ現乃さんは。
……。
そうか、分かったぞ。
さては、ソファーのようにフカフカとした椅子ではないとリラックス出来ないタイプだな?僕たちが座っている椅子は、唯の木の椅子だから、多少座り心地が悪いのかも知れない。クッションを渡してあげる位してあげれば良かった。
「現乃さん、もしかしてソファー派?」
「どっちかというと、ベッド派なのだけれど……貴方がそういうなら私は構わないわ」
「……?ま、まあ、いいか。それじゃあ、早速……」
話を、と続けようとしたところで現乃さんが身を乗り出すようにして遮ってきた。
「ちょっ、ちょっと待って!」
「えっ、あっ、はい。なんでしょうか」
「そのぅ……電気は消さないの?」
「ええ?なんで消す必要があるの?」
「だっ、だってそれはその、……恥ずかしいし」
んんんん?
何故電気の話になるんだ?
現乃さんの声はドンドン小さくなっていって、殆ど聞こえない。
俯いてもじもじとしているのも、僕まで声が届かない要因の一つだろう。
「電気消したら見えなくね?」
と、僕は当たり前の事を呟く。
現在、時刻は午後10時に迫ろうかというところである。『シャンデリア』の何処かで働いている管理職員が泥酔して、「今日はずっと昼だーあひゃひゃひゃひゃ」などとトチ狂って人工陽の設定を白夜に変更でもしない限り、本物を忠実に再現した月明かりが街並みを淡く照らしているはずである。
これから、大事な話をしようって言ってんのに電気を消して窓の奥から入ってくる月明かりだけを頼りに、暗闇に向かって話しかけるなんて面倒だ。
現乃さんの髪色なら、月明かりを反射しそうではあるけども。
「みえ……ッ!そっ、そうね。貴方がそういうのだからそっちの方が良いわよね」
何故か動揺しながら、水を飲もうとして止める現乃さん。グラスの中には半分溶けた氷しか入っていない。
飲みすぎだ。
耳まで真っ赤な所を見るに、やはりのぼせてしまったのだろう。
苦笑いしながら、自分の分も含めて新しく二杯の水を入れる。
こっからはぶっ続けで話さなきゃいけない。
椅子に座り直し、現乃さんを見据える。
今のうちに舌を湿らせておくのが良いだろう、と一口の水を含んだ瞬間、現乃さんがおもむろに服を脱ぎ始めた。
「ブーーッ!げほっげほっ、な、ななななにやってんの!?」
口の中の冷たい水を吹き出し、気管に流れ込んだ液体にむせる。
現在、僕の前では現乃さんがワイシャツのボタンを全て外し、真っ白な肌が部屋の明かりを反射しているところだ。少しでも動けば彼女の、女性の平均よりは少し豊満な胸が曝されてしまうだろう。
見たい気持ちが無いわけでは無いが、突発的過ぎて付いていけない。
ていうか、下着はどうした。ワイシャツの下って普通はもう一枚何か服を着るんじゃないのか。
そして女性はさらにその下に下着を着用するんじゃないのか。
「だって、理崎君がここが良いって言ったから……」
「ちょっと待って僕は脱げ、なんて言ってないんだけど!?」
「脱がないと出来ないもの」
「いや別に脱がなくても出来るし!?」
「な、なるほど……」
「分かってくれた?」
「理崎君は上半身着たまま派の人なのね?」
「わかってねえ!!えっ、ちょっ、待て待て待てマジでちょっと待って!!」
遂に短パンにまで手をかけ始めた現乃さんを見て、椅子から立ち上がって流石に止めに入る。
何だ何なんだ。
何をどう解釈したら、服を脱ぐと言う発想にたどり着くんだよ。
しかも、聞く限りではまるで僕がそう要求した様な口ぶりだ。
短パンを下ろそうとしている現乃さんの手首をしっかりと掴む。
首をねじ切れんばかりに回して、目線を横にズラす。この体勢はマズイ。
僕ですら大きくて着れないシャツなので、僕より少し背丈が高い程度の現乃さんがボタンを外せば、少し屈んだだけでも肌とシャツの間に魅力的な空間が出来上がってしまう。
少しでも気を抜けば吸い込まれそうだ。
なんとか現乃さんを押し留める事に成功する。女性だから、勿論僕よりは非力だ。
強化でも使われていたら、簡単に振り切られてしまうだろうが、ノーマルの女性の筋力に負けるほど僕はひ弱ではない。
むしろ、最大の敵は自分だったと言える。
欲望に負ければ、僕は現乃さんの艶やかな曲線美を拝むことになっていただろう。
一糸纏わぬ裸体を脳内に浮かべつつも、手の力を抜かないでいられたのは僕の強靭な精神力のお陰だ。
まあ、状況が理解出来てないから、取り敢えず止めてるだけというのもある。
「オッケー分かった落ち着くんだ現乃さん。何も脱がなくていいだろう!?」
「着たまま派なの?」
「マジなに言ってんの!?話をするのに着たまま派も脱ぐ派も無いよね!?」
「えっ?」
「んっ?」
「…………話?」
「そう、お話。トーク。言葉のキャッチボール」
「……大事な事をするって言ってたのは?」
「確かに、大事な話をするって言ったね」
力が弱まったのを感じて、両手を離す。
プルプルと震えている現乃さんは、底知れぬ冷気のような無表情が顔に張り付いていた。
「ちょっと、顔を洗って来るわね」
「はい、どうぞ」
さっき風呂に入ったばかりだろう、という言葉が喉元まで出掛かったが何とか堪える。
人が浮かべ得るあらゆる表情の中で、表情が無いということがここまで恐ろしいものだとは知らなかった。
もし、ここで余計なことを言えば三途の川に叩き込まれてしまう。もしくは賽の河原で石を積み続けるエンドレススポーツに強制参加だ。
洗面所のドアが閉まったのを見届けると、詰まっていた息が肺から絞り出された。
呼吸が止まっていたらしい。
台所で、空のグラスに新しく水を注ぎながら溜息をつく。
「ああもう……また有耶無耶になりそうだ」
思わず独りごちたが、それに答える人はいない。
グラスの中で、氷がカラン、と軽い音を立てた。
十分ほどして、現乃さんが澄ました顔で戻って来た。テーブルを挟んで、対面に座る。
どうやら、先のやり取りは無かったことにするするらしい。
何を勘違いしたのか分からないから、有難い。
さて、こっからが本番だ。
正直言って、足が震えてる。
未だに、まだ告げるべきではない、とか考えているけれど、後回しにはしたくない。
中学の時も、そうやってなあなあにしていたから、ああいうことになってしまったのかも知れないのだから。
同じことを伝えるにしても、それが早いか遅いかの違いしかない。
でも、その違いこそが重要なのだ。
時間をかけるほど言い出しづらくなり、言い出した時には手遅れになっているかもしれない。
後になって嫌われるなら、最初から嫌われたい。
今まで笑っていた奴が、次の日には僕を睨み付けるのが一番堪える。
話がそれた。
つまり、受けるダメージが少ないうちに怖がられておこう、ということだ。
「さ、現乃さん。大事な話だよ。信じるのも信じないのも、怖がるのも怖がらないのも、君に任せる」
現乃さんからの返事はない。
ただただ、僕を見つめるだけだ。
カラカラの喉を潤すが、口を開こうとすると舌の根が乾いて仕方が無い。
どうにか唇を濡らして、続ける。
「どんなことでも出来る力を持っている、って言ったら、君はどう思う?」
「何を言ってるんだろう、とは思うけど……冗談じゃ無さそうね。あの蟷螂とかを半分にしたのも貴方の能力なの?」
「まあ、そういうことになるね。どう?」
「どう?と言われても困るわよ。別に何とも思わないわ」
「別に、怖がったからと言って、何かをしたりするつもりは無いよ。だから、本当の事を言ってほしい」
「本当に何とも思わないわよ?」
だって、と現乃さんは付け足してから、
「理崎君は、その力で私を助けてくれたじゃない。実際にどういう能力なのかは知らないけれど、能力を見られたくなければ、いざとなれば、私を殺して口封じするっていう選択肢もあったじゃない。それに、理崎君の立場からしたらあの島で私を助ける義務は無かったのよ。私を囮にして逃げても良かったのだし。
まあ、その『怖がられるぐらいの強い能力』があるからそこまで切羽詰っていなかったのかも知れないけど。それでも、見ず知らずの人間を助けるのって、そうそうできる事じゃないわ。見捨てる選択肢が無かった訳じゃないわよね。どう考えたって、一人で逃げた方が安全で確実なんだから。
でも、そうはしなかった。わざわざ私を抱えてまで――そうね、まさにお荷物って感じだけれど――そんな私を背負って逃げてくれたじゃない。
そんなあなたを怖がることなんて、絶対にないわ。
例えばその力を持っていたのが、貴方ではない誰かだったら、多少は怖いけど、でも貴方なら大丈夫」
真摯に向き合ってくれる彼女の姿を見て、僕は心を掻き雑ぜられるような気持になった。
そしてただ単純に、凄い、と思った。
例えば、ある人間に高速で運動する物体――トラックでも新幹線でも良い――が激突するとしよう。
爆発にも似た激突音を辺り一帯に響かせる事故現場では、鉄くずに変わり果てた何かと、その中心に立つ人間。右手だけで、激突してきた対象を突き破り、自身は無傷のまま。
さて、その右手で握手を求められたとき、何の警戒も無くそれに応えることは出来るだろうか。
彼女は、握手どころか、抱き締められることすら構わないと言っているのだ。
勿論、僕がそう感じた、というだけで実際にそこまでの覚悟が有るかは言葉の上からでは読み取り切ることは出来ない。
本音と建前を両立させることぐらい、見た目16歳程の子供なら誰でも出来る。
しかし、僕は最初に「なんでも出来る能力」として話始めた。
なんでも出来る能力なんてモノは、自分の能力を含めて今まで見たことも聞いた事もない。
僕の能力は出来ない事も多い。
『他人の考えを読み取る』ことは出来ない。
だがそれは今の所僕だけが知っていることだ。
現乃さんからすれば、僕は嘘を見抜くことが出来、さらに戦闘能力については見せつけられたばかりと言ったところだ。
彼女が嘘をつく可能性は限りなく低い。
あるいは、僕のブラフを看破した上で騙っているのかも。
だけど、きっとそんなことは無いだろう。
理由も根拠も無い。
でもそう思わせてくれるほどの何かを、僕は彼女に見た気がする。
「そっか、僕の能力を見てもそう言ってくれたのは現乃さんが初めてだよ」
「いえ、信じてくれたのなら良かったわ」
この時点で僕は現乃さんにそれなりの信頼を傾けていた。
我ながら単純だとは思うけど、心が軽くなった。
遠巻きに僕を監視するだけの誰か達とは違う事が分かっただけで満足だ。
「僕の話はこれで終わりだけど……なんか実際にやってみる?危ない事は出来ないけど、それ以外ならやってみるよ」
「そのうち見ることもあるだろうから、今はいいわ。また倒れちゃったりしたら大変だし」
「いや、確かに詠唱短縮しまくって結構疲れたけど、本当ならぶっ倒れるほどじゃないはずなんだけど……っと、そうだ」
「?」
危ない危ない。
また聞きそびれるところだった。
話が一段落して、気が抜けていた。
幾つか気になることがあるから、今の内に教えてもらおう。
「えーっと、いくつか聞きたいことが有るんだけど」
「何でも聞いて頂戴。スリーサイズは計ってないから教えられないけど」
「それは別にいいや」
本当は知りたい。
「大前提として、これだけは聞いておこうと思うんだけど。ああ、勿論責めたりするつもりは無いよ?だから正直に答えて欲しいんだけど――」
良く考えてみれば、現乃さん本人から言い出されたことは無かった。
もし違うのであれば、病院に連れて行って検査する手間も省ける。
「――現乃さんさ、記憶喪失じゃないよね?」
読んで頂きありがとうございます




