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君と僕の理想世界  作者: 天崎
第一章
20/79

彼らの原点、環境

アラームが鼓膜を叩く前に瞼が開いた。

直後に耳障りな音が聞こえてきた。乱暴に叩いて止めたが、壊れることは無かった。設計者の方々は、寝起きの気分の悪さまで考えて目覚ましの強度を上げているのだろう。昔は、朝起きることが余りに出来なくてさんざん悩んだ挙句、起きざるを得ない音にすれば解決だとアラーム音を変更していたが、流石に寝起きから黒板をひっかく音にしたのは失敗だった。


背筋の痒くなるような不快な音にしたのは他ならぬ僕自身なのだけど、だからと言ってそんな音を朝から聞かされたイラつきを過去の自分にぶつけることも出来ず、結果的に目覚ましをぶん殴ってしまった。

無意識なのか寝ぼけていたのかは分からないが強化(ブースト)まで掛けていた。


睡眠と言う幸福から引きずり出す事を使命として作られ、その為に強度まで上げられた目覚ましと言えど、薄い鉄板程度ならたやすく貫通できるレベルのパンチを受けてはどうしようもない。

バキャァ!と言う音と共にアラームは止まったが、目覚ましは大破した。

勿論、原型など留めておらず、中身は飛び散っていたので捨てた。


確かに目覚まし本来の仕事は果たされたが、その代償が目覚ましの命と新しい目覚ましにかかるお金だと思うと割に合っていない。まぁ、次に同じ引っ掻き音にしたら鳴る前にぶん殴ると思う。強化(ブースト)有りで。

因みに今の目覚まし三号のアラームはただの電子音である。


耳障りな音に変わりはないけどね。

そうなると、なぜアラームが鳴る前に目覚めることが出来たのだろうか。

まさか今日も布団に『抱き枕』が潜り込んでいるのではないかと思っていたのが原因かもしれない。

しかし、僕の隣には布団から分離したタオルケットが包まっているだけで、現乃さんの姿は認められなかった。幸か不幸か、嬉しいような悲しいような、いや、悔しいな。

自分、タオルケット、掛け布団の順に重ねて寝ていたはずなのにタオルケットだけ外に出て行くのは不思議である。魔法だと言われれば信じてしまいそうだ。


体を起こして、正座する。

こうすると、目だけでなく体も覚める。

頭の重さが和らいできたところで、立ち上がる。窓を開けると、春の陽気が飛び込んできた。しかしながらちょっと風の湿度が高い。『アタリ』の日とは言えないな。




寝るだけの部屋と化している自分の部屋を出てリビングへ向かうと、現乃さんがテーブルで寝ていた。銀色の髪が無造作に広がっている。昨日の体勢のままであるところを見ると、一度も起きなかったらしい。

今日も勿論学校に通わねばならないので、早めに起こしてあげよう。


「すぅ……すぅ……うぅん…………くぅ……」


だがしかし起こしていいのだろうか。

寝ている人の目を覚ますのに一番効果的なのは体を揺らすことである。大きな音を出してもいいが、朝っぱらからそんな事をする気にはなれない。つまり、僕は現乃さんを揺さぶってあげなければいけない。

つまりつまり、揺らすということは即ち体に触れるという事である。

い、いいのかな。

やべえよ、緊張して来た。

ちょっと待って、どこ触って揺らせばいいの?

肩?腕?流石に椅子を揺らすのはビックリするかな。いやでもそれぐらいしか方法ないし、て言うか触れる指は何本までオーケーなの?手のひら使ったら料金発生とかないよね?


そろそろと手を伸ばし、あわや僕の手が現乃さんの肩に触れる寸前で引っ込める。

待てよ僕。触った瞬間に現乃さんが起きて「は?何触ってんの?気持ち悪い……」とか言われたりしないよね。もし言われたらトラウマになること確実なんだけど。学校も休まなきゃ。


しかし待てよ僕。人を起こすという大義名分がある以上、そこまでの事態には陥らないんじゃないか?何もない時に突然、僕みたいなのが現乃さんの様な美少女に触れた場合、関節技をキメられた後に牢屋にぶち込まれる事はあり得るが、起こすためだったとキチンと弁明できるのなら顎に右ストレート入れられるだけで済む可能性がある。

関節技だけならそれはそれでアリではある。


いやしかし、いや、でも――


寝ている現乃さんの前で手を伸ばしたり引っ込めたりする僕は、はたから見たら完全に不審者だったと思う。


五分ほどウダウダと迷った末、覚悟を決めた。

よし。自然な感じで起こそう。

カウントダウンしたらやろう。

さん、にー、いち、


「……何やってるの?」

「おきゃあああああ!?」


バッチリ目が合った。

翡翠色の瞳に僕の姿が映り込んでいる。

ばばば馬鹿な。寝ていたはずじゃあ!?


「何時からお起きになられていたのでしょうか」

「『しかし待てよ僕』ってぶつくさ言ってるところからよ」

「忘れてくださいお願いします」


まさか口に出しているとは。

喉仏を抉られるかと身構えたがそんな事はなく、きっちりと状況を説明したら分かってくれた。今度からは体を揺らして起こしてくれと言われた。大勝利である。喜んでいたら若干引かれた。自重しよう。


現乃さんが朝の身なりを整えに洗面所へ向かっている間に、朝ごはんの支度をする。支度とは言っても、お湯を沸かすだけだ。少し時間が経って、現乃さんがリビングへと戻ってきた。

美少女と囲む食卓は、一日に活力を与えてくれる。咀嚼する麺の美味しさだって確実に上がっている。値段にするならプラス1000円は確実である。むしろ値段はつけられないかもしれない。現乃さんと食べる食事の時間はプライスレスだ。朝ごはんはカップラーメンだけど。


目の前で美味しそうに麺を啜っているこの女の子が冷蔵庫の中身を全て食らいつくした張本人であると、にわかには信じ難いが、事実である。証拠に、朝から棚の上の方にあったカップラーメンを取り出して啜ることになっている。また昨日のように大量に食べるのではないかと戦々恐々としていたが、聞けば、食べようとしなければあんなに食べなくてもいいと苦笑いしながら答えてくれた。

昨日の夕食もそうだったが、現乃さんはこのカップラーメンでさえものすごく美味しそうに食べる。

笑ったりするわけでは無いが、なんというか空気が柔らかくなる。

あんまり食べないでくれとは言えない。

いっぱい買い込んでおかないとなぁ。




朝食を終えて、学校へ行く準備をしていたら遅刻するギリギリの時間になってしまった。

現乃さんは、わざわざ玄関まで見送りに来てくれた。



「今日は夜ご飯何食べたい?」

「理崎君が作ってくれるなら何でもいいわ」

「あはは、そういってくれると嬉しいよ。沢山買ってくるからいっぱい食べてね」

「勿論よ」

「ところで現乃さんは何が好きなの?」

「……食べ物の話?」

「そうだけど。物でも料理名でもいいよ?」

「そうね、柑橘系の果物が好きよ。料理だったら……覚えてないわ」


覚えてない?”ない”じゃないのか。聞き間違いかな。


「じゃあオレンジとか買ってくるよ」

「やったっ!……コホン。ありがとう、嬉しいわ」


箱ごと買おうかな、オレンジ。

柑橘類か……グレープフルーツとかも好きなのかな。

ポケットの中の携帯を確認すると、時刻は八時をとっくに過ぎていた。

ヤバい遅刻する。


「あー、じゃあもう行くよ。六時くらいには帰ってこれるから」

「うん……わかった。……いってらっしゃい」


そういう彼女はどことなく悲しそうな顔をしていた。

そんな顔をしないでほしい。

無表情に見えていたけどそれは間違いみたいだ。

眉が微かに動いたり、口が少しだけ曲がったり、ほんの少しの変化がある。

ちょっと表情が硬いだけだ。

何ていうのかな、感情表現の為には顔や声や身振り手振り(ボディランゲージ)を使う訳だけど、それらを意図的に使わない様にしているっていうのかな。でも声は普通に感情が乗ってるし、表情や身振りの仕方を忘れているって感じがするんだよなぁ。勘だけど。

きっと、現乃さんは笑っていた方が良い。

見間違えたはずの笑顔でさえ、忘れられなくなるほどなのだから。

笑えないのじゃなく、笑わないのなら、笑っていてほしい。


「現乃さんは、笑っていた方が良いと思うなぁ」

「え?……えと……あの……」


現乃さんが混乱していらっしゃる。

違うんだこれはつい本音が出ちゃっただけなんだ。

誤解じゃないけど誤解なんだ。


「ふふっ……」

「んぐっ!?行ってきます!」


戸惑いながら笑う彼女は、満面……とまでは行かなかったけど、確かに笑ってくれた。

見るものすべてを魅了するであろうその微笑みに耐えきれなくなった僕は走って逃げた。

別に恥ずかしくなったわけじゃない。遅刻しそうになっていたからだ。




走った所為であがった息を整えながら校門をくぐる。

この学校は校門から校舎までが異常に遠い。ガソリンスタンドや燃料タンクの様に、校舎から一般の建物まで最低でも数十メートル以上は距離を置け、なんていう法律が制定されているからである。保持者の通う学校は危険物貯蔵所などと同じように扱われている。学校、と言うより保持者が危険物と同じなのだ。




保持者がまるで爆発物の様に扱われるようになったのは、今から百七十年ほど前の事らしい。

その頃には現在よりも更に保持者が少なかった。<人類史上最大の災害>の後、三年ほどして地球帰還を旗に政府は大規模な作戦を開始した。丸々三年間の歳月を政府体制の確立に費やし、政府主導では初めての政策となった。

総動員数はおよそ十万。

急遽編成された軍隊2万と一般人が8万人で構成され、一般人の殆どが地上へ返せ、などと政府に訴えていた者達だった。


宇宙ステーション『シャンデリア』に備わっていた降下装置――接続装置と言うべきか――を使い、唯一雲の途切れていた箇所を目印に続々と荒れ果てた荒野へ降り立った。

シャンデリアから見える範囲では雲によって地表面は覆われていたため、地上の様子を窺い知る事は出来ず、わざわざ雲間を探す必要があった。

この雲が実に厄介であり、可視光線の類は通すが、特定の電波の類を通さないのである。つまり、地上とシャンデリア間での通信が出来ないのだ。まさか赤外線やX線までもを遮るとは思いもよらなかっただろう。今はそれが魔力による現象だと解明されているが、その時代には全くの未知であった。





降り立った先にあったのは、草一本生えていない不毛の地と、標高1000メートルにも満たない山々だった。人体に有害な物質がないか、地盤はしっかりしているか、など降下地点の周辺を一ヶ月かけて探索し、シャンデリアからの物資を使って簡易的なベースキャンプを一週間で設置した。

十万人もの人間が暮らせる仮設住宅を一週間で作れるのだから、この当時もそれなりの技術力があったようだ。


人々のモチベーションは高かった。

地上は見るも無残な姿になっていたとは言え地球環境自体は災害前とほぼ変わらず、開発さえすれば十分に発展の余地があったからだ。


しかし問題は、その広さ。

探索の結果、荒野は降下地点を中心に歪な円形をしており、大きな岩などが点在していて起伏が激しい場所があった。面積はおおよそ八王子市と同じ。円周部分は殆どが山脈となっていて、北、西、南の三方から囲まれていた。東側は海に面していたが、生物がいるかどうかは不明だった。

まあ、超巨大な湖である可能性もあるから、その時には海かどうかなんて判別つかない。

十分な広さに思えるが、建物は仮設住宅レベルで人はたった十万人。

人間が本格的に宇宙から戻ってくるとすれば、最低でも一千万人は下らないだろう。それだけ人が増えれば仮設住宅程度では不便になるだろうし、ライフラインを確立しようとすれば発電所、浄水所、下水処理場が必要になる。


つまり、この程度では足りない。

となると、山脈の向こうに行くか、海を渡るかの二択である。政府は協議の結果、山脈の方に手を伸ばすことにした。そもそも、政府が地球帰還作戦を始めたのは故郷が恋しくなったからでも災害の生き残りを助けるためでもなく、シャンデリアが単体で稼働することがほぼ不可能だからである。


本当の意味でシャンデリア単体なら、半永久的に動く事は可能である。しかし、大量の人間と言う『付属物』がそれに耐え切れない。水や電気は自給することが出来るが、食物はそうも行かない。野菜を生育して自給しようとも、消費量が供給量を上回るのだ。シャンデリアには相当数の食糧備蓄があるが、帰還作戦開始時には既に全体数の半分以上が人間の体を通って可燃ゴミに変わっていた。


さらに、金属などの資源が枯渇しかけていた。

特に酷かったのは石油と木材だ。シャンデリアの中では毎日のように節約が叫ばれ、『割り箸』や『使い捨てカメラ』などは姿を消し、名称しか残っていなかった。


この問題を解決するには海よりも陸の方が適しているから、政府が山を越えろと命令を下すのは当然だ。


命ぜられた通りに越えた山の先で、人々は不可思議な世界に出会った。そこは生命に溢れていた。草木が生い茂り、数々の野生動物が森を闊歩していた。

冷静に考えてみれば、あまりに非常識な光景である。


宇宙空間からでも確認出来たほどの、大陸そのものをひっくり返したようにごちゃ混ぜにした災害からたったの三年で、本来なら何百年もの時間をかけて自然が作りあげるはずの大森林が広がっている。

降下地点のように荒野が広がっていなければおかしい。

だが、世紀の大発見をしたと息巻く人々も、シャンデリアの中で指示を出していた政府も、画面越しに伝えられるニュースで地球の様子を知る一般人も、歓喜に目を塞がれて気付くことは無かった。

自然が残っているという不自然さを欲望で塗り潰した人間達は、すぐさま開拓を開始した。

山をくり抜き、巨大なトンネルを開通させ、森林を片っ端から木材にしていった。

海水濾過装置を取り付けて、飲み水も確保した。


ゆっくりとだが確実に支配域を広げ、野生動物を狩り、地を耕し、芋を植えることで食糧問題も段々と解決に向かっていった。



そうして、半年ほど経った頃だろうか。


帰還拠点『ミッドガルド』から出て行った人が帰って来なくなる事件が多発し始めた。

駐留していた軍の調査の結果、耕した畑の奥の森で血だまりに沈む死体が見つかった。

食い千切られた痕が残っていたため、狼などの肉食野生動物の襲撃だと断定された。

これを機に、軍は定期的に周辺の肉食動物を掃討する計画を実施した。それなりに多い野生動物だったが、その悉くが銃弾に撃ち抜かれて殺された。


一週間おきにミッドガルド周辺を見回り、野生動物を見つけ次第射殺を繰り返した。

こうして鎮静化すると思われていた騒動だが、一ヶ月後、遂に軍の兵士から犠牲者が出た。

犠牲者は見回りに出た二人の兵士。

一人は死亡。一人は半狂乱になりながら、『ミッドガルド』と森林を繋ぐトンネルに息も絶え絶えに走り込んできた。

まともに話せる状態ではなく、気が狂ったように泣きわめく兵士をなんとか落ち着かせた後、ゆっくりと医者の立会いの元で事情聴取が行われた。


震えながら、要領を得ない時系列もちぐはぐに捲し立てる兵士の話を根気良く繋ぎ合せてみると、以下の通りになる。


朝、同僚と自分に『ミッドガルド』周辺の哨戒任務が言い渡された。

常に一定数の弾薬を持つことを定められていたが、下手をすれば軽量化された銃本体よりも重い量の弾薬を持つのは馬鹿馬鹿しくて、予備のマガジン一つとカービンライフルだけを身に着けてトンネルを抜け、森に入った。

一昨日に野生動物の掃討作戦があったので動物に遭遇する事は無く、同僚とそろそろ帰ろうか、などと話していた。

その時、草木の隙間に今まで見たことも無いような生物を見かけた。

体長一メートルに満たないほどのハリネズミの様に毛の尖った、黒い狼の様な生物が居た。

動物を見かけたら即射殺が命令だったので、同僚が発砲し、その生物を撃ち抜いた。

銃弾はその生物を貫通し、射殺したと思ったが何故か中々死なない為、同僚が近くまで寄ってトドメの発砲を繰り返した。


ワンマガジンの銃弾が至近距離から謎の生物の体を穿ち、輪郭すら分からなくなるほどの肉塊に変えた。

さて奇妙な動物も居たもんだ、『ミッドガルド』に帰ってから報告することが出来たな、と二人で言い合いながらもと来た道を辿ろうとしていた時。

黒い何かが視界の端を横切った。

瞬間、全身から汗が噴き出し、手の中にあるカービンライフルの重量が消えたかのようにさえ思ったという。

横隔膜を押し上げられ、肺を握りこまれているかの様な感覚が全身を縛る。

それは、人類が久しく忘れていた、自身より圧倒的に強い存在に出遭ってしまった時の、捕食される側としての死の恐怖であった。

一般人であれば、その時点で頭を抱えて縮こまり、みっともなく喚きながら震えるだろう。しかし、この兵士たちは軍人であることのプライド、同僚に情けないところは見せられないという、男としてのプライド、そして何より大きな割合を占めていたのは自分の手の中に、亜音速で鉄の玉を射出する、一発当たれば風穴を開けることのできる機械がある、という安心感から、恐慌状態に陥ることなく

即座に行動することができた。

いくら野生動物を鴨撃ちしかしていないとしても、訓練を受けた一端の軍人である。

即座に互いの死角を補う。

背中合わせになって、木々の揺れ一つ見逃すまいと全神経を集中して警戒した。


そのまま、五分だろうか、十分だろうか、まさか気のせいだったのではと、鼓動の間隔が着実に早くなっていく心臓の音とは裏腹に、頭では自分の置かれた状況をなんとか否定して、心の平安を取り戻そうとしていた。


心臓が早鐘を打ち、血液を血管へと送り出す音が脳内で反響して、周囲の葉擦れの音さえ掻き消してしまった時。

背中を任せた戦友が、情けない声で叫んだ。

声帯の狭まった、おおよそ大の男の出す声とは思えない泣き叫び方をしながら膝のあたりにもたれかかってくる。どうやら腰が抜けて寄りかかって来たようだ。


何事かと、怯える同僚が突き付けている銃口の向く先を追うと、先に殺した謎の生物に良く似た生物が居た。

ただし、大きさは軽く二、三メートルはある。

『獰悪』や『凶悪』と言った言葉を体現している。

血だまりの中に沈む生物をさらに成長させたような造詣だ。毛並みがより強固に、先の生物がハリネズミなら、目の前のそれは剣山のようになっている。先の尖った爪が足全てに生え揃い、関節の部分まで似たような硬質化した毛が前面を守るように並ぶ。口腔から覗く牙は、鮫の歯の如くノコギリ状の凹凸になっていた。一度噛まれれば、怪我どころでは済まないだろう、文字通り削り切られることが容易に想像出来る。

虎や、熊。その他諸々の猛獣と呼ばれる生物達の、獲物を狩るための部位を唯狩り殺す為だけに進化させていた。


人間は群れることで猛獣と競り合い、武器を持つことで初めて対等足り得た。

群として軍を作り、拳の代わりに剣、槍、そして銃を造り上げた。

しかしそれは、一方的に攻撃できる優位性を手に入れたのではなく、やっとの思いで同等――つまりは同じ土俵に上がっただけである。

そして、銃程度の個人火器が通用するのは猛獣まで。

猛獣以上の存在に対して、それがどこまで道具として役に立つのかは未知数だ。

数ではこちらが上。

殺すための道具だって持っている。

流石にナイフで立ち向かえと言われれば、ただの軍用犬にすら負ける可能性は有るが、自分達の手に握り込まれているのは個人として持ち運ぶには申し分ない最大火力性能を持った武器だ。


そう頭では理解していても、低く唸りながら彼我の距離を少しずつ詰めてくる目の前の生物に勝てるビジョンが浮かんで来ない。

蛇に睨まれた蛙のように動けなくなり、その獰猛な牙が細部まで見える程の距離に近づかれたが、相手は其処でピタリと止まった。

そして、赤黒い血の海に沈む生物を舌で舐め始めた。

舌はピンク色なのか、と見当違いな事を頭に浮かべつつ、急いでその場を離れようとする。どうやら、相手はこちらにそれほどの敵意を向けてないのかも知れないと思ったからだ。それならば、と背中は向けずに腰を抜かした同僚の襟首を力任せに引っ張り少しずつ距離を離す。

同僚が小さく呻いたが、そんなことは気にしていられなかった。



と、ようやく二十メートルほど退いた時。

不意に、謎の生物が肺腑を抉るような遠い声を発する。その音は、遠く響き、土と草に吸われて消える。

吸い込んだ空気を、長い時間をかけて一息で絞り出した。

そして、もう一度。

一呼吸した後、灰色の曇り空に反響した声は、打って変わって空気を揺るがす重い咆哮だった。


それは、自分たちに向けられた怨嗟の響きだった。

右手の銃を構えるために、無意識の内に襟首を掴んでいた左手を離す。

人差し指は既にトリガーにかかっていた。


――あるいは。

左手を離さなければ。

支えを失って、頭を打ち、パニックに陥った同僚が目の前の生物に向けて銃を乱射するようなことにはならず。


相手は、そのまま森の隙間に帰っていく可能性も有った。

もしもを挙げればキリがない。

起きてしまった現実から逃れることは出来ないのだから、もしかしたら、は現実逃避にしかならない。


突然、足元に転がっている同僚が、銃弾を放った。

一方的な殺害のゴングを鳴らしたのは、捕食対象である自分達だった。

敵は、あろうことか放たれた弾丸をものともせず、悠々と此方に近づいて来た。

どうやらあの剣山の様な体表を覆っている毛は、音速を超えて飛来する小さな鉄の塊程度なら弾いてしまうらしい。

そしてそれは同時に、自分たちの唯一と言っていいアドバンテージを失ったことを意味する。


泣きながら引き金を引き続ける同僚の銃から、カチッと軽い音が鳴る。

弾切れだ。マガジンを付け替えない限り、銃弾が放たれることは無い。

急いでマガジンを替えようとするが、予備の物を持っていない。


銃をその場に捨てて、何とか逃げようとする同僚だが、その足を謎の生物に咥えられてしまった。

いや、咥えるなどと言う甘いものではない。足の骨を砕かれ、断絶した神経から流れ込んでくる激痛に絶叫していた。

左足を千切られ、左腕を毟り取られていた。


そして、そこから先は覚えていないという。

気付けば、トンネルの前に走り込んでいたらしい。

同僚が目の前で無残に食い殺されているのを横目に、命からがら逃げ出してきたと言う訳だ。






さて、こっから先は僕もあまり良く知らないのだが――とは言っても僕だけじゃなくて、歴史的に不明瞭なままになっている。その当時の記録が失われているからだ。

ただ、インターネット上にはいくつかの『それっぽい』話が転がっている。


その話によれば、その謎の生物と言うのが現在でいう怪物(モンスター)とのファーストコンタクトであり、長く続く怪物対人類の初めての敗北だった、となっている。

実際に、剣山の様な毛を持つ狼、という特徴を持つ怪物(モンスター)は『ケンザンウルフ』という名称で存在する。そのまんまの名前だ。今のレベルで言うと、個体差はあるがC-に届くか否かと言ったところだ。

現代の保持者からすれば、そこまで怖い相手ではないということだ。

例えば、海はランクで言うとB-だから、その辺りのレベルに達していれば、十匹同時に襲われても難なく切り抜けられるだろう。


で、怪物(モンスター)との初邂逅後、少しの間は『ミッドガルド』の外はかなり危険になっていた。

開墾した畑の周りにも兵士が遭遇したモノと同様の怪物(モンスター)が出没するようになっていた為、一時は『ミッドガルド』外に出るのも規制された。


一匹の怪物(モンスター)を狩る為に軍の一小隊をぶつけたが、犠牲者を増やすばかりで敗走を繰り返していた。

一体に対して十数人で挑んでこの結果だ。

怪物(モンスター)が一体しかいない、と言う事がある筈も無く、ある時は二体同時、またある時は森の奥から数百、数千と言う怪物(モンスター)が現れた。

更にその種類も多種多様で、カラスに似た怪物(モンスター)との初戦闘時など、人類側の部隊は空から一方的に攻撃され、たった一度の戦闘で投入した戦力がほとんど壊滅してしまったらしい。


もうどうしようもないのか、と諦めムードが漂った時、ある五人の男女が現れた。

人類史上初の保持者(ホルダー)である。

その働きは正に一騎当千。

人間の限界を超えた運動能力と、保持能力という目を疑う現象を操り、ドンドン人類の支配域を広げていった。


そのあといろいろ有って、5年くらい経過する。

その頃には『英雄』と持て囃された五人は消息不明となっていたが、何と保持者(ホルダー)が一般人から出ていたのだ。

ある日突然、手から炎を出せるようになったり、頭から雷が出たり、手に触れていない物を自由に動かせたりした。




怪物に対して、人類は同じ土俵に上がることができた。

保持能力は、抵抗手段であり、対抗手段であり、反抗手段だ。

そしてそれは、怪物と敵対し、正対する為に使用されるべきであった。


ただ、一個人が手に入れるには強大な力だった。銃を向ける相手が人間であるということがあるように、手のひらから出現した火球が悪意を持って他人に向かって飛んで行くことが絶対に無い、とは言い切れない。


基本的に、一般人は保持者に勝つことは出来ない。スペックが違いすぎるからだ。

そして、力を手に入れた人間というものは、きっとどんな怪物よりも恐ろしいモノになる。元が力の無い人間だからこそ、顕著に現れる。



保持者の増加によって、人類は支配域の拡大を積極的に推し進めることが可能になった。

しかし、それと同時に犯罪――保持者による能力犯罪が、『ミッドガルド』内で蔓延った。

なにせ犯罪者は、一般人がどう逆立ちしても勝てない保持者だ。警察の様な治安維持組織も存在はしていたが、そもそも警察とは実力を持って犯罪を取り締まる行政機関だ。

実力――つまり、戦闘力で敵わない人間をどう取り締まれというのか。

そして、犯罪の検挙が出来るからこそ、抑止力足り得た警察が機能を果たせなかったらどうなるのか。

結果は火を見るよりも明らかだ。


『ミッドガルド』では保持者による犯罪が横行。

保持能力という強大な力をたてに、恐喝、強盗強姦が繰り返された。


こうなってくると、完全に世紀末状態だと思うのだが、救世主の如く一人の男がそれを阻止した。


一代目『最強』の台頭だ。

人々にとって救いだったのは、彼もしくは彼女が広義的、或いは一般的な人々にとっての所謂『正義』の味方という立ち位置に身を置いていた事だろう。

正義の敵、つまり『悪』側にふんぞりかえっていたら、一巻の終わりだった。


で、この一代目最強が主軸になって仲間を集め、『ミッドガルド』での犯罪を取り締まるようになった。


その後、治安もそれなりに良くなったが、『シャンデリア』から経過を観察していた政府は、これを機に保持者の手綱を握ろうと様々な行動を起こす。


特に、保持者の能力暴走による事故が起きた時に、一般市民の署名活動などで政府は保持者を一括で管理しようとし始める。


保持者が犯罪を犯した場合、通常よりも刑を重くする。

『学校』の中心より必ず数百メートル離したところに病院などを作ること。

保持者は、生命保険に入ることが出来ない。

保持者は、医療保険を利用することができない。

その他諸々。



これが今の保持者を取り巻く環境の発端だ。




ま、そんな昔のことを気にしても仕方が無いし、政府に向かって今更抗議したところで何かが変わるわけでもない。


普通に生きてる分には、そんな法律だとか、政府と真っ正面からぶつかることなんてまず無いだろうから毎日を慎ましく生きていれば良いのだ。


僕がやることは、今晩の食卓に並べるおかずを考えるくらいだ。


そう思い、自分の教室へと向かう。

なんやかんやで有耶無耶にしていたけど、海や内宮さんにこの前のことをどう弁解するか考えておかないと。











読んでいただきありがとうございます。


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