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何かを食べてしまう男シリーズ

死を馴染ませる

 (俺)

 何年前のことだったかは忘れたが、高校時代の恩師の見舞いに行った事がある。その恩師は女性で、教師だった頃は、地味で多少は真面目過ぎる嫌いがあるものの綺麗な人だったのを覚えている。学生だった当時の俺は、仄かに憧れを抱いたものだ。

 が、見舞いに行った先の病院で見た、その恩師の姿に当時の面影は全くなかった。老いが原因の一つであるのは言うまでもないが、何よりも、鼻に繋がれたチューブと、縛られた手の印象が強烈だった為だろう。俺の見間違いでなければ、手足はやや歪んでいたようにも思う。……こんな事を言ってはナンだが、正直、人の姿には思えなかった。

 俺はそれを見た時、思わず「なんで、こんな事を」と医者に文句を言ってしまった。すると、医者は困ったような怒ったようなよく分からない表情で説明をしてきた。それに拠ると、鼻に繋がれたチューブは、栄養を患者に与える為のもので、経鼻経管栄養法などと呼ばれているらしい。手を縛っているのは、放っておくと患者がそのチューブを抜いてしまうからだそうだ。

 見舞客が来ている時くらい、外せないのかとも思ったが、病院側には病院側の事情があったようだった。

 やり切れない思いがし、直ぐに帰ってしまったが、今にして思えば、あの時俺は、憤っていたのだと思う。ただ、外せば恐らくは死ぬのだろうから、「チューブなんて外せ」とは言えないし、医者も好きでやっている訳でない事は分かっていたから、それをはっきりとした感情にはできなかったのだ。

 ただし、その時俺は、医者に対してこんな質問をした。

 「あなたは、自分が年老いた時、これと同じ事をしてもらいたいと思っているのか?」

 その時、医者は何も答えなかった。もっとも、その沈黙は充分に答えになっていたが。患者が嫌がって、鼻チューブを外そうとするのは、それが苦痛だからだろう。そして、それをさせない為に手を縛る……。これでは、まるで拷問ではないか。

 その頃から俺は、延命治療は“何か違う”という漠然とした想いを抱えるようになった。どう考えても、病院で見たあの恩師の姿が人として正しいとは思えなかったからだろう。

 それからまた何年かが過ぎて、友人の一人が入院しているという話を俺は聞いた。何故、伝えてくれなかったのかと思い、直ぐに見舞いに行くつもりで連絡を取ったのだが、拒絶されてしまった。それなりにショックを受けはしたが、それから冷静になると、その友人がプライドの高い奴であった事を思い出し、また数年前に見た恩師の姿をも思い出した。

 恐らくは、友人もあれに近い姿になっているのだろう。プライドの高いあいつが、俺にそんな姿を見られたくないと考えるのは想像に難しくない。

 聞いた話によると、友人は胃ろうの手術を受けたらしい。“胃ろう”というのは、腹と胃に穴を空けてチューブを通し、口からは食べられなくなった患者に対し、栄養や水分の補給を行う為のものなんだそうだ。チューブを通して、直接胃に流動食を入れるのである。

 鼻チューブによる栄養補給に比べれば楽らしいが、それでも不快感があるのか、外そうとしてしまう患者も多く、やはり手を縛るような場合もあるらしい。胃ろうになり、手足が歪んだ状態で硬直し、そのまま死んでしまった老人の姿を俺は写真で見たが、やはり人間の姿には思えなかった。確かに、もし俺でも知り合いには見られたくはないと思うかもしれない。意識や判断力のある患者には、あまり行われないとも聞いたが、その友人は既に認知症にかかっており、恐らくは、それで家族の判断で胃ろうにしたのだろう。

 半ば判断力を失いかけている友人が、それでもそんな姿を見られまいと、必死にプライドを護ろうとしている心情を察し、俺は酷く悲しい気持ちになった。尊厳死。以前はそんな言葉を聞くと、偽善のように感じていたが、その時になって、その言葉の意味が自分に重く響いた。そして、当然のようにこう思った。

 やがては、自分の番が回ってくる。その時、俺はどんな選択を望むのだろう?

 それから俺は、自分の身体の衰えを、ますます強く感じるようになっていった。以前は確かにあった意欲… 食欲や性欲などが失われていく。生きる事を止めたいなどと思う人間の気が知れない、と思っていた俺が、気付くと死について考えている。

 何冊か尊厳死や、自然死に関する本も読んだ。延命治療反対派の主張。

 そして、その頃に、漠然とした違和感が形になった。延命治療は“何か違う”という想い。俺はこう思ったんだ。


 ……そうか。“老衰”は病気じゃねぇんだ。


 (僕)

 病気や怪我以外で、医療が関わる分野が二つある。一つは、妊娠出産。人の誕生に関わる分野。そして、もう一つは、その全く反対。つまり、老衰。人の死に関わる分野(美容外科は、正確には医療とは別分野だ)。

 人間の誕生と死が、共に医療と関係しているのは、まぁ、偶然じゃないだろう。肉体と医療とは密接に関係しているのだから。そして、これらは、“治療”の対象にはなり得ないことになる。なら、治療といった発想とは切り離して当たらなくちゃいけないはずだ。

 ところが、判断が容易な妊娠出産とは違って、老衰にはどうやってそれを判断するのかが難しいといった問題がある。一体、いつから老衰とは始まるものなのだろう? もちろん、常に進行しているというのが正解なのかもしれないけど、医療でそれを特別視するとなると、便宜的にしろ境界線を引く必要がある。個人差が激しいだろう点が、更にその問題をややこしくしている。

 だから、なんじゃないかと僕は思う。だから、人はこの問題を扱うのが苦手なんだ。

 僕は病院が嫌いだ。特に、入院患者を受け入れているような大きな病院は。行くの避ける為に健康に特別気を遣っているくらいだ。何故病院が嫌いなのかと言えば、そこに行くと、“何か”を食べてしまう事が多いからだ。きっと、病院から連れて来てしまうんだろう。

 僕には、寝ている間に“何か”を食べてしまうという特異体質がある。何かと言っても、物質ではなくて、では、何なのかと言われると、僕自身にも分からないものだから、説明のしようもないのだけど、敢えて分かり易いように言うのなら、人間の“霊”だとか、“感情”だとか、そういったものだ。

 病院に行って、食べてしまうのが特に多いのは、お爺ちゃんやお婆ちゃんの“何か”だ。酷く重たい身体。動くのに不自由。そういった感覚を夢の中で味わう事になる。ただし、大体は直ぐに消える。長くても三日程度だから、それほど気にはならない。もっとも、中には例外もあるようなのだけど。

 僕の家の近所には大きな病院があって、ある時期から、そこに行くと、以前よりもかなりの高確率で、老人達の“何か”を食べてしまう事が多くなった。いくら高齢社会が進んでいると言っても、スピードが速すぎるだろう。何故なのかと思っていると、ある日にこんな話を聞いた。

 その病院は“胃ろう”を作る為の設備を整えたというのだ。それで、口から物を食べられなくなった高齢者を積極的に受け入れているのだとか。

 胃ろうは、胃に穴を空けて直接チューブで栄養や水分を補給するという栄養補給法だ。他の栄養補給法よりも危険性が少なく、比較的簡単に手術が行え、また設備を整えたからには使わなければ、という事で胃ろうを作る例が多いらしい。

 中には、単に利益目的の場合もあるという話も聞いた。

 現在の医療システムでは、保険料は点数制になっている。もちろん、点数が高ければ高いほど、貰えるお金も多くなるのだけど、胃ろうは健康保険の点数が高い。それで、報酬目的で、医者が胃ろうを勧める場合があるのだそうだ。

 医者から、「栄養補給をやらなければ死ぬ」と言われ、「栄養補給法には、胃ろうが一番だ」と言われれば、断れる患者家族が少ないだろう事は容易に想像がつく気がする。

 どうしてそんな制度になっているのか、医療にまつわる政治絡みの黒い噂はたくさんあるから、何だか嫌な想像をしてしまいたくもなる。もちろん、証拠も何もないのだけど。

 なんだかな、

 と、僕は思う。

 高齢社会で医療資源も限られている中、そんな理由で手術を行うのは、どうか止めてもらいたい。ま、もちろん、そう思うのは、そのしわ寄せがこっちに来るからなのだけど。健康保険料が高くなるのは困る。

 なんて思っていたら、ある日、夢の中で叱られてしまった。

 『老人達だって苦しんでいるのに、自分の事だけでそれに反対するない! こっちは、こっちで好きでそんなもんを受けている訳じゃねぇんだよ!』

 それは妙に快闊なお爺ちゃんの“何か”だった。便宜上、それを“霊”と言わせてもらうけど。僕は当然、生霊だと思ったのだけれども、本人に聞いてみると、“生は終わった”とそう言って来る。そして続けて、こんな事も。

 『ま、ただよ。お前の言う事も分かるよ。負担が増えるのは嫌だよな。そもそも、延命治療って言葉自体がおかしいしよ。治療してねぇじゃんよ、延命治療って。治療ってのは治すから治療なんだろう? そもそも、老衰は治せるもんじゃねぇよ。いずれは死ぬんだから、治療ってのはなんかおかしくないか?』

 僕はそれにこう返した。

 『でも、それで少しでも、患者本人が楽になるんなら…』

 それを聞いて、その“何か”… お爺ちゃんはこう返した。

 『“楽に”ねぇ… 本当に楽になっているのかは、俺は疑問だがね。だが、それを踏まえた上で考えると、俺はツいてると思うよ。

 なんせ、お前さんみたいな、変わったのに巡り会えたんだからな。こんなの、ほとんど反則じゃねぇか』

 何の事だろう?

 と思ったのだけど、その時から、何か悪い予感は覚えていたんだ、僕は。


 (俺)

 俺の“生”は終わった。だが、“死”はまだ始まっていない。では、今の“俺の生きている身体”は誰のものなのかと言えば、恐らくは、残された家族のものであり、医者のものであり、そして社会のものでもあるのだろう。

 俺から所有権は剥奪されてしまっている。もちろん、法律的にはまだ俺のものなんだろうが、実質的には俺の自由にはならない。

 俺は今、意識不明の状態… いや、こうして語れているのだから、意識不明というのも何だかおかしいが、とにかく、身体は覚醒していない。だから、家族や医者だけで、俺の身体をどうしようかと話し合っている。

 その会話の中で、“胃ろう”という言葉が出てきた。俺はそれに慌てた。もし、点滴の量が増やされて覚醒し、混濁した状態とはいえ、意識が復活したのなら、その“胃ろう”状態の俺は酷く苦しいのではないか、と考えたからだ。

 だが、その時に家族から出た「お爺ちゃんはよく“自然死”の本を読んでいた」という言葉と、そしてその医者がどうやら延命治療の意義について疑問を感じていた事も手伝って、その決定にはまだ至っていない。結果、俺の身体は、今、脱水状態と飢餓が徐々に進行し、緩やかに死に向かっている状態だ。点滴からは、生きるのに必要なだけの水分と栄養は供給されていないのだ。足りない。実は、延命治療を避ける場合、こうした消極的な“死”の手段に出る場合があるのだという。殺しているような感覚から医者や家族が逃れる為か、そんな事を行うのだ。

 恐らく、俺はかなり運が良いのだろう。世間体や法律、医者としての倫理観や常識から、普通は医者によって延命治療の手続きが取られるらしい。延命治療を選ばない事で、犯罪にまで至るケースは稀のようだが、それでも心情面をも含めて、なかなかその決断には勇気がいる。その上、延命治療をすれば金も稼げるのだ。医者が、延命治療を選択してしまうのも無理からぬ事だ。他の医者や病院から延命治療を指示されもするだろう。

 実は多くの医者が、延命治療を目の前にし、葛藤している。死ぬと分かっていながら医者の立場で何もしないというのは、許されるのか? しかし、もしそれが自分であったのなら、絶対に延命治療を受けたくはない。そう思い悩むらしい。これは、大いなる矛盾でもあるだろう。“患者の為の医療”を考えると、どちらが正しいのか。

 何冊か、自然死の本を読み、老衰死という状態が、決して苦痛にまみれたものではないという話を俺は知っていた。老衰死の瀬戸際から戻って来た人間が、苦痛を訴える事はないというのだ。もちろん、忘れているだけという可能性もあるし、それを本当の意味で体験した人間は、既にこの世にはいないのだから、その真偽を確かめる手段はないのかもしれない。それに、中には医者の誤診で、延命治療の中止により、明らかに患者に苦痛を与えてしまったようなケースもあるらしい。

 もっとも、俺の場合は、少なくともほとんど苦しみはなかった。だから、できれば、このまま静かに死んでいきたいと思っている。

 水分も栄養も与えない。人道的には、許されない事のように思えるが、既に老衰死が目前に迫っている人間の身体には、決してそうではないのだ。飢餓が苦痛なのは、“身体が生きよう”としている人間の感覚だ。既に身体が死を選択しているのに、水分や栄養が強制的に与えられるのが、どれだけ不自然な事か。

 もしも、まだ俺の身体が俺のものだったなら、この状況に対して、何かを言ってやれるのに………

 俺はそれが残念でならなかった。……実はその為の準備もしていたのだ。だが、今更後悔をしても遅い。

 しかし、そんな頃、俺は病院で妙な若い男を見かけたのだった。そして、そいつからは、何か今の俺の存在を引き寄せるような感覚があったのだった。

 だから俺は、試しに、こいつに憑いて行ってみよう、とそう思ったのだ。もしかしたら、助けてくれるかもしれない。


 (僕)

 ずっと前に、元映画女優が、自宅で老衰死していたというニュースをテレビで見た。その時僕は、悲惨な最期で、可哀想だと思ったのだけど(人間ってのは例え一方的にでも自分が知っているものに対して感情を働かせる動物なんだ)、それを知人に話すと、「そうとばかりは限らないぜ」と、そう言われた。どういう事なのかと思って訊いてみると、

 「老衰死の際ってのは、頭から脳内麻薬が分泌されて、苦痛がない状態になるらしいんだよ」

 と、そう教えてくれた。

 それを聞いた時、僕は少しは救われた気分になった。その元映画女優も、苦痛なく死んでいったのじゃないかと思えたんだ。生物はいずれは死ぬものだ。でも、その逃れらない死は、必ずしも恐怖の対象って訳でもないのかもしれない。眠るように穏やかに死ねたなら、どんなに良いか。

 『そうだよ、そう。それ、それ。

 なんだよ、お前、分かっているじゃないか!』

 その僕が食べてしまったのだろうお爺ちゃんに、夢の中でその話をすると、およそ穏やかとは言えない口調でそう返されてしまった。

 本当にこのお爺ちゃんは、老衰で死にかけているのだろうか?

 当然、僕はそんな疑問を覚える。

 先の、老衰死の際で、脳内麻薬が分泌される話は、欧米の研究結果だそうだ。それで、延命治療の中断は、患者に安楽な死を与えるから、むしろ推奨されるべきもの、と捉える場合も多いらしい。もちろん、医者や家族の感覚としては理解できないから、拒絶される事も多いらしいのだけど。

 (この考えを突き詰めていくと、積極的な“安楽死”との差は何なのか?という疑問に至ってしまう気もする)

 もっとも、それでも延命治療が中断される場合も、世間では当然、ある。ただし、それが患者本人の為とは限らない。もっと世知辛い、というか、何というか、金絡みの問題である場合も多いんだ。例えば、周知の通り、医療には医療保険が適応される。しかし、その保険が効かなくなる場合があるんだ。そうなると、延命治療は中止にしましょうか、と、どうやら、そういう話になるらしい。患者の苦痛だとか、そういった事は関係なしに。もちろん、家族が金銭的負担に耐えられなくなるからだ。

 こうなって来ると、もう誰の為の何の為の“延命治療”なのか分からなくなってくる(因みに、保険が適応される場合でも、社会全体の負担になっている事は忘れてはいけない)。「家族の自己満足の為」と、そんな陰口を叩く人がいるのだそうだけど、そうとばかりも言えないのじゃないかと思う。何故なら、匿名性の高い、“世間の常識”という名の呪縛が、そこにいる人間達を縛っているからだ。

 現状を少しも知らないのに、“命を粗末にするな!”と怒る世間の声。そしてそれは、場合によっては、こんな形で作用する事もあるらしい。


 (俺)

 三日ほど、生死の境を彷徨っている俺を見守り続けた後で、家族は俺の死を受け入れてくれたようだった。

 人は死ぬものだ。

 その現実を受け入れてくれている。

 延命治療における日本の混迷具合を観て、現代の日本人は死生観が未熟だなんだという連中がいるが、俺はこれはそんな偉そうなもんではないと思う。もっと簡単に、日本人は人の死に慣れていないのだろう。

 国民皆保険。健康保険で医療が受けられるのが当たり前のこの社会では、ちょっとした病気で命を落とすようなケースは稀だ。が、他の国では(先進国ですら)、金が足らない所為で人が死ぬケースは多いのだとか。ならば、高齢者の老衰による必然的な死に対してだって、それを受け入れる土壌が出来ているとしても不思議じゃない。しかし、日本は違う。優秀な健康保険制度に護られている。

 日本は、恵まれている所為で、死に対してアレルギーを起こし易くなっているのではないか?

 しかし、それでも、こうして一つの死に行く身体を目の前にし続ければ、意識は変わっていくものなのだろう。俺の家族は、何かを覚悟しているかのようだった。

 が、そんな折、一つの事件があった。

 嫁の方の親戚の誰それとやらが、突然、今の俺の状態を知って病室に乗り込んできたのだ。正直、顔も名前もほとんど覚えていない。そしてそいつが、家族と医者を説得し始めてしまったのだった。

 「命を粗末にするものじゃない! 諦めないで、救ってやるべきだ」

 ようやく、俺の死を家族が受け入れ、医者もそれ相応の対応を決めかけていたところだったのに。

 これは俺の偏見なのかもしれないが、その言葉はそいつの本心からの意見というよりも、世間一般の良識とやらに思えた。そいつも、俺の死に行く身体と一緒に過ごしてみれば、意見が変わるのかもしれないが、そんな気はさらさらないようだった。少し顔を見せて、言いたいだけ言い終えると、そのままさっさと帰ってしまった。

 世間体。その親戚の言葉で、家族がそれに恐怖したのは明らかだった。自分達の今までの常識にはない事だろうし、上手い反論が思い浮かばなかったという事もあるのだろう。医者は医者で、週刊誌にでも取り上げられたら厄介だ、と怖がり始めているようだった。老衰は病気じゃない。それは、人の自然な姿だ。それを理解しない世間。俺は何だか、腹が立ってきた。

 それに、だ。

 俺は当たり前に訪れる死を迎えるのを、不自然に延長する事で、家族や社会に、これ以上の迷惑をかけたくはないんだ。どうして、そんな事で生きている人間達が苦しみ続けなくてはならないんだ? 誰一人として、得をしないじゃないか!

 それは俺にとっての苦痛でもある。

 俺はそこに至って、いよいよ最後の手段に出るしかない、と心を決めた。あの若い男には悪いが、やってもらうしかない。


 (僕)

 延命治療に関して、日本社会ではコンセンサス… 合意形成が為されていない。いったい、どういった場合に延命治療が続けられるのか、中止されるべきなのか。

 この決断は、高齢社会を迎え、医療資源が枯渇し続けている現状と相まって、急速に社会に向かって突き付けられている。

 だがしかし、多くの人は、相変わらずに、その現実から目を背けているような気がする。だから、延命治療の中止に関して、法的に医者を保護する整備もされていないし、例え法的には問題なしとされても、世間の目がその医者を糾弾したりする。

 延命治療を巡る法に関する慣習は、特に矛盾だらけで、同じ様なケースでも、人工呼吸器の中止の場合は逮捕されるけど、何故か、点滴中止の場合では逮捕されないとか、色々あるらしい。家族もそうだけど、病院だって世間体を気にしなくちゃいけないから、結果的に不必要な延命治療をし続けなくちゃいけなくなるんだそうだ。

 だからこそ、高齢者の多くが、延命治療を望んでいないにもかかわらず、延命治療は行われ続けている。

 ……そして、社会全体も、その急速に膨らむ医療費を負担しなくちゃいけない、という重荷を背負う事になる。

 これは、明らかに間違った事だろう。

 社会がどこに向かって進んでいくべきかは分からないけど、少なくとも、今の状態で良いはずがない。

 僕はお爺ちゃんから、その話を聞いた時、そんな事を思った。

 『医療資源は限られているんだよ。なら、その限られた資源を、生きる望みのある者に使うべきだ。老衰で死ぬべくして死ぬ老人に対して用いるべきじゃねぇ』

 僕は夢の中で、そのお爺ちゃんの言葉に対して、大いに頷いた。

 『もちろん、この問題は社会全体で考えて進めていかなくちゃいけないんだろうけどよ、とにかく、一つのケースだけでも、無駄を減らせれば、それは良い事じゃないか? 患者本人が望んでもいない、苦痛に満ちた長寿なんてものの為に、貴重な医療資源を使うもんじゃねぇと、少なくとも俺は思うのよ。少しずつでも、何とかしていくべきだよ』

 僕はそれに頷きながらも、こう返した。

 『でも、それが老衰だとどう判断すれば良いのかも分かりませんし、それに、本人の意志が不明の場合はもっと厄介ですよ。それに、仮に意識のある状態での、本人による明確な自然死の要望があっても、重態の時の要望ではない、と判断される場合もあるみたいですし。それで、延命治療が行われる。中止にすると、罪に問われる』

 しかし、それを聞くと、お爺ちゃんは軽く首を横に振りながら、こう言ったのだった。

 『んにゃ、そうじゃない場合もある。ちゃんと、重態の時の本人の要望だって時もあるにはあるんだよ。そして、その要望を本人が伝えられる場合も』

 僕は当然、その応えを不思議に思ってこう尋ねた。

 『どういう場合ですか?』

 すると、お爺ちゃんはこう答える。

 『俺だよ』

 僕は戸惑う。

 『はい?』

 『今の俺の状態が、当にそれだと言っているんだよ。俺は今、重態だ。そして、老衰によって安らかな死を迎えようとしている。それを邪魔されたくない。そして、お前が俺の要望を聞けるじゃないか。

 しかしだ。そんな俺の意志とは関係なしに、俺の身体には延命治療が施されようとしている。酷い話だとは、思わんか? 俺の身体は俺のもののはずだ。なのに、勝手に他の人間が俺の身体の扱いを決めるなんて。しかも、それが家族でも何でもない、世間とやらだったりする。だから、俺にも意見を言わせて欲しい。俺の言いたい事は分かるな? 若者よ』

 僕はそれを聞いて、一気に悪い予感を覚えた。

 『ちょっと待ってください。つまりあなたは、僕にあなたの要望を伝えろと言っているのですか? 医者や家族に? そんな事、できるはずがないじゃありませんか! そもそも、信用されるはずがない!』

 僕の慌てた様子を見てか、お爺ちゃんはカラカラと笑った。

 『安心しろ。そこまでは頼みはしない。お前の発言が、信用されない事くらい俺にも分かっているしな。

 実はな。俺は、こんな時の為に、家族に伝言を残しておいたんだよ。手紙で。それを家族に見せてくれるだけで良い』

 僕はそれにも慌てた。

 『ちょっと待ってください。それだって、充分に難しいですよ。一体、どうやってその手紙を見せれば良いんです?』

 『なに、簡単だよ。俺の部屋の机の引出しに、その手紙は残してある。恥ずかしい話だが、それを家族に見せる度胸がなくてな。もし死の瀬戸際が苦しかったらと思うと、勇気が出せなかったんだが。それで、机の引出しの中に仕舞ったままにしちまった。で、お前さんは、その手紙を引出しから出して、机の上に置いてくれるだけで良い。毎日、嫁が部屋を掃除しているから、それで気付くと思う』

 『つまり、僕にあなたの自宅に忍び込めって言うんですか? 一歩間違えれば、泥棒扱いじゃないですか。そもそも、どうやって忍び込めば良いんですか?』

 そこで僕は“しまった”と思った。こういう質問をして、すんなり答えられると、断る理由がなくなってしまうんだ。もっとも、これは僕の性格的な問題でもあるのかもしれないけど。お爺ちゃんはこう答えた。

 『なに、心配はいらねぇよ。明日、家族は皆、俺の見舞いに行く事になっている。家には誰もいないんだ。それに、俺は家族の一員だぞ? 鍵の隠し場所くらい知っているさ』

 『だからって、なんで僕がそんな事をしなくちゃいけないんです?』

 僕は最後の抵抗を試みた。だけど、それもこう返されて、無駄に終わった。

 『お前は、現役世代の保険料負担が増えるのを嫌がっていただろう? なんだ、あれは文句だけなのか? 俺が延命治療を受ければ、お前の負担も増えるんだぞ? 年寄りの言う事は、ちゃんと聞くもんだ。しかも、俺は死に際なんだぞ? 俺の最期の願いだ』

 死に際のお爺ちゃんから、死ぬ為のお願いをされるなんて… もちろん、それでも僕は嫌だったのだけど、その言葉で、僕は、お爺ちゃんの頼みを断り切れなかったんだ。名実ともに、本当に“最期の願い”ってのはずるい。そう思わない?


 (俺)

 あの若者は、どうやら人の好い男であったようだ。俺の頼みを聞き入れてくれた。これから先の彼の人生が心配だが、ま、お蔭で俺は助かる。

 最後の力を振り絞ると、若者が起きている間も、俺の言葉を届ける事ができた。家の場所を教え、鍵の隠し場所を教え、そして自分の部屋の場所を教えた。

 これが昔ながらの、人付き合いが盛んな町だったら確実に怪しまれ、通報されていたのだろうが、人と人との付き合いが希薄な今の時代の今の町で、若者を不審に思う者はいないようだった。迷う事なく鍵を開けて、正面から堂々と家に入った事も良かったのかもしれないが。

 幸い、若者は苦もなく俺の手紙を見つけ出してくれたようだった。遺言とは違うが、俺の最期の願いを家族に対して宛てたものだ。

 予想通り、次の日の掃除の時に、嫁が俺のその手紙を見つけてくれた。

 「あなた、こんなものが…」と嫁が言う。確かに昨日まではなかったはずなのに。家族はそれから手紙を開けた。

 前日、俺への延命治療を巡って家族と医者とで会議をし、やはり結論が出なかったようだったから、その内容に家族は心底、驚いていたようだった。

 「まさか、私達が困っているのを、お義父さんは聞いていたんじゃ…」

 嫁がそう言った。息子がそれに懐疑的な声を上げる。

 「お前、そんな馬鹿な事を…」

 「だって、昨日までは、絶対にそんな手紙はなかったもの…」

 俺はそれを聞いて、思わず苦笑してしまった。まぁ、大体は合っている。

 「いずれにしろ、親父の最後の願いだ。本人が望んでいるのなら、この通りにするべきだと俺は思う」

 息子がそう言った。


 ――ずっと考えていた。

 俺の死を、俺はどうするべきなのか?と。

 人は生物の一種だ。そして、生物にとって死というのは、誕生と同じ様に、その営みの一つとしてあるものだ。だから、俺は大人しくそれに従うべきだと思う…… 自然のままの死に任せる事こそが、人間としての正しい姿なのだ…

 などと、偉そうな事を、俺は言うつもりはない。正直、そんな難しい話を語るのは俺の柄じゃないしな。

 だが、それでも、俺が意識不明で死にそうだったなら、どうか、そっとそのまま静かにしておいて欲しい。理由は簡単だ。俺は延命治療が怖いんだよ。知っている人間で、延命治療の所為で、むごい有様になっている者がいる。それに、本でもそんな人間がいるのを知った。

 俺は、そんな状態にはなりたくない。

 ――それに、家族の負担になるのも俺は辛いんだよ。

 分かっているよ。それだって、俺の我侭だという事くらい。お前らにだって世間体というものがあるだろう。

 だが、それを踏まえた上で、それでも俺は、お前らにお願いをする。どうか、自然のままの死を俺に与えてくれ。もしも、文句を言う奴が世間にいたら、その時は、この手紙を見せてやればいい。

 それと、もしこの件で、医者が訴えられそうになったら、どうか全力で、その医者を護ってやって欲しい。

 医者は何も悪くない。全ては、俺の我侭だ。すまん。面倒をかける事になる。それと、お礼を言っておく。

 ありがとう。

 なんだかんだで、俺はお前らの家族で仕合せだったよ。

 願わくば。俺の“死”が、俺からの最後のお前らへの贈り物になる事を望む。

 人間はな。多分、人の“死”に慣れるべきだと思うんだよ。人間の生の営みの正しさだなんだと偉そうな難しそうな事は俺みたいな馬鹿には分からないが、人間が当たり前に死ぬもんだってのは、俺みたいな馬鹿にも分かる。

 だからな、それをあまり恐がり過ぎるな。

 もしかしたら、死ってのは、お前らが思っているのよりも、ずっと温かいものなのかもしれないぜ。


 次の日、この手紙を見た医者は、俺の延命治療の中止を決定した。


 (僕)

 『お前にも、見せてやりたかったな、俺の“死”をよ』

 それから少し経った後、夢の中でお爺ちゃんからそう言われた。どうやら、そのお爺ちゃんは死んだらしい。幸い、医者や家族が訴えられるような事件には発展しなかったようだった。そんな話は耳にしない。

 『“死”をあまり、嫌うのはどうかと俺は思うんだよ。人間は絶対に死ぬもんなのに、それを嫌っていたら、可哀そうじゃねぇか』

 何を言っているんだろう?

 と僕は思ったけど、『そうですね』と、ただそれだけを返した。それを聞くと、

 『はっ 心がこもってないなぁ』

 と、言ってお爺ちゃんは笑った。

 『まぁ、だが、お前さんは大丈夫な気がするな。人の死をちゃんと受け入れられそうだ。自分自身の死も含めて。こんな体質を持っているのなら、無理もない気もするが』

 僕はそれに、こう返した。

 『いえいえ、実は本当に死んじゃった人に会うのは珍しいんです。気配くらいは感じますが、こんなに会話をする事はないし。だから、実感なんてできていませんよ』

 『そうかい? なら、惜しい事をした。俺の死を見せられれば良かったのに。良いお礼になったのにな』

 僕はそれにこう応えてみた。

 『人の“死”を経験するのが、僕一人だけじゃ、駄目かもしれませんがね。多分、必要なのは世間の人達、みんなです』

 お爺ちゃんはそれを聞くとまた笑った。

 『何言ってやがんだ、お前だって、その世間の一部じゃないか』

 僕もそれを聞いて笑う。

 『はは。そうかもしれませんね』

 その後で、お爺ちゃんはこう言った。

 『それじゃあな。お前さんのお蔭で、本当に助かったよ。改めて、お礼を言っておく。ありがとう』

 そしてそのまま消えていった。


 その昔、民俗社会には、人の死を受け入れる為の装置があった。信仰だとか、思想だとか、それらを基にした制度だとか。そしてそれは儀式となって具体的に表現される。

 だけど、時代が流れて、技術の進歩と巨大資本が入り、社会が急激に発展する過程で、いつの間にか、そういった社会的装置は失われてしまったのかもしれない。少なくとも、充分には機能していない。

 もしかしたら、だけど、今の時代の混迷は、もう一度、それらを得ようとする、人間社会の足掻きなのかもしれない。

 きっと僕らは、そういうものをもう一度手にする必要があるんだと思う。それが、どんな形であるにせよ。

 参考文献は、「大往生したけりゃ医療とかかわるな」「延命医療と臨床現場」、およびネット上の記事の数々。あと、実はシンポジウムの資料を読んだのですが、タイトルをメモしておくのを忘れてしまいました… すいません。

 因みに、”胃ろう”で検索したら、数々の家族の困惑した書き込みを拾う事ができました(興味があったら、検索してみてください)。

 延命治療は、以前から、テーマにしたいと思っていたのですが、今回、取り上げてみて、小説として書く意義のあるテーマだと、改めて思いました。延命治療には、数多くの矛盾点や問題があります。


 ・倫理的に延命治療を施すしかないと主張する医師本人に、自分は延命治療を受けたいかと尋ねると、嫌だと答えるケースが多い

 ・法律・慣習的に延命治療の中止が罪に問われる場合と問われない場合との境界線がない

 ・上記に伴い、医師を護る環境が整っていない

 ・患者(高齢者)本人は、望まないケースが多い

 ・延命治療は苦痛を伴うのに対し、自然死では苦痛がないケースが多い(らしい)

 ・高齢化に伴い、医療負担が増大し続けているので、削減を迫られている


 これらの問題点は、その多くは文化と絡んでいます。そしてだからこそ、何らかの決着点を目指すのにも文化が重要。そして、そういった文化を作る役割を担う一つには、”小説”があります。自然科学にはできません。

 まずは、この問題に馴染んでもらうという意味でも、それには価値があると思います。もしあなたが、小説を書く人ならば、一度くらいはテーマにしてみませんか?

 僕は、多分、またテーマにすると思います。

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