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青空の夕立

作者: じうかえで
掲載日:2026/06/28

 競技場を満たす張り詰めた静寂の中、聞き慣れたパンッという破裂音と同時に飛び出した。この決勝を抜けて近畿大会に進めるのは六位まで。なんとしてでも、その六チームに滑り込んでやる。チームベストと同じタイムを出せば、いける。西高陸上部初のリレー近畿出場だ。来年走る後輩にも、可能なんだよと示すんだ。

 十分に加速して顔を上げると、右隣の六レーンを走る人影がすぐ目の前にあった。ぐんぐん距離が縮まり、抜いた、と確信したその時、「花奈!」と呼ぶ声が耳を掠めた。レーンの先で、優佳が張り詰めた瞳でこちらを見つめている。「絶対近畿行こね」青空の下、二人で何度も繰り返した言葉が脳裏に蘇った。


 もうすぐだ。もうすぐ、もうすぐ、……今! ――あ。だめだ。


 練習の時よりも優佳との距離が遠い。リードを始める目印のガムテープを私が踏む前に走り出してしまったんだ。

 届けなきゃ。バトンを繋げ。一走で途絶えるなんてことはあってはならない。もっと速く走れ。動け身体。脚よ回れ。もっと、もっと、もっと速く。優佳に追いつけるくらい――!


「はい!」


 叫ぶと同時に、優佳の左手がピンと後ろに伸びる。こちらを向いた手のひらにバトンを押し付け、ありったけの力を込めて前へ押し出した。


「いけっ、優佳! ファイットぉぉぉぉぉ!」


 身体の底から叫んだ。ぐんぐん遠ざかっていく背中を縋るように見つめる。二走から三走へ、三走から四走へ、そしてなんとか六着でゴールしたのを見届けてから、私はテープを剥がそうと自分が走ってきたレーンを振り返った。その瞬間、息が止まった。


 少しだけ、祈る気持ちがあったのは自覚していた。もしかしたらと思ってもいた。でも悪い想像はしたくなくて、全部頭の隅に押しやって、楽観的に願っていた。


 審判が、黄色い旗をあげている。――五レーンの上で。

 ……終わった。テイクオーバーゾーンを越えていた。


 最後の夏の強制終了を告げる黄色が、どこまでも広い灰色の空にはためいている。

 世界から音が消えた。

 灰色の世界の中で、私は襲いくる絶望から逃げることもできずに、ただ茫然と立ち尽くしていた。



   ***



 厚い雲は、それからもずっと空に居座っていた。朝、家を出る前に確認した天気予報は晴れだったのに。

 今日の競技が全て終わり、競技場を出たところのフェンスの脇に荷物を置いて、私は黄色い残像を見つめる。見たいから見ているわけじゃなく、どこを向いても視界から離れないのだ。

 チームメイト達もそれぞれ荷物を地面に下ろして、仲の良いグループごとに固まって楽しそうに駄弁っている。


「集合!」


 私は腹からよく響く声を出した。意識せずとも自然と出るようになった音域。お喋りをやめ素早く集合隊形をつくる部員達の目の前に立つと、百ほどの瞳が一斉にこちらを見つめる。掛け声には慣れても、こうして大人数に見つめられる場はいつになっても慣れない。噛んだり言葉に詰まったりしないかといつも不安になるのだ。


「お疲れ様でした」


 喋り始めはお馴染みの言葉。緊張していても、話し始めると少し心が緩む。

「競技があった人は疲れていると思うので、ケアをして、早く寝てください。明日は試合三日目、最終日です。チーム一丸となって最後まで頑張りましょう。いったれ西高!」

 淀みなく言いきって、お馴染みの文言で締めた。……いったれ、なんて言える立場じゃないのにな、私は。今日、ついさっき、『いけ』なかった人が。

 ゴロ、と遠くで雷が鳴った。「夕立が来そうなので手短に」私の隣で顧問が話し始める。


「えー、見ていて思ったのは………………ぁい。以上」


 俯いていた私は、耳に飛び込んできた『以上』にはっと顔を上げた。慌てて「起立! 気をつけ、礼!」と叫ぶ。一年も部長を務めていたら、上の空でも先生の『以上』だけは聞こえるようになった。

 解散後も、皆まだ帰らずに試合の余韻を楽しんでいるようだ。その中心でひとり立ち尽くしていると、後輩がぱたぱたと走ってきた。


「花奈先輩、あっちで優佳先輩達が呼んでます」


 彼女の指差す先に目をやると、女子三人が手を振っているのが見えた。


「ほんまや。ありがとう」


 三人に駆け寄ると、「リレメンで写真撮ろうや」と三走のありさが言った。「いいよ」と答えて、ポケットからスマホを取り出す。

 自撮りモードを起動したとき、アンカーの実里がぽつりと言った。


「もう結成から一年経ったんや。早かったなあ。十二か月、みんなのバトンを受け取り続けてきたわけや」

「走順、結局変えんかったもんね」


 同学年の短距離女子は四人。リレーチーム結成の前から、バトンを持った練習はこの四人で組んできた。走順は一度も変えずに。


「そのせいで、アンカーのプレッシャーを誰にも押し付けられへんかった」

「嘘つけ。ほんまはウチらの愛のこもったバトンを託されて嬉しかったんやろ」

「ありさの愛は重くて走りにくかったわぁ。三キロはあった」


 実里が肩をすくめると、「だまらっしゃい」とその頭をありさが叩き、私と優佳はそれを見て笑う。大丈夫、いつもの私達だ。

 また、ゴロ、と雷が鳴った。


「ほら、撮るで」


 永遠に続きそうな冗談の応酬を断ち切って、私はスマホを構えた。勝手に下がってくる口角を意思の力でぐいと上げて、「はい、チーズ」の掛け声に合わせて、指で『一』をつくって頬に当てる。優佳は『二』、ありさが『三』で実里が『四』。四人で写真を撮る時にはいつもやるポーズだ。四つの顔が菱形に並んだ写真も飽きるほど撮ってきたけれど、それでもリレーを走った時は毎回撮ることにしていた。それももうこれで終わりなのだ、とは誰も言わない。きっと全員思っているけれど口にしない。

 まだ。

 まだ、誰も何も口にしない。


「夕立来そうやから()よ帰れー」


 顧問の言葉に背中を押されるように、後輩達が順番に荷物をまとめて去っていく。ゴロ、と重い雷の音が、さっきよりも近づいている。

 気がつくと、まだ残っている後輩は半分以下に減っていた。

 私はスマホをポケットにしまって、リュックから折り畳み傘を取り出した。広げるのと同時に、ぽつ、と水滴が頬に落ちる。その瞬間、全身から力が抜けた。傘が手から滑り落ち、四つまとめて置かれたリュックの上で空を向く。


「……ごめん」


 はっと顔を上げると、唇を噛む優佳の姿が目に入った。その隣で、ありさも実里も俯いて顔を歪ませている。

 視界が滲む。


 ――もう、いいよね?


 後輩達の視線が背中に突き刺さるのを感じる。

 笑おうとした。

 私は部長だ。先輩だ。弱いと思われたくない。笑顔で三年間を終えるところを見せたい。だから、まだ笑っていないといけなかった。

 しかし優佳の瞳に涙が浮かんだのを、私は見逃さなかった。じわ、と胸に広がった黒い染みには気がつかないふりをする。


 一年間、ずっとバトンを託してきた相手。だからこそ、知っている。私達四人の中で、一番リレーと真摯に向き合ってきたのは優佳だと。昼休みも練習後も、グラウンドに出て練習していた。二人きりのグラウンドで、数え切れないほどのバトンを渡してきた。「もう一本、お願い」荒い息遣いで、何度そう言われたことか。

 笑えるはずがなかった。


 ――もう、泣いてもいいよね?


 ただ雨に打たれていたかった。土砂降りになった雨の中で、ずぶ濡れになっても構わないから、泣いても許される空間が欲しかった。

 夕立の中なら、雨音がすべて掻き消してくれる。

 優佳が手の甲で顔を拭う。しかし拭っても拭っても、また濡れる。


「ごめん、ごめんね……! みんな、ごめんなさい……!」


 じわ、とまた胸の奥に小さな黒い染みが広がった。優佳が早く出たから渡らなかったんでしょ。一瞬でも諦めた私も悪いけど、でも、そもそもは優佳のせいだよ。泣いてないで、どうにかしてよ……なんて。全部、押し殺す。それは言ってはいけないことだ。

 かわりに私は優佳に駆け寄り、その肩を強く抱きしめた。


「優佳っ!」


 悔しい。

 悔しい。

 どうしようもなく、悔しい。

 頑張ったねと笑って終われるほど、陸上競技(この世界)は優しくない。悔しいことも悲しいことも当然あって、涙を流す時もある。『努力なんて報われない。なら報われるまで努力しろ』と、誰かが言っていた。……したさ。本気でやってきた。その法則に必死で抗おうとした。一縷ほどの望みのために、青春全部懸けてきたんだ。報われなかったねと軽く言えるほど、積み重ねた日々は単純じゃない。

 なのに、どうして、神様は見返りを与えてくれなかったの?


「ごめん、ごめん、本当に、ごめん……!」


 優佳はそれしか言えないかのように、ひたすら「ごめん」を繰り返す。


「優佳は悪くない……! 私こそ、バトン渡せんくて、ごめん……!」


 ああ、違うのに。

 私が伝えたいのは、こんな陳腐で単純な言葉じゃないのに。

 言葉が胸の奥で絡まって、喉で詰まって出てこない。もっとぴったりな言葉があるはずなのに。普段なら思いつくのに。これじゃ、私の心の何ひとつとして伝えられない。

 三年も隣にいたのに、こんな時に何と言えばいいのかわからない。

 肩に張り付くTシャツが肌の温度を奪っていく。しかし、身体の芯は燃えるように熱い。熱すぎて、沸騰する涙を抑え込むことすらできない。


「ばか! ばかばかばかばか、バトンミス、ばかぁ……!」


 ありさがポカポカと背中をげんこつで叩いてくる。


「しょーがないけど、でもさぁ……!」


 そう、仕方がなかったのかもしれない。勝負はいつも、その時その瞬間に強い者が勝つ。私達は弱かったのだ。練習が足りていなかったのかもしれない。それとも単純に、個々の走力の差で負けたのかもしれない。精神が弱かったのかもしれない。でも、込み上げるこの涙は「しょーがない」の一言では片付けたくなかった。もう少しで手が届きそうだった、そして掴んだと一瞬でも安堵した、その後に襲ってくるこの熱を持った痛みだけは。


 何が足りなかったの?

 私達はこんなにも頑張ったのに。絶対、どこのチームよりも頑張ったのに。


 いったいあと何本のバトンを渡せば、近畿に届いたの……?



   ***



 やがて涙を出し切って皆が泣き止む頃、あんなに土砂降りだった空が嘘だったかのように、雲が切れて光が差した。

 私は手の甲で頬を拭うと、傘に溜まった水を捨てた。一度拭った頬は、もう再び濡れることはなかった。


「あー、びっしょびしょ」


 言いながら、ありさが自分のリュックを引き寄せる。ファスナーを開けてタオルを取り出すと、身体中を拭き始めた。

 私もタオルを取り出して、あ、と思った。去年優佳から誕生日プレゼントに貰ったタオルだ。「来年絶対近畿行こね」そう笑って渡してくれた、スパイクとバトンの模様が描かれた青いタオル。


「……楽しかった」


 無意識に唇からこぼれた言葉に、優佳は静かに頷いた。それから、雲の切れ目を見つめてぽつりと呟いた。


「帰ろっか」

「うん」


 後輩達は全員帰ってしまったらしく、この場には私達以外の人影はない。先生の姿もいつの間にか消えている。

 ふと、すぐそばの紫陽花が目に入った。紫色の花に残る雫が夕陽の金色を反射して煌めいている。まるで硝子のような儚い輪郭を、私は指の先でつついた。水玉は跡形もなく崩れ去る。


「花奈? もう行くで」

「あ、うん」


 実里に呼ばれて、私は慌ててリュックを背負った。肩にのしかかる重さは、この三年間で身体に馴染んだもの。

 金色の光が強くなっている。空を見上げると、雲はどこかへ行ってしまっていた。薄青の空の端の方で、太陽が空を染める準備をしている。

 もうすぐ、青空が終わる。

 並んで歩く三人に小走りで追いついた私は、金色を見つめたまま「実里、明日頑張って」と口にした。今度は、ちゃんと思い通りの言葉を。「いったれ実里」


「うん。ちょっと近畿行ってくる」


 実里は明日、百メートルの競技がある。少し羨ましい。でも、今なら真っ白な心のまま送り出せる気がする。

 試合はまだ終わっていない。私にできるのは、最後まで応援し続けること。最後まで、やりきること。

 誰の口元にも、笑顔は浮かんでいない。

 まだ。

 まだ、夏は終わっていない。

 この夏をもう一度なんて望まない。仲間の姿を見ていると、そんなの望めない。

 夕立には、私達の三年間が――手のひらと同じ温度のバトンを握りしめて見上げた、いくつもの青空が詰まっているのだから。


 雨が止んで、雲が途切れて、隙間から見えた夕陽が沈んだその時に笑えていれば、それでいい。

お読みいただきありがとうございました。

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