第9話:書き換えられた運命と、五百年目の督促状
王宮のバルコニーに吹き抜ける風は、火薬の匂いを運び去り、代わりに復興を告げる花の香りを運んできた。
指先で輝く紫紺の指輪を見つめ、私は深く溜息をつく。
「……結局、隠居生活はどこへ行ったのでしょう」
「僕の腕の中だよ。そこが世界で一番安全で、静かな隠居先だ」
背後から伸びてきた逞しい腕が、私の腰を容赦なく引き寄せる。リュカだ。彼は私の項に鼻先を埋め、まるで極上の古書を愛でるように、深く、熱く、私の香りを吸い込んだ。
「リュカさん、公衆の面前です。……それと、耳元で喋るのは心臓に悪いので禁止と言ったはずですが」
「いいや、婚約者としての特権だ。それとも……また『物理的に扉を壊して』入った方が良かったかな?」
彼は悪戯っぽく笑い、私の眼鏡をそっと外した。視界がわずかにぼやける中で、彼の黄金の瞳だけが、この世で最も美しい「独占」の炎を宿して私を捉えている。
この男の愛は、もはや魔力過多症という病ではなく、私という存在に対する「致死量の猛毒」なのだ。
***
その夜。
王立図書館の司書室で一人、私はヴィクトールが最期に遺した言葉を反芻していた。
『貴女の物語は、まだ一文字も書き換わっていない。……逃れられぬ結末へ向けて、着実にページをめくっているのですよ』
私は、王都での決戦で発動した『真理の書』をそっと開く。
黄金の光を放つその頁には、王都アークライドの勝利と復興が記されていた。しかし、その末尾――エピローグの直後に、私の記憶にはない「赤いインク」の文字が浮かび上がっていた。
【貸出超過通知:未返却物件あり】
書名:『厄災の魔女の心臓(あるいは、蛇を滅ぼす真の力)』
貸出先:エルマ・ラズワルド(前世:リコリス)
返却期限:五百年前の今日。
※延滞料金として、現世の『最愛のもの』を徴収する。
背筋に冷たい氷柱が走る。
私が前世を終わらせる際、この世界から「切り離して封印した」はずの力が、五百年の時を経て利息付きで請求されようとしているのだ。
「……私の心臓を、返せですって?」
ヴィクトールの背後にいた黒幕、そして『深淵の蛇』の残党たちが狙っていたのは、アークライドの回路だけではなかった。彼らはこの「督促状」が届く瞬間を、虎視眈々と待っていたのだ。
その時だった。
図書館の静寂を切り裂き、窓の外に巨大な「虚無の穴」が口を開けた。
そこから漏れ出すのは、王都の地下で見た黒い霧とは比較にならない、圧倒的な「虚無」の魔力。
「エルマッ!!」
扉が粉砕されるより速く、窓からリュカが飛び込んできた。彼は抜刀し、私の前に立ち塞がる。その背中は、どんな絶望からも私を守り抜くという鋼の意志に満ちていた。
「またこれか……。しつこい連中だね。エルマ、下がっていて。僕がすべて斬り伏せて――」
「いいえ、リュカさん」
私は彼の服の裾を強く掴んだ。
これまでは、彼の魔力を「借りて」戦ってきた。でも、これからは違う。
督促状が届いたのなら、司書として、そして彼を愛する一人の女として、落とし前をつけなければならない。
「……今度の敵は、私の『延滞』が原因です。隣国へ、いえ、世界の果てにある『禁忌の書庫』へ向かわなければなりません」
私はリュカの背中に顔を押し当て、熱い鼓動を確かめるように囁いた。
「私の過去と、すべての延滞料金を清算しに。……ついてきてくれますか? 婚約者殿」
リュカは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに口角を吊り上げ、凶悪なほどに美しい笑みを浮かべた。
「言ったはずだよ。君の過去は、僕がすべて買い取ると。……利息がいくらだろうが、僕が全部、黄金に変えて支払ってやる」
彼は私の手をとり、指輪の上から力強く握りしめた。
「行こうか、僕の美しい魔女。……世界中の物語を書き換える、史上最悪の新婚旅行へ」
世界の果て、禁忌の書庫
王都を離れ、二人は世界の深淵へと旅立つ。
そこで待ち受けるのは、前世でエルマが愛し、そして殺したはずの「最初の弟子」との再会。
暴走するリュカの独占欲。そして明かされる、魔力過多症の「真の原因」。
「リュカさん、……そこは『貸出禁止』な場所ですってば!」
「いいや、目録の隅から隅まで、僕が全部読解してあげるよ。……エルマ」
延滞料金は、愛でしか支払えない
――書き換える物語は、ここからが本番です。
【第1章完結】




