第8話:王都決戦、司書の怒りは鋼鉄をも砕く
王都アークライドの朝は、甘いバターの香りと、不穏な鉄の匂いで幕を開けた。
私の司書室に不法侵入した「元・教え子の王子様」は、事もあろうにエプロン姿でフライパンを握っている。
「エルマ、おはよう。昨夜の禁書区画でのデートは刺激的だったね。……はい、あーん」
差し出されたのは、黄金色に輝くフレンチトースト。
昨夜、私の部屋の扉を物理的に粉砕した男の言葉とは思えない。私は無視して、眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。
「リュカさん、扉の修繕費を請求してもいいですか。……あと、ヴィクトール卿が言っていた『アークライドの回路』の件、悠長に朝食を食べている場合ではないはずです」
「分かっているよ。だからこそ、今のうちに栄養を摂っておかないと。……これから僕たちは、この街の『システム』そのものと戦うことになるんだから」
リュカの瞳が、一瞬だけ鋭利な刃物のような冷徹さを帯びた。
彼が差し出したフレンチトーストを渋々口に運ぶ。……悔しいことに、絶品だ。愛という名の重すぎるスパイスを除けば、これまでの人生で食べたどの宮廷料理よりも美味しい。
「……甘すぎます」
「そう? 僕は君がもっと甘い声を出すまで、隠し味を増やすつもりだけど」
さらりと吐かれた台詞を無視し、私は窓の外を見やった。
王都の中央にそびえ立つ蒸気時計塔。その周囲に張り巡らされた真鍮のパイプから、今朝は見たこともないような「真っ黒な蒸気」が噴き出していた。
それは、ヴィクトールが持ち去った設計図の完成形――王都全体を巨大な「魔法陣」へと変貌させる儀式の合図だった。
***
一時間後。
王都の平和は、轟音と共に崩れ去った。
ズゥゥゥン……!!
地響きが王立図書館を揺らす。窓ガラスが悲鳴を上げ、並べられた本たちが棚から零れ落ちる。
私は、床に散らばった貴重な初版本を拾い上げながら、心の底から沸き上がる「怒り」を感じていた。
「本を……。書架を汚す者は、万死に値します」
図書館の外へ出ると、そこは地獄の入り口だった。
石畳が割れ、地下から巨大な鋼鉄の触手――魔力搾取用の極太パイプが、生き物のようにのたうち回っている。
空を覆うのは、黒い霧。
街中のオートマタたちが一斉に機能を狂わせ、住民たちを襲い始めていた。
「エルマ! 右だ!」
リュカの叫びと共に、黄金の剣閃が私の視界を横切った。
私を背後から狙っていた多脚型の戦闘用オートマタが、一瞬で四分五烈になる。
今日のリュカは、王家の正装の上に重厚な魔導甲冑を纏っていた。
「ヴィクトールの狙いは王宮の地下にある『心臓』だ。街中の回路から吸い上げた魔力を一点に集中させ、人為的に『特異点』を作ろうとしている」
「……それで死者を蘇らせるか、あるいは神にでもなるつもりですか。古典的な悪役の思考回路ですね、あの爺さんは」
私はドレスの裾を大胆に引き裂き、動きやすいように膝上まで短くした。
前世で培った戦いの本能が、静かに、けれど確実に熱を帯びていく。
「リュカさん。私は正面からボイラーへ向かいます。あなたは……」
「僕も行くよ。君を一人で行かせるわけがないだろう。……それに、君の『本気』を、一番近くで見ていたい」
彼は私の腰を引き寄せ、騒乱のど真ん中で額を合わせた。
戦場に似つかわしくない、甘い温度。
「死なせない。君の未来は、僕の所有物なんだから」
「……所有権の侵害で訴えますよ。後でね」
私たちは、噴き出す蒸気と鉄の破片が舞う王都を駆け出した。
***
王宮地下、巨大ボイラー室。
そこはもはや、機械室ではなく「内臓」の中のようだった。
壁一面に蠢く黒い導線。中心には、数万人の王都住民から奪われた魔力が、紫黒色の巨大な球体となって脈動している。
「……遅かったね。アークライドの出来損ないの王子、そして……災厄の魔女」
ボイラーの天辺に、ヴィクトールが立っていた。
彼の肉体は、すでに『深淵の蛇』の呪いによって異形のものへ変わり果てている。背中からは鋼鉄の羽が生え、眼窩からは赤黒い魔力が溢れ出していた。
「見てごらん。この美しい回路を! 知識とは溜め込むものではない。このように一気に燃焼させ、新しい理を作るための燃料なのだ!」
「……それが、あなたの結論ですか」
私は、静かに一歩前へ出た。
足元の床が、私の怒りに呼応してひび割れる。
司書として、そして魔女として、彼の言葉は万死に値する侮辱だった。
「知識を燃料にするですって? ……本というものは、誰かが生涯をかけて綴り、誰かが大切に守り抜いてきた『命』の集積です。それをただの薪のように扱うなんて。……ヴィクトール卿、あなたは司書の敵です」
私は右手を高々と掲げた。
リュカが私の意図を察し、自身の左手を私の右手に重ねる。
「繋げ、エルマ。僕の魔力を、君の怒りに変えてくれ」
ドクンッ!!
昨夜よりも深い、魂が溶け合うような接続。
リュカの膨大な黄金の魔力が、私という「回路」を通り、純白の光へと変換されていく。
「いいでしょう。……特別閲覧権限、最終段階解放。……全館の静粛を命じます」
私の背後に、光り輝く巨大な「本の幻影」が出現した。
それは、私が前世から持ち越した唯一の遺産。世界の事象を記録し、定義し直すための究極の魔導書――『真理の書』。
「な、なんだその魔力は!? 災厄の魔女の力は、五百年前に封印されたはず……!」
「封印した本を読み返すのは、司書の特権ですから」
私はヴィクトールを見据え、その指をパチンと鳴らした。
「司書奥義・【全書返却】!!」
王都全体に、澄み渡る鐘の音が響き渡った。
それは、奪われたものを、本来あるべき「場所」へと強制的に戻す概念魔術。
ヴィクトールの回路に蓄積された膨大な魔力が、逆流を始める。
紫黒色の球体がひび割れ、中から溢れ出した魔力が、光の蝶となって人々の元へと帰っていく。
「ば、馬鹿な! 私のシステムが、上書きされるだと!? 誰がこんな記述を……!」
「私が書きました。……今、この瞬間に」
光の奔流の中で、ヴィクトールの機械化された肉体が、紙片のように崩れていく。
彼は信じられないものを見るように私とリュカを交互に見つめ、最後に自嘲気味に笑った。
「……そうか。知識を守るだけではなく、書き加える者が現れたのか……」
轟音と共に、巨大ボイラーが沈黙した。
黒い蒸気は消え去り、地上には再び、澄み渡った王都の青空が戻りつつあった。
***
瓦礫の山となったボイラー室で、私は膝をついた。
魔力を使い果たし、視界が白く霞む。
「……エルマ、大丈夫か!?」
リュカが私を抱きとめる。
彼の魔導甲冑はボロボロで、頬には切り傷がある。それでも、その瞳は私を映して、世界で一番甘く、そして真剣に揺れていた。
「……疲れました。もう、一歩も動けません」
「よくやった。……本当に、君は僕の自慢の司書だ」
彼は私の額に、深い、深い口づけを落とした。
魔力同調の余韻で、肌が触れ合うたびに火花のような刺激が走る。
リュカの手が、私の短くなったドレスの裾から覗く太ももに、無意識に、けれど熱く触れた。
「……エルマ。一つ、白状していいかな」
「なんですか。……不吉な告白なら、閉館後にしてください」
「君が戦っている姿を見て……最低なことに、猛烈に独占欲が湧いてしまったんだ。こんなに格好良くて、美しくて、恐ろしい君を、やっぱり僕だけの部屋に閉じ込めておきたい」
彼は私の首筋に顔を埋め、熱い吐息を漏らした。
甘い。蕩けるような熱。
戦いが終わった後の静寂の中で、彼の独占欲が牙を剥く。
「……『貸出禁止』だって、言ったじゃないですか」
私は弱々しく笑い、彼の首に腕を回した。
心臓が、自分のものではないような速さで脈打っている。
「……延滞料金、本当に……高くなりますよ」
「ああ。君が一生かけても返しきれないくらい、僕を愛してもらうことにするよ」
王宮の地下。崩れた鉄屑の間で、私たちは重なり合った。
それは、世界を救った英雄のキスではなく、ただ一人の男と女が、互いの存在を確認し合うための、あまりにも激薬のような儀式だった。
***
数日後。
王都は復興の活気に包まれていた。
ヴィクトールの遺した『アークライドの回路』は、リュカと私の監修のもと、魔力搾取ではなく「生活支援」のためのクリーンな魔導機関へと再構築されることが決まった。
そして。
「エルマ・ラズワルド。君を、アークライド王国の『初代王宮司書長』、兼……僕の婚約者として、改めて指名する」
王立図書館のバルコニー。
リュカが、王都の住民が見守る中で、私に膝をついて指輪を差し出していた。
「……司書長としての仕事は受けますが、婚約者の方は再考を求めます」
「却下だ。これは君が僕の魔力を使い果たしたことに対する、永久的な賠償責任だよ」
リュカは悪戯っぽく微笑み、私の指に、深い紫紺色の宝石がはめられた指輪を滑り込ませた。
周囲からは割れんばかりの拍手と歓声。
私は溜息をつき、けれど、隠しきれない微笑みを浮かべて彼の手を取った。
「……私の人生という本に、勝手な書き込みをしないでください。……王子様」
「いいや、これから二人で書いていくんだよ。……最高にハッピーな、続き(エピローグ)をね」
王都を吹き抜ける風が、新しい物語の始まりを告げるように、本棚のページを優しくめくっていった。
(続く)




