第4話∶湯煙のハプニングは、世界を救うついでに起こる
「いらっしゃいましぃぃぃ!! ようこそ、お熱いカップル様ぁぁ!!」
温泉郷『ミストラル』の老舗旅館『湯守の宿』。
その玄関をくぐった瞬間、私たちは女将の絶叫に迎えられた。
女将だけではない。番頭、仲居、掃除係に至るまで、従業員全員が玄関に土下座待機しており、獲物――もとい、客が来た瞬間、バネ仕掛けのように飛び起きて私たちを取り囲んだのだ。
「ささ、どうぞこちらへ! 荷物はお持ちします! 靴もお脱ぎください! なんなら服もお脱ぎください!」
「ちょ、怖い! 圧がすごい!」
私はリュカの背中に隠れた。
リュカは爽やかな営業スマイル(ただし目は笑っていない)で、女将に応対する。
「やあ。ずいぶんと……熱烈な歓迎だね」
「もちろんでございます! ここ数ヶ月、黒い霧のせいで客足が途絶え、当館は閑古鳥がサンバを踊る有様! 久しぶりのお客様、しかもこんな美男美女のカップル……逃がすわけにはまいりません!」
女将の目が、肉食獣のようにギラついている。
なるほど、この温泉街の寂れ方は深刻らしい。
街全体を覆う、硫黄とは違う生臭い「澱」。配管から漏れ出るシューシューという蒸気の音。
かつては風光明媚な観光地だったこの場所も、今は魔導産業廃棄物の影響で、ゴーストタウン寸前なのだ。
「お部屋はもちろん、当館自慢の『離れ』をご用意しております! 源泉かけ流し露天風呂付き、防音完備、夜鳴きウナギの精力御膳付きの特別室『月下美人』!」
「おお、それは素晴らしい」
「一部屋しか空いておりませんので、当然、ご一緒ですよね?」
女将がウィンクを飛ばす。
私は食い気味に手を挙げた。
「いえ、別室で。物置でもいいので二部屋お願いします」
「あいにく! 他の部屋は全て『配管メンテナンス中(という名の閉鎖)』でして!」
「嘘おっしゃい! さっき閑古鳥って言ったじゃないですか!」
「それではご案内〜!」
私の抵抗は、経営難に喘ぐ女将のパワフルな押しと、リュカの「まあまあ、新婚なんだから」という甘い囁きによって、あっけなく粉砕された。
***
通された『離れ』は、無駄に豪華だった。
和洋折衷のモダンな内装。ふかふかのダブルベッド(天蓋付き)。
そしてガラス戸の向こうには、岩造りの立派な露天風呂があるのだが……。
「……お湯、チョロチョロですね」
私は浴槽を覗き込んで眉をひそめた。
かけ流しと言うにはあまりに寂しい、蛇口から滴る水滴のような湯量。
浴槽にはお湯が半分も溜まっておらず、底には緑色のヌルヌルした藻のようなものが付着している。
「黒い霧の影響で、源泉の圧力が下がっているらしい」
リュカがシャツのボタンを外しながら、険しい顔で湯口を見た。
「地脈が詰まっているんだ。まるで動脈硬化のように、大地の魔力循環が阻害されている」
「……気持ち悪いですね」
私は職業病のような不快感を覚えた。
私は司書だ。乱れた本棚、分類されていないカード、そして――**「流れの悪いパイプ」**が大嫌いなのだ。
水回りの不備は、心の乱れ。
こんなチョロチョロしたお湯では、リュカの魔力過多症の治療もできないし、何より私が許せない。
「エルマ。僕は先に、汗を流させてもらうよ。シャワーの水圧くらいはあるだろうから」
「……はい。ごゆっくり」
リュカが脱衣所へと消え、ガラス戸が曇る。
私は一人、露天風呂に残された。
周囲を見渡す。岩の隙間から、赤黒い瘴気が漏れ出している。
私は分厚い眼鏡を指で押し上げ、腕まくりをした。
(……掃除の時間ね)
リュカが出てくる前に、このふざけた詰まりを解消してやる。
私は湯口の岩に手を当てた。
通常なら、土木工事用の魔導重機が必要な案件だ。だが、元・最強魔女の私にかかれば、配管掃除など指先一つで事足りる。
イメージするのは、前世で愛用していた生活魔法の応用。
高圧洗浄機と、排水管クリーナーの融合。
「水流魔法・改式――『高圧貫通洗浄』」
私の指先から、極細に圧縮された魔力の水流が放たれた。
それはレーザーのように湯口の奥へと潜り込み、地中深くの「詰まり」へと到達する。
ガガガガガッ!!
地底から、ドリルのような振動が伝わってきた。
固い。ただの岩や汚れじゃない。何か、もっと人工的な「異物」が源泉を塞いでいる感触がする。
「……頑固な汚れですね。なら、出力アップ」
私は魔力を込める。
地味な司書のふりをしていても、私の魔力回路は規格外だ。
キュイイイイン! と甲高い音が響き、次の瞬間。
ドッパァァァァァァン!!
爆発音と共に、湯口から間欠泉のごとくお湯が噴き出した。
いや、お湯だけじゃない。真っ黒いヘドロのような塊と、謎の金属部品が空高く打ち上げられたのだ。
「わっ、きゃぁ!?」
予想以上の水圧だった。
私は噴出した熱湯と蒸気のバックドラフトをまともに食らった。
足元のヌルヌルした藻に足を取られる。
「――あ」
視界がスローモーションになる。
身体が宙に浮き、そのままド派手に浴槽の中へダイブした。
バッシャァァァァン!!
熱いお湯に全身が浸かる。
着ていた服はずぶ濡れになり、重みで肌に張り付く。
そして何より――顔にかかった熱湯と水圧で、私の偽装が剥がれ落ちた。
耐水性のない安物の「そばかす描画ペン」のインクが溶け出し、分厚い瓶底眼鏡が衝撃でどこかへ飛んでいく。
「っぷはっ! ……あつつ……目が……」
私は水面から顔を出した。
視界がぼやけると思いきや、逆にクリアだった。眼鏡がない方がよく見えるのだから皮肉なものだ。
濡れた髪をかき上げ、顔についた雫を拭う。
「おい! すごい音がしたけど、大丈夫かエルマ!?」
脱衣所のドアが乱暴に開いた。
腰にタオルを巻いただけの、半裸のリュカが飛び出してくる。
鍛え上げられた逆三角形の背中、無駄のない筋肉。濡れた金髪から滴る水滴。
彫刻のような美しさに、私は思わず息を飲んだ。
だが、息を飲んだのは彼も同じだった。
「……え?」
リュカが立ち尽くしている。
湯気の中、彼は信じられないものを見るように目を見開き、私を凝視していた。
私は自分の状況を理解した。
眼鏡なし。メイク落ち。濡れ透けのシャツ。
(しまった……!!)
私は慌てて顔を隠そうとしたが、遅かった。
リュカが、私が魔法を使う時よりも速い動きで浴槽に踏み込み、私の手首を掴んだのだ。
「……エルマ、なのか?」
震える声。
彼は私の顔を両手で包み込んだ。
逃げられない。至近距離で見つめ合う。
私の瞳――偽装用のコンタクトレンズも流れてしまった、本来の「夜明けの空のような」紫紺の瞳が、彼の碧眼に映っている。
「なんて……ことだ」
リュカの瞳が、熱を帯びて揺らいだ。
それはいつもの軽薄な愛の囁きではない。
魂を揺さぶられた男の、本能的な反応だった。
「眼鏡の下に、こんな光を隠していたのか。……そばかすも、全部嘘だったんだね」
彼の親指が、私の頬をなぞる。
素肌の感触を確かめるように、優しく、けれど執拗に。
彼の指先から伝わる熱が、お湯の温度よりも熱い。
「き、気色悪いですよね、すみません、騙してて……」
「馬鹿なことを言うな!」
リュカが叫び、私を強く抱きしめた。
濡れた服と、彼の裸体が密着する。
心臓の音が、痛いほど伝わってくる。
「美しい……。君の魔力の輝きと同じだ。いや、それ以上だ」
「りゅ、リュカさん……近いです……」
「僕を狂わせる気か。……これ以上、好きにさせてどうするつもりなんだ」
彼は私の耳元で呻くように囁き、濡れた首筋に唇を押し当てた。
噛みつくようなキスではない。
崇拝するような、壊れ物を扱うような、甘く切ない口づけ。
「……っぅ」
背筋が痺れる。
抵抗しなければならないのに、彼の熱があまりにも心地よくて、力が抜けてしまう。
彼の手が、私の背中を這い上がり、濡れたシャツ越しに肩を抱く。
湯気と、硫黄の匂いと、彼の男の匂いが混じり合い、頭がクラクラする。
(だめ、流される……! 雰囲気に殺される!)
その時。
カラン、コロン。
空から何かが落ちてきた音がした。
私がさっきの水流魔法で吹き飛ばした、「源泉を詰まらせていた物体」だ。
それは岩の上に転がり、乾いた音を立てた。
「……ん?」
リュカが動きを止めた。
私たち二人は、抱き合ったままその物体を見た。
それは、ただの石ころではなかった。
歪な形をした、黒い金属製のパイプ。表面には不気味な紫色の紋様が刻まれ、まるで生き物のように脈動している。
「……『魔力搾取機』?」
リュカの声が、一瞬で氷のように冷たくなった。
王子の顔。為政者の顔だ。
「なんだそれは」
「禁忌指定された古代遺物の複製品だ。地脈に突き刺し、星の生命力そのものを吸い上げてエネルギーに変える、最悪の違法装置だよ」
リュカは私から体を離し(名残惜しそうに一度強く抱きしめてから)、その装置を拾い上げた。
「……この温泉街が寂れたのは、自然現象の『黒い霧』のせいじゃない。誰かが意図的に、この土地の魔力を根こそぎ奪っていたんだ」
私は濡れた髪をかき上げ、呆れ半分、怒り半分で溜息をついた。
せっかくの温泉旅行が、またしても「事件」に変わった瞬間だった。
「……つまり、犯人が近くにいると?」
「ああ。そして、これだけの規模で搾取しているなら、そのエネルギーを使っている『工場』が必ずあるはずだ」
リュカが私を振り返る。
その目はもう、恋する男の目と、冷徹な狩人の目が入り混じった、一番厄介な色をしていた。
「エルマ。……君の素顔を独り占めする時間は、お預けのようだ」
「安心しました。これ以上見つめられたら、物理で目潰しするところでした」
「照れ隠しも可愛いね」
リュカは私の手を取り、手の甲にキスをした。
まだ心臓がバクバクしている。
素顔を見られてしまった。もう、「地味な司書」という隠れ蓑は通用しない。
(……どうせバレたなら、もう開き直るしかないわね)
私は覚悟を決めた。
この温泉街を食い物にする輩を「掃除」して、今度こそゆっくりお湯に浸かるのだ。
「リュカさん。犯人のアジトを見つけたら、私が『詰まり』を解消します。……徹底的に」
「頼もしいよ、僕の女神。……でも、その前に」
リュカは脱衣所から私の乾いた服と、新しいタオルを持ってきて、私の頭にふわりとかけた。
「風邪を引く。……君のその姿は、僕以外の男には絶対に見せたくないからね」
タオルの下で、私の顔がボンッと赤くなったのは、湯あたりのせいだけではないはずだ。
(続く)




