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第10話:嫉妬の波止場と、束の間の甘い「独占」

 セレンディアの港町は、アークライドの鉄と蒸気の匂いとは対極にある、潮騒と芳醇な果実の香りに満ちていた。

 本来ならば、大きな闘いを終えた私とリュカにとって、これ以上ない「休息」になるはずだった。……だが、隣を歩くこの男から放たれる「黄金色の殺気」が、南国の陽光さえも凍りつかせている。

「……リュカさん。もう一時間、その『今すぐこの国を地図から消し去る』みたいな顔はやめてください」

 港が見渡せるカフェのテラス席。

 リュカは運ばれてきたトロピカルジュースには一切手を付けず、テーブルの下で私の右手を両手で包み込み、まるで壊れやすい古書を検品するように、じっと指先を見つめている。

「……エルマ。あいつ(シオン)は、君のどの部分を『食べた』と言ったんだい。指か? 髪か? それとも、僕もまだ触れていない……」

「比喩ですと言ったでしょう。五百年前の私の魔力核を、彼が管理する図書館の動力源として利用しているという意味です。……司書として言わせてもらえば、あれは一種の『不当な長期貸出』ですよ」

「言い方が気に入らない。……それに、あいつは君を『リコリス』と呼んだ。僕も知らない、君の魂に刻まれた名前を、あんな優男が軽々しく……。ああ、許せない。今すぐあの図書館を、一頁残らず僕の焔で焼き尽くしたい」

 リュカが私の指先に、熱い、けれどどこか縋るような口づけを落とす。

 以前の余裕たっぷりの王子様はどこへやら、今の彼は、大切な宝物を他人に触られた子供のような、むき出しの独占欲を隠そうともしない。

「……リュカさん。彼が何を言おうと、今の私はあなたの司書です。……それに、あのアクアアンクレット、まだ外れていませんから」

 私が少しだけ呆れを含ませて、左足首を小さく揺らした。

 そこには、昨日リュカが半ば強引に嵌めた、深海真珠のアンクレットが光っている。彼の魔力が「しおり」として封じ込められたそれは、私が一歩動くたびに「ここはリュカの領域テリトリーだ」と周囲に宣言しているようなものだ。

「……分かっている。分かっているけれど、足りないんだ」

 リュカは私の手を自分の頬に押し当て、黄金の瞳を潤ませて私を見上げた。

「あいつの目……あれは僕と同じ、執着を隠しきれない男の目だ。……ねえ、エルマ。証明して。君の今のあるじが誰なのか、この街の連中全員に、そして何より『過去』の亡霊に分かるように」

「……はぁ。公衆の面前で何を……っ、ちょっ、リュカさん!?」

 突然、リュカが私の腰を抱き寄せ、椅子ごと自分の方へ引き寄せた。

 彼の顔が至近距離に迫る。潮風に乗って、彼特有の、気高くも甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「デートだろう? セレンディアの街を歩くなら、それ相応の格好をしてもらわないと。……君のその地味な司書服は、僕のいない場所での防衛用カモフラージュとしては完璧だけど、僕の隣では必要ない」

 彼はパチンと指を鳴らした。

 アークライド王家に伝わる秘術、瞬間的な「形状記憶魔法」。

 私の地味な紺色の司書服が、一瞬にしてこの南国に相応しい、透けるような薄絹のドレスへと書き換えられた。色は、リュカの瞳と同じ「黄金色」。

「なっ……! 露出が多すぎます! 背中がスースーしますし、スリットが深すぎて歩きにくいです!」

「いいんだ。君が僕の色に染まっているのを見れば、あいつも少しは自分の立場が分かるだろう。……さあ、行こうか。僕の、世界で一番美しい延滞物件」

 リュカは私の抗議を甘いキスで封じると、逃がさないと言わんばかりに指を絡め、街へと連れ出した。

猛毒の甘味と、刻まれる印

 セレンディアの市場は、色鮮やかな果物や魔法の貝殻、そして精霊たちが織り上げた不思議な布で溢れていた。

 リュカは終始、私の肩を抱くか腰に手を回し、すれ違う男たちが少しでも私に目を向ければ、王族特有の「覇気」を撒き散らしていた。おかげで私たちの周囲だけ、モーゼの十戒のように人が割れていく。

(……これでは隠居生活どころか、移動する災害(美男子)です)

「……リュカさん、威嚇しすぎです。誰も私なんて盗りませんよ。私はただの司書で……」

「……まだそんなことを言うのかい? 君は昨日、五百年越しの『愛の告白』を弟子から受けたばかりだろう。……あ、エルマ、あのアイスを食べよう。機嫌を直して」

 彼は不機嫌を隠すように、地元で人気の「精霊の涙」という青いアイスを購入した。

 精霊の加護を受けたこのアイスは、食べた瞬間に心の中の不安を凍らせると言われている。

 彼はわざとらしくスプーンを私の口元へ運んだ。

「はい、あーん。……これを食べている間は、あいつのこと、一文字も考えちゃダメだよ。僕との味(記憶)だけで君をいっぱいにしたい」

「……もぐ。……甘い、です。少し冷たすぎて、頭が痛くなりそう」

「僕の愛の方が、もっと甘くて痛よ」

 彼は私のアイスが付いた口角を、指でなぞり、そのまま自分の口へ運んだ。

 その仕草が、あまりにも性的で、あまりにも直球で。

 私は顔が沸騰しそうになりながら、彼を突き飛ばした。

「……っ、もう! 帰ります! 手続きの話に戻りましょう!」

「待って、あと一つだけ。……伏線を回収させてくれ」

 リュカは私の足を止めさせると、市場の隅にある古い宝飾店へと私を誘った。

 店主はリュカの顔を見るなり、奥から埃を被った小箱を取り出した。

「……これは?」

「君がアークライドで言っただろう? 『延滞料金は高いですよ』って。……これはその、前払いだ」

 箱の中には、深海の色をした真珠を核に、リュカの黄金の魔力が封じ込められた特注のイヤーカフが収められていた。

「……これには『通信』と『魔力中継』の機能がある。もし、あのシオンとかいう男が君に不当な読み聞かせ(呪い)を始めようとしたら、これを。僕がすぐに、君のページに割り込んであげる」

 リュカは私の耳に、それを優しく装着した。

 指先が耳殻に触れるたび、ゾクりとするような甘い痺れが全身を走る。

 これは、かつて私たちが交わした「魔力同調」の、さらに深い段階への準備なのだと、本能が悟っていた。

「エルマ。五百年前の弟子に何を見せつけられても、君を返さない。……例え、君がどんなに醜い過去を隠していても、僕はそのページを破り捨てる代わりに、僕との物語で上書きする」

 彼の瞳に宿る、暗く、深い、底なしの情愛。

 私はその重さに、恐怖よりも先に、逃れられない心地よさを感じてしまっている自分に気づき、静かに目を閉じた。

新たな予兆:波打つインクの影

 束の間の「独占欲まみれのデート」は、翌朝、図書館からの呼び出しによって終わりを告げた。

 再び訪れた『喋る図書館』の最深部。

「……昨日は楽しかったみたいだね。師匠、その足首の飾りも、耳の飾りも……すごく趣味が悪いよ。王族の『所有印』なんて、知識の自由を愛するリコリスには似合わない」

 シオンは昨日と同じ、眠たげな、けれど確実に殺意の混じった瞳で私たちを迎えた。

 彼の背後には、無数の「黒い墨汁」のような魔力が溜まり、それが生き物のように波打っている。

「返却の手続きに必要な『最終審査』の準備ができた。……師匠の心臓を返してほしければ、この図書館が定義する『試練』を受けてもらう。……司書なら、物語には必ず『葛藤』が必要なことくらい、知っているよね?」

「試練だと? くだらない。力ずくで奪い取らせてもらうよ」

 リュカが剣を抜こうとした瞬間、私たちの足元の石畳が、突如として「液体インク」に変化した。

 かつての戦いで見せた「物理」が通用しない、概念的なトラップ。

「――っ!? 底がない……! リュカさん、離して!」

「嫌だ! 絶対に離さない!」

「――くく、無駄だよ。この図書館は、言葉の海。……リュカ・アークライド、君はエルマの『本当の絶望』を、まだ一行も読んでいない。……そのまま、彼女の暗い、暗い過去の底へ沈んでいくといい」

 ズブズブと、体がインクの海へ沈んでいく。

 リュカが私の手を強く掴もうとしたが、シオンが放った「虚無の頁」が、私たちの繋いだ間を無残に切り裂いた。

「エルマッ!!」

「リュカさん!!」

 叫び声は、波打つ墨の音に飲み込まれた。

 意識が遠のく中、私の脳裏に直接、シオンの冷ややかな声が響く。

『――ねえ、師匠。あの王子様、君の「本当の姿」を見ても、まだ愛しているなんて言えるかな? ……君が五百年前に、あの国を、僕を、どうやって「破棄スクラップ」したのかを見せてもね。……これこそが、君への史上最悪の読書感想文だ』

 視界が真っ赤に染まり、次に目を開けた時。

 私は、燃え盛る「五百年前の王都」の真ん中に立っていた。

 そして私の隣には、絶望に顔を歪め、幼い姿をしたシオンが、血に濡れた私の手を握って泣いていた。

「……ああ。この頁(記憶)だけは、開きたくなかったのに」

 過去という名の監獄に閉じ込められたエルマと、彼女を救うために「彼女の最も醜い過去」を辿ることになったリュカ。

 二人の絆を試す、史上最大の「読解バトル」が幕を開ける。


(第10話完)


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