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第1話∶その指弾(デコピン)は、物理法則を「少しだけ」無視する

 私の夢は、ロッキングチェアの上で大往生することだ。

 日当たりの良い縁側で、膝に猫を乗せて、編みかけのマフラーを手に持ったまま、あたたかな微睡みの中で静かに息を引き取る。

 それこそが、至高のハッピーエンドだと信じている。

 なぜなら、私の前世はあまりにも騒々しく、そして痛かったから。

『災厄の魔女』『国崩しのエルマ』『歩く戦略兵器』――。

 そんな物騒な二つ名で呼ばれ、頼まれてもいないのに魔王を消し飛ばし、ドラゴンを拳で黙らせ、最後は「強すぎて怖い」という理由で人々に石を投げられながら、暗い塔の中で孤独に死んだ。

 だから、二度目の人生は固く決めている。

 私は、空気のように生きるのだ。誰の記憶にも残らず、ただ穏やかに。

 ――しかし、現実はいつだって、私のささやかな願いを裏切るようにできているらしい。

 王都の空は、今日もどんよりと曇っていた。

 ここ数年、アークライド王国では原因不明の「黒い霧」が観測されている。

 肌にまとわりつくような湿った空気。微かに鼻をつく錆びた鉄のような臭い。

 それは魔力のおりだ。かつての私なら一睨みで浄化できた程度の汚れだが、今の私は「ただの村娘」である。気づかないフリをして、分厚い丸眼鏡の位置を直した。

「……よし、誰も見てないわね」

 閉館時間を告げる鐘が鳴り響く、王立図書館の奥深く。

 私は周囲に人の気配がないことを確認し、右手をひらりと振った。

 床に積まれていた大量の返却本が、重力から解き放たれたようにふわりと浮き上がる。パタパタと鳥のように表紙を羽ばたかせ、高い天井近くにある本棚へと吸い込まれていく。

 所要時間、わずか三秒。

 魔力制御マナ・コントロールのランクS級相当の技術だが、今の私にとっては「残業回避のための時短テク」に過ぎない。

 私の名前はエルマ。今年で十八歳になる、しがない図書室の司書補佐。

 赤茶色の髪は地味な三つ編みにし、顔の半分を覆うようなダサい眼鏡をかけ、そばかすを描いて偽装している。

 

「お疲れ様でしたー。お先に失礼しまーす」

 誰もいない受付に向かって挨拶をし、私は裏口から外へ出た。

 夜風が冷たい。路地裏のガス灯が、ジジ、と音を立てて明滅している。

 早く帰って、安売りしていたパンをかじって寝よう。

 そう思って、近道の路地裏へ足を踏み入れた時だった。

「――ぐ、っ……はぁ、はぁ……」

 苦悶の吐息と、肉を打つ鈍い音が響いた。

 私は反射的に足を止めた。

 路地裏の突き当たり。ゴミ箱の影に、数人の男たちがたむろしている。

 彼らの足元には、一人の青年がうずくまっていた。

(……うわあ。一番関わっちゃいけないやつ)

 私は顔をしかめて、きびすを返そうとした。

 見て見ぬ振り。それが長生きの秘訣だ。

 だが、男たちの会話が耳に飛び込んできて、私の足は縫い止められたように動かなくなった。

「おいおい、兄ちゃん。その顔、随分と綺麗じゃねぇか。貴族のボンボンが、こんな場所で『調査』なんて真似事をするからこうなるんだ」

「……黙れ。貴様らが……魔剣の密売に関わっていることは……わかっている」

 青年が、血を吐きながらも睨み返した。

 月明かりに照らされたその横顔は、泥と血に塗れていても尚、神々しいほどに整っていた。

 濡れたような金色の髪に、宝石のような碧眼へきがん

 まるで物語の王子様が、間違ってドブ川に落ちてしまったような美しさだ。

 だが、私が息を飲んだのは、彼の美貌ではない。

 彼の体にまとわりつく、濃密な「黒い霧」の量だ。

 

(なに、あれ……。呪い? いえ、魔力汚染マナ・ポリューションだわ)

 この青年は、常人なら即死するレベルの瘴気を浴びている。それなのに、なぜ意識を保っていられるのか。

 男の一人が、青年の胸ぐらを掴み上げる。

 そして、青年の懐から一匹の小さな子猫を引きずり出した。

「みゃあ」

「こいつを庇って隙を見せるとはな。甘いんだよ、正義の味方ごっこは」

「やめろ……! その子に罪はない!」

 男がニヤリと笑い、子猫の首に手をかけた。

 男たちの目が、妖しく紫色に光っている。彼らもまた、魔剣の瘴気に精神を蝕まれているのだ。

(あー、もう!)

 私の脳内で、「平穏な老後」というスローガンと、「性根のお人好し」が激しく殴り合った。

 前世の記憶が蘇る。力を持て余し、誰にも理解されず、それでも誰かを守りたかった、あの孤独な日々。

 目の前で小さな命が消えるのを黙って見過ごせるほど、私はまだ枯れてはいなかった。

「――そこまでになさい!」

 私は三つ編みを揺らして飛び出していた。

 男たちがぎょっとして振り返る。

 

「あ? なんだお前。……ちっ、なんだこの地味な女」

「その猫を放しなさい。それから、その方を解放してあげて。今なら私の機嫌が良いので、説教だけで済ませてあげます」

「はっ、笑わせるな。怪我したくなかったら消えなブス!」

 男の一人が、腰の剣を抜いて向かってきた。

 その剣身には、禍々しい紫色の紋様が浮かんでいる。間違いなく「魔剣」の模造品だ。

 殺気。明確な害意。

 普通の町娘なら、ここで悲鳴を上げて腰を抜かすところだ。

 けれど残念ながら、私は前世でドラゴンのブレスをあくびしながら避けていた女である。

(魔法を使えば一瞬で消し炭だけど、それはダメ。派手すぎる)

(なら、圧縮した魔力を一点突破させる「物理」でいくしかないわね)

 私は体内の魔力を、右の中指の先端だけに集中させた。

 身体強化魔法フィジカル・ブーストを極限まで圧縮し、運動エネルギーへと変換する。

 スローモーションのように迫る男の剣を見ながら、私は小さく溜息をついた。

「うらぁッ!」

「……えい」

 突き出された剣を半歩ずれてかわし、私は男の眉間めがけて、中指を親指で弾いた。

 いわゆる、デコピンだ。

 ――ズドォォォォン!!

 乾いた音ではなく、攻城兵器が城門を破ったような重低音が路地裏に轟いた。

 デコピンを食らった男の身体が、物理法則を無視した速度で水平に吹き飛ぶ。

 そのまま背後の仲間二人をボウリングのピンのように巻き込み、ゴミ箱の山へと突っ込んで、盛大な音を立てて沈黙した。

「…………へ?」

 子猫を抱いたまま呆然とする青年。

 静寂が戻った路地裏で、私は慌てて自分の人差し指をふーふーと吹いた。

「あ、あら……私としたことが。日頃、重たい図鑑の整理をしているので、つい指の力が鍛えられてしまって……オホホ」

「……」

「さ、最近の司書は体力勝負ですからね! これくらい普通です! それでは!」

 苦しすぎる言い訳だ。

 青年は、目を丸くして私を見上げていた。

 まずい。彼の目が、私という「異常」を捉えている。

 

(早く逃げなきゃ)

 私は逃げるように背を向けた。

 しかし、その手首を、燃えるように熱い手がぐいと掴んだ。

「待っ……てくれ!」

「ひゃっ!?」

 驚いて振り返ると、青年がふらつく足で立ち上がり、私を壁際に追い詰めるように倒れ込んできた。

 近い。

 血と泥の匂いの中に、混じり合う甘い花の香り。

 彼は私の手首を、痛いほど強く握りしめていた。それは助けを求める手ではなく、獲物を逃がさない捕食者の手つきだった。

「探していた……ずっと、君のような人を」

「は、はい?」

「その圧倒的な魔力制御。一瞬で身体強化を指先に収束させ、相手を殺さず無力化する技術……。何より、君のその『匂い』だ」

(……バレてるーーーー!?)

 私は心の中で絶叫した。

 なぜバレた。私の擬態は完璧なはずだ。

 青年は私の抵抗も虚しく、私の首筋に顔を埋めるように近づいてきた。

 熱い吐息が肌にかかる。

「ああ……凄い。君のそばにいるだけで、体の中の熱が引いていく。頭痛が……消える」

「ちょ、あの、近いです!」

「嘘をつかなくていい。僕にはわかるんだ」

 彼は私の薄汚れた手を、自身の頬に擦り寄せた。

 碧眼が、熱に浮かされたように妖しく揺らめく。

 

「君の魂は、この国の誰よりも清らかで、美しい。……やっと見つけた。僕の特効薬クスリ。僕の、女神」

「め、女神……?」

 否定しようとする私の言葉など聞こえていないようだった。

 彼は恍惚とした表情で私の手を握りしめたまま、糸が切れたように崩れ落ちた。

 ドサリと重い音がして、彼が私の肩にもたれかかる。

 男性特有のしっかりした骨格と筋肉の重み。そして、異常なほどの高体温。

(この人、魔力過多症だわ。自分の魔力に溺れて死にかけてたんだ)

 私の「澱を吸い取る」特異体質が、無意識に彼の魔力を中和してしまったらしい。

 だから「特効薬」なんて言われたのか。

「……どうすんのよ、これ」

 夜の路地裏に、私の虚しい独り言が響いた。

 足元には気絶した三人の悪漢。腕の中には、超絶美形の気絶した青年。そして足元には、すり寄ってくる子猫。

 完璧な「トラブルの詰め合わせセット」である。

 この時の私はまだ知らなかったのだ。

 この、顔だけは無駄に良い行き倒れの青年が、この国の第二王子リュカ・アークライドであり――。

 私の「平穏な老後」を粉々に打ち砕く、とんでもない「独占欲の塊」だということを。

***

 翌日。

 私は目の下にクマを作って図書館に出勤した。

 昨夜は大変だった。結局、あの青年を放っておけず、近くの宿屋に放り込んで治療費を置いて逃げてきたのだ。

 もう二度と会うことはないだろう。

 そう自分に言い聞かせ、いつものように受付カウンターで貸出カードの整理を始めた時だった。

「見つけた」

 頭上から、甘く低い声が降ってきた。

 背筋がゾクリと震える。

 恐る恐る顔を上げると、そこには昨夜の青年が立っていた。

 ボロボロだった服は清潔な騎士服に変わり、泥だらけだった髪はサラサラの金髪になり、窓から差し込む陽光を反射して輝いている。

 図書館にいた女性客たちが、一斉に色めき立つのがわかった。

(な、なんでここに!? 昨日の今日で!?)

「よ、ようこそ王立図書館へ……? 何かお探しで……」

「ああ、探していた。僕の運命を」

 彼は迷いのない足取りでカウンターの中に入り込んでくると(職員以外立入禁止です!)、私を壁際に追い詰めた。

 ドン、と彼の長い腕が私の顔の横の壁をつく。

 至近距離にある美貌の破壊力。

 だが、その瞳は笑っていなかった。昨夜と同じ、飢えた獣のような光を宿して私を見下ろしている。

「昨夜は世話になったね。目が覚めたら君がいなくて、世界が終わったかと思ったよ」

「そ、それは大袈裟な……」

「大袈裟じゃない。君がいないと、またあの熱に殺されそうになる」

 彼は私の眼鏡に指をかけ、少しだけ持ち上げた。

 大きな手が、私の頬を包み込む。親指が、私の唇の端をなぞるように動いた。

 ビクリと体が反応してしまう。

「君の名前は? 僕はリュカ。……ただの、しがない剣士だ」

「……エルマ、です。しがない、司書補佐です」

「エルマ。美しい名前だ」

 リュカと名乗った彼は、蕩けるような甘い笑みを浮かべた。

 その笑顔の裏に、「絶対に逃がさない」という強烈な執着が見え隠れしている。

 彼は私の耳元に唇を寄せ、吐息混じりに囁いた。

「エルマ。君に頼みがあるんだ」

「た、頼み……?」

「僕と一緒に来てほしい。この腐った国を立て直すために、君のその『物理法則を無視する指』が必要なんだ」

「……は?」

「拒否権はないよ? だって君は、僕がようやく見つけた『運命のつがい』なんだから」

 彼は私の手を握りしめ、手の甲に――吸い付くような、長く熱い口づけを落とした。

 唇の感触が、指先から脳髄まで痺れさせる。

 ――前言撤回。

 ロッキングチェアでの大往生?

 どうやら私の二度目の人生は、前世以上に騒々しく、そして甘く危険なものになりそうだった。



(続く)


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