日脚伸ぶ言の葉
「人の想いは、物語として残る。」
雪がやんだ朝、
東京へ戻る新幹線の窓から見た河川敷は、
まるで白い記憶の底のようだった。
光がまだ弱く、
霧のような朝靄が川面を包んでいる。
昨日までそこにいた桜の木も、
今はただ、眠るように立っていた。
──春の残響──
そのタイトルを、私は何度も頭の中で反芻していた。
杉浦 誠一の家を訪ねたのは、ほんの数日前のことだった。
取材の予定時間を過ぎ、
玄関のチャイムを押す指が震えたのを覚えている。
──藤咲 彩乃。
彼女と私の出会いはなんのことはない、同じ会社の同僚だった。
要領のいい彼女と、悪い私。
入社式の時見かけた彼女の印象は、ガチガチに緊張したお上りさん。
その印象はたった数日で覆る事になる。
企画会議前の原稿チェック、締切前の追い込み、いつの間にか彩乃の企画はいつも通り、私は置いて行かれていた。
何が気に入ったのか、私はよく彼女の企画協力に呼ばれる事が多かった。
「莉子は私より読み込みが深いから。
私の『あともう少し』に本気で帰れと怒ってくれるの、莉子だけだよ。
莉子の案も、すごく良かったのに、いつも私の案ばかり、手伝ってくれていつもありがとう。」
──そして……あっという間に5年の月日が経ち、"その日"は急に訪れた。
編集部の灯りは半分だけが点いていた。
白い蛍光灯の光が机の上の原稿を浮かび上がらせ、周囲の闇をかえって濃くしている。
時計の秒針が、静かなオフィスにやけに大きく響いていた。
藤咲彩乃は、ゲラの束を前に鉛筆を走らせていた。
指先は震えている。けれど筆圧だけは、最後の意志のように強かった。
彼女の隣には、いつものノートが開かれている。
そこには仕事とは無関係の文字列、彼女だけの物語の断片が、いくつも書きつけられていた。
ドアをノックしても返事がない、返事も待たずにドアを開ける。
「……まだいたの?」
「うん。もう少しだけ」
「“もう少し”って、昨日も言ってた」
「そうだったかな」
彼女は笑った。その笑みは、体温のない光のように淡い。
莉子は一歩、足を踏み入れる。
夜の空気にインクの匂いと冷めたコーヒーの香りが混ざっていた。
「今日のゲラ、私が持って帰ってもいい?」
「大丈夫。これは私が出した企画だから、最後まで見届けたいの」
「責任感、強すぎるよ……」
「そうしないと、怖いの。ここにいる理由が、消えてしまいそうで」
莉子はその言葉に、ふと息を呑んだ。
机の上には、ひとつのノートが置かれていた。
薄い桜色の表紙に、細いペンで『春の残響』とだけ書かれている。
「ねえ莉子、これ……預かってもらえない?」
「え?」
「もし、私が途中で止まってしまったら、続きを見てほしいの」
「何それ、縁起でもない」
「そうかもしれない。でも、あなたなら、きっと分かってくれると思うの」
彩乃は笑いながらノートを差し出した。
その手は、驚くほど冷たかった。
莉子は何も言えず、それを受け取る。
ページの隙間から、鉛筆の粉が指先に落ちた。
「彩乃……寝た方がいいよ。本当に、もう休んで」
「うん。そうだね」
「約束して」
「……約束、ね。明日、少し休む」
彼女の声は、まるで遠くの音のように淡く消えていった。
その夜、雨が窓を叩いていた。
莉子はドアの外に立ち尽くしたまま、
ノートの温度を確かめるように抱きしめた。
その中に、彩乃が生きている気がした。
明日は必ず休ませよう……そう思案しながら、
傘を忘れた事に気づく。流石にバツが悪いが仕方ない。
足早にオフィスに戻る。
「ごめんごめん、傘忘れちゃって…………彩乃!?」
椅子から崩れ落ち胸を抑えて倒れている彩乃、
もう少し発見が遅ければ手遅れになっていたそうだ。
彼女は退院すること無くこの世を去った。
彼女の訃報の報せが来たのは、
桜が開花したとテレビのニュースが流れる朝の事だった。
──今、私は彼女の手記に書かれていた彼女のふるさと行きの新幹線に乗っている。
もう一人、彼女の手記の片割れを持っている人に会いに行くため……。
杉浦 誠一、何の因果か彼は三十年も前にうちの出版社にて勤務していた事があった。
彼自身も数作の小説を書き、二十年以上前に退職していた。
まさか彩乃のふるさとで国語教師をしていたなんて……。
──チャイムを鳴らし、扉を開け、出てきた彼の眼差しは穏やかで、
まるで“長い旅の終着点”にいたようだった。
机の上には古びたノート。
表紙の角がすり減り、何度も読み返された跡がある。
ページをめくると、
手書きの文字が、淡く滲んでいた。
筆圧の強い文字と、
震えるような弱い線が交互に並んでいる。
「この字……本当に懐かしい……藤咲 彩乃の字そのものだ」
誠一がそう言ったとき、
部屋の空気がわずかに温かくなった気がした。
原稿を受け取った帰り道、
莉子は手袋を外し、
ノートの表紙にそっと触れた。
冷たく、けれど柔らかかった。
──春の残響──
この言葉が、まるで雪の中で灯る明かりのように
心の奥で静かに光っていた。
出版社に戻ると、編集部は年末の空気で慌ただしかった。
企画会議で上司が眉をひそめる。
「未発表手記? しかもタイトルが“春の残響”?
今の時代に売れるのか?」
莉子は真っ直ぐ顔を上げた。
「売れるかどうかじゃなくて、
残すべき言葉だと思うんです。」
会議室の空気が一瞬、止まった。
誰かが書類をめくる音だけが響く。
「……やってみろ。責任は持てよ」
その言葉に、莉子は深く頭を下げた。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
編集作業は、冬の終わりまで続いた。
彩乃の手記には、たくさんの“春”が書かれていた。
風の匂い、桜の色、
教室の窓際で光るチョークの粉のこと。
そして、最後のページ。
「人の想いは、音のように残る。
誰かが聴いてくれる限り、
私はここにいる。」
莉子はその文を読み返すたび、
胸の奥がゆっくりと満たされていくのを感じた。
原稿をまとめて誠一に送ると、
すぐに返事が届いた。
封筒には手書きの文字。
“あなたが見つけてくれたことで、
彼女の春がもう一度やってきました。
ありがとう。
あの日、書き残せなかった続きを、
今はあなたに託します。”
手紙を読み終える頃には、
外の雪がまた降り始めていた。
数か月後の春。
書店の棚に、淡い桃色のカバーの本が並んだ。
タイトルは、
『春の残響』
帯には、小さく“監修:杉浦誠一”の文字。
莉子はその本を手に取る。
指先で紙の質感を確かめるように撫でた。
ページをめくるたび、
あの家の静けさと、
誠一の語る柔らかな声が蘇ってくる。
発売日から数日後、
編集部に一通のメールが届いた。
件名:「ありがとうございました」
本文:
“妻の枕元に本を置きました。
春が来たら、
また桜の木の下で読みます。”
差出人の名は──杉浦誠一。
莉子はモニターの前で、
しばらくの間、何も言えなかった。
そして、春が来た。
取材で再び訪れた河川敷。
雪はすっかり溶け、
桜の蕾がふくらみ始めていた。
風が吹く。
遠くで子どもの笑い声とギターの優しい旋律が聴こえる。
その音が、胸の奥にやわらかく響く。
莉子はノートを閉じ、空を見上げた。
「春の残響、また聞こえた気がする。」
風がその言葉を運び、
花の枝が小さく揺れた。
光の粒が頬に当たる。
それは、雪ではなく、
春の陽射しのかけらだった。
莉子は小さく微笑み、
ページの隅に指を置いた。
──記憶は、物語になる。
そして物語は、誰かの春を呼び戻す。




