冬の河川敷
「もう一度、あの春を書き残したかった。」
雪の降る夜は、静かすぎて、時々怖くなる。
時計の針が音を立てて進むたび、
誰かの気配が少しずつ遠のいていくように思えるからだ。
この冬で六十八になった。
妻を見送って、三年が過ぎた。
古い家には、もう自分の足音とストーブの唸り声しか残っていない。
それでも、毎朝欠かさず歩いて行く場所がある。
河川敷の桜の木。
春になると、一面に花を咲かせるあの木だ。
雪の日にもそこへ行き、
妻が好きだったカーネーションを一輪供える。
手がかじかんでも、指先で花の茎を整えるのが習慣になっていた。
その木の下には、かつての教え子の名を刻んだ小さな碑がある。
藤咲 彩乃。
あの日、まだ十八だった。
卒業式の度に桜の木を植え、その年の卒業生達の名を刻んだ碑とタイムカプセルを埋める。私が最後に勤めた学校の行事の一つだった。
十年後の春。そのタイムカプセルを開けるのが楽しみだった。彼女が何を想い、何を埋めたのか。
藤咲彩乃の訃報を聞いたのは、
カプセルを開けるほんの少し前の出来事だった。
カプセルの中身は、ご両親へと預ける事にした。
だが、
すぐに私の手元へと来る事になる。
生前の妻と藤咲は、手紙でやり取りしていたそうだ。だから……この、カプセルの中身……ノートは私に……と、私の妻が藤咲 彩乃へ宛てた手紙も添えられていた。
受け取ったノートと手紙は、机の引き出しに封がされたままの状態で開けることができなかった。
──封が開けられないままいつしか夏になり、秋が過ぎ、冬が来た。
年の瀬に差し掛かり、大掃除をしていた最中……古い手紙が出てきた。妻が遺した藤咲 彩乃の手紙だった。
マメだった妻の性格が表れたようだった。年代別日付別に綺麗にまとめられている。
白い手紙の中に一つ……淡い桃色の手紙が目に留まり、手に取る。
桜の装いの便箋には細い行書体でこう書かれていた。
──春の残響──
「人の想いは、音のように残る。
だから、私は書きます。
この気持ちを、誰かに届くまで。」
その一文を読んだとき、胸の奥で何かが割れるような音がした。
彼女の文字がそこにあった。
優しい字だった。
一文字ずつ、何かを大切に撫でるように書いていた。
彼女は、音楽が好きだった。
詩を書くのも得意で、よく放課後にノートを見せてくれた。
けれどあの春、
彼女は帰らぬ人となった。
──その時、風が吹き、はらりと一枚の栞が落ちた。
妻の作ったカーネーションの押し花でしつらえた栞……。
二人に急かされているような気分になった。
「まぁまぁ、そう急かなくても」
誰に話すでもなく、そう語りかける。
一枚、また一枚と手紙に目を通していく。
ほとんどが取り留めのない話だ。
うちに遊びに来た時のお礼の手紙から始まり、高校卒業、慣れない街、知らない人たち、息の詰まるような孤独。社会人になってすぐ、希望していた編集者になれた事。その後すぐに私の妻が病気になり……藤咲からの手紙で終わっている。
ノートを手に取る、
そこには確かに彼女がいた。息遣いが、あの笑顔が。
玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、若い女性が立っていた。
首にマフラーを巻き、息を白くしている。
「はじめまして。岩崎 莉子と申します。出版社の者です」
差し出された名刺には、
小さく“編集部”と書かれていた。
「彩乃さんのご遺稿について、少しお話を伺いたくて」
最初は驚いた。
藤咲 彩乃を知る人が、今になって訪ねてくるなど思いもしなかった。
しかし、莉子さんは真剣な表情で言った。
「このノート、『春の残響』というタイトルがとても印象的で……、先生が監修してくだされば、一冊の物語として残せると思うんです」
私が持っているノートよりは真新しいが、
角は擦り切れ丸みを帯びた一冊のノートを渡される。
表紙には『春の残響』そう書かれていた。
「監修、ですか」
「はい。彩乃さんの言葉を、そのまま“生かす”形で、
驚きました。彼女の恩師があの杉浦 誠一先生だったとは」
「もう昔の事ですよ」
「いえ、あなたにしか出来ない事です。お願いします」
彼女の瞳には迷いがなかった。
まるで、若い頃の彩乃を見ているようだった。
その夜、私は机の上に二冊の藤咲のノートを置いた。
万年筆を手に取り、白紙のノートを開く。
手が震えた。
文字を綴るということが、
これほどまでに重い行為だったとは思わなかった。
“春の残響”──
あの言葉を見つめているうちに、
記憶の底から、彼女の声がふいに浮かび上がってきた。
「先生、春って、音がしますよね。
雪が溶ける音、風の音、誰かが笑う音……
その全部が、残響なんです。」
そのとき、ペン先が自然に動き出した。
言葉が、音のように零れていった。
書くうちに、不思議なことが起きた。
静まり返った部屋の中で、
まるで誰かがそっと見守っているような気配がした。
ペンを走らせるたび、
雪の降る音が耳の奥に染み込む。
それは無音に近いのに、確かに“聴こえた”。
ああ、こういうことだったのか。
音も、言葉も、
誰かの心に届けば“消えない”のだ。
書き終えたとき、
窓の外は真っ白だった。
街灯の光が雪に反射して、
空がうっすらと明るい。
机の上に並ぶ原稿用紙の上には、
あの日の教え子の笑顔が重なって見えた。
「彩乃……これでいいか」
声に出すと、部屋の空気がわずかに震えた気がした。
私はペンを置き、
灯りを落とした。
薄明かりの中、雪の白さだけが残る。
その静けさの向こうから、
誰かが微笑えんでいるような気がした。
──翌朝、莉子さんに原稿を手渡した。
「タイトルはそのままでいいですか?」
彼女が尋ねる。
私はうなずいた。
「ええ、“春の残響”、これは、あの子の最後の言葉なんです。」
莉子さんは静かに目を伏せ、
「きっと、喜びますね」と言った。
帰り道、
雪の積もった河川敷を歩いた。
桜の木の根元に、また一輪のカーネーションを置く。
風が吹き、雪が舞い上がる。
その音の中に、
私は確かに“あの春”を聴いた。
かすかに、花が揺れた。
まるで笑っているように見えた。
──記憶は、物語になる。
そして物語は、いつかまた誰かの春を呼び覚ます。
私はもう一度、
雪の空を見上げた。
光が滲み、
世界が音もなく輝いていた。
それが、
私にとっての“冬の残影”だった。




