河粧う響き
彼は、最初から少し遠い人だった。
音に触れているときの彼は、
まるで別の世界にいるようで、
声をかけるのをためらうほど静かだった。
秋が深まりはじめた頃、
風の音が少し冷たくなった。
その風の中に、微かにギターの音が混じっていた。
最初は、それがどこから聞こえるのか分からなかった。
ただ、夕焼けに染まった河川敷の方から、
誰かの“指の音”が流れていた。
私は立ち止まり、その音を探した。
草の匂いと、遠くを走る車のタイヤの音。
そのあいだをすり抜けて、
一本の音が、まっすぐにこちらへ伸びてきた。
階段を降りた先に、ひとりの男の子がいた。
制服の上にカーディガンを羽織り、
ケースからギターを取り出して弾いている。
それが風間 蓮との出会いだった。
「それ、オリジナルですか?」と聞くと、
「いや、まだ曲になってない」と彼は笑った。
その笑い方が、不器用で、少し痛々しかった。
「でも、今の……きれいでした。何処かで見たような……」
思わずそう言うと、彼は嬉しそうにこちらを見つめていた。
──それから私は、放課後になると河川敷へ通うようになった。
彼が来る時間を知っていたわけではない。
けれど、彼はいつも同じ時間に、同じ場所にいた。
彼がギターを弾く横で、私は風の音を見ていた。
時折、彼は弾くのを止め、ボーッとどこかを見つめる時があった。その沈黙が……怖かった。
彼はギターを弾きながら、
風の音を聴いているようだった。
ある日、私は彼に聞いた。
「どうして、いつもひとりで?」
彼は答えず、少し考えてから言った。
「音は、ひとりでいるときの方がよく聴こえるんだ」
その言葉の意味は、その時の私には分からなかった。
けれど、秋の風の中でその声が妙に印象的で、
その日から、彼の“沈黙”が少し怖くなくなった。
十月の半ば。
彼の表情が、少しずつ変わっていった。
笑うことは増えたけれど、
どこかで何かを決めた人のような目をしていた。
「文化祭、出るんですか?」と聞くと、
彼はうなずいた。
「たぶん最後の演奏になる」
“最後”という言葉に胸がざわついた。
「……やめるんですか?」
「いや、そうじゃなくて」
彼は少し笑って、耳を押さえた。
「もう、あんまり聴こえないんだ」
風が一瞬止まった。
空気が薄くなった気がした。
私は何か言わなきゃと思ったけれど、
出てきたのは、妙に子どもっぽい言葉だった。
「……でも、音って、消えないですよ」
蓮が私を見た。
驚いたように。
「誰かの心に届けば、それが残響になる。
そう……えっと、そう思うんです」
その時、蓮は小さく笑って言った。
「それ、いい言葉だな」
私は顔が熱くなるのを感じた。
「じゃあ、それ、あなたにあげます」
私はその言葉を小さな紙に書いて、彼に渡した。
──音は消えない。誰かの心に届けば、それが残響になる。
「ありがとう。聞こえなくなっても、音は出せるから」
決意の込もった言葉……安心する。
「ずるいですね」
「え?」
「そんな風に言われたら、泣けなくなるじゃないですか」
夕陽の中で、彼は儚げで……その揺れと共に消えてしまうんじゃないかという不安でいっぱいになった。
──文化祭の前日の放課後。
いつもの河川敷、ギターの音が聞こえた。
秋風に乗って、ゆっくりと流れてくる。
音の粒が、風に舞っていた。
私は夕日を見つめながら、その音を聴いた。
「ありがとう」
短くそう言うと、彼は名残りを惜しむかのようにギターをケースに入れようとする。
ふと、ギターに刻まれた文字が気になった。
「ねえ」
蓮がこちらを向く。
「あなたのギター、裏に何か書いてありますよ」
蓮は少し照れくさそうに笑った。
「“春の残響”って彫ってある。半年前、この河川敷で確かに聞こえた……あの音。
言葉に出来なくて、無理やりに言葉にしたらこうなった」
残響……春の……。何度もその言葉を繰り返す。
「春の残響……。あ……!そう!私の見た音……夏の写真展……!春の残響展!!」
この街に来た日。
夕立後のアスファルトから昇る湿り気を帯びた風が吹く。風の音に混じって誰かの音が流れている。
アスファルトの匂いと川のせせらぎ、
その中によく見ても気づかないほど、か細い音。
河川敷を少し歩いた先にある小さな寂れた写真館の前、
これから通う高校の制服を着た男女の写真が目に留まった。
桜並木に映える二人の笑顔、
春風の優しい音の見える不思議な写真。桜並木から零れる美しい木漏れ日の光。
──あれがきっと、彼の聞いた音だ。不思議とそう感じた。
春に響いた音が光になって夏に届き、そしてまた……秋まで響く残響になるんだ。
──翌日、体育館は満員だった。
照明が落ち、音楽部の演奏が始まる。
蓮はステージの中央に立っていた。
ギターを構え、目を閉じ、指を置く。
最初の一音が鳴った瞬間、
空気が変わった。
私は息を止めた。
音はたしかに聴こえた。
でも、耳ではなく心の奥で鳴っていた。
彼の弾くギターは、
まるで風のようだった。
誰にも掴めないけれど、
誰の中にも通り抜けていく。
曲の終盤、彼はほんの一瞬、こちらを見た。
その視線が交わった瞬間、
私は泣いていた。
拍手が鳴り止まない。
私は両手を叩きながら、
胸の奥が痛くて仕方なかった。
──あの人の世界は、もうすぐ静かになる。
でも、今日の音は永遠に消えない。
文化祭が終わったあと、
河川敷に行くと、彼がいた。
夕暮れの光の中で、
ギターケースを膝に置いて空を見ていた。
「お疲れさま」
「ありがとう」
もう彼の耳は……でもきっと……心に響いて、届いている。
彼は少し笑って、指先を見つめた。
風が吹いた。
その風の中に、微かに音が混じっていた。
──たぶん、それが残響だった。
それから数日後。
蓮は病院での検査を終えたあと、
少しの間だけ学校を休むことになったと聞いた。
私は河川敷に行き、あの場所に座った。
風が吹いて、木々が鳴る。
その音が、彼のギターの音に似ていた。
空は高く澄んでいた。
雲が流れ、夕陽が地平を染めていく。
私は目を閉じ、
風の音を聴いた。
──聴こえる。
まだ、ちゃんと。
耳ではなく、心で。
そのとき、確かに感じた。
彼の音は、ここにある。
冬が来る頃、
彼がまたステージに立てるようになるかは分からない。
けれど私はもう知っている。
──音は消えない。誰かの心に届けば、それが残響になる。
そして、
あの秋の日に風が連れてきた音は、
いまも私の胸の奥で、静かに鳴り続けている。




