秋の河川敷
風が冷たくなった。
夏の残り香をかすかに含んだ風が、校舎の壁を撫でて通り過ぎていく。
その度に、ギターケースの中で弦が微かに鳴る。
まるで自分の代わりに呼吸しているようだった。
耳の奥がじんわりと熱を帯びる。
……また、聞こえづらくなった。
そんな気配が、最近はほとんど日常のようになっている。
廊下の向こうで、文化祭の準備に追われる生徒たちの声がする。
誰かが笑い、誰かが叫び、誰かが弾く下手なピアノの音。
すべてが、少しずつ遠ざかっていく。
風間 蓮は立ち止まり、深く息を吸った。
音があるうちに、できることをやりたい。
その願いだけを胸に、もう半年を過ごしてきた。
河川敷のベンチに腰を下ろすと、
草の間を抜ける風がざわざわと鳴った。
その音が、音楽のように聞こえた。
いや、音楽というより、記憶の残響だった。
もうすぐ聞こえなくなるものたちが、
最後の力で世界を震わせているような。
ギターを取り出し、指を弦に触れる。
爪が弦を弾く感触だけが確かで、
音が出たかどうかは曖昧だった。
……それでもいい、指が覚えている。
音が届かなくても、弾くことはできる。
そう思った瞬間、
遠くから声がした。
「それ、オリジナルですか?」
顔を上げると、
河川敷の階段に一人の少女が立っていた。
制服の上に薄いカーディガンを羽織り、
髪をまとめずに風に揺らしている。
夕陽に照らされて、髪の先が琥珀色に光っていた。
「……いや、まだ曲になってない。形にならなくて」
「でも、今の……きれいでした。何処かで見たような……」
少女はそう言って微笑んだ。
その笑顔の奥に、どこか痛みのようなものがあった。
「きみも、音楽を?」
「ううん。聴くのが好き。
でもね、音って、気づくともう消えてるんですよね」
彼女の声は静かで、どこか遠くのものに語りかけるようだった。
名前を聞くと、彼女は小さく答えた。
「沢村 詩音」
その名を、蓮は一度心の中で繰り返した。
響きが柔らかくて、少し悲しい音をしていた。
その日から、彼女はときどき河川敷に現れるようになった。
放課後のわずかな時間、二人はほとんど言葉を交わさずに過ごした。
彼がギターを弾き、彼女がその横で風を聴いていた。
詩音はよく空を見ていた。
何を見ているのか尋ねたら「音の形」と言った。俺の言った"形"とは違う。詩音はきっと、音の形が見えている
「見えないものが、見える気がするんです。
風の中に残ってる音とか、誰かの声とか」
蓮は笑って、「それ、詩人みたいだな」と言った。
詩音は少し照れたように肩をすくめた。
「でも、見えたら少し怖いですよね」と冗談めかして呟いた声は、風に紛れてすぐに消えた。
──文化祭の準備が進むにつれ、
音楽部の部室も慌ただしくなっていった。
「風間、次の練習でソロ部分頼むな!」
「……ああ」
笑って答えながらも、
耳の奥で音が詰まっていくのを感じていた。
ギターの音が、
どこかに吸い込まれていく。
もしかしたら、
この文化祭が最後になるかもしれない。
そう思うたびに、
体の奥が静かに冷たくなった。
──放課後の河川敷
「文化祭、出るんですか」
詩音からの質問だった。
静かにうなずき……話すことにした。
「多分、最後の演奏になる」
詩音は酷く驚いているようだった。
「……やめるんですか?」
「いや、そうじゃなくて」
耳を押さえて答える。
「もう、あんまり聞こえないんだ」
詩音はしばらく黙っていた。
やがて、意を決したように、「……でも、音って、消えないですよ」と、真っ直ぐに蓮を見つめ話す。
ハッとした。そんな事があるだろうか?
「誰かの心に届けば、それが残響になる。
そう……えっと、そう思うんです」
彼女の言葉を何度も心の中で繰り返した。
「それ、いい言葉だな」
「じゃあ、それ、あなたにあげます」
彼女は照れたように紙で先程の言葉を書き渡してきた。
「ありがとう。聞こえなくなっても、音は出せるから」
その答えに、詩音は微かに笑った。
「ずるいですね」
「え?」
「そんな風に言われたら、泣けなくなるじゃないですか」
夕陽の中で、彼女の瞳が少し揺れた。
その揺れは、沈みゆく光の粒とよく似ていた。
──文化祭の前日の放課後。
校舎の灯りがまばらに点り、
夜風が校庭の砂をさらっていく。
二人はいつもの河川敷にいた。
「最後に、聴いてほしい」
蓮がそう言うと、詩音は黙ってうなずいた。
指が弦を弾いた。
音が、風に乗って広がっていく。
それはもはや、旋律というより祈りだった。
世界がゆっくりと静まり、
耳の奥のざわめきさえ消えていく。
ただ、目の前の少女が笑っていた。
その笑顔が音になって、鳥になって、
蓮の胸の中でずっと響いていた。
半年前のあの日、確かに聞いたあの──
演奏が終わると、彼は軽く息をついた。
「ありがとう」
それだけ言って、ギターをケースにしまった。
「ねえ」
詩音が呼び止めた。
「あなたのギター、裏に何か書いてありますよ」
蓮は少し照れくさそうに笑った。
「“春の残響”って彫ってある。半年前、この河川敷で確かに聞こえた……あの音。
言葉に出来なくて、無理やりに言葉にしたらこうなった」
詩音はその言葉を繰り返した。
「春の残響……。あ……!そう!私の見た音……夏の写真展……!春の残響展!!」
風が吹いた。
枯れ葉が一枚、ギターケースの上に落ちた。
その音は、
まるで誰かの記憶がそっと息をしたように、静かだった。
──翌日。
文化祭の体育館は人で埋め尽くされていた。
観客のざわめきも、マイクテストの音も、蓮にはほとんど届かない。
けれど、ギターを持った瞬間、
体の奥からすべてが繋がった気がした。
ドラムの振動。
ベースのリズム。
仲間の息づかい。
ステージの床が、世界全体が、ひとつの楽器のように震えていた。
彼は目を閉じ、指を弦に置いた。
最初の一音が響いた瞬間、
体育館の空気が変わった。
観客の歓声が遠くで弾ける。
それが聞こえた気がした。
「最後のソロ、任せたぞ!」
仲間の声が届く。
蓮は笑って頷き、弦を弾いた。
音が走る。
風が吹く。
すべてが光になって、自分の中を通り抜けていく。
それは、もう“音”ではなく、“生きている証”のようだった。
演奏が終わると、
詩音が客席の一番後ろから拍手をしていた。
誰よりも大きく、まっすぐに。
その姿を見た瞬間、蓮は涙をこらえた。
音が届かなくても、
心は響くことができる。
それで十分だと思った。
ステージを降りたあと、蓮はギターケースを抱えて外に出た。
風が吹いていた。
秋の風。
その音は、どこか“春の残響”に似ていた。
空を見上げると、詩音が立っていた。
「お疲れさま」
「ありがとう」
二人の間に、風が流れた。
もう言葉は要らなかった。
蓮はギターの裏を指でなぞった。
そこには小さく刻まれた文字がある。
──春の残響
音は続いていく。
たとえ世界が静寂に包まれても。
秋の空は高く、透き通るように青かった。




