篠突く雨
カメラのシャッター音がこんなにも優しいものだと思い出したのは、あの青年に出会ってからだ。
──白石 海斗。
少し無愛想で、でもどこか不器用で真っ直ぐな人。
彼が古い機材をいじっているときの横顔は、まるで夏の光そのものだった。
あの眩しさを、私はずっと忘れていた。
父が亡くなってから、私は"現像室の灯り"をつけるのが怖くなった。
赤い光の下に立つと、どうしても思い出してしまう。
父が、最後に残した一枚のフィルムを現像できずにいたこと。
『いつか、春を写した写真展をやろう。そうだなぁ……"春の残響展"音と光の写真展だ!……意味?人の想いが季節を渡る音。そんな意味だ』
病室で笑って言ったあの約束。
その“いつか”は、とうとう来なかった。
海斗くんが来てから、少しずつ店の空気が変わっていった。
カメラの音。現像液の匂い。
どれも、ずっと遠くにあったはずなのに。
彼が触れると、それが今の時間の中に戻ってくる。
先程会ったばかりの彼に父の最後のフィルムを現像出来ない話をした。
どうして彼に話したのだろう……。彼の無愛想な、真っ直ぐな横顔に父が重なったから……?
日が傾き始めた頃、古いカメラの修理が終わった。
試し撮りをしてみようと、彼の言葉で外に出る。
私をモデルに彼がシャッターを切った瞬間、夕立の匂いが風に混じった。
──海斗くんと共に現像室の前に立つ。
彼の顔を見ると、優しく微笑んでくれた。私は意を決して扉を開ける。
ほこりをかぶった現像槽。
乾ききった薬瓶。
まるで時間がここだけ止まっていたようだった。
棚の奥から、父のフィルムを取り出す。
手が震えていた。
怖かった。
現像した瞬間に、父との時間が本当に終わってしまう気がして。
でも、思い出した。
海斗くんが言っていた言葉。
「光を受け継ぐって、あなたがここにいることだと思います」
胸の奥が静かに熱くなった。
液にフィルムを浸すと、
じわりと像が浮かび上がってくる。
赤い光の中に、春の桜並木と、笑う男女の姿。
「これ……もしかして、お父さんが?」
「ええ。でも、この二人……誰なんでしょう」
知らない二人だった。
でも、不思議と懐かしかった。
女性の方は、柔らかい笑顔で風を見上げていた。
その姿に、どこか見覚えがあった。
記憶の底を探るように、ぼんやりと浮かんだのは──父と同じ病室で見送った、あの子の顔。
──藤咲 彩乃。
春の日に旅立っていった、印象的なあの子……。
彼女が最期に見たのは、窓の外の桜だった。
『美空さん、春の風って、音がするんですよ』
あの言葉。
あの声。
目の前の写真の笑顔と重なった。
涙が一粒、フィルムに落ちた。
それでも現像は止めなかった。
光は、
確かに残っていた。
父の想いも、あの子の笑顔も、
季節を超えてこの中に息づいている。
私はそっとフィルムを掲げ、
赤い光に透かした。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉なのか、
自分でもわからなかった。
でも、その瞬間、
暗室の中で何かがふっと軽くなった気がした。
夕立のあと、外の光がとても柔らかかった。
彼に……会ったばかりの彼に父の話をした。写真なのに、春の音をテーマにした写真展を開きたいなんて……。
首を振り答えた彼に私は──。
「これ、全部春の写真なんですね」
「ええ。たぶん、父が見せたかった光です」
海斗くんはしばらく黙って写真を見つめ、
静かに言った。
「“春の残響展”、やりましょう。俺も、手伝います」
私は驚いて顔を上げた。
でも、彼の目は真剣だった。
「美空さんのお父さんの代わりに、俺たちで“音と光を受け継ぐ”展示を」
胸の奥で何かが鳴った。
それは風鈴のような、遠い夏の音。
夜。
写真館のシャッターを閉める前、
私はスマホを開き、メールをひとつ打った。
宛先は、もう届かない父のアドレス。
「音も……光も、受け取りました。
あなたの“春”は、ちゃんと“夏”に届きました。」
送信ボタンを押す。
窓の外、街灯がひとつ灯る。
その光は、まるで現像液の中で
新しい写真が浮かび上がる瞬間のように優しかった。
──数日後、写真館の壁には新しいポスターが貼られていた。様々な春めく写真の中に一際目立つ、桜並木と笑顔の男女。
『春の残響展 ──音と光は季節を越えて──』
通りすがりの人々が立ち止まり、
店内をのぞき込む。
その奥で、赤い光に照らされた二人の影が、
静かに現像を続けていた。




