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四季残響  作者: 匿名記号
春の残響

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1/8

春の河川敷

春という季節は、どうしてこんなにも過去を連れてくるのだろう。


通勤途中の車窓から見える桜並木が、ふと、あの頃の風景を思い出させる。


十年前、僕はあの河川敷で、藤咲(ふじさき) 彩乃(あやの)と並んでいた。まだ制服の袖に春の冷たさが残っていた頃だ。

 放課後の空気は、少しだけ甘い匂いがした。教室の窓を開け放つと、遠くから野球部の掛け声が聞こえてくる。


「ねえ、帰ろうよ」


 いつものように彼女が言った。明るく、けれどどこか急かすような声だった。

 僕は文庫本を閉じて、鞄を肩にかける。隣で笑う彩乃は、光を弾くように髪を揺らした。


 河川敷へ向かう坂道を下る途中、彼女は今日の昼休みの話を延々と続けた。

 クラスの噂話や、担任の癖のある口調。僕がほとんど相づちしかしないのを知っていて、彩乃は楽しそうにしゃべり続けた。


「悠ってさ、ほんとに聞き役だよね」

「そうかな」

「うん。でもね、それがいいの。話してると落ち着くんだ」


 そう言って彼女は笑った。僕はその笑顔の意味を考えたくなくて、空を見上げた。

 河川敷は、まだ冬の名残を引きずっていた。草は色を取り戻しきれず、川面を渡る風は少し冷たかった。

 それでも彼女はベンチに腰を下ろし、「春だね」と言った。


「まだ寒いよ」

「でも、ほら。見て。桜のつぼみ、膨らんでる」


 彼女が指さした枝先に、小さな芽が光っていた。


「すいませーん、そこのカメラ屋なんですけど、一枚撮ってもいいですか?」

「あ、はーいいいですよー。ね、私たちのスマホにも撮ってもらおっか」


カシャ


 その瞬間、何かが胸の奥で鳴った気がした。

 きっと、あれが最初の音だった。僕が彼女を好きになったことを、まだ誰も知らない音。




──放課後の時間は、あっという間に過ぎていった。

 陽が傾くころ、彩乃は制服のポケットから折り畳んだ進路希望票を取り出して、僕に見せた。


「東京の大学、受けようと思う」

 僕は「そうなんだ」と答えることしかできなかった。

「悠は?」

「地元かな。実家から通えるし」

「そっか」


 彼女の笑顔はいつも通りだった。けれどその笑顔の端に、ほんの少しだけ影があった気がする。



 帰り道、彼女はふいに言った。


「ねぇ悠、私たちってさ、ずっとこうしてられるのかな」


 僕は答えに詰まった。


「……春が終わるまでは、たぶん」


 その答えが正しかったのか、今でも分からない。

 けれど、彩乃はなぜか嬉しそうに笑って、「じゃあ、春が終わる前に、いっぱい話そうね」と言った。



──それからの日々は、穏やかでやさしかった。

 卒業式の日、桜が咲きかけた河川敷で、彼女と最後の会話をした。


「東京行っても、連絡していい?」

「もちろん」

「じゃあ、また春に会おうね」


 彩乃はそう言って手を振った。僕は、何も言えなかった。

 その背中が、春風に揺れて消えていく。

 あのとき、伝えられなかった言葉が、ずっと胸のどこかでくすぶり続けている。






──そして今、また春が来た。


 会社の帰り、ふと思い立って、僕はあの河川敷に足を向けた。

 十年の時間が過ぎていても、風の匂いは変わっていなかった。

 ベンチは少し古びて、川の音が前よりも静かに聞こえる。

 ヴーヴーと何度も震えるスマホ……僕はスーツのポケットからスマホを取り出し、SNSを開いた。懐かしい高校時代の友人や悪友、ほとんど連絡した事のないやつまで……。

 皆、同じような内容だった。


『仲の良かった彩乃、藤咲 彩乃。今さっき病気で亡くなったって。何か知らないのか?』


 息が止まった。

 画面がにじむ。風が吹く。春の匂いが一気に胸に刺さる。


 その夜、彼女とやり取りをしていたSNSを開く。


『元気?』


 日付は五年前……彼女の言葉で終わっている。彼女のアイコンに触れると日記が書かれている事に気づく。最終更新日は昨日……。

 他愛のない事しか書かれていない日記。新しく見つけた店のアフタヌーンティー。上司のセクハラの愚痴。彼女は確かにここに居る。

 そして昨日、河川敷の桜のつぼみの写真と共に……本文には、たった一行だけ書かれていた。


> 「あの河川敷、まだあるかな。春になったら、また──」


 日記を見つめながら、僕はしばらく動けなかった。

 何度読み返しても、文章は変わらない。

 それなのに、その一行が胸の奥で何度も何度も反響する。


「春になったら、また──」


 あのとき彼女が言った「また春に会おうね」という言葉が蘇る。

 まるで時間が、最後のいたずらを仕掛けてきたようだった。


 夜が更けていく。

 僕は寝つけずに、古い写真フォルダを開いた。

 河川敷で撮ったツーショット。高校の文化祭での集合写真。

 どれも、画面の中の彼女は明るく笑っている。

 あの笑顔がもう二度とこの世界にないという事実が、静かにのしかかってくる。



──翌日の午後、僕は仕事を早退した。

 理由は「体調不良」と伝えたけれど、嘘ではなかった。胸の奥が、妙に痛んでいた。


 電車を降りて、あの河川敷へ向かう。十年ぶりの道は、どこか狭く感じた。

 桜並木の下を歩く。花は満開を過ぎ、風が吹くたびに花びらが舞い落ちる。

 ベンチの位置も、景色も、ほとんど変わっていなかった。


 僕はゆっくり腰を下ろす。

 川の音が、遠くで途切れ途切れに聞こえる。

 時折聴こえるギターの旋律、もうここは僕の生きた時間とは違う、そう感じさせてくれた。


 スマホを取り出し、例の日記を開く。画面の光が春の陽射しに溶けるように滲んだ。


> 「あの河川敷、まだあるかな。春になったら、また──」


 文末の「──」のあとの空白が、何よりも雄弁だった。

 言葉の続きは、もう永遠に聞けない。

 けれど、不思議なことに、僕はその未完の一文に救われている自分に気づいた。


 風が吹いた。

 花びらが一枚、ベンチに落ちてくる。ふと顔を上げると、向かいのベンチに誰かが座っている気がした。

 白いブラウスに、長い髪。春の光の粒がその輪郭を形づくっている。瞬きをした瞬間、それはもういなかった。

 でも、風だけが残っていた。懐かしい声を運ぶように。


「……彩乃」


 名前を呼ぶと、どこかで小さく鳥が鳴いた。涙が出るほどの懐かしさが、胸の奥から込み上げてくる。

 そして初めて、十年越しの想いを言葉にした。


「好きだったよ」


 風が一層強く吹き抜け、花びらが川面に散った。

 その瞬間、どこからか春の匂いが立ちのぼった。

 まるで「届いたよ」と誰かが囁いたような気がした。


 僕はしばらくその場に座り続けた。

 夕陽が沈み、空が茜に染まっていく。

 風の中で、過去と現在が一瞬だけ重なったような感覚があった。

 あの日の放課後の音が、微かに耳の奥で響いていた。



──春の残響。

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