春の河川敷
春という季節は、どうしてこんなにも過去を連れてくるのだろう。
通勤途中の車窓から見える桜並木が、ふと、あの頃の風景を思い出させる。
十年前、僕はあの河川敷で、藤咲 彩乃と並んでいた。まだ制服の袖に春の冷たさが残っていた頃だ。
放課後の空気は、少しだけ甘い匂いがした。教室の窓を開け放つと、遠くから野球部の掛け声が聞こえてくる。
「ねえ、帰ろうよ」
いつものように彼女が言った。明るく、けれどどこか急かすような声だった。
僕は文庫本を閉じて、鞄を肩にかける。隣で笑う彩乃は、光を弾くように髪を揺らした。
河川敷へ向かう坂道を下る途中、彼女は今日の昼休みの話を延々と続けた。
クラスの噂話や、担任の癖のある口調。僕がほとんど相づちしかしないのを知っていて、彩乃は楽しそうにしゃべり続けた。
「悠ってさ、ほんとに聞き役だよね」
「そうかな」
「うん。でもね、それがいいの。話してると落ち着くんだ」
そう言って彼女は笑った。僕はその笑顔の意味を考えたくなくて、空を見上げた。
河川敷は、まだ冬の名残を引きずっていた。草は色を取り戻しきれず、川面を渡る風は少し冷たかった。
それでも彼女はベンチに腰を下ろし、「春だね」と言った。
「まだ寒いよ」
「でも、ほら。見て。桜のつぼみ、膨らんでる」
彼女が指さした枝先に、小さな芽が光っていた。
「すいませーん、そこのカメラ屋なんですけど、一枚撮ってもいいですか?」
「あ、はーいいいですよー。ね、私たちのスマホにも撮ってもらおっか」
カシャ
その瞬間、何かが胸の奥で鳴った気がした。
きっと、あれが最初の音だった。僕が彼女を好きになったことを、まだ誰も知らない音。
──放課後の時間は、あっという間に過ぎていった。
陽が傾くころ、彩乃は制服のポケットから折り畳んだ進路希望票を取り出して、僕に見せた。
「東京の大学、受けようと思う」
僕は「そうなんだ」と答えることしかできなかった。
「悠は?」
「地元かな。実家から通えるし」
「そっか」
彼女の笑顔はいつも通りだった。けれどその笑顔の端に、ほんの少しだけ影があった気がする。
帰り道、彼女はふいに言った。
「ねぇ悠、私たちってさ、ずっとこうしてられるのかな」
僕は答えに詰まった。
「……春が終わるまでは、たぶん」
その答えが正しかったのか、今でも分からない。
けれど、彩乃はなぜか嬉しそうに笑って、「じゃあ、春が終わる前に、いっぱい話そうね」と言った。
──それからの日々は、穏やかでやさしかった。
卒業式の日、桜が咲きかけた河川敷で、彼女と最後の会話をした。
「東京行っても、連絡していい?」
「もちろん」
「じゃあ、また春に会おうね」
彩乃はそう言って手を振った。僕は、何も言えなかった。
その背中が、春風に揺れて消えていく。
あのとき、伝えられなかった言葉が、ずっと胸のどこかでくすぶり続けている。
──そして今、また春が来た。
会社の帰り、ふと思い立って、僕はあの河川敷に足を向けた。
十年の時間が過ぎていても、風の匂いは変わっていなかった。
ベンチは少し古びて、川の音が前よりも静かに聞こえる。
ヴーヴーと何度も震えるスマホ……僕はスーツのポケットからスマホを取り出し、SNSを開いた。懐かしい高校時代の友人や悪友、ほとんど連絡した事のないやつまで……。
皆、同じような内容だった。
『仲の良かった彩乃、藤咲 彩乃。今さっき病気で亡くなったって。何か知らないのか?』
息が止まった。
画面がにじむ。風が吹く。春の匂いが一気に胸に刺さる。
その夜、彼女とやり取りをしていたSNSを開く。
『元気?』
日付は五年前……彼女の言葉で終わっている。彼女のアイコンに触れると日記が書かれている事に気づく。最終更新日は昨日……。
他愛のない事しか書かれていない日記。新しく見つけた店のアフタヌーンティー。上司のセクハラの愚痴。彼女は確かにここに居る。
そして昨日、河川敷の桜のつぼみの写真と共に……本文には、たった一行だけ書かれていた。
> 「あの河川敷、まだあるかな。春になったら、また──」
日記を見つめながら、僕はしばらく動けなかった。
何度読み返しても、文章は変わらない。
それなのに、その一行が胸の奥で何度も何度も反響する。
「春になったら、また──」
あのとき彼女が言った「また春に会おうね」という言葉が蘇る。
まるで時間が、最後のいたずらを仕掛けてきたようだった。
夜が更けていく。
僕は寝つけずに、古い写真フォルダを開いた。
河川敷で撮ったツーショット。高校の文化祭での集合写真。
どれも、画面の中の彼女は明るく笑っている。
あの笑顔がもう二度とこの世界にないという事実が、静かにのしかかってくる。
──翌日の午後、僕は仕事を早退した。
理由は「体調不良」と伝えたけれど、嘘ではなかった。胸の奥が、妙に痛んでいた。
電車を降りて、あの河川敷へ向かう。十年ぶりの道は、どこか狭く感じた。
桜並木の下を歩く。花は満開を過ぎ、風が吹くたびに花びらが舞い落ちる。
ベンチの位置も、景色も、ほとんど変わっていなかった。
僕はゆっくり腰を下ろす。
川の音が、遠くで途切れ途切れに聞こえる。
時折聴こえるギターの旋律、もうここは僕の生きた時間とは違う、そう感じさせてくれた。
スマホを取り出し、例の日記を開く。画面の光が春の陽射しに溶けるように滲んだ。
> 「あの河川敷、まだあるかな。春になったら、また──」
文末の「──」のあとの空白が、何よりも雄弁だった。
言葉の続きは、もう永遠に聞けない。
けれど、不思議なことに、僕はその未完の一文に救われている自分に気づいた。
風が吹いた。
花びらが一枚、ベンチに落ちてくる。ふと顔を上げると、向かいのベンチに誰かが座っている気がした。
白いブラウスに、長い髪。春の光の粒がその輪郭を形づくっている。瞬きをした瞬間、それはもういなかった。
でも、風だけが残っていた。懐かしい声を運ぶように。
「……彩乃」
名前を呼ぶと、どこかで小さく鳥が鳴いた。涙が出るほどの懐かしさが、胸の奥から込み上げてくる。
そして初めて、十年越しの想いを言葉にした。
「好きだったよ」
風が一層強く吹き抜け、花びらが川面に散った。
その瞬間、どこからか春の匂いが立ちのぼった。
まるで「届いたよ」と誰かが囁いたような気がした。
僕はしばらくその場に座り続けた。
夕陽が沈み、空が茜に染まっていく。
風の中で、過去と現在が一瞬だけ重なったような感覚があった。
あの日の放課後の音が、微かに耳の奥で響いていた。
──春の残響。




