ところでサキュバスってなに?
私はこの日をきっと忘れないだろう。
世界の常識が変わったこの日の事を。
その日、私の祖父が亡くなった。
92歳。
大往生だった。
祖父母の家に着くなり先に来ていた父に尋ねた。
「お祖母ちゃんは?」
「お祖父ちゃんと一緒」
「そっか」
父親を失った父もまた目を赤く腫らしていたが、それでも娘の私にはどうにか微笑んでくれた。
「ずっと部屋から出てこないよ。お祖母ちゃん」
「……そう」
祖母は祖父のことが大好きだった。
子供のように祖父にべったりとしていた。
――いや、あれは懐ききった犬か。
いい年をしてベタベタ、ベタベタ、ベタベタと……。
まったく、見ているこっちが恥ずかしくなるくらいに。
だからこそ、祖父の訃報を聞いた時に真っ先に浮かんだのは祖母のことだった。
あんなにも祖父を愛していた祖母のことだ。
後追いさえするのではないか。
そう本気で思った私は学校を早退してまで祖父母の家にまで来たのだ。
「お祖母ちゃん、大丈夫かな」
「今は独りにしてって言っていたけど……見て来てくれるか?」
「うん。分かった」
私は父に見送られながら祖父の部屋へと向かう。
そっと扉を開ける。
思わず私は息を漏らした。
祖母は祖父に口づけをしていたのだ。
軽く両手で祖父の顔を支えながら、目を閉じ、互いの唇を当てているだけ。
静謐で。
触れ難い。
――時間が流れていた。
今になり、理解した。
私が恋人と愛し合うように祖父母もまた愛し合った恋人だったんだ。
なんでこんな当然のことに気づかなかったのだろう。
こっそりと戸を閉めようとする。
邪魔をしたくなかった。
二人の最後の時間を――しかし、祖母は背を向けたまま私へ言った。
「よく覚えておきなさい」
「え?」
「男に落とされるということを」
言葉と共に祖母の身体が水で溶けるように変化していく。
皺だらけの肌から皺が消え失せ、曲がっていた背筋がピンと張り、さらには歳がみるみる内に若返る。
――いや、それどころではない。
「……は?」
「そりゃ、驚くわよね」
私は口をパクパクと動かしたが声は出なかった。
いや、そもそも何を言おうとしたのかさえ分からない。
「あたしだって驚いているもん、こんなことになるなんてね」
祖母の居た場所には。
いや、違う。
祖母は。
「サキュバスが一人の男を愛するなんて」
現実だとちょっと色々とありえない格好をした美女へと変わっていた。
「まったく。変身能力をこんなことに使うなんてね。なにが悲しくて婆さんの格好をしてんだか」
女性はくるりとこちらを向いて寂しげに笑う。
「あんたも気をつけなさいな。変な男に惚れちゃえば一生を棒に振るよ」
言うと同時に女性の前に奇妙で禍々しい円が現れる。
この馬鹿げた状況故に私は非現実的な可能性にあっさりと至る。
彼女は。
祖母は――帰るつもりなのだ。
どこか分からないけど、きっとここじゃない場所に。
私の考えを察したのか祖母は蠱惑的なウインクを一つすると円の中に片足を入れる。
「あっ」
祖母は微笑む。
「待って!」
「だーめ」
扇情的な衣服だか下着だか分からないものを纏った祖母は片手をひらひらと振る。
行ってしまう。
そう理解した私は叫ぶように尋ねていた。
「お祖父ちゃんのこと好きだったの!?」
祖母は失笑する。
「でなきゃ、最期を看取りゃしないよ」
円が消え失せた。
祖母と一緒に。
残された私は少しの間、呆然とし。
永久の眠りについた祖父の安らかな表情にぽつりと告げていた。
「女たらし」
目の前で起きたことが現実であるととても思えなかった。
だけど、事実として祖母は消えていた。
そしてもう二度と現れることはないだろう。
ため息をつく。
祖母はきっと人間ではなかった。
だけど、祖父と愛し合ったんだ。
――それだけはきっと確かだったのだと思う。
「素敵な恋をしたんだね。二人共」
くすりと笑って私は祖父の隣に座り込む。
「馬鹿みたいな服装していたけど、お祖母ちゃん、美人だったね」
物言わぬ祖父に語り掛ける。
二人がどんな出会いをして、どんな恋に落ちて、どんな愛を語らったのだろうか。
想像するだけで心が温かくなるようだった。
そんな中。
ふと思う。
――ところでサキュバスってなんだろう?
そう思い私はスマホで検索をする。
「は? 十八禁?!」
検索して続々出てくる、健全な子供達には刺激が強すぎるイラストの数々。
「え……悪魔の一種じゃないの……?」
私はこの日をきっと忘れないだろう。
「えっ、ちょっと待って……それじゃ、お祖母ちゃんってお祖父ちゃんの、あれに負けたって――こと?」
世界の常識が変わったこの日の事を。