第2話
「どうしました?近藤さん?」
部屋に入りながら声を掛けると、由美が患者と格闘しているところだった。
「近藤さん、お願いですからちゃんと寝て下さい!」
止まらないナースコールは、由美が離床センサーのスイッチを切らないまま上に乗っかっているからだった。
「三枝さん、センサーのスイッチ入ったまんまよ。切らないと病棟中に響いてる」
「すみません。でも近藤さんが帰るってきかないんです!」
近藤泰司は肝臓癌の末期患者である。最近血中のアンモニア値が上がってきて、ときどき訳のわからない行動にでる。本人はそんなことは何も知らないから、不穏になるとまず看護師の言うことなど聞かない。
「困ったわね。詰所に連れて行きましょう」
響子は手早く近藤を車いすに移すと、抑制用のベルトを締めて詰所へと連れて行った。
「高橋さんて、何があっても驚かないんですね。さすがだなあ」
こんなにバタバタしているのに、由美はおっとりと笑っている。その顔を見て響子は、将来は大物だと溜息をついた。
確かに由美は将来大物にならなければいけない。なぜなら彼女は、ここ三枝病院の院長の娘なのだ。ゆくゆくは由美が看護部長として、看護面から病院を仕切っていかなければならない。当の本人はそんなことにはお構いなしのマイペースだが、かえってその方がいいのかもしれないと響子は思う。でなければまだまだ若い由美は、期待や羨望、妬みなどの重圧に耐えられないかもしれない。
由美はまだ看護短大を卒業して1年にしかならない。夜勤を独り立ちしてからやっと3カ月になったばかりだ。短大では看護技術や看護理論は学べるが、患者と接する機会はわずかしかない。身体面、精神面、社会面で抱えている問題はそれこそ十人十色、百人百色で、臨機応変に一人一人と対応していくにはそれなりの経験年数が必要なのだ。
取りあえず、近藤を詰め所まで連れてくると、響子は由美に改めて対峙する。
「三枝さん、患者さんが不穏になったからっていちいち取り乱してどうするの!」
「だってえ」
「だってじゃありません!真夜中に大声を上げたり、ナースコールを鳴らしっぱなしにしたり。ここは病院なのよ。わかってる?」
「わかってます。でも…」
「まだ慣れなくてパニックになる気持ちもわかるけど、私たちが一番にしなければならないのは患者さんを守ること。無駄に騒いで患者さんを不安がらせてはだめなのよ」
「…すみません」
「ましてここは緩和ケア病棟なの。残り少ない時間を、できるだけ穏やかに、安楽に過ごさせてあげなければ意味がないでしょう?せっかくの眠りを看護師の叫び声で妨げられるんじゃあ、ここに入院している意味がないのよ」
響子のお説教を聞いている由美の姿が、だんだん小さくなっていくような錯覚に囚われて、響子は大きなタメ息をついた。
「三枝さん、お願いだから、常に患者さんの立場に立って、もし自分がここに入院したらってシミュレーションしてみてちょうだい。そうすれば少しは患者さんが何を求めているかわかるんじゃないかしら」
「はい。すみませんでした。私、業務のことばっかりで、他のこと考える余裕がなくって…」
泣き出しそうな由美に、響子は優しく微笑みかける。由美の肩をポンと軽くたたくと
「みんな最初はそうなのよ。余裕なんてないし、その日その日の業務をこなすのが精いっぱいなの。でもね、どんなに余裕がなくても患者さんが何を求めているかを考える時間は必ずあるはず。難しいことを考えるんじゃなくて、夜眠れないとつらいだろうなとか、なんとかして痛みをとって上げることはできないのかなとか、そういうことを考えないと。大学で習ったような難しい専門用語なんて、患者さんには何の役にもたたないわ」
「…高橋さん」
「はい。これでお説教は終わり。さあ、近藤さんをどうしようかな?」
と言って振り返ると、いつの間にか近藤は車いすに座ったまま、こっくりこっくり居眠りをしている。その子供のような寝顔を見て、響子は「可愛いって思ったら失礼かしら」と思って、くすりと笑いを漏らす。
「どうしたんですか?」
と由美に問われて
「寝顔が可愛いなあと思って」
と答えると、由美は信じられないというように響子を見た。
「いつか、三枝さんにもわかるときがくるわ」
と、もう一度由美の肩をポンとたたいた。




