第1話
深夜2時を少し過ぎた頃、突如響き渡たる若い女性の悲鳴。それを聞いて高橋響子は、急ぎ足で廊下を声のした方へと向かう。しんと静まり返った薄暗い廊下に、響子の足音だけが響いている。
513号室、悲鳴は確かこの部屋からだと当りをつけてドアを開ける。そこには悲鳴の主の、半べそをかいて途方にくれている三枝由美がいた。
「三枝さん、どうしたの?こんな夜中に大きな声を出して。患者さんがビックリするでしょう?」
「高橋さあん、だって、だって、田中さんが不潔行為を…」
見ると、田中ハツがおむつを全部開いて、自分の便を寝間着やシーツ、ベッド柵に塗り込んでいる。
「これじゃあどうにもならないわね。お風呂に入れるから。三枝さんは部屋とベッドを掃除してシーツ交換しといて」
「高橋さん一人でお風呂に入れるんですか?あたしも手伝います」
「何言ってんの?二人とも浴室に入っちゃったらナースコールが聞こえないでしょう。あなたはシーツ交換しながら、ナースコールに対応しなさい」
響子はいったん部屋を出ると、入浴用のストレッチャーを押してきた。
「シーツ外すの手伝って」
「シーツ交換しますよ」
「違うわよ。このまま抱きあげたら私の白衣が汚れるでしょう。シーツにくるんで連れて行くから」
「あっ!そうか。さすがですね。夜勤、高橋さんと一緒でよかったあ」
響子は思わずため息をついた。この後輩はこの仕事のことをちゃんとわかってやっているのだろうか?いつも由美と一緒に仕事をするときに必ず沸き起こる疑問である。二人夜勤の相方が現場を離れれば、残りの一人がフォローしなければならないのは当たり前のことである。しかし、由美は何度言ってもそれがわからないようで、響子は重い溜息をついた。
「とにかく行ってくるから。あとお願いね。わからないことがあったら一人で判断しないで聞きに来ること。わかった?」
「はい。わかりました」
一抹の不安を残しながら、ストレッチャーを押して響子は浴室へと急いだ。
響子のいる病棟の端に介助用の浴室が設けられている。ここ医心会三枝病院の5階は緩和ケア病棟になっていて、がん末期の患者が静かに穏やかに短い余生を送るための病棟になっている。そのために週2回、寝たきりや自分で思うように動けない患者さんのために、老人ホームにあるようなリフト付きの介助用の浴室を設置してあるのだ。
響子は田中ハツをシーツにくるんだまま浴室へと入れた。ハツが乗せられているストレッチャーは入浴用のもので、患者さんたちはまず、その上で体を洗ってもらい、その後リフトに移されて浴槽へと入るのだ。ストレッチャーの寝台部分はスライド式になっていて、ワンタッチでリフトへとスライドさせることができる優れ物だ。最初から終わりまで、患者はただ寝ているだけで入浴できるのである。
「夏でよかったわねえ田中さん。でないと風邪ひいちゃうとこでしたよ」
ハツに話しかけながら、ビニール製のエプロンを身につけて、手際良くハツの寝間着を脱がせて、温めておいたシャワーを足元からかけていく。
「うあうあ、ああうう」
「お湯、そんな熱くないでしょう?」
声を掛けながら、石鹸で汚れたところを綺麗にあらっていくと、ハツが嬉しそうに目を細めている。
「ごめんなさいね。もっと早く気がついてたら、こんなことにならなかったのにね」
まるであやすように話しかけては、ゴシゴシとハツを洗ってやった。
田中ハツは75歳である。肺癌から脳へ転移して徐々に認知がひどくなった。今はもう話すことさえできず、赤ちゃんのように「うー」とか「あー」とかしかいえなくなってしまったのだ。今では自分の息子もその嫁も、孫たちですらわからなくなっている。
きれいに流したあと、タオルで滴を拭ってバスタオルでくるむ。
「さあ、お部屋に帰りますよ」
と声を掛けて、ストレッチャーのストッパーを外して廊下へと押して出ると、浴室の中にいるときは全く聞こえなかったナースコールが廊下に響き渡っていた。
「三枝さん何をしているのかしら?」
と呟いて、急いでハツを部屋へ連れて帰る。途中、詰所の前を通ったときに声を掛ける。
「三枝さん?」
しかし、詰所には誰の姿もない。逸る気持ちを抑えてハツをベッドに戻し、おむつをして寝間着を着せてやる。
「はい、いいですよ。ゆっくり寝ましょうね」
「ああう、うあうあ」
体がきれいになって気持ちがいいのか、ご機嫌だ。けれど、この分では朝まで寝ないだろうと思いながら、響子は部屋を出て、しきりになるナースコールの主の部屋へと急いだ。




