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歴史風小説

月と十字

作者: 武内ゆり

 我らがリチャード王が今回の十字軍に参加する。その話を耳にした時、ロジャーは興奮せずにはいられなかった。


 ロジャーはすぐに白地に赤の十字を染め抜いた胴衣を用意させ、ウェストミンスター聖堂に赴き、そこで宣誓した。


「必ずやイェルサレムを奪還します」


先の十字軍で解放した聖都イェルサレムが、イスラム教徒に占領されたという知らせは、西欧のキリスト教世界全体を震駭させ図には置かなかった。それはロジャー個人にとっても同じであった。「現地の無力で敬虔なキリスト教徒が虐殺されている」とか「女子供が酷い目にあっている」とか、まことしやかな噂が聞こえてくるたびに、若く感受性豊かなロジャーは、


「こうしてはいられない。一刻も早く罪のないキリスト教徒を救い出さねば。そのためだったら僕はイスラム教徒と刺し違えたって構うものか」


と、赤潮し、思いを募らせるのだった。


 そして一旦地元に帰った後、全身を覆う鎖かたびらや、その上に着る鋼鉄製の鎧、先祖代々の剣や馬、食料などを準備した。もう二度とこの故郷の土を踏まないかもしれないとなると、感慨深いものがあった。


気心の知れた仲間と晴れ姿で旅立つ。ロジャーは一度も振り返らないと決めていた。

しかしいざ出発してみると、長すぎる船旅と、船酔いと……キプロスに入っても、意地悪いタンクレディに怒ったリチャードが戦闘を起こし、ようやくオリエントに足を踏み入れたのは二年後だった。


海岸に沿って行軍する。オリエントにて鎧を着るのは、釜茹でにされるような苦行だった。強い日射が降り注ぎ、汗も滝のように流れる。


ロジャーは音を上げそうになった時、いつも父親から教わった言葉を反芻した。


「一度も殴られたことのない者は、粘り強く戦うことはできない。流れる血を見て、相手のこぶしの下で歯が割れる音を聞け。地面に投げつけられても、全力で戦う勇気を失ってはならない。倒れれば倒れるほど、より決意を持って再び立ち上がらなければならない。鍛錬によって得られた強さは貴重だ。恐怖に支配される魂には、はかない栄光しかない。流した汗は勝利の神殿が建つ場所で報いられる。」


 ロジャーは特に、最後の言葉が好きだった。勝利の神殿、それはイェルサレムなのだと彼は信じた。そのためにも、何がなんでもそこにいかなくてはならない。困難が増えるほど、彼の闘志は燃え立った。


 サラセン人を見かけると、彼は率先して十字軍の剣となった。サラセン人の持つ棍棒は、その原始的なフォルムからは想像できないほど威力が高く、叩かれると鎧が凹む。だからロジャーは彼らの腕を優先して切り落とした。


 その戦いぶりは、聖堂騎士団の人々に「骨のある男がいる」と言われるほどだった。


 ある日、ロジャーは逃げ走るサラセン人達を騎馬で追いかけているうちに、内陸へ入りすぎた。彼の乗る馬の足が早いため、気がつけば仲間が周りに一人もいなくなり、敵も見失ってしまった。確か、あそこの方向から来た、と引き返したつもりが、さらに反対に迷い込んでしまったようだ。


 夜になり、月明かりが差す。馬が寂しげに鳴いている。仲間と合流できるだろうか、彼は馬から降り、その辺りの草を食べさせている間、自分も三度焼きの乾パンと、皮袋に入った赤ワインの夕食をとった。日常の中で食べる時よりも、何倍もの幸福感で、赤い液体が彼の空腹を満たした。


 ヒーンと、馬が何かに反応した。野獣が来たかと思ったが、草木を掻き分けて現れたのはサラセン人の女だった。女は何かを言った。しかし言葉はわからなかった。ただ善意の微笑みが、どこか彼の心を惹きつけた。


 ついてくるように、と女はジェスチャーして、背を向けた。どこに連れて行こうとするのだろう。サラセン人が棍棒を構えて待っているのかしれない。ここで夜が明けるのを待つか、それとも女の善意を信じるか。ロジャーは後者に賭けた。


 女は森小屋へ彼を招き入れると、蝋燭の火を灯し、彼に一杯のスープと、干した赤い果物を差し出した。ロジャーが警戒していると、女は同じものをよそい分けて、自分で食べた。


 ロジャーは兜の金具を外し、脱いだ。汗にまみれた赤っぽい金色の髪が波打つ。彼は改めて女を見た。透き通るような青い瞳をしている。小柄で、柔らかな肉付きのシルエットが、薄布の先に見えた。


 イギリスの女は冬のロンドンの空のように、曇天のような肌をしている。肉よりも骨を感じさせる体つきをしており、女性的魅力に乏しく、それでいて口うるさい。それに比べて、目の前の女は、熟れた桃のような艶やかな肌をしている。目尻は優しく、小鼻で、唇が美しい曲線を描いている。傲慢なところも、売春婦の媚びるような雰囲気もない。


 草原の丘で、月光に照らし出される彼女を想像した。微風で黒髪の揺れる彼女が、いつまでも貞節を守る彼女が、少しだけこちらを向き、視界の端にいるロジャーを見て、微笑むのだ。そして時折漏らす小さな息が、彼女の胸を震わせる。


 イェルサレムという神聖なる響きと、異国情緒のある彼女が、ロジャーの中で溶け合っていく。一目惚れをしたことさえ、気がつかなかった。


 イェルサレムを奪還するためにサラセン人を殺すのと、サラセン人の女を愛することは、彼の中で矛盾せず、世界の調和を生み、共存していた。


 蝋燭がゆらめく森小屋に、彼の意識が戻っていく。


 ロジャーは彼の腕の中に、彼女の身体をうずめてやりたい欲求を感じた。


「メリー」


彼は呼びかけた。ロジャーが足を動かすと、蝋燭の火が今にも消えそうに揺れた。


朝日が、ロジャーの晴れ晴れした顔を照らし出した。


 ロジャーは馬に鞭をやり、再び森を駆け出すと、仲間と合流することができた。十字軍とも合流し、ロジャーはまた十字軍の剣となって進み始めた。そして、アッコンの戦いの時に彼は戦死した。イェルサレムは彼の心の中にあった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 無知と狂信に駆り立てられ、サラセン人と戦い続けるロジャー。サラセン女の優しさに触れ、ひと時の安らぎを得るも、一夜明けたら再び血塗られた道を征く。 救いのないお話ではありますが、何だか心に残…
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