前編
「わたし昨夜、寝付かれないもんでYouTubeで恐怖の心霊写真集見てたんだよね」
カレーパンにかぶりつきながらあかりが言う。
「わたしもよく見るよ。でもそんなん夜中に見てたらますます寝つきが悪くなるんじゃないの」わたしはサンドイッチをかじりながら答える。
「エンタメとしてみてるからそんな怖くはないよ、たまにホンモノっぽいのはあるけど。でもああいうの見てていつも思うんだ、みんな生前はカメラ向けられたら大抵ピースサインして笑顔で写ってただろうに、何で死んだらあんなに陰気臭い顔になるんだろうってね」
切りそろえた真っ黒な前髪が切れ長の目の上で揺れている。あかりの顔を見るたび、現代版日本人形のようだと思う。現代版日本人形って何なのかよくわからないけど。
「そういや笑顔の心霊写真ってないね」
「ね、ないでしょ。みんな無表情かうすらボケてるかおどろおどろしい表情しててさ」あかりはカレーパンを食べ終わるとべとべとになった指先をウェットティッシュで拭いた。
「だから余計嘘っぽいって思うの。わたしだったら、死んでも友達の集合写真に写るなら笑顔で写るなって。そのほうが心霊写真としてはレアだし印象に残るじゃん」
「笑顔でピースサインしてる心霊写真なんてのがあったら、ツイッターとかのせたらバズるよね」わたしは残り少ないカフェオレを飲みながら答えた。「でも何でこれから成人式迎えようって年で、わざわざ死んだらどう写ろうなんて考えてんの」
「いやだから、たまたま昨日見た動画がみんな陰気臭いんでそう考えただけ。うん、決めた。わたし死んだら、笑顔で麻央の写真に写るよ。だからもしそんなことがあったら、記念に自撮りしてね」
「まあ、お迎えが近い年になっても覚えてたら、言うとおりにするよ。じゃあ、わたしが死んだら、あかりも自撮りしてね。わたしも頑張って笑顔で心霊写真になってあげるからさ」
わたしはほとんど付き合いで答えた。
「よし、約束」
あかりの顔は結構マジだったと思う。
「十九にもなって、大学の中庭でする約束かね。馬鹿みたいだね、わたしたち」
「まあまあ。もし世のなかに本物の心霊写真があるとするなら、あの世に行く前に本気出して頑張ればできることかもしれないじゃん」
「頑張るとできるわけ、それって」
「あそれとさ。お互い死んでも、相手を怖がらせるような音や気配はなしってことね。あくまで明るく別れのごあいさつで写真に写る」
「いやにこだわるね。なに、最近体調でも悪いの?」
「いや全然」あかりはけろりとして傍のゴミ箱にカレーパンの袋を捨てた。
あかりとわたしは大学の付属中学からの仲だった。
あかりは空想好きで月刊ムーを毎月買っていて、夢見がちで陰謀論者で、フェイクプレーンとかケムトレイルとか集団ストーカーとかイルミナティとか気象兵器とか死後の世界とか前世の記憶とか、いつも本気か冗談かわからない話ばかりしているヤツだった。成績は抜群にいいのに、そこだけはどうしても「バカの部類に入るな」と親友であるはずのわたしは乱暴に決めつけていた。
「じゃ、いい? 約束ね」
「うん、まあ、長生きしても覚えていようね」
そんな年になっても覚えていられるとはとても思えなかったけど、わたしは答えた。
あかりが急死したのはその一週間後だった。
死因は急性心不全ということだった。それを共通の知り合いから電話で知らされた時、わたしは大学のキャンパスの満開のクローバーの花畑の前で、友人たちと笑顔で写真を撮っていた。
「ゼミの課題が間に合いそうにないから夜更かしする、朝は起こさないで」といっていたあかりが、昼近くになっても起きてこないのでお母さんが様子を見に行ったら、彼女はもう冷たくなっていたそうだ。要するに、突然死。
ただ信じられない気持ちでその知らせを聞いた後、わたしはさっき撮った花壇の前の写真を見せてくれと猛烈な勢いで友人に頼んだ。不審そうにスマホを渡した友人の前で、わたしは舐めるように四人の友人と並んだ写真を見た。みんな笑顔。けれど、その横にあかりの姿はなかった。
これを撮った時、もうあかりはこの世の人ではなかったはずなのに。
頑張っても、写れなかったんだね。
あるわけのないことは、起こりえないのだ。これが現実なのだと、わたしは思った。
一人娘に先立たれたご両親は放心状態で、特にあかりをかわいがっていた母方のお祖母ちゃんは涙も枯れるほど泣き続けたそうだ。
「あの子とずっと仲良くしてくれて、本当にありがとうね」
目を赤く泣きはらしたお母さんに、葬儀の席でそういわれても、わたしは気の利いたことも言えず、「いえ、本当にわたしこそ、ずっと……」と言ったまま言葉を詰まらせてしまった。
棺の中で花に囲まれたあかりは、もともと端正な顔立ちだったが、死に化粧のせいで華やかに、そして清々しいほど美しく見えた。真っ黒なおかっぱ頭を市松人形のように肩先まで垂らしていたていたあかりの目を閉じた表情は、長い睫毛が美しく、まるでただ眠っているように見えた。遺体につきものの陰気さはない。どこかに生命力を残してさえいるように思える。呼べば、ぱちりと目を開けて「なんちゃって~」と笑い返してきそうだ。
友人たちは皆、涙を浮かべて棺に花を入れていた。
「なんで急にこんな……」
「早すぎるよ、あかり」
「ああ、でも、綺麗だね。お人形みたい」
あの妙な約束は、何か自分でも予感めいたものがあってのことだろうか。十九での突然死自体、不自然なことなのに、約束ねと念を押してきた彼女は、無意識に虫の知らせにせかされていたのかもしれない。
そんな風に思いながら、わたしは願った。
これは悪い夢なんじゃないの。誰かに揺り起こされたら、ああよかったと言って振り払える妄想なんじゃないの。そうだと言ってよ、あかり。
こんな冗談みたいな死に方、しないでよ。わたしたち、もう、話もできないの?
あなたの笑顔、もう本当に見られないの?
ねえ。あの時の会話は、何?
精進落としの席で、あかりのお祖母ちゃんがそっと近づいて頭を下げてきた。
「あなたのことは、親友で一番気が合うって、孫からよく聞いていたんですよ。急にこんなことになって、まるで悪い夢でも見ているようです」
喪服に身を包んだお祖母ちゃんは、幾度か会った時に比べて、悲しみで一回り小さくなったように思えた。
「わたしもそう感じています。今でも、何もかもが悪い夢のようで……」
わたしが答えると、お祖母ちゃんはそっと辺りを見回した後、声を潜めてこう言った。
「あと二週間で、成人式ですね。そのことについてですが、たってのお願いがあるんです」
「……なんでしょうか」
「私、京都の問屋に特別注文した上等な反物で、あの子のために振袖を仕立てたんです。それはそれは美しいお着物で、あの子が袖を通した時の姿を心から楽しみにしていました。でも、それはかなわぬ夢となりました」
「……」
「そこで、お願いがあるんです。私には女の孫はあの子一人です。あの子がいなくなった今、そのお振袖はもう着る人もいません。それでですね、あなたにもご予定がおありでしょうけど、どうか、あの子が着る予定だったそのお振袖を、着ていただけないでしょうか」
「えっ……」わたしは絶句した。
「本当は今日、あの子の遺体にかけて送り出すつもりだったんです。でももし、仲の良かったお綺麗なあなたが着て下さるなら、きっとお似合いになるでしょうし、あの子も喜ぶでしょう。
そう思って、着物を燃やすことはできませんでした。
どうか、袖を通してくださいませんでしょうか。そしてあなたが記念の写真に納まることができたなら、あの美しい着物も、作っていただいた甲斐があるというものです」
写真……。
わたしの中で、今まで起きたことが一本の線で結ばれていくような気がした。
わたしが死んだら、記念に自撮りしてね。わたしそこに、笑顔で写るから。
でも、あなたを怖がらせるようなことはしないから。
孫のためにあつらえた着物を、どうかあなたが着てくれないでしょうか。
そして記念の写真に納まることができたなら、あの美しい着物も、作っていただいた甲斐があるというものです……
「レンタルする着物は、もう、写真館で予約してあるんです」震え声で、わたしは答えた。
「そうでしょうね。親御さんと、お時間をかけて選ばれたんでしょうね」
お祖母ちゃんは、幾分声を落として答えた。
そして、黒い鞄から一枚の写真を出してきて、わたしに見せた。
「無理なお願いだとは、わかっていました。見るだけ見てくださいますか。この着物なんです」
そこには、大衣桁にかけられた黒い着物が写っていた。
裾から湧き上がるように鮮やかな牡丹が咲きそろい、花全体が炎のような灯に包まれ、その先で蝶が乱舞している、禍々しいほど美しい着物だった。
何故か知らないが、その写真を見た途端、わたしは思ったのだ。
ああ、これは逃れられないと。
誰に言われたわけでもないのに、わたしの頭の中でそれは決定事項となってしまっていた。自分が、この美しい着物を着て、写真館で写真に写ることが。
そしてそれは宿命として、頭の中で感じた「一本の線」の終着地点に置かれていた。
「わかりました」
突然のわたしの答えに、お祖母ちゃんはびっくりした様子だった。
「え、本当ですか。本当に、着て下さるんですか」
「わたしたち、顔立ちがちょっと似ているところもあるし、前世は双子だったのかもしれないねって、話し合ったこともあるんです。今、あかりがこの着物を着てほしいって、わたしに言ってきているような気がするんです。彼女の魂が喜ぶことなら、わたしも……」
その先何を言ったかよく覚えてはいない。自分でしゃべっているのか、誰かにしゃべらされているのか、言葉はとまどう心とは裏腹に口からすらすらと出てきた。お祖母ちゃんが、いそいそとあかりのご両親の所に向かい、着物の写真を見せてわたしの方を向きながら何かを言っていた。ご両親はわたしの所に来て、頭を下げながら、本当にいいんですかとそんなことを繰り返していたように思う。
ありがとう、と、あかりの声が聞こえたような気がした。
わたしがレンタル着物ではなくあかりのためにあつらえられた着物を着ると聞いて、両親は驚いていたが、さほど反対はしなかった。スマホに送ってもらった牡丹の柄の着物の画像を見て、素晴らしい柄じゃないのと感嘆の声を上げていた。
着物は自宅に届けられ、わたしは予約していた写真館の着物をキャンセルし、写真館で着付けをしてもらい、ヘアセットとお化粧もしてもらった。
これに袖を通す予定だったあかりは、いまどこにいるんだろう。
それとも、死んだら人はもう本当にそれきりで、完全に消えてしまうものなのだろうか。
じゃあ、わたしにこれを着ようと決断させたものは何なのだろう。
首から下を見下ろす。
これはあかりが見るはずだった視界。
「なんて素敵なお着物でしょう。よくお似合いですよ」
着付けをしてくれた目の細い店員さんが褒めてくれた。傍で見ている母も、まあこんなに似合うなんてねえ、とため息をついている。三つ編みを後ろでまとめて編み込んでもらった髪に、レッドタッセルの水引きと、牡丹をあしらった髪飾り。鏡に映る自分を見ながら、これでいいのだと、バカボンのパパみたいに内心繰り返す。
そう言わずにはいられないくらい、鏡の中の自分は自分でないような美しさをたたえていた。
これは着物の魔法。そしてあかり、あなたがくれたもの。それでいいのね?
現実は現実。何も起きはしない。わたしはあかりのお祖母ちゃんの願いをかなえただけ。
それでも、カメラのシャッターがおりるその時、わたしはポーズをとりながら、話し掛けずにいられなかった。
そこにいる? あかり、今だよ!
そんなことが現実になったら、困るのは自分なのに。
彼女はもうどこにもいないのだと、信じられない自分がいた。
市の成人式に出て友人たちとはしゃぐ気にはなれず、わたしは両親と祖母と揃って懐石料理を食べ、皆でそろって写真を撮った。
その写真にも、あかりの姿はなかった。
夕暮れの部屋で西の空へ飛んでいく鳥を見ていると、現実と幻の区別がつかなくなっていく。
あかりは死んだ。これは、現実。
友人たちと撮った写真にあかりは写らなかった。これも、現実。
今日わたしはあかりが着るはずだった着物を着て成人式の写真を撮った。これも、現実。
両親やおばあちゃんと会食した後の集合写真に、あかりは写らなかった。これも、現実。
あとひとつ、確かめなければならない現実が残っている。それが今までの現実の通りなら、 あかりとの約束の全ては、幻だ。
写真ができあがるのは、五日後だった。