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ミクロサイキック 弾丸編  作者: 髙橋三乃瑠
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Act.6 二言の滝

○三黒紗伊子の見聞 八


 私とて一介の乙女であり、色恋沙汰に興味がないと言えば嘘になり、白馬の王子と乗馬したいというデレデレな感情が少なからず心の奥底に、溶け残ったインスタントココアの粉のように凝り固まっていることは確かです。しかし、今はそれどころではなく、インスタントココアよりも、どちらかと言うと御汁粉の方が問題視されるのです。

「あんこ、いえ、銀子先輩が、全然姿を見せないのです。そこで先輩、ちょっとばかし私に力を貸してください!」

 映画部の部室の扉を壊さん限りの勢いで開け放つと、私は殴り込むようにそう言ったのです。すると目前にはひらひらと白い紙が暴落した株券のように舞い落ちています。私を取り巻いた紙の嵐に、両手を宙に放り出すように掲げてソファにふんぞり返る赤出ミーコ先輩が「わお、今のB級映画のヒロインみたいだったわね!」と呟くのでした。同時に、私の頭に白い紙がぺたりとのりました。手に取ってみるとそこには「黄色い春」と書かれています。ふむふむ、なんだなんだ? と読もうとする私でしたが、シュピッとあっさり、手元から紙を抜き取られてしまいます。

「宇佐銀子がなんだって?」

 相変わらずボサボサ髪でメガネな先輩が、没収した紙を折り畳みながら私にそう聞きました。

「先輩、もしやそれは新しい映画の台本ですか?」

「宇佐銀子ならきっと、叔母の家にいるだろう」

「ついに新作を作る気になったのですね。私、応援します!」

「彼女の叔母の家の場所なら調査済みだ。しかし、かなり遠いようだよ」

「どんなに遠き道だろうと、先輩ならやれますよ!」

「え、いや、君がやるのだろう?」

「え、そんな、私がやるのですか?」

 しばしの沈黙の後、赤出ミーコ先輩が言った。

「どっちも二人でやれば?」

よかろう。ただし、映画の方は保留でいいかい? と先輩が肩を落として言いました。床にはまだ、投げ捨てられた十数枚の台本が散らばったままでした。

「まだ、夢の途中でね」

 先輩がそう、玄人の皮を被ります。その言葉と裏腹な先輩の私生活を察すると悲しみも募りますが、それ以上に可笑しくありました。


 先輩に話しかけた二日後、私と先輩は某県内の山奥にあるという銀子先輩の叔母の家を訪れていたのでした。私たちは今、木々に囲まれた木造建ての屋敷に通され、ゴウゴウと音を立てて流れる川水を横目に、銀子先輩の叔母と向かい合っています。服装はというと一応礼儀を示すといった面を考え、制服を着ています。

「三黒さんたっての願いだから、よかろう! なんて景気よく応えてしまったが、この状況は流石に予想しなかった。」

 そう言った先輩は、普段一つ外している夏服のボタンをきっちりと上まで閉めています。そこへ銀子先輩の叔母さんが苺のショートケーキの乗ったお皿を置きました。その隣に正座する私の前にもケーキがおかれます。そしてさらにその隣にいる赤出ミーコ先輩にも、同じくケーキが出されます。「何でいるの?」と聞きたい気持ちは今しばらく抑えていただき、今はケーキに集中しましょう。銀子先輩の叔母さんがわざわざ出してくださったのです。

「和室で洋菓子というのも乙ですね」と先輩が適当なことを言いました。

「お食べなすって」とおばさんが言うや否や、私の手がなめらかにフォークを握り、軽やかにクリームののったスポンジケーキを切り取り口へ運びます。その時間わずか0.52秒。その後もパクパクとケーキを頬張ります。

「景気よく食べるねえ」と先輩は面白いものを見るような目をしています。

「すみません、朝に新幹線に乗って以降何も食べていなかったので」と私は少し恥ずかしがりながらも、てっぺんの苺をフォークでお皿の脇に移動させます。私、苺は最後に食べる派です。そんな私を見て銀子先輩の叔母さんは微笑んで言いました。

「なんなら私の分もあげましょうか」

「何とお優しきお心遣い! 後光がお見えします! ですが、これでも細身であることを心掛ける乙女でありますので、一つで十分でございます!」

「でも、食べないと膨らまないぞ?」と先輩が私のスタイルをまじまじと見ていました。時折り先輩はハレンチです。

「膨らまないとは、私の胸についてのことですか? 純朴で純粋で潤滑な少女の面影を存分に残すこの胸についての戯言なのでしょうか?」私は頬を真っ赤にして先輩に詰め寄ります。

「いや、腹が膨らまないぞって話さ」

 先輩はそう言って、くくくのくーと笑うのでした。そして、潤滑な少女って何だ? と心の中で悩んでいるようです。

「胸がなく、するすると滑るような体つき、ゆえに潤滑。面白いことを言う少女だね、ぎんの子が気に入るわけだ。」そう言って襖を開けて出て来たのは、銀子先輩の叔父です。

「胸はあります。平らなだけです!」と私は反論しました。

「ふむ? 平らな胸など、有って無いようなものではないか」銀子先輩の叔父が、至極真っ当な道理を述べるかのような口ぶりそう言ったのでした。

「もてなされているとはいえ、何て仕打ちですか!」

 私は驚きで後ろへひっくり返り、そのまま座布団の上で背筋倒立をしたのでした。ご心配はいりません、スパッツをはいているのでパンツは見られません。


「そろそろ真剣に話をしよう」と、銀子先輩の叔父さんが切り出しました。

「そもそも、どうしてここがわかったのだ?」叔父さんは怪しむような眼つきでそう問いかけていました。

「それは、勝手ながら、仲睦の力を借りて調べました」と先輩が答えます。すると叔父さんは「なるほど」と頷いて、打って変わってにこやかな表情になります。

「どうやら、怪しい者の使いではないようだな」

「いや、俺には全然わからないのですけど!」と割って入ったのは、誰でしょう。私も名前を存じません。

「脇役は黙っていてもらえないか」と叔父さんが少し怒ります。

「いや、脇役じゃなくて、脇屋くんですよ」と赤出ミーコ先輩が笑います。脇屋くんと呼ばれるその人は酷く不服そうな顔をしたまま、叔父さんに問います。

「仲睦ってそんなにすごい人なのですか?」

「やつを人と認識している時点で、君には何を言っても理解できまいよ。」

 カポン、と中庭のししおどしの音が私たちの間を通り抜けるように響きました。

「それで、今、銀子先輩はどこにいるのでしょうか」と私が話を進めます。

「ぎんの子ならおそらく、二言の滝にいるであろう。」

「にごん、ですか。」

「そうだ。漢数字の『二』と言葉の『言』で『二言』。男に二言はない、という言葉の『二言』だな。

 その昔、この村にはある厳しい殿様がおった。「男に二言はない」という言葉の通り、その村の男は有言実行が義務付けられ、出来なければ投獄された。しかし、例外があり、二言の滝を水流に逆らって登り切った者は、前言撤回ができたのだ」

 叔父さんは、そうゆっくりと語りました。なるほど、昔の人々は理解に苦しむような掟さえも平然と作っていたのですね。現代に生まれて良かったとやんわり思います。

「されど何故、宇佐銀子はその二言の滝へ向かったのでしょう」

 先輩がそう問いました。

「どうしても、撤回したい言葉があったのですよ、きっと」

 年頃の女の子は難しいものでしてね、と銀子先輩の叔母が笑って答えられました。

「有言実行できない多くの者がその滝へ挑んだが、結果は芳しくない。むしろ、大人しく投獄された方がマシという事態になった者の方が多いと聞いた」

 銀子先輩の叔父は、目を伏せながらそうおっしゃいました。

「宇佐銀子は、漢だな」

 先輩は感心していました。ですが私は、心配な気持ちで一杯です。投獄された方がマシな事態っていうのはつまり、命に関わるってことではないですか。



○先輩の見聞 十二


 我々は宇佐銀子の親戚の家を出ると、市営バスに乗り二言の滝へと向かうことにした。「バスを降りて、そこから一時間は歩かなければ辿り着けぬ」と宇佐銀子の叔父は言った。その道中には、舗装された道どころか、歩道も無ければ誘導看板も無いときた。

「だって、そこ、厳しかった殿様の子孫が持つ、私有地の中にあるんだもの」と叔父は笑った。「先祖が先祖なら、子孫も子孫。一度会ったことがあるが、どうにも堅物そうな男だったし、他人が家へ上がるのをひどく嫌い、ここ十数年は客も通していないらしい。したがって二言の滝へ行くには、忍び込んで行くしかない。ぎんの子も悪い女よ、自らの欲にかられ罪を犯すとはな。しかも、大きな危険を伴う」

 そんな黒々とした話でしたっけ? と三黒さんが目くばせしてきた。それがちょうど上目遣いをしたみたいな構図になり、俺はつい目を逸らしてしまった。

しかし、『二言の滝』なんぞ聞いたことが無いとは思ったが、まさか地図にも乗らない場所にあるとは驚きである。しかも、どこかの名家の敷地内だと言うではないか。宇佐銀子の叔父の冗談も、間違いではない。二言の滝に立ち入っただけで、一応犯罪者の仲間入りである。

「それでも、銀子先輩が心配でなりません」

 三黒さんは真剣な面持ちをしている。

 我々がそのように先を憂いているバスの座席後方で、突然「駄目だ!」と声が上がる。誰かと思えば赤出ミーコ先輩の声である。彼女は頭を抱えている。

「湧き出るインスピレーションが止まらない!」

 赤出ミーコ先輩がすかさず停車ボタンを押した。「悪いけど、そのウサギちゃんについては君らに任せるわ。この森林に囲まれた空間、そして行方知らずの少女を追うっていうこの状況、まさにシンナーだわ! 中学二年の冬の、家出したあの日の衝動に似たものが今、私の中で騒ぎ出した」

「シンナーでなく、シナジーの間違いです」と脇屋空太郎が口を挟む。

「シナジーでもシンナーでもどっちだっていいよ。相乗効果でも幻覚でもいいから、効果が切れる前に、早く何かしら形にしないとだめになる。ようやく崩壊した私の心理世界がもったいない!」

 そこでどこからともなくスポットライトの光が差し込み、赤出ミーコ先輩を黄緑や橙色に照らす。ディズニーのお姫様が映画でよく起こす、プリンセスタイムである。プリンセスはこういう時、決まって歌を歌うのだ。


 常識の牢屋 

 私はいつも座っている 

 体育座りで座っている

 だけれど今、扉が開く 

 誰が鍵を壊したの

 それは知らなくたっていい話

 耳栓していても良い話

 シ・シ・シナジー 世界を創れ

 シ・シ・シンナー 常識を壊せ

 シ・シ・シンフォニー 物語を彩って

 私は行くわ

 一人でも

 新たなる国へ


 バスの運転手の驚きに構いもせず、歌い終わった赤出ミーコ先輩はバスを飛び降りた。おそらくカフェにでも駆けていくのだろう。「心を動かすなら、心が動いた時にっ、てね。私はそういう感じで物語を創る人だからさ。」と、出会った頃から言っていた。己の中の普通な感覚、それが失われた時にこそ、面白い話が出来上がるのだと彼女は言っていた。カフェにては、おそらく台本を書くつもりだ。そもそも赤出ミーコ先輩が我々について来た理由は、映画のネタ探しである。元より、面白そうなことに首を突っ込み、己が物語へ転換するつもりであったのだ。

「次回のテーマは、緑の自然に関連付けた何かになるよ。というわけで後輩君、心の準備しておいて!」

 赤出ミーコ先輩はそう言って颯爽と街並みの中へ消えた。

「ミーコさん、俺を置いてかないで」と空太郎がドアに挟まりそうになりながらバスを降りた。

 バスの乗客は、俺と三黒さんの二人だけとなった。

「いずれ、あの脇屋さんという方も、恋愛裁判にかけられるのですか?」三黒さんがそう聞いた。

「どうだろうね」

「彼の恋愛には興味がないのですか?」

「そうじゃないよ。興味があるし、失恋した姿を見て飯を食いたいさ。でも、いつもの空太郎の様子を見ていると、彼は裁判沙汰をおこせないかもしれないと、俺は思うわけだ」

「なるほど、つまり、脇屋さんは告白できないのではないか、ということですか」

「うむ」

「何故わかるのです?」

 そう問うた彼女の瞳の奥底に、わずかだが羨望の光があった。

 すると俺は、少しばかり申し訳ない気持ちになる。この時の三黒さんには、俺のことが人間観察のプロ、こと恋愛に関しては右に出る者がいないような、エキスパートジェントルマンに見えたのかもしれない。しかし、よくよく目を凝らすと、そこにいるのは紛れもないポンコツ落ちこぼれ男子である。当然、告白された経験も無ければ、告白した経験も無い。自ら恋愛検察官と名のりはするが、検察官というにはいささか役不足なのが正直な所である。したがって空太郎が告白するか否かなんていうのは、ただの予想なのだ。

「しかも、ミーコ先輩には今、ご執心の美男子がいてな」

「では、私はどう見えますか。先輩の目には、私が告白できる人に見えるでしょうか?」

 三黒さんは少し恥じらいながらも、興味津々な面持ちでそう聞いて来る、そんな場面を仮定して、その先を想像してみるが、俺は彼女の質問の解答を持ち合わせていない。三黒さんが誰かに告白をする、そういった場面を想像することさえ、出来そうになかった。

窓の外で猫が塀の上で寝転んでいる。きっと明日も明後日も同じように寝ころんでいるのだろうな。それは幸せなようで、退屈なようである。


 それから二〇分ほどバスに乗っていると、我々の目的の停留所に着いた。スマホを取り出して時間を確認すると、もう一六時になろうとしている。

「いくら夏とは言え、急がないと暗くなってしまいますね。」三黒さんが少し心配そうにつぶやいた。

 二言の滝の場所は、大方わかった。何故なら停留所を下りた目の前に、広大な屋敷が広がっていたからである。木造でできた門には「徳川原」とある。

「パチモンかよ」と言いたげな目線を三黒さんと送り合って、言いようのない徒労感に襲われた。

「本当にここでいいのですかね」

「わからんが、もうここしか当てはないと思う」

「ですね」

 では、とインターホンを押そうとする彼女を、俺は慌てて止めた。

「待て待て、ここは悪い女を演じて、裏から忍び込むのではないか。」

 すると、三黒さんは宇佐銀子の叔父の話を思い出し、ハッとした様子でこちらを向いた。

「そうでした。今宵、私は悪に染まるのでした。」三黒さんは制服のスカートをめくると、忍ばせていた銀の拳銃をとり出した。俺には見えないが、彼女が銃口を俺に合わせているのは見て取れた。とたん、バキュンと俺を撃った。さらに彼女は屋敷の方を向くと、門の上を超すように銃を構えると、バキュバキュと何発か屋敷内へと撃ち込んだようである。

「銀子先輩が死んでいませんように」と言って、三黒さんは銃口から出る煙をふっと吹いた。言葉と行動がちぐはぐだ。その言葉の真意を、俺は読み取ることができない。


 屋敷の敷地の裏に回るだけで三〇分は軽く歩いていた。敷地はその広大さと緑の豊かさゆえ、屋敷内からでは外部からの侵入が確認できない箇所が多くある、と言うより、敷地を囲うおよそ半分の場所は、どこからでも侵入ができた。しかし、屋敷の正面にいたことが災いし、こうして長距離を歩くはめとなった。

「でも、三〇分歩き続けても、まだ敷地を四分の一周ほどしかできていないのですよね。」と三黒さんが感心したように言う。彼女はえらい。疲れを見せることなく、むしろますます力が湧いてくるようだ。

「徳川原と聞いた時は疑いましたが、やはり豪邸らしいですね。」

 ようやく屋敷の屋根も見えなくなった辺りまで来た時だった。

「水の音がする。」

 俺がそう言うと、三黒さんも耳を澄ました。

 すると三黒さんの耳に、コココココと遠くで勢いよく水が流れるような音が流れてきた。

「本当ですね。」

 まず、俺が敷地を隔てる柵を超え、その林の先を覗いてみる。そこにはもう、人が住む場所とは思えないような茂みが広がっている。この先に宇佐銀子が本当にいるのだろうか。

「いると信じて、がんがんぐんぐん行くのみです!」

 三黒さんはその言葉の通り、ものすごい勢いで敷地内の茂みをかき分けて行った。俺の前を先行しながら、ただひたすら真っ直ぐに、水音のする方向へ進んでいる。しかし、彼女はどうもあまり運が良くないらしく、敷地を隔てる柵を超えようとした時には、柵が折れて転び、木々をかき分けている時には、蛾がおでこに停まって仰天して尻もちをついた。彼女の制服はもう泥だらけであり、いくつか擦り傷や切り傷も負っている。宇佐銀子よりも三黒さんの身を案じた方が良いのではないか、そんな懸念があがる。しかし、三黒さんは、こんなのへっちゃらです!と言うように力強く足を進める。まこと立派な乙女である。

 だんだんと水音が大きくなっていることを感じながら歩いていると、開けた岩場に出くわした。大岩が重なり合って、それが風化してなだらかになったかのような、岩の地面が半径5メートルほどの大きさで広がっていた。先ほどよりもさらに、水音が近くに感じられる。岩の上を歩いてみると、土の地面より硬いためか、滝と思われるゴゴゴオ、ゴゴゴオという震動が足に伝わって来た。

「滝はもうすぐかな」

 行こう、と俺は三黒さんを先へ促した。しかし、三黒さんは動かない。

「待ってください」

 三黒さんは、その場にしゃがみ込むと、土下座するような格好になった。そして右耳を冷たい岩に押し付ける。

「先輩もやってみてください」

 言われるがまま、俺はその場に手をつき、耳を岩にあててみた。

「滝はもうすぐと言うより、もうそこですね」くすりと笑って、三黒さんがそう言った。

「ああ、もう、底だな」と俺は答えた。



○三黒紗伊子の見聞 九


 岩場の辺りを先輩とあっちこち見て回っていますと、私たちが来た方角から見て東側にあたる大岩の陰に、人が一人、ギリギリ通れるくらいの穴を見付けました。小さな洞窟です。奥は先が曲がっており、どこへ繋がっているのか、そもそも行き止まりなのか、そこまではわかりません。

「しかし、行きます。行くか行かぬか問われれば、その答えは一択です」

「せめて懐中電灯くらいあった方が良い気がするのだがな、ヘッドライトがあると尚良い」と、先輩が今さら準備しようのない洞窟対策を練りながら、手ぶらでその穴の中へ入っていきました。私も先輩の後に続きます。入り口から続く岩の道は横幅がとても狭く、身体をIの字にして壁を這いつくばるように進まなければなりませんでした。洞窟の中は湿っており、岩がじめじめとして良い気分ではありません。ただ、少し涼しいのが救いでした。

「ところどころ岩場に隙間があるんだな、光が漏れてきている。それに僅かだが向かい側から風が吹いてきているようだ、きっとどこかに繋がっている証拠だろう。水音も絶えず聞こえてくる、道は間違っていないはずだ」

 先輩がやや楽しそうに話しました。先輩は意外と冒険好きなのでしょうか。

「この先に、銀子先輩がいるのでしょうか」

「いる気がする。ここの他に滝があるとは考えにくい」

 なるほど、と私は思って、心に力を入れて手足を前へ進めます。

「あ」

 唐突に先輩が声をあげたかと思えば、目の前には誰もいなくなっていました。どうしたことかと思えば、目の前に続いていると思われていた道の途中に、すっぽりと大きな穴があったのです。

「先輩、無事ですか?」

 そう呼びかけてみたものの、答えがありません。私は不安ですくみそうになる足をぺちぺちと叩き、我が体を鼓舞すると、先輩が落ちたと思われる穴の中へ足を踏み入れました。

 そこは階段のようでした。岩の上に岩が重なり、大自然の中で偶然にできた隠し通路なのです。十メートルほど降りると、今までの水音よりも激しい、怪物の唸り声のような音が聞こえてきました。

「まるで龍のようだ」

 足元から小さく、先輩の声がしました。

「無事でしたか!」と声を上げようとした私ですが、先輩の人差し指を口に当てる仕草を見て、のどまで出かけた声を引っ込めました。

 こっちへ、と先輩が手招きし、私を隣へよこしました。先輩の顔をよく見るとおでこの真ん中がやたらと膨らんでいます。

「先輩、たんこぶが」私は少し焦りました。しかし、先輩は気にもしない様子です。

「それよりも、見て」と囁かれ、前方を見ますと、その光景に私は息を飲みました。

 目の前に広がる岩の世界では、舞い飛ぶ水しぶきがわずかな光に照らされ、透明でいて色濃い藍色に染まっています。そして、その中心では、龍が轟然と突き進むように、滝が水を落しているのです。

 頭上の壁から大量の水が溢れ出し、絶えることの無い水流が、洞窟の宙をうねりながら進んでいます。そして一つだけ地面から垂直に突き出されたように重なる一枚岩を、そのうねる水流がちょうど真上から叩きつけるのです。岩の天辺を打ち、分岐する二つの水流は龍が口を開く姿のようであり、まるで、龍が岩を喰らっているようです。

 そして、その天から襲いかかる龍の口の中へ、飛び込んでは、打ち落とされ、また飛び込んでは、打ち落されている一人の姿が、私と先輩の目に、はっきりと映るのでした。

「宇佐は、すごい奴だな」

 先輩がただ、ただ、ただ、そう言いました。

「ええ。すごいのですよ」

 私は、本当は、最初から知っていたはずのに、どこかで、宇佐先輩のことを信頼しきれていなかったのです。

 何度も滝に打ち落とされ、額にはこぶができ、背を打ち、尻を打ち、腕にあざを作ろうとも、銀子先輩は必ず立ち上がり、沈みそうになる足を振り上げ、水龍が喰らう岩を飛び越そうとするのです。あぶないですよ、やめましょうよ、諦めてください、そんな言葉がぽつぽつと浮かぶのに私は、これ以上、足を前に出してはいけない、声を出してはいけないのだなと、そう感じたのです。この透明でいて色濃い藍色の世界へ踏み込んだ人に、私はかけるべき言葉が見つかりませんでした。ただ、その景色に圧倒されて、自分の存在をちっぽけに感じるだけなのです。

 口を噤む私の隣で、先輩は、まじまじと銀子先輩の姿を見ながら言いました。

「そもそも、宇佐のやつは高跳びに向いていないんだよな。あの体質、負の感情で体が地面へ沈み込む超能力、それをもって生まれた人が、誰よりも上へ上へ、高く跳ぼうって、それって結構、阿呆だよな。道理に反している。でも、だからこその、高跳びなんだろうな」

銀子先輩は高く跳ぶことにこだわったのでしょう。沈む自分の身体ごと、持ち上げられる強い人に、なりたいと思って、ずっとずっと、戦っていたのです。

 そんな銀子先輩に対し、私は不安な気持ちしか持てていなかったのでした。

「人を心配するなんて行為は、結局、ただのお節介なのですかね」

 銀子先輩は私が及ばないほど、強い人でした。それを改めて知り、私は嬉しくなりました。ですが、少しだけ自分の行動を悔いる感情があることも確かなのです。

「自分で立ち上がれる人に手を差し出せば、それはお節介だろう。そして本来、人は自分で立ち上がって行くべきなのだ。他人を頼って生きる道に、大きな成長はない」

 先輩が穏やかな低い声でそう言います。

「そうですよね」

 私は少し、俯きました。地面は霧のように飛んで来る小さな水しぶきで濡れており、足の底を深々と冷え込ませてきます。

「でも、本当に立ち上がれるかどうかは、立ち上がってもらうまでわからないからな」と先輩が話を続けます。「ムズカシイよ。全く心配しないでいて、何かあったら死ぬほど後悔するだろうし。『もしかしたら』っていう気持ちが、誰かを救うこともあるだろう。だから、心配というより、見守っていれば良いと、俺は思うわけだ」

 珍しく、先輩が真っ直ぐな良いことを言っているな、と私は思いました。

「でも、心配はせずに、見守るって、どうやってやるのだろうか」

 先輩は自分の発言に疑問を抱き、「うむむ」と腕を組んだのでした。


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