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ミクロサイキック 弾丸編  作者: 髙橋三乃瑠
4/10

Act.4 フリプリ(Fool on pool)

○先輩の見聞 六


 夏休みもすでに三週間目に突入していた。各部活で大会が進められ、勝ち残っている部活と、負けて世代交代した部活が半々といった具合だ。

 そんな真夏の暑さの中、俺は写真部の部室に来ていた。エアコンが無い部室は蒸し暑くて仕方がない。まるで小籠包のように蒸され、今に謎の汁を噴き出して死ぬやもしれない。一つだけある小さな窓は開けているが、それでも気が休まらないのは想像に容易いだろう。さらに、今、俺が手元で動かしているパソコンのハードディスクがウンウンと唸って熱を発しているものだから、室内の熱量はさらに上昇する。俺以外にも部室に数人の男たちがいて、同じようにパソコンを起動させているためさらに余計に熱量が上昇する。しかも男たちがハードディスクに保存するのはモンモンと桃色のエネルギーを溢れさせるSUKEBE写真である。桃色のエネルギーにあてられた男たちが、その心に秘めたるハレンチシズムを熱くたぎらせている。したがって室内温度計は41.7℃と阿呆な数値を叩き出していた。

「プールに行きたいなあ」

 横の男がそう嘆いていた。とても同意である。

「しかし、なあ」

 俺は己の癖毛をむしるように引っ張り、部分的直毛男子となって目の前の画像を見やる。パソコンの画面に映し出されているのは、百の男の意中に必中、君野先輩の姿である。

 それはテニスのユニフォームを着て、ボールを打ち返す君野先輩の姿を映した写真であった。俺が高瀬アザミの写真を撮っていた同じ日に撮られた写真である。仲睦は部活の情報に疎い俺を出しぬき、俺一人に高瀬アザミの写真を撮りに行かせ、自分は他の仲間と共に君野先輩のナイスバディを拝みに行っていたわけだ。いかにも業が深い。

 後日、問い詰めに向かうと「私はあなたを信用しているのです。」と仲睦は言った。

「高瀬アザミの潜在的な桃色を引き出せるのはあなたしかいないと思ったからこそ、依頼したんですよ。」尊敬の「そ」の字も無い、したり顔であった。

「貴様、おだてれば許されると思うな! 俺だって君野先輩の姿をこの目に映したかった」

「あら、珍しく己が欲求を晒しましたね。このハレンチめ!」

「そう意味で言ったのではない。応援しに行きたかっただけだ。」

「うそつき。大会の日程すら知らなかったくせに。」

 クヒヒヒと仲睦が笑った。言い返せなくなった図星男は、そこで仲睦と別れたわけである。

 ただ、やはり残念なことがあった。パソコンの共有フォルダーの中にある君野先輩の写真の質があまり良くないのだ。

「まともな写真はたったの一枚」

ブレたり、ピントがずれたりしている写真や、画面から顔半分が切れてやけ胸だけ強調された写真が多く、まともに君野先輩を撮れていないのだ。唯一惹かれた一枚は、給水ボトルをとろうと屈んだ瞬間に襟元から覗かせた綺麗な鎖骨と柔らかに描かれた胸のYの字をとらえ、かつ、君野先輩のスマートな顔立ち、額をつたう一雫の汗、風にあおられる前髪の一本一本をハッキリと写した、仲睦の写真だけである。


「まあ、及第点と言ったところです。」

 アスガム高校近くのコンビニの歓談スペースで、仲睦はその写真の出来をそう語った。パソコン室の熱さに耐えかねた俺がアイスクリームをなめている所へ偶然、仲睦が来たのだ。

「君野木実の桃色はあんなもんじゃないですよ。我々はあの人から怒濤の勢いで溢れ出す桃色ラッシュを、最高の形に具象化しなければならないのです。そうでなければ、あの人と出会った意味がない」

仲睦はアイスクリームが溶けるくらい熱く語った。概ね、ムネムネと言葉を並べて胸のことを語った。こんなにも熱く語るのだが、当の君野先輩がこの話を聞こうものなら氷点下待った無しという気概で体温が下がるだろう。背筋が凍る思いを通り越し、常温でコールドスリープしかねない。仲睦の桃色に対する向上心の高さは見習うべきかもしれないと思うが、見習って桃色を究めようがその先に待っているのは「変態ヤロウ」という汚名だけだと気が付く。

「それにしても、お前以外の写真は酷くないか?」

 俺がそう言うと、仲睦はそれほど気にしていない様子で「仕方ないですよ」と言った。

「君野木実が躍動的に動く姿を直に見るとですね、みんなして我を忘れて魅入ってしまうわけです。気が付いた時にはシャッターチャンスは過ぎ去っている。ぐひ、滑稽なこと。あの桃色は高校生にはレベルが高すぎるんですよ。もっといろいろと経験を積んだ方でないと駄目です。」

 お前は経験を積んでいるのか?

 そう突っ込みたくなったが、はぐらかされるだけだろうと思い止めた。

「かといって、他の者に高瀬アザミの写真を撮らせても、あなたのように上手くはいかない。」仲睦はニタニタとこっちを見て笑った。

「俺だって別にうまく撮れたわけじゃない」

「確かに、格別な桃色とは違いますがね」

 仲睦が話す高瀬アザミの写真は、俺が試合中に撮った写真ではない。試合が終わり、ユニフォームから着替えた高瀬アザミとその友達が、水道の蛇口からコポコポ溢れ出す水と戯れている写真である。高瀬アザミはTシャツにハーフパンツといった格好であり、Tシャツの袖を肩までまくり、まだ日に焼けていない白い肌と焼けた小麦色の肌、その境目が露わになっている。

「それだけじゃないです。むしろそっちは付属品と言っていい。あの写真の素晴らしさはやはり何といっても脚ですよ。水がかからないようハーフパンツをたくし上げる稀有な姿に、その下から現れる白い太モモ、そしてソックスを脱いで水に濡られた長く美しい素足!

やはりあなたを向かわせて正解でしたよ。彼女の最も美しい部分を的確な構図と明るさで包みこむことで、思わず男に目を向けさせる桃色の輝きを生み出している」

 やはりあなた、ド変態ですね? と仲睦が問う。

 阿呆、この俺が変態なわけあるか。しかもドが付くなんてあり得てなるものか。

「陸上部も同じ日に大会だったと聞いたのだが、そっちの写真は誰か撮りに行ったのか?」

 俺は話題を変える。

「安心してください、桃色に取りつかれた阿呆はあなたの他にもいますから。彼はあなたのようなカメラ技術はないですが、時々ミラクルを起こしてくれるのですよ。根っからのラッキーボーイです。」

 ほへえ、とぼやいて、俺はアイスクリームの最後の一かけらを口へ放り込む。



○君野木実の見聞 二


 テニス部を引退して以来、私はろくに身体を動かさずベッドで寝転んだり、気が向いたら勉強に手を付けたりといった生活をしていた。すると、今までそれなりに保っていた運動能力がみるみる失われていくような感覚になり、何となく外へ出たくなったわけだ。テレビでは、最近になって近所で相次ぐ発砲事件の謎に迫っている。死人は出ていないものの軽傷者はいるという話だ。未だ犯人は逃亡と犯行を繰り返しているようだった。「心配でしょ?」と問われれば「まあ、そうだ」と答えるくらいには興味を持つが、あまり明るい話題じゃないから、見ていてもつまらない。

 荷物を肩にひっさげて玄関から外へ出ると、向かいの家に住む中学生の男の子と目が合った。男の子は「こんにちは!」と少し上ずった声であいさつすると、急いで自転車に乗ってどこかへ消えた。私は何も言わずその姿を見送った後で、彼が歩いていたあたりの地面を撫でてみる。

「うわー」と思わず声が出た。どうやらその中学生は二週間後、私に告白するらしい。時々あいさつするだけの関係だろう、どこに勝算を見出したんだ、あいつ。

「・・・・・勝算、ですか。」

 そう口にして、後輩君が阿呆面で空を眺める風景が思い出された。いつかの、名前も知らなかったような男に告白された日、またも私の隣で恋愛裁判をやっていた後輩君が去り際に言っていた言葉だった。

「告白を試みる男の脳内に限って言えばですが、勝算なんて、最初から有って無いようなものなんですよ。」

 何も達成してないくせにどこか達観したようなその後輩の口ぶりを思い出すと、フッと、笑いが込み上げて来た。



○三黒紗伊子の見聞 六


 若い男が真正面を向いて叫ぶ姿が、テレビの液晶画面に映し出されます。

「『なせば成る』なんて、そんなカッコイイこと言える奴なんてのはね、実は頭の中がお花畑なんだ。この世の中にはね、なにしても、なにしても、まったく成せない人がたくさんいるんだ。そしてその人たちにはもうこれ以上、成す術なんて無いわけだろう? そんな辛い心境の時に『なせば成る』って言われてみろ。残っていた力の全部が抜けきって、もう立ち上がることも出来ない!」

 初めて見た、先輩の作った映画のDVDを見ているのです。悪役の青年が主人公と対決する直前に放った言葉です。この言葉を聞いた時、私はズッキューンと胸を撃たれたのです。何度聞いても、胸がズンと重たくなります。

 そうなのです、この世に生きる人たちは、本当は、みんな頑張っているのです。でも、結果が伴わなくて「駄目なやつだ」と言われ「怠けるな」と言われるのです。一日一日を頑張って生きて、ちゃんと疲れているのに「人生を無駄にしている」みたいなことを言われるのです。それはとても辛いことです。

では、『成す』とは何なのでしょう。

 テレビの中で悪役の男は言いました。

「それでも『成せ』っていうから俺なりに考えて成してみたのさ! そしたらお前らは、寄ってたかって俺を悪と言う!」

 よく見れば先輩なのです、この悪役を演じている人は。分厚い化粧でやけに肌が青白く、髪型もカツラを被っているので長く、髭も濃いですし、声色も変えているので一見誰なの判断できないのです。しかし、一シーンだけ、髪が流れる瞬間を切り取ったそのシーンに映る瞳を見ると「あ、先輩だ」と気が付くのです。阿呆なことを全力でやってのける先輩の淀んで、淀んで、淀み切ってしまった瞳を見ると、いつも、胸がぎゅーっとなるのです。銀色の弾丸を撃ち込んでやりたくなるのです。

「殺したいならそうしろ」ざあざあと降り注ぐ雨の中、先輩がそう叫びます。「でもな、死してなお、俺は変わらないぞ。生まれ変わってもまた阿呆な子供として学校生活を送り、人には見せられない成績で卒業して、でもそんな俺にも何か出来ることはないかと社会を歩き回って、あ、やっぱり俺はダメな奴なんだと悟って、それでもただ死を待つなんてことは出来なくて、醜く足掻きながら日々を生き抜くのさ。そしてまた、お前らみたいな奴に抹殺されていく。存在ごと! 生きていた証ごと!」


 話は一八〇度変わりますが、私には小さな弟がいます。その弟が、朝から「プール! プール! お姉ちゃん、プール!!」と騒ぎます。お昼ご飯の焼きそばを食べても、眠くなる様子がなく「プール」を懲りなく連呼します。次第に「プール」が「フール(fool 英訳:馬鹿)」に聞こえて来まして、「お姉ちゃんフール」と弟に言われると、ムキー!! となるのですが、英語を知らぬ弟に文句のつけようはなく、このやりきれない怒りを消すにはプールに向かうしかないのか、と最終的に弟の思惑通りに事を運んでしまうのでした。

 しかし、行ってしまうとなんだかんだと楽しんでしまう性分な私は、ジリジリな日差しの下でワシャワシャと弟と水をかけあって遊ぶのでした。

「呑気なものね。」と私は水中に全身を沈めながら、そう思いました。プールの底、と言っても児童用プールですので水深五〇センチもないのですが、その水底からゴーグル越しに上を見ると、青と白の揺らぎが一面に広がって、やさしく私を包んでいるのです。水は音もまた遮断し、外の喧騒から私の耳を塞ぎ、穏やかな空間を作り出します。

 まるでこの世じゃないみたい。

 横を向くと無数の足が見え、それら全ての足が楽しそうにステップを踏んでいるのでした。

 そこへブクブクブクと音を立てて弟の小さい顔が現れました。私を追って水中に顔を埋めたようです。キャッキャと笑っている表情が本当に愉快気でして、ずっとこんな顔をして笑える弟であって欲しいなあと、姉らしいことを思います。しかし、弟が私の上に乗っかって座るものだから、私は慌てました。待って! もう息が続かない!!

 私はくるんと身体を回して弟を振り払うと、バッと顔を上げました。

「児童用プールで溺死は恥ずかしいですよ流石に。たとえ、あんぽんたんな私でも」

 ぜぇ、はぁ、と肩をゆらします。弟はと言えば私の動きにビックリして水を飲んだようで、ぎゃふっと咳き込んでいましたが、顔は笑っていました。小学生にもならないのに、弟にとって水は良きお友達でした。私が幼稚園生の頃なんて親に支えられていたとしても、半身が水に浸かろうものならギュウッと目を瞑って、辺り一帯にじたばたと、バシバシと、シャドウボクシングをしたものです。史上最年少の女子プロボクサーになれるとちまたで話題の女の子でした。ほわちゃー。



○先輩の見聞 七


「皆でプールに行くことになったみたいですよ」

仲睦がスマホの画面を見て言った。

「皆って、いつも写真部にいる阿呆な男どものことか?」

「それ以外に誰がいるっていうんです? あなたの周りに」

「自分には他にもいるみたいな言い方をするな」

「なんだか不機嫌そうですね、乗り気じゃないのですか? プール」

「男だけで行った所で何が生まれる」

「あなたの場合、女性と行っても何も生まれないでしょ」

「△○※◆□●◎★! ☆☆※×××!!」

「プール行きましょうよぉ、フール」

「おい、今、馬鹿って言ったろ」

「一四時に現地集合ですって」

 はいはい、一旦家に帰って水着をとって来ますとも。



○若樹クルミの見聞 二


 八月十日、お盆前の最後の練習日となるこの日は毎年、午後からサッカー部全員でプールに行くという恒例行事があるらしい。したがってぼくも同行するわけだ。

 ぷはっとぼくは水面に顔を上げた。ゴーグルを外すとお日様が森の木々を照らし、生い茂る緑の葉を艶やかに光らせる、なんてことはまるでないのだけれども、気分的にはそんな感じだった。ぼく、若樹クルミにはそんな、ちょっとした想像力がある。妄想とは言わないで欲しい。五〇メートルプールのはじっこにもたれかかって、ぼくはフーッと大きく息をはく。しばらく泳ぎっぱなしだったから、息が上がっている。少し深いこのプールのはじっこでもたれかかると、泳ぐ動作をしなくても足が水中に浮くので楽だし、楽しい。ただ、近くのプールサイドにいた子連れのママさんたちが「あの子の泳ぎ、見た?」「見てた見てた」「小学生なのにすごい速かったね」「しかも結構長く泳いでいたわね、小学生にしては。」と話していたのがムナシイ。

「遊びに来たのに練習?」

 突然、頭上から声がかかる。ビックリして顔を上げると、長く綺麗な素足が目の前で日差しを浴びて煌めいていた。

「アザミ先輩」

 そう、かろうじて声が出て良かった。黙って女の人の足を見ていたら変態の極みだ。黙ってなくても見ているだけで変態だけれども。

 目の前に立つアザミ先輩はもちろん水着であり、それほど露出度の高い水着出なかったとはいえ、ぼくの心臓はのど元まで飛び出して、戻って来なくなった。しっとりと濡れた姿がなんだか色っぽくて見惚れてしまう。ぼくは、お餅をぷくんと膨らませてしまうくらい熱で頬が赤まる、稀代のシャイボーイなのだ。したがって、もったいないと自覚しながらもつい目を逸らしてしまった。でも、真っ赤っかな顔を見られるよりはいい。

 しかし、アザミ先輩はじっとぼくを見て来る。……んー? …なんで? ……ど、どうしてだろう、なんだかとても恥ずかしいよ。顔がどんどん赤まっていくよ。アザミさん、はやくどこかへ行ってくれないかな、でもこのまま一緒にいれたらいいな。うああ、顔が熱い。プールの中に沈んでしまいたい。でも今そんなことをしたら変な人だと思われる!

 アザミ先輩が肩にかかる濡れた黒髪を手で優しくはらう仕草をするのがわかった。

「遊びに来たのに練習?」とアザミさんが首をかしげた。

 あ、そうか、質問されていたんだった! 二回も同じことを聞かせちゃったよ!

「練習というか、プールに来た時の癖と言いますか。」

 ぼくは、小学校を卒業するまでサッカーに加えて水泳を習っていて、純粋に泳ぐことが好きになっていた。したがって友達とプールに来たりするときでも、皆が休憩している間に一人で五〇メートルプールを何往復か泳いだりしている。そういうような話をするとアザミ先輩が「変わってるね」と言った。

「でも、理由がわかったよ」

「理由ですか?」とぼくは思わず聞いた。

「クルミって一年生の中だと持久走いい方でしょ。身体小さくて軽いからなんだろうなと勝手に思っていたんだけど、ちゃんとした理由があったんだね。」

 何だか少し、照れくさい。しかしすでに頬は赤い。

「でも、水の中が好きだとは意外だった。クルミはてっきり、森の中が好きなんだと思っていたから」

「え? どうしてですか?」

「だって、リスになるんでしょ?」

 あまり笑った顔を人に見せないアザミ先輩の目が少し細まり、口もとが緩んだように見えた。

「なりたくてリスになったわけじゃないですからね!」

 でも、文化祭では見に来てください、と、言え! それくらい言え! ぼく!!

「おーい、クルミ。一番デカいウォータースライダーやりに行こうぜ!」と男友達の声がかかって、ぼくはのど元まで出かかった言葉を引っ込めてしまった。ついでに飛び出したままだった心臓も戻した。

「うん、行く」とぼくは小さく肯いた。

「アザミ先輩も行きましょうよ!」と女子部員たちも集まって来た。「来てください」「行きますよね?」「レッツ・ゴー」「はやくはやく」「浮き輪に乗って滑るんですよ!」「絶対楽しいですから!」「カモンカモン」とあちこちから声が飛んで来た。「わかった、わかった」と応えるアザミさんに「わーい」と歓声が上がる。


 男友達が雄叫びを上げながら穴の中へ落ち、勢いの強い水流にのまれていく。いよいよぼくの番だという次の瞬間、幸か不幸か、ウォータースライダーの係員は奇跡の言葉をぼくに言った。

「ごめんねー、小学生以下は一人じゃ滑れないんだ。浮き輪が大き過ぎるからね。」

 後ろの女の子たちが笑いを堪えて口を抑えるのがわかった。ぼくはもう恥ずかし過ぎて言葉が出てこないし、悔しいのもあってだんだん涙が溢れそうになって来た。そんな時、ぼくの肩にポンと手が置かれた。

「あの、すいません、私たち姉弟なんです。」

 突然、アザミ先輩が後ろからそう言ったんだ。

「あ、そうなのね、じゃあ一緒に乗って」

 係員は疑うこともなくぼくとアザミ先輩を浮き輪へ誘導する。

 後ろにいる同級生の女の子たちがポカンと口を開けている。ぼくだってそうだ。ただ一言「まじかいな」と心でつぶやく。

 その後、ぼくがどのような心境で浮き輪に乗り、水に流され、身体を揺さぶられ、心を揺さぶられたのか、詳細を語ることはやめておきます。スライダーから飛び出してプールに着水する瞬間に、アザミ先輩の両足がぼくをぎゅっと締め付けたこととか、それをどこかで見たような男子高校生、カメラとかが好きそうな男子高校生達に羨ましそうに見られていたこととか、友達にも、親にも、誰にも、絶対に話すものか。話せるものか!

 ザッパァーンと、盛大に水しぶきが上がった。



○先輩の見聞 八


 ザッパァーンと、盛大に水しぶきが上がった。

 その光景に、俺は羨望の眼差しを向けざるを得なかった。

 何が悔しいかって、素直に見惚れてしまった。ただ、それに尽きた。


 そうかい、そうかい、阿呆なのは俺の方だってかい? 

 俺はブツクサと文句を垂れたい心持ちでプールを泳ぎ、すぐに疲れたのでプールサイドの端に座った。他の男友達はプールに来なかった。否、ここのプールには来ずに、別のプールに行っていた。電車で二〇分くらい行った街にある、ウォータースライダー付きのちょっと御高い私営プールに行っていたのだ。一方私が来たのは五〇円で入れる御近所の市民プールである。スライダーどころか流れるプールもない。水着をとりに一旦家に帰った俺は、十五分ほど遅刻した。入り口にはもう誰も待っておらず、すでに中に入ったのだろうと思い、すぐに五〇円を受付に支払って更衣室へと入った。そそくさと着替えをすましてプールへと駆け出した。

 そして、男どもがいないことに気が付いたわけだ。ブー、ブー、ブーと音を立てて、防水パックに入れたスマホが震えた。

「もしもし?」

「仲睦か」

「あなたまさか、市民プールの方へ行きましたね?」

「予想できたならもっと早く言ってくれ」

 まったく、わざわざ電車に乗って私営プールに行くとは、高校生のくせに御高く留まりやがって! そう喚いてみると「市民プールごときにナイスバディガールがいるもんですか。桃色思考を巡らせれば、普通に考えてこっちに来ますよフール」と言って切られた。


 プールサイドに座り込んでボケ~っとしながらプール全体を見回すとたしかに、若い女なんてのはいないに等しい。ほとんどの客が親子連れであり、子供用プールはスクランブルエッグのようにわちゃわちゃだ。そして少数のご老人方が二五メートルプールで泳いでいる、のではなく歩いている。

 たしかに、男子高校生には刺激の小さいプールであった。

 そんな時だ。

 ザッパァーンと盛大に水しぶきが上がった。ウォータースライダーなど無い、ただの二五メートルプールで、そんな盛大に水しぶきが上がることなんて滅多にない。飛び跳ねた雫の球が透明に輝きながら、俺の頬を濡らした。しかし、まばたきなど出来なかった。飛び込んできた光景に、羨望の眼差しを向けていた。目の前のプールから人影が浮かび上がったかと思うと、白く大きく、それでいてマシュマロのように柔らかそうな物体が目に入ったのだ。その物体は両脇から赤い三角の布生地に包まれ、不可思議で神秘に満ちた谷間を作る。そして手を伸ばせば届きそうなくらいの所でぷるぷると揺れた。純粋に桃色に狩られた。それがどうにも悔しかった。

「どうした後輩君、お母さんとはぐれたのかい?」

 君野先輩がニッと笑った。

 おいおい、仲睦、話が違うぜ。

 彼女は潜水までしてプールの底から忍び寄り、俺を驚かせようと水面に飛び出したらしい。意外だった。この人にも、他人と戯れたりすることがあるのだな。そう感慨深くなった。

 君野先輩は水滴をはらうように一度、首を大きく振った。すると幽玄な青空を引き裂くように、君野先輩の長い黒髪がしなって宙を舞った。再び、一粒の水滴が俺の頬に当たる。わざと当てたようだった。君野先輩のくちびるにわずかな隙間が生まれていて、微笑していることが知れた。その瞳は、空の色を吸い込んで青く染まっている。その瞳の隅に俺が映っている。己の中にある嬉々とした感情に気付いたと同時に、馬鹿だなと思った。頬に付いた水滴が音も無く落ちていった。

 その時あたりからだ。青春の歯車がカラカラと回り始めたのである。



○君野木実の見聞 三


 少し驚いたような顔で、後輩君は私を見つめた。どこを見つめていたのかについて語る余地はない。何故なら彼は変態だから。

「あきらかに場違いですよ。」後輩はそう言った。

「どうして?」という私の質問に、彼は答えなかった。断固として答える意志を持たなかった。

「ところで後輩君、君こそどうして、一人ぼっちでここにいるの?」

「友達とプールに行くことになったのですが、行き先が違いまして」

「阿呆なの?」

「反論はしません」

 後輩の隣に人間二人分くらいの間隔をあけて座った。

「テニスの大会、三位だったそうですね。」後輩君が前を向いたまま言った。

「おめでとうございます。」

「どうも。」と私は簡単に応える。「インターハイには行けなかったけどね」

「十分すごいですよ。俺なんて、どこに行こうともしていませんから」

「映画は? 賞とか狙わないわけ?」

「あれは、ただの感情表現です。賞を取ろうとか、そんなことは考えていない」

 何それ、意味わからない。

「じゃあ、水着写真の撮影は?」そう聞くと、後輩君は面白いくらい簡単に慌てた。

「阿呆なことを口にしますね、何の話ですか?」

「てっきりそういう目的でプールに来たのかと思って。」

「君野先輩は、俺を仲睦と同類の生物として考えているようですが、違いますからね。DNAからして、一つも同じものがありません。」

「それ、どちらかは完全に人間じゃないけど?」

「ええ、俺が人間で、奴は悪魔です。」

 ほんとこの人、馬鹿みたいに意味がわからない。

「でも、写真は撮るのでしょ? その首からかけているスマホとかで」

 ほら、やっぱりハレンチだ。そう言ったら彼は「友達との写真を撮ろうと思っただけですよ」とかぶりをふった。

「じゃあ、私を撮ってよ。」

「え?」と後輩君が声を漏らした。喉から出たとは思えない、素っ頓狂な響きだった。顔は驚きで固まっていた。彼だけじゃない。私は私で、困っていた。まるで、小学一年生みたいだ。元気いっぱいに手を挙げたが良いものの、先生に指されると急に黙り込んでしまい、結局「わかりません」と言って席に座る。本当に、謎の行為。

 ふたりはしばし、無言で互いの顔を見合っていた。やがて後輩君が手を動かし始め、スマホのカメラを私の前で掲げた。

 レンズに映る自分の顔が、見たことないくらい、ヘニャッと曲がっている。すごくブサイクだった。



○三黒紗伊子の見聞 七


 流石の夏休み、十六時を回っても日差しギラギラ! 水面はキラキラ! でもって喉はカラカラ! そんなわけで私は泳ぎ疲れてヘトヘトになった弟をつれて、自販機へ向かって歩きます。

 自販機の前に着くとちょっとした列が出来ていました。みんな考えることは同じかあ、と物思いに耽っていますと、向かいのプールサイドに座っている男の人が目に入りました。水に濡れているにも関わらず、なおもぼさっと伸びる髪の毛に「先輩ではないですか!?」と内心驚きます。ここで会ったが百年目、そのオマヌケな脳天に銀の弾丸を撃ってあげようと、内モモに携帯している拳銃をとって構えました。

 すると、銃口の先にもう一人、女の人の姿が見えるのです。本当にそれ、日本人のモノですか? と問いたくなるお胸を、鮮やかな赤い三角の水着がグラマラスに覆っています。その女の人が顔を横に向けて、私の視界にはっきりと顔を映した時でした。

 プツンと、ステージライトが切れるように私の視界が陰ったのです。見上げると空に一つだけある小さな雲が、ちょうど太陽を隠すように流れている所でした。

 手に持つ銀色の拳銃が、突然重たくなって、構え続けることが出来なくなります。だらんと手が下へと垂れて、拳銃を持っているのがやっとでした。

 だんだんと、目に映る先輩たちの姿が小さくなっていきます。

「お姉ちゃん、前」と弟が手を引っ張って私を列の先へ促します。

「ああ、ごめん」

 私は自販機の方を向きました。向いてしまうとなおさら、背中越しの先輩たちが小さく感じるようでした。いや、違う。先輩が小さくなっているのではなく、私が遠ざかっているのだと気が付いた時にはもう、手元から拳銃は消えていました。

 撃ちたいと思った時に撃てないなんて、初めてでした。

 太陽を隠していた雲が、いつの間にか遠くへ流れていました。それでも、どこか視界が暗いのでした。



○先輩の見聞 九


「君野先輩は、芸能人とかにはならないでください。」

 スマホの中に保存された一枚の写真を見ながら、俺はそう言った。

「…………なんで?」と君野先輩が問う。

「きっとあなたは、立つ場所に立てば、たくさんの男の心を支配できてしまう。その掌握力はおそらく、あの邪馬台国の女王・卑弥呼にも勝るでしょう。そんなあなたが男を先導して反乱を起こそうものなら、この国は終わりです。」

「反乱って、何それ。突然すぎ」君野先輩はそう言って、ケラケラ笑ってしまった。

 ふと前を向くと自販機が目に入って、さっきまでそこに見知った誰かがいたかのような気がした。でも、それが誰なのか、そもそも、どうしてそんな気がしたのか、あんぽんたんな俺にはわからない。

 ただ、歯車は回りだした。風が吹いても吹かなくても。


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