Act.3 スポーツマンヒップ
○三黒紗伊子の見聞 四
期末テストが終わり、いよいよ待ちに待った夏休みが始まらんとしています。窓には陽光を浴びて気持ちよさそうに枝を伸ばした木々の緑が写り込みます。教室では今か今かと夏を待ちわびるクラスメイトの皆さんの首が、キリンの如く上へ上へと伸びていくようです。そんな、どこか浮ついたような雰囲気を纏いながら、私達のクラスはホームルームの時間に話し合いをしています。議題は秋のアスファルトニガム国際高校文化祭におけるクラスの出し物についてです。
お化け屋敷、カフェ、演劇などと、様々な意見が飛び交いますが、どの企画もクラス全員を納得させるにはワクワクさが足りませんでした。
私の隣に座る男の子も企画に悩んでいるのか、ぽけ~とした顔で天井に架かる蛍光灯を眺めているのでした。彼の名前は若樹クルミと言います。男の子ですがクルミという可愛らしい名前を両親から授かり、本人は少々ご不満のようです。しかし、クルミ君の容姿はその名に恥じないほど可愛らしいのでした。ご両親のネーミングセンスには「あっ晴れ」と言わざるを得ないでしょう。クルミ君は身長一四〇cmほどと男の子の中でも特に小さく、女の子を含めたクラスの誰よりも小さいのです。そして赤ちゃんのようにムニムニな白い肌とつぶらな瞳からは、愛くるしさがムンムンと溢れ出します。クラスの人達からも、ふとした瞬間に頭を撫でられたり、頬をつつかれたりと、まるでクラス全員の弟のように扱われているのです。
そのクルミ君がふいに、フフフと楽しそうに一人で笑いました。私は何か妙案が浮かんだのかと思い、「何か思いついたのですか?」と尋ねました。するとクルミ君は笑っていたことを恥じるように口元を手で押さえて「あ、ごめん、今のは、違うんだ。」と言いました。しかし、私達のやり取りを見ていた学級委員の人がクルミ君に言いました。
「クルミちゃん、何かアイデア浮かんだの?」
ちゃん付けで呼ぶな!とクルミ君は怒りましたが、その訴えは誰の耳にも届きません。
「え、なになに?」「どんなアイデアなの?」「言ってみてよ!」とクラスの隅の方からも声が飛んで来ます。
「いや、アイデアって言われても」とクルミ君はオドオドしましたが、クラスメイトの期待に満ちた瞳、詳しく言いますと、可愛い弟が何やら可愛らしいことをするんじゃないかと期待してウキウキした瞳の輝きに負けたようです。たった今浮かんできたアイデアを適当に口にしたような感覚で、クルミ君は言いました。
「ど、動物園なんてどうかな?」
「「「かわいい~」」」
クラスの女子数人がそう言って笑いました。カワイイって言うな!とクルミ君が頬を膨らせました。
「動物園か、俺は好きだぜ」と男の子たちからも声が上がりました。
「いやー、でもな」「小動物限定にしたって、教室でやるには限界があるな」「うーむ」「だいたい、動物を集める費用ってどのくらいかかるんだ?」「高校生にどうにかできる値段じゃないだろう」「飼育だって面倒だぞ」「文化祭後も育てる余裕はないよなあ」「無理か」「駄目か」「却下だな」「ドンマイ、クルミちゃん」「ドンマイマインド」
しかしそこで「待って!」と女の子の張り切った声が飛び込みます。
「なんだなんだ」「まだこれ以上議論する余地があるか?」「ないと思うが?」
「待って、待って」「まずは、話を聞いて」「聞いて驚くことなかれ」「動物なんて必要ない!」
「?」
「?」「?」
「?」「?」「?」
「クルミちゃんが動物の衣装を着て檻に入るのよ!」
むむむむ? とクラスの雰囲気が一変しました。
「クルミちゃんがコスプレするわけか」「例えばウサギとか」「檻の中でぴょんぴょん跳ねるのね!」「そして、客から与えられた生野菜をボリボリ食うわけだ」「それは面白そう!」「決まりだな」
満場一致でした。クルミ君が小動物となって教室内をちょこまかと動き回る姿を想像すると、失礼ながら大変可愛らしいに違いないのでした。
「待ってよ!」と悲劇のヒロインのような声で、クルミ君が叫びました。「その企画、俺だけ辛すぎないか!?」そしてやるならライオンがいい!
「でも、多数決で通るぜ、この良企画は。」と学級委員が言いました。そこで私は高く手を上げ言ったのです。
「私も、カンガルーになりたいです!」
○若樹クルミの見聞 一
「やっぱりウサギじゃなくてリスにしようよ」というある女子の発言により、ぼくは文化祭でリスになることになった。柔らかいほっぺたが決め手らしい。
放課後、グランドに出るとぼくのクラスのベランダに二人の女の子が見えた。教室に居残っておしゃべりしていたんだろうか、今はどうやら、風に当たって涼んでいるみたい。その二人の女の子がぼくに気が付いて、こちらを見て手を振って来た。そして一言二言、言葉を交わして笑っていた。きっと、「クルミちゃんがサッカーって似合わないよね」とか、そんな感じの会話なのだと思う。
あ~、またムカムカしてきた。
みんな、ぼくを年端もいかない小さい子として扱う。男なのに「ちゃん」を付けて呼ぶし、よく頭をなでなでする。背が低いからって、精神年齢も低いとは思わないでほしい。ぼくは夜中に一人でトイレに行けるし、立派に箸だって使える。だいだい両親からして、どうしてクルミなんて女の子みたいな名前を付けた。クルミと名付けられるくらいなら、ダイズと名付けてくれた方がまだ男らしくていい。まあ、そんなことはどうでもいいんだ。でもね、別に誰がどんなスポーツやったって良いじゃないか。似合わないとか、余計なことを言うな!そんな思いを込めてボールを蹴飛ばした。
しかし実際、サッカーをやっていく上で身体が小さいというのは不利に働く。低い背ではヘディングで空中戦に参戦することができないし、華奢な身体では簡単にボールを奪われてしまう。良い位置でボールをもらって前を向いても、相手のディフェンダーが一人いるだけで、巨大な壁にゴールへの道を閉ざされている様だった。したがってぼくは、いつも満足できるプレーを出来ないでいた。
「試合中さ、どうしてかクルミちゃんの姿を見失うんだよね。やっぱり小さいからかな?」
そう同級生の友達にからかわれた。
「ぼくはそんなアリンコみたいな奴じゃないよ!」
「まあまあ、カッカするなよ」と友達は笑う。「小さくて可愛いのだって時には得だろ?クラスの女子どもみんな、クルミにきゅんきゅんじゃんか」
「ぼくはカッコよくありたいんだ!」そう、それはRPGの主人公のように。
「無理無理、たとえ勇者の剣を持ったって、クルミは敵に捕らわれるお姫様にしかなれないさ」
なんだと!? ムキ~ッ!! とぼくは怒りを露わにしながらサッカーボールを片付けて、部活を終える。それがいつものくだりだ。体育倉庫で女子テニス部の同級生から「怒っていても可愛い」と言われ、同級生の先輩が「あ、この子が例の小っちゃい子か!」と言うので、ぼくの顔が赤くなる。もう嫌だ、帰って早く牛乳を飲もう。
「でも、弱いことを身長のせいにはしたくないのでしょう?」
それは数週間前、女子サッカー部に所属する二年生の先輩、高瀬アザミさんが帰りのバスでぼくに言った言葉だ。
「はい」とぼくは答えた気がする。「じゃあ頑張るしかないよ、クルミ」とアザミさんは言っていた気がする。
アザミ先輩は最初から、ぼくのことをちゃん付けしなかった。だからなのか、ぼくはアザミ先輩のことが好きだ。
○先輩の見聞 五
ついに夏休みが始まった七月某日、アスファルトニガム国際高校から十キロ離れたここ、エンセキデジコル学園の校庭では喧しい蝉の声をBGMにして高校女子サッカーの試合が行われている。校庭の端に立っているだけで熱い日差しがじうじうと俺の体細胞を焦がすのが実感できる。たぶんあと五分後には骨と皮だけになって、他の成分は蒸発して空気中に放出されていることだろう。コートの中をボールの行方に応じてクルクルと駆け回る女子達が、溶けるどころか、けして走ることをやめないのが驚きだった。やはり、三年生にとっては最後の大会となる夏のトーナメント戦だけに、力が入っているようだ。
「しかし、少し桃色からは遠くないか、高瀬アザミ」
数日前、仲睦が俺に写真を撮るよう薦めた女子が彼女、高瀬アザミである。
それは終業式の日のことだった。
「あなた、どうせまだ一枚もSUKEBE写真を撮ってないんでしょ。そもそもこのまま一人も撮らないつもりでしょう?」と仲睦が言った。「ぎく」なんでわかった、と俺は内心動揺する。
「あなたの考えることなんて全てお見通しなんですからね」
仲睦はニタッと笑うと、ぐぐぐと顔を近づけて来た。「どうせろくでもない正義感でも芽生えたのでしょう?」
違うと言えば、嘘となる。
後輩である三黒さんをヨコシマな目で見ないためにも写真を撮らないと心に決めたのが昨日であった。「三黒さんを悪魔の手から守れ!ハレンチな男どもを蹴散らせ!しかるのちお前も去れ!」と天からのお告げがあり、俺はそれを忠実に守ることにしたのだ、最後以外。そして三黒さんを撮らない時点で、煩究煩コンテストの企画に参加する気力はゼロに等しい。
「しかし、そうはいきませんよ」と仲睦が人間になりすました悪魔のような顔をして言った。
「これは、私が撮った写真です」
仲睦に差し出された封筒を開けると、三黒さんが走り高跳びのバーを越える瞬間を切り取った写真が入っていた。
「オイ、これは」まさかすでに悪魔の手が及んでいるとは計算違いだった。しかし、「安心してください」と仲睦は言う。「その写真は流出させませんよ。だって彼女、全然スケベさが足りないんですもの」
確かに、背面飛びでバーを跳び越す三黒さんを捉えたこの写真は、彼女の頭から胸にかける上半身を大々的に撮り収めているにもかかわらず、ハレンチな桃色の雰囲気を纏っていない。
「これではただ、走り高跳びの練習を頑張っている女の子の写真ですよ。」関東平野、恐るべし、と仲睦がため息をついた。
「阿呆、普通だからこそ良い写真なのではないか」俺は写真を封筒にしまうと、ありがたく頂戴してカバンに入れようとした。しかし、仲睦が封筒を俺の手から剥ぎ取った。
「これはあなたがきちんと仕事をしたら差し上げますよ」
「せこい奴め」
そう言った俺の言葉を無視して、仲睦は「あの子とかどうです?」とSUKEBE写真の被写体候補の女の子の話をはじめた。
仲睦が推しただけはあり、高瀬アザミには阿呆な男子の心を躍らすにこと足りるポテンシャルがあった。端正な顔立ちと長く伸びた黒髪も良いが、それより何よりスタイルが抜群に良いのだ。スタイルだけで言うのならば君野木実に勝るかもしれない。180cmを超える高身長というだけで他の女子を圧倒するが、ぽよんと膨らんだ乳を持ちながらもスッとたたずむ綺麗な背中、キュッとしまった腰回り、ポン! と弾けるような可愛いお尻、それからすらっと長く伸びつつ、むちりと引き締まったふともも。彼女の素足を見たならばその美しさに魂が抜けること必須であろう。一緒にスケートリンクに出かけたい、そんな感じの美脚乙女である。
ただ、サッカーの試合に臨む彼女の姿からは桃色の雰囲気があまり感じられなかった。高瀬アザミのポジションはキーパーであり、キーパーというのはサッカーで唯一長袖を着るポジションなのある。いくら高いポテンシャルを持っていても、それが隠されては桃色効力も半減してしまう。そして、これは全ポジションの選手に言えるわけだが、スポーツに魂を打ち込んでいるために、男を惑わそうとする妖艶さが欠けていた。
まあ、それでいいのだ。選手なのだから。桃色なんて見せないで、ボール捌きとチームプレーで魅せてくれ。
その時、敵チームの一人が右サイドから中央の空いたスペースに駆けこんでボールをもらった。ワアアア! と敵チームのベンチが沸く。ボールを受けた彼女は足が速く、そのままボールを持ってゴール前へ駆けていく。急いでかけつけたディフェンダーのスライディングをかわすと、スパンッと素早く足を振り、ゴールの右隅をめがけてボールを蹴り放った。鋭いボールが右のネットを突き刺す寸前、高瀬アザミの長い脚が跳ね、腕が伸び、その指先がボールを弾いた。
ふわああ! と味方ベンチから安堵の声が漏れる寸前、俺は反射的にシャッターを切っていた。カメラの画面に目をやるとそこには、スポーツに魅せられ、スポーツで魅せた、一人の美しい女性がいた。
「SUKEBE写真とはほど遠いが、これはこれで」ありだな、と思ったところへ小学生くらいの童顔の男の子が少し恥ずかし気に声をかけて来た。
「あの、その写真、あとでもらうこと出来ませんか?」
ん? と疑念が沸いて男の子の背負っているカバンに目をやると「アスファルトニガム」と書かれていた。
「何だ君、うちの学校なのか」ならば話は早い。「君、名前は?」
「若樹クルミです」
「若樹ね、了解。文化祭の時、西校舎三階の写真部の部室に来てくれ。怪しげな表札のかかった扉が、男にしか見えぬ桃色の妖光を放って構えられているはずだ。訪ねてくれれば、いい値で売ろう。」
「お金がいるんですか?」
「ああ、写真部の部費に回すんだ」ときまりの良い嘘をついておく。
すると若樹少年は「お金いるのかあ」とため息をつきながら去っていった。しかし、その顔には「買いに行きます」と書いてあった。
わははは、これはラッキーである。お金を稼げる上に新たな恋愛裁判のターゲットも発見できたのだ。
すると、わあああ! とグランドに歓声が沸いた。どうやら、味方チームが点を決めたらしかった。
○君野木実の見聞 一
後輩君が呑気に女子サッカーを見ていたその日、私、君野木実はテニスコートの上にいた。三年生の私にとって高校最後の大会だ。相手から少し気の緩んだような球が来たから、思い切り打ち返してやる。すると、相手のラケットが追い付く間もなく、球がコートの内を跳ねて敵側フェンスに突き刺さった。
途端に味方の応援席から「グラマラス!」「ビューティフォー!」「エキセントリック!」と声が上がる。勝手に作られていた私のファンクラブの団員からの声だ。お前ら普通にナイスショットとは言えんのか、と腹が立つ。そしてあちこちからパシャパシャとシャッター音が聞こえて来た。どこからともなく桃色の気配を感じた。
他のテニス部員は?と観客席をチラ見すると、スマホをいじっている女子部員たちが目に映った。
「そんなもんだよね、私のテニスなんて」
その時、バキューンと銃声が聞こえたような気がした。音があった方を振り向くと、少し癖の付いた黒髪ショートカットの女の子が、私に向かってピストルを持つようなポーズをしていた。彼女は私と目が合うと、あたふたとしながらお辞儀をして、スタコラサッサとその場を去った。
その試合を、私は危なげなく勝った。
今大会で私は三位になった。インターハイにギリギリ、届かなかった。
「惜しかったね、試合内容は今までにないくらい良かったよ」顧問の若い男性教師がそう言って私の肩に手を置こうとしたから、平手打ちでその手を弾いた。
○三黒紗伊子の見聞 五
じりじりと照り付ける日差し、無限に青い空、みんみんと鳴く蝉、観客席からの声援、陸上競技場の赤い地面と、伝わって来るたくさんの足音、そして高鳴る私の鼓動。それら全てをぎゅっと抱きしめて、私はムキムキとパワーを生み出すのです。さて、いざゆかん、ポールにかかるバーの上!
息を吸って、吐いて、また吸って、そして駆け出すのです。
タッタッタッと、走り始めはウサギが小さく跳ねるイメージ。次いで、タンタンタンッとバンビが軽快に跳んで行くイメージ。そしてバーとマットの手前、グワッと水鳥が羽ばたくイメージ!
ヒュッと宙に浮いた私の身体が弧を描きます。お腹に宇宙を感じると同時に、背中を冷たい空気がなぞります。まだここで気を抜いてはいけません。最後、子ガメが甲羅に隠れるイメージでお尻をキュッと引っ込めるのです。頑張れ、私の小さな小さなプリケツちゃん!普段は殿方の目を惹くことも出来ないほど色気に欠けるプリケツですが、今こそ、その真価を発揮する時なのです。
いっけー!!
ぼふんっと背中に柔らかい衝撃を受け、そのままぐるりと一回転しました。パッと上げた視線の先、バーはしっかりとスタンドの上に留まっているのです。
「イエス・エクスクラメーション!」
私はマットの上で飛び跳ねました。自己記録更新、165cm! ついに私は自らの身長を跳び越すことが出来たのです。これは銀子先輩にすぐさま報告しなければ!
170cmに設定し直されたバーに見事なヒップアタックを決め、無様に落っこちた私は、嬉しいような悔しいような気持ちで観客席に戻り、銀子先輩の姿を探しました。
「あ、いた!」と観客席の隅に座る銀子先輩を見つけ、浮かれた様に笑って話しかける私は、恥ずかしいくらい愚かでした。
「銀子先輩、私、新記録が出せたんです!」
「……そっか、よかったね。」
銀子先輩はそれだけ言って黙ってしまいました。その時ようやく、私は銀子先輩の雰囲気が普段と違うことに気が付いたのです。それはまるで耳をたたんだウサギのように、元気のない姿だったのです。
「……銀子先輩?」
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくるね」
そう言って銀子先輩は私の前から遠ざかってしまうのでした。
「紗伊子、やっぱり見てなかったか。あんた集中モードだと周り見ないもんね」と後ろから同級生の女の子、百恵の声がしました。「銀子先輩ね、160cmで失敗しちゃったのよ」
「え、本当?」私は驚きました。銀子先輩、練習では175cmくらい普通に跳んでいたのです。
「昔から本番に弱い人らしくて、去年も大会の成績が良くなかったみたい。」百恵が先ほど他の先輩から聞いた話を私に教えてくれました。
「あとで謝らないと」私は銀子先輩が歩いていた方へ目をやります。
「別に紗伊子は悪くないよ?」
「でも、何だかソワソワしてきちゃって」
「んー、でも、銀子先輩だって、紗伊子に来られても困るだけだよ」
だって、あんたはあの人に勝ったんだから、と百恵は静かに言いました。私は、何も言えませんでした。ジイジイ、みんみん、蝉の声がやけに大きく聞こえます。百恵が私の隣に座り、競技トラックの上を走る仲間を見つめていました。
しかし、しばらくたっても銀子先輩は戻って来ません。
「やっぱり心配だよ」と私は言い、「まあ、止めはしないよ?」百恵が言いました。
「探すのを手伝ってほしいな」
「言われると思った」
「百恵は一〇〇m走の選手だから」
「速く走り回って、早く見つけられるって?」
「そんな単純じゃないか」
「わかってんじゃん」
「でも、お願いしたら百恵は手伝ってくれる」
「……わかってんじゃん」
私たち二人は陸上競技場の観客席を発つと、百恵は武道館のある方へ、私はテニスコートのある方へ、銀子先輩を探しに行きました。流石にスポーツ公園内から抜け出すことはないだろうという判断のもと、私達は辺り一帯を探し回ることにしました。ただ、いくら親しい銀子先輩といえども、地区内全域から陸上女子が集められた今日この場所で一人の女子高生を探すのは至難の業です。しかも陸上以外の大会も同時開催されているようで、難易度はかの絵本『ウォーリーを探せ』と同等、いえ、それ以上と考えらます。ああ、もっと人手があればなあ、なんて事を考えると、ふと先輩の顔が浮かんで来ました。先輩ならば持ち前のヘンテコな記憶力と推理力で、私の力になってくれる気がしたのです。
とりあえずは、周りをよく見ながらぐるぐると歩くしかないですかね。
そうして銀子先輩を探している時、私はテニスコートの中に見知った顔を見つけたのです。
「君野木実先輩、テニス部だったのですね」
今さらながらアスガム高校の絶対ヒロインである彼女の所属する部活を知った私は、なかなかに情報に疎いのでしょう。テニスコートを囲むフェンスの周りにはコノミファンクラブのメンバーがわらわらと集まって、君野木実先輩を応援します。しかし、「グラマラス!」とはおかしな応援ですね。
ただ、試合に勝っているにもかかわらず、テニスラケットを握る君野木実先輩はどこかつらそうな顔をしていたのでした。
あんな美人でナイスバディな人でも苦労することがあるのですね、そう思うとなんだか人間という生き物が道行くアリンコさんと何ら変わらないように思えたのです。私達がアリ一匹一匹を個別に認識せず、どのアリを見ても「働き者だなあ」と感心するのと同様に、神様からすればどの人間もみんな同じ顔に見えて、同じような苦労を抱えて生きているんだな、と思われるのではないでしょうか。そんなことを考えながら、私は銀色の拳銃を取り出して引き金を引いたのでした。目が合ってしまうとは思わず、少し驚いてしまいました。
その時、少し離れた所から「さいこー、さいこー」と私を呼ぶ百恵の声がしました。私がテニスコートから離れ声のする方へ向かって行くと、百恵が息を切らしながら走って来て、ひどく取り乱した顔で言うのです。
「銀子先輩が地面に埋まってるんだけど!」
足元から鳥が立ったかのような話でした。
百恵に連れられて、人が行き交うスポーツ公園の中を走ります。すれ違う人達が「今からウォーミングアップ? 遅くない?」といった顔で私達の顔を見てきます。しかし、ワケを話す時間はありませんし、話したところで理解されないでしょう。私でさえまだ理解出来ていないのです。人が埋まっているなんて、とんだ大事件ですよ!
辿り着いた武道館の脇の木陰に、銀子先輩は体育座りをしていました。なんだ、無事ではないですか、百恵のとんちんかん!と思ったものです。しかし、私はハッと息を飲みました。銀子先輩の足首から先が、無いのです。スネまではしっかりとその場にあるのに、足首より先が消えています。
「消えてるんじゃなくて、埋まってるんだって」百恵が銀子先輩の足元の土を指でけずると、土で汚れたくるぶしが見えました。そこで私はおかしなことに気が付きました。銀子先輩の足元には百恵が削った箇所以外に、土を掘って埋めた形跡がないのです。埋まった足のすぐ脇で、小さな花が凛として咲いています。
「どうなっているのでしょうか、これは」
私はつい、疑問を口に出してしまいました。
「……あはは、こうなっちゃったらもう話すしかないよね」
ずっと俯いて座っていた銀子先輩が重たそうな口を開きました。「これ、私の超能力なんだ。心の中が暗い感情に傾くとね、だんだん足が地面に沈んでいくのよ、静かに水に沈むように、音も無く、足先からヌ~って吸い込まれて行くんだ。馬鹿みたいにくだらない能力でしょ。自分の心の弱さが目に見えてわかっちゃうんだ。惨めったらありはしないよ。」
気づいている?今もまだ少しずつ沈んでいるのよ。
銀子先輩の耳にかかっていた髪がだらりと垂れて、目を隠すように額を覆いました。
私はなんて言葉を返したら良いのかわからず、ただ俯く銀子先輩を見つめることしか出来ません。銀子先輩と一緒に練習に励んだ日々の風景が脳裏に浮かんできて、銀子先輩も私も、あれだけ練習したのに、こんなナヨナヨと弱々しくなってしまうのだなと思いました。すると、なんだか疲れた笑みがこぼれるのです。
私は太モモに忍ばせていた銀色の拳銃をバッと取り出し右手に構えます。そして左手で銀子先輩の頬を寄せ、顔をこちらに向かせるとその眉間に銃口を突きつけ、ズドンと銃弾を撃ち込んだのでした。
「え、なに?」と銀子先輩は戸惑い、「お前、何した!?」と百恵が聞きます。
「いえ、何でもないです。とにかく今は地面から抜け出すことを考えましょう!」
二人に私の拳銃は見えていません。私は拳銃を再び太モモに忍ばせると、銀子先輩の足元の土を手で掘り始めました。百恵も私に続いて土を掘り始めました。私たちの姿を見ていた銀子先輩がやがて「普段はここまで沈んだりはしないんだけどね」と言って、自分でも土を掘り始めました。「沈んじゃう時もさ、歩いたり動かしていたりすれば問題はないんだ、一歩ごとに地表に戻れるから」
「でも、今日はボーっとしちゃったんですね」百恵がそう聞くと、銀子先輩はコクンと肯くのでした。
「土の上だけですか? 沈んでしまうのは」私が興味本位でそう聞きました。
「ううん、どこでも沈むよ。コンクリートの上でも、教室の床でも」
それは結構大変なことなのではないでしょうか。
「でも、私と百恵の前ではもう沈んでいきませんよね? 能力のことを知っちゃいましたから」
「いや、能力が働かなくなるのは他人に対する超能力だけだよ。」百恵が静かに言いました。「銀子先輩の超能力は自分に対して働く能力だから、私たちが傍にいようが関係なく沈んでいくと思う」
「そっか」
これは厄介な超能力を目にしたものだ、と私は固唾を飲みます。他人の能力で危機を覚えたのは初めてかもしれません。超能力は普通、あってもなくても大差がないと言われるくらい、無意味に近いものなのです。確かに、超能力者本人の日常にわずかな変化をもたらしはします。ですが、足が地中に埋まって身動きが取れなくなるというのはその範疇を超えるのではないでしょうか。驚き柿の木、カニが下敷き、なのではないでしょうか。少し心臓がきゅっと締められるようです。思うに、銀子先輩の超能力は他の人よりも強いものなのです。足が抜けないまま、口元まで埋まってしまったらと思うと、背筋が凍る想いです。私は、銀子先輩がみるみる地面に吸い込まれ、その小さくて可愛らしい頭の、その先っぽさえ見られなくなってしまうビジョンを見てしまい、身震いしました。せっせか、せっせかと足の埋まっている土もとを手で掘りました。茶色くなる指先、爪に入る土、そんなもの、目の隅にさえ入らないのでした。
「抜けた」
百恵がそう言って、額に浮かんだ汗を手の甲で拭いました。私同様、指先は土で茶色になっています。
「……ありがとう」銀子先輩が地面から足を上げ、固まっていた足首をぐにぐにと回しました。
その時、「お前ら、やっぱりここにいたのか」という男性の声が私たちの背後から聞こえて来ました。振り返った先にいたのは、私達アスガム高校陸上部の部長さんでした。
「もうそろそろ集合だぞ。」部長さんはそう言ました。
「よくここにいるってわかりましたね。」百恵が驚いたようにそう言いました。
「いやあ。去年も似たような光景を見たからさ」部長さんがそう言って、銀子先輩の土で汚れた運動靴を見るのでした。銀子先輩の頬が少し赤まったように見えます。
「すいません、もう行きます。」銀子先輩がそそくさと陸上競技場の観客席を目指して歩き出しました。私はその後を追おうとして、木の根につまずいて転びました。
十七時を回る少し前、今大会全ての日程が終わりました。太陽がベンチに向かい橙色の尾を引く中、私たち陸上部は競技場の脇に集合していました。顧問の先生が今日の反省と、引退する三年生に向けた感謝と激励の言葉を口にしています。そして引退が決まった部長さんが後輩に向かって胸の熱くなるメッセージを送ってくれます。その部長さんの言葉を他の三年生はそれぞれ涙を浮かべたり、ただじっと言葉に耳を傾けたりと様々な形で聞いているのです。三年生の皆さんは今、部活動が終わったという事実に浸っているのでしょう。まだ、私にはわからない感情です。
「それで次期部長と副部長だが」と顧問の先生が話を変えました。「新部長は宇佐銀子、新副部長は黒部長介に任せたいと思う」
「えっ?」銀子先輩が声を上げました。
「三年生と話し合って決めたことだ。二人に頑張ってもらいたい。」
パチパチパチパチと拍手が起こる中、銀子先輩の足がコンクリートに吸い込まれ、わずかに地面に沈んだのでした。
「やっぱり、私が部長では駄目ですよ」
みんなが帰り支度を始めた頃、銀子先輩が顧問の先生にそう言ったのが聞こえて来ました。部員の皆の手が止まり、銀子先輩に注目しました。
「どうしてだい?」と顧問の先生が聞き返します。「三年生たちは宇佐の真面目さと優しさを買い、君を推した。そして俺も同意したよ。」
「真面目でも優しくても、私では駄目なんですよ。」
顧問の先生は、真っ直ぐに銀子先輩を見て言った。
「十五年ほど前、ロックンロール業界で名を馳せたドラマー『ゲイル・ズィーカー』って奴が言ったんだ。ロックンロールに魅せられるのは簡単で、ちゃらんぽらんヤンキーだろうとボンバーヘッドおじさんだろうと、関係なく魅せられる。でも、ロックンロールで魅せる奴は、結局、真面目な奴にしか無理なんだ。魅せるために必要な技術をその身体に叩き込み、刷り込んで、沁み込ませ続けられる奴のみが、真のロックンロールを奏でるに至れる、と。」
顧問の先生の言葉に対し、銀子先輩は俯いたまま、ぼそぼそと口だけを動かして、答えます。
「先生、私、その人、知っています。お父さんが好きで、よくその人のバンドの曲を聞いています。実はその言葉は、交際相手の親がロッカーであるゲイルを認めず、結婚できなかった悔しさから出た言葉なんですよね。俺は真面目だ。真面目に彼女を愛しているんだっていう、ゲイルの心の訴えが私の父にも聞こえたそうです。相手のお腹には子供がいたって噂でした。」
真面目だからって、上手くいく保証なんてどこにもないじゃないですか。銀子先輩がそう言っているように、私たちの耳には聞こえました。それ以降、銀子先輩は一言も口にしませんでした。顧問の先生も、もう何も言いません。競技場からの帰りはとても静かなのでした。早く電車が来ないかな、なんて駅のホームで思ってしまった私を、どうか許してください。
そして一日休みを挟んだ翌々日の練習に、銀子先輩は姿を見せなかったのでした。