第1章 真実 ③
宮殿内をしのび足で歩きながら、ターメリックは父のことを考えていた。
サフランは、スパイス帝国内でも珍しいクリスタン教信者の第一人者であった。
もちろん、遥か西の果て…聖地クリスタニアへも行ったことがある。
大陸の西岸、ちょうどスパイス帝国の対岸に位置するクリスタニアは、どの国にも属さないクリスタン神の領地である。
自給自足の土地には、神殿を守る神の使いが住んでおり、訪れた者にフィリアを授けている。
フィリアを授かった信者は、自分の子どもにもフィリアを授けてよいことになっている。
そのため、ターメリックの「ジュスト」というフィリアは父から授かったものだった。
ちなみに、サフランはクリスタニアで神の使いから、
「生まれた子どもには、男女問わず、ジュストというフィリアを授けるように」
と、告げられたという。
…こんなものいらない。
何度そう思っただろう。
クリスタン神を心から信じられないターメリックは、古くから伝わるクリスタン神話にも興味が湧かなかった。
仲のよい物知りの信者が教えてくれたこともあったが、覚える気がないのでまったく無駄であった。
そして…その信者も現在は行方不明である。
こんな「なんちゃって信者」がクリスタニアへ行ったところで、何かが変わるとは思えない。
しかし…
こんな自分に、ほかにできることがあるだろうか…
…いや…
…ない…
悲しいけど、ない…っ!
…今は、父のことだけ考えよう。
そうだ、今までだって父の言うことは正しかった。
…きっと、うまくいくに違いない…!
息を潜めて、絨毯の上を進む。
ようやく、城下町へ抜ける扉が見えてきた。
やっと、この静まりかえった不気味な宮殿から出られる。
安心して駆け出したターメリックは、完全に油断していた。
曲がり角から、何者かが音もなく現れて目の前に立ち塞がったのである。
その男は深紅の髪をなびかせ、ターメリックに近づいてきた。
「お前は確か、サフランの息子の雑用係だな」
地を這うような低い声…
何を考えているのかわからない瞳…
「カイエン大臣…」
恐怖で足の震えるターメリックは、立っているのもやっとだった。
そして…
俯いた先にあったカイエンの靴に目を留めて、思わず声を上げそうになった。
ガラムマサラ皇帝を刺した後、返り血を浴びた服は着替えたのだろうが…
靴までは気が回らなかったのだろう。
真新しい黒靴には、乾いて濁った人血がこびりついていた。
…今頃になって、父の説明が現実味を帯びてきた。
「この廊下を歩いてきたということは、地下牢のサフラン元外交官から話を聞かされてきた、ということだな…ではなぜ、おれを皇帝と呼ばないのだ」
殺気のこもった眼で睨まれて、ターメリックは後ずさった。
逃げ出そうとしたものの、カイエンの合図で現れた兵士と剣士に、行く手を阻まれてしまった。
「スパイス帝国の皇帝は、神として崇められる。つまり、おれが世界を統べる神となるのだ。そのために、これから他国へ戦争を仕掛ける。外交官であったサフランは、利用価値があると踏んで地下牢に入れた。しかし…息子のお前は、あまり使えそうにないな」
「……」
「ちょうどいい。今からサフランに土産を持っていってやるとしよう。あいつも驚くだろうな。自分の息子が死体となって現れたなら…」
カイエンが合図をすると、兵士と剣士が一斉にターメリックへ襲い掛かってきた。
ここで捕まるわけにはいかない!
ターメリックは、全力で駆け出した。
危うく服を掴まれそうになったが、素早くかわして走り続ける。
「早くここへ連れて来い! 外へ逃がすと厄介だぞ!」
カイエンの絶叫が宮殿内に響いた…
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「ちぇっ、なんだよ。ぼくみたいな雑用係がいないと掃除もろくにできないくせに、お前は使えそうにない…とか言っちゃってさ!」
剣士の集団に追われながらも、ターメリックは余裕をかまして悪態をついていた。
そして…怒るところはそこではない、と思い直した。
朝寝坊の常習犯として毎日全速力で走っているターメリックと、ゆるい訓練しかしていない平和ボケした剣士たちとでは、足の速さは雲泥の差であった。
「…でもなぁ。たとえ使えそうだって言われても、あの人の下で働くのは、死んでも嫌だ!」
速度を上げたターメリックに、ついていける剣士がいるわけもない。
しかし…
ターメリックの前方から、別の剣士たちが迫ってきた。
曲がり角はない…
挟まれてしまった…!
どうしよう、このままじゃ……!
こめかみを、冷たい汗が流れた。
そのとき…
「こちらです!ターメリックさん!」
突然、壁に大穴が開いた。
驚いていると、そこから腕が伸びてきて、ターメリックを中に引きずり込んだ。
「…危ないところでしたね。さぁ、ここから外へ出られます」
何も見えない暗闇の中で、声の主はごそごそと動いている。
次の瞬間…
空間に、光が弾けた。
「……」
あまりの眩しさに、ターメリックは固く目を閉じた。
耳が…音を拾った。
「波…?」
恐る恐る目を開けると…
真っ白だった世界が色づき始めた。
明るい太陽が照らすのは、透き通った海と、やわらかな砂浜だった。
「ここは朝日の浜辺です。城内からの抜け道は、私しか知りません」
大陸の東岸、その果てにある朝日の浜辺。
案内してくれたのは、ひとりの兵士であった。
「サフラン外交官とのお話は、すべて地下牢の入り口で聞かせていただきました。岩陰に小船がつないでありますから、どうぞお使いください」
「…あなたは、カイエンの部下ではないのですか」
眉を八の字にするターメリックに、兵士は首を振った。
「いえいえ。兵士団の中には、私と同じようにカイエンに反発する者もいるのですよ。ほかの兵士たちは城下町に潜伏していますが、私はいつもどおり、門前で仕事中だったというわけです」
「…あっ!」
目を丸くするターメリックに、兵士は困ったように笑った。
「なんだ、てっきり気づいているかと思っていましたよ。今朝のたまごサンド、とても美味しかったです。ご馳走様でした」
門前の兵士はターメリックと年齢は変わらないくらいだが、思ったよりも地声が低かった。
「あのたまごサンドは、ターメリックさんの手作りですか?」
「えっと、あれは…」
説明しようとしたものの、壁の奥から響く足音に口をつぐんだ。
…ここが見つかるのも時間の問題だろう…
意を決して、砂浜に目を向けた。
「そろそろ行かないと、ですね」
「この国のことは、我々におまかせください。世界を巻き込む戦争など、起こさせてなるものか…ターメリックさんは、早くクリスタニアへ向かってください」
「ありがとうございます…あ、たまごサンドのお礼なら、城下町の東地区にあるパン屋のローズマリーさんという人に言ってあげてください。きっと、喜んでくれます」
ターメリックが砂浜に降り立つと、兵士は壁穴を閉じた。
潮風が黄色い髪を揺らす。
太陽は、少し高いところからターメリックを照らしていた。
砂浜は、踏みしめると足が埋まった。
スパイス帝国にある、唯一ありのままの自然が残る場所…それが大陸の最東端、朝日の浜辺である。
特に見るものもないためか、人影はない。
ターメリックは、遠くに見える小さな岩陰へと歩いていった。
つづく