第1章 真実 ②
城内に足を踏み入れた途端、強烈な違和感に襲われた。
…静かすぎる。
いつもなら、広場で訓練をする兵士の掛け声や、城内を忙しく駆け回る剣士の足音が聞こえてくるのだが、今日は人の声も物音もしない。
朝礼が長引いているのかと思い、大広間を覗いてみた。
しかし…だれもいない。
いったい、何がどうなっているのだろう…
ターメリックは、廊下の真ん中で途方に暮れていた。
きっと、緊急の会議か何かで、全員が会議室に集まっているのだろう…そう思って、とりあえず自分の日課をこなすことにした。
まずは、地下牢の掃除である。
どうせ自分は、下っ端雑用係。
会議に出ていなくても気づかれない。
それに…
会議の内容だってわからないだろう。
薄暗い階段を降りていく。
日の差さない地下牢の入口で、ターメリックはろうそくに火を灯した。
そのまま奥へ進み、壁の燭台にも火を灯していく。
もちろん、牢屋の中にはだれもいない。
…スパイス帝国では、平穏な日々が続いている。
ただ、湿気のせいか、隅のほうにカビが生えることもある。
そんな頑固なカビ汚れとの格闘から、ターメリックの一日は始まる。
いつもと同じように、ろうそくの光とともに奥へと進んでいたターメリックは、何かの気配を感じて立ち止まった。
奥の牢屋で何かが動いた…
人がいる…!
「……」
ろうそくの火も届かない、壁際の牢屋。
恐る恐る歩みを進めると、手にしたろうそくが人の背中を映し出した。
最初に目に飛び込んできたのは、のっぺりとした黄色の…
「え…えぇっ?」
ターメリックの声が石壁に反響して、ろうそくの火を揺らした。
しかし、囚人は動じることなく振り向いてターメリックを睨みつけた。
「今日も寝坊か、馬鹿者!」
「父さん! 家を出るときに起こしてくれって」
「私は起こしたぞ! 二度寝したほうが悪い!」
その声は思った以上に大きく、薄暗い牢屋の中に響き渡った。
…ターメリックの父、サフラン・ダリオは決まり悪そうに咳払いをした。
「しまった。つい、いつもの調子で説教を…」
「父さん、どうしてこんなところにいるんだよ。いったい何があったの?」
ターメリックの素朴な疑問に、サフランは苦悶の表情を浮かべた。
そして、ぽつぽつと話し始めた。
「簡単に言えば…お前が寝坊したせい、だな」
「は?」
「お前が私と一緒に朝礼に参加していたら、ガラムマサラ皇帝は一命を取り留めていた…かもしれない」
「え…え? 父さん、いったい何の話を…」
慌てるターメリックを、サフランは目で「落ち着いて聞け」と制した。
そして、大きく深呼吸をすると一息に言い切った。
「カイエン大臣が剣士団と兵士団を引き連れて、皇帝の座を強奪したのだ。ガラムマサラ皇帝は、カイエンによって刺殺された…つい、先ほどのことだ」
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いつもの朝礼が、目の前で惨劇の一場面と化した。
ガラムマサラ皇帝の左右に控える、大臣と外交官…
朝礼も終わりに近づき、サフランは皇帝に顔を向けた。
しかし…
そのときにはもう、カイエンが懐から取り出した短剣でガラムマサラの胸を貫いていた。
「!……」
皇帝が声もなく玉座からくず折れたとき…
平穏な世界は終わりを告げた。
血の滴る短剣を握り、カイエンは無表情に言い放った。
「ガラムマサラよ、これは天罰だ。平和な世界において、職を失いし者の恨みだとおもえ。さらなる平和の実現に、貴様のような能無しは必要ない」
そこでサフランはようやく状況を理解し、倒れ伏した皇帝に駆け寄ろうとした。
しかし…
そこにカイエンが短剣を突きつけた。
「この作戦を知らずにいたのは、貴様だけだ、サフラン・ダリオ」
じゃっ、という金属音に顔を上げると、剣士団と兵士団の総勢50名がサフランに剣を向けていた。
…不敵に笑うカイエンの瞳に、炎が揺らめいた。
「おれは、城下町にある元武器商人たちと懇意にしていてな。職を失った彼らのために、大きな戦争を起こしてやりたくなった。そのために、穏健政治を貫くガラムマサラを、皇帝の地位から引き摺り下ろしたというわけだ。おれは、この世界をすべて、自分のものにしてみせる!」
カイエンが合図をすると、剣士が集まってサフランを羽交い絞めにした。
「お前は、この能無しと違って少しは使えそうだからな。役に立ってもらうために、まだ生かしておいてやろう」
そして、サフランは薄暗い地下牢へと連行されたのであった。
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「朝早くから、そんなことが起こっていたなんて…」
「カイエンめ、前々から好きになれんとは思っていたが、こんな大胆なことをするとはな…ちっ、私にも一言ぐらい喋らせろ!」
「…父さん、怒るところはそこじゃないよ」
「わかっている。冗談だ」
サフランは、努めて平静を装っているが、冷や汗までは隠せていなかった。
…スパイス帝国の冷静な外交官が、明らかに動揺している。
ターメリックも、不安で胸が潰されそうだった。
「この先、スパイス帝国は武力で他国を征服していくだろう。カイエンは、大きな戦争で自分の世界を創るつもりなのだ…その争いのために、竜の王イゾリータの封印が破られるかもしれないというのに」
…また始まった。
ターメリックは、聞こえよがしに溜息をついた。
「父さん、それはクリスタン神話の話でしょう? 今、牢屋の鍵を持ってくるから、その後のことは外で考えようよ。寝坊したおかげで、ぼくは自由に動けるから…」
「待つんだ、ターメリック」
サフランは、駆け出そうとした息子を呼びとめた。
そして、眼光鋭く見据えると、
「自由に動けるお前には、ほかにやらねばならないことがある…ターメリックよ、クリスタニアへ向かうのだ」
重々しく、そう告げた。
「はぁ? クリスタニア?」
怪訝な顔をするターメリックに、サフランは大きく頷いた。
「モンド大陸の西側にある、クリスタン教信者の聖地…クリスタン神を祀る神殿と、神の使いと呼ばれる人物が住んでいる場所だ。昔、私もそこでフィリアを授かった」
「父さん、もうクリスタン神話の話はやめようよ。ぼくたちには、ほかにもっと考えることが」
「いいか、ターメリック。よく聞くんだ」
呆れ顔の息子を前にしても、サフランは真剣な表情を崩さなかった。
これは、話を聞かないわけにはいかないな…
ターメリックが、渋々頷いてみせると、サフランは低い声で話し始めた。
「…その昔、封印された竜の王イゾリータは、愚かな人間の愚かな心によって必ず復活する、と宣言している。それはつまり、世界を私物化しようとしているカイエンのような人間の行動に、この世界のすべてがかかっているということだ。もしかすると、もう封印は破られてしまったのかもしれない」
「……」
「もし仮にイゾリータを封印できたとしても、カイエンの心によって、何度でも封印は破られてしまうだろう…つまり、これから起こるスパイス帝国の世界征服を、なんとしてでも阻止しなければならない、というわけだ」
「そのために、ぼくがクリスタニアへ行って、クリスタン神様にお祈りしてこいってこと?」
「そのとおりだ。ここからクリスタニアまでは、人の足ではかなりの日数がかかる。道中、スパイス帝国の攻撃に備えるよう、他国へ連絡していくのがいいだろうな」
「どうしてぼくなんだよ。今から牢屋の鍵を持ってくるから、父さんが行けばいいじゃないか」
「私は…このままでいい」
サフランは立ち上がって、ターメリックの肩に手を置いた。
「あいつらは、私に利用価値があるから、ここに閉じ込めたのだ。何か怪しい行動をした時点で、もう命はないだろう。だから、私はここに残らなければならない…ターメリックよ、お前だけが頼りだ」
父の澄んだ瞳が、まっすぐターメリックを見据えている。
今まで生きてきた中で、こんなにもわけのわからない重圧を受けたことはない。
ターメリックは、不安と嫌悪が入り混じった複雑な感情に、押しつぶされそうになっていた。
しかし…
たったひとりの、しかも囚われの身の父の頼みである。
…やるっきゃない。
ターメリックは決意を固め、
「はい…!」
と返事をすると、地下牢の外へと駆け出した。
つづく