3話
ーーー数日後。
講義が終わり寄る所も無いのでその足でそのままバイト先に出向く。
大分早いから店で論文を進めよう。
そういえばあの少年。高橋翔はどうしているだろうか。
高校の名前で検索してみると、ここから10駅は先であるだろうという場所なのが分かった。地元がその辺りかどうかは分からないが。
名前も合わせて検索してみてもこれといった検索結果は出てこず、名前単体で検索してみても漢字が分からない上" たかはし しょう "なんて名前はこれでもかというくらい出てきて、どうしても会いたいなら校門で待ち伏せた方が早いだろうなという程。
すっかり左手のケガも全く目立たず、今にして思えば当時の不思議な感覚は夢だったんじゃないかと思うほど記憶も曖昧になってしまった。
物好きのマスターには記憶が鮮明なうちに全ての話を語り聞かせたし、マスターだって少年を目撃している。1人でこの話を抱えていたら夢物語として忘れていっただろう。
ぼんやりと少年の事を考えながら歩を進めていると。もうバーについていた。
途中でコンビニ寄って煙草をふかそうと思っていたのに。まあいいか、と鞄から店のスペアキーを出し慣れた手つきでドアを開けた時。不意に後ろから声がした
「待って」
振り向けば俺の一歩後ろに少年・高橋翔が立っていた。
「さっきから何度も呼んでたのに。耳遠いの?」
「びっくりした…考え事してたんだ」
お前の事を考えていた、と声に乗せそうになって食い止めた。
「本当に来ると思わなかった。入っていいよ」
ドアマンの様に高橋翔を店へ案内すると足音も立てずにすーっと入っていった。
バーのカウンターに座るとじっとこちらを見てくる姿にどう会話を切り出そうか悩み、とりあえず無言でノートパソコンを取り出して当初の予定だった論文に手をつけようか…と思った時、少年の方が先に口を開いた。
「ねえ、お腹すいた」
前回の別れの際に俺は言った。"いつでも飲みに来て"と。
自分で言っておいて、もう夢現だと思い込もうとしていた少年が実際目の前に現れた事にたじろいで…しかも飲ませる事に恐怖を思い出してしまっていた。
左手が疼いてうまく言葉が出てこない。
「おーい。聞いてる?」
「あー…米は今炊いてないから無いけど、肉炒めくらいならすぐ作れる…が…食うか?」
"お腹すいた"という言葉を鵜吞みにしました。という風に飯を勧めるもその誤解混じりの話を高橋翔は一切汲み取らなかった。
「お兄さんが血くれるっていうから来たんだけど」
真顔だがその真顔には少し怒りを感じる表情で、噛まれた日の晩の事を思うと不安でいっぱいになった。よく分からないけどマリッジブルーってこういう気分なのだろうか。
「ちょ、ちょっと待て!焦るな!」
自分で誘ったものの己の小心者さに呆れる。高橋翔を背に鞄から緊急用の裁縫セットを取り出し左手の小指に針を刺した。ツンとした痛みに奥歯をぎゅっと噛み締めじわじわと大きくなる赤い粒に鳥肌が立つ。2m近く身長のある大男がグロや流血が苦手なんてみっともないなと常々思ってしまう。
「どうぞ?」
高橋翔に向けて小指を差し出すと大きく生唾を飲み込む音が聞こえ、滴り落ちそうな血をペロリと舐められた。
舐められた小指はすぐに血が止まり針で開けた穴もすぐに治っていた。
「小指とか。せめて手首じゃない?血管太いとこいかせてよ」
馬鹿にしてるのかと蔑んだ目で見られ堪らなくしんどくなったので正直に打ち明ける事にした。
「お前さ、血吸ったことはあっても吸われたことないだろ?あれ死ぬほど痛えんだよ」
ほいほいとやれるもんじゃない!と声を大にして訴えた。
高橋翔は心底めんどくさいといった顔をした。
「前は痛めつける気持ちでやったから、ごめんってば。すぐ治したし。許してよ?」
どっちが大人なんだかというくらい余裕を奪われてしまった。
「それともお兄さんの知らない所で、血を飲んできてもいいの」
俺はバンジージャンプも人に押されないと飛べないタイプだなと思う。そんなに追い詰めないでくれよ…ああもう…
「…好きにしてくれ…ッ」
土下座じゃないが椅子の上で握りしめた拳を膝に乗せ目をギュっとつぶって身を差し出した。
血を飲まれた。
痛みに関しては左手を噛まれた時程ではなく、案外耐えられるものだった。
嘘みたいな"治癒能力"については浅い傷なら元通りに治せるものの吸血した所は内出血の様な痕が残りやすいらしく、目立たない所から吸血される事になり人にさらす事のない脇腹を差し出した。
いつもはお腹がいっぱいになるまで本能のまま無我夢中で人間の血液を飲み、気づけば人間が死んでいる。という事らしいので飲量の調整が難しかった。
「あ、だめ…ちょい待ち。…なんかクラクラしてきた」
「嘘でしょまだコップ1杯くらいしか飲んでない」
「っ…はぁ…ッ…いや無理、死ぬ…はぁ…俺、死ぬ…」
「ねえ、おねがい。もう少しだけ。ね?ねえ」
こういった会話を何度か交わしつつ最後にはこちらが息切れとめまいに頭を抱えてもお腹を空かせたガキは限界まで絞りとっていった。
お兄さん、お兄さんと揺さぶられて目を覚ますと高橋翔が気まずそうな顔でソファに寝ころんだ俺をのぞき込んでいて意識を取り戻したのを確認すると口を開いた。
「すみません。」
脳がぐるんぐるんと渦巻いていて応答は出来ない。少し頑張れば今すぐでも吐けそうな気持ち悪さだ。
高橋翔は飲みすぎた事を謝っていた。だから限界だって言っただろうに…
「久しぶりすぎて、あとお兄さん体格が大きいからもうちょっといけると思って。つい止められなくて…気が付いたら意識がなくて。」
おろおろとする目の前のガキは今までのすました表情が一切なく子供らしい謝り方でなんだか笑ってしまう。ぐるぐると回る頭を少し起こして脇腹に視線を移すと、もうすっかり出血はしておらず皮膚が赤黒いだけで汚れも綺麗にふき取ってくれていた。
「…から……ーよ」
発声準備ができていなくて声がかすれていた。高橋翔が上手く聴き取れなかったと耳を俺の顔に近づけてくる。
「生きてるから、いーよ」
高橋翔は申し訳なさそうに頭を軽く下げてそのまま傍らに座り続けた。