葛葉健二②
授業中に眠ることほど心地のよいものはない。
昼寝の心地よさももちろんあるが、怠い授業の時間があっという間に過ぎていく。この時間も爆睡していたら九十分経っていた。
よほど疲れていたらしく起きた時には授業が終わってから十分程の時間は経っており、教室には俺一人しかいなかった。
さすがに爆睡したままではまずいので、聡に後でノートを写メって送って欲しいと頼むラインを送っておいた。後でジュースでも奢るというとあっさり承諾されたのを確認してから俺は一人その授業が行われる教室に向かう。
教室に着くとしばらく寝ていたせいで授業が始まるまで後一分程しかなくなっており、急ぎ授業の準備を進め、要らないものを引き出しにしまおうとして、机の下に手を突っ込むと何か硬い物に当たった。
「スマホ?」
その硬いものを取り出し確認すると、スマートフォンでアメリカ製のよくあるやつ。手帳型のケースに入れられており、学生証も一緒に入っている。なぜこんな大事なものを落としたのだろうか。
開けてみるとまだ電源が入っており、ついその画面の中を覗いてしまった。
「は?」
予想外すぎてそんな声を出してしまい、その授業の間はずっとこのスマートフォンをどうしたものかと考えていた。
* * *
全ての講義が終了した午後六時過ぎ。日は傾きかけており、もちろん学生の姿はなく、静まり返っている。
俺はその教室である人物を待っていた。言うまでもないかもしれないがスマホを忘れた人物である。
運良く俺の知り合いがいる学科の人物だったのでなんとか連絡を取ることができ、全ての授業が終わったこの時間に、スマホを落とした教室であるここに来るようにと連絡していたのだ。
コツコツと足音が聞こえてきて、そちらに目をやると扉を開いた。その人物は周りを少し見渡して、俺の姿に気づくとこちらに歩いてくる。
「わたしの携帯を拾ってくれたのはあなたで間違いないかしら」
彼女のことは知ってはいたが遠目にしか見たことがなかったので初めて生で見るがやはり整った顔立ちをしている。
肩より長く伸び、綺麗に整った黒髪に、有名人と見比べても全く劣ることがない整った顔立ち。
彼女の名前は彼方光。苗字は彼方と書いておのかたと読むらしい。
なぜほとんど話したことがない彼女の名前を知っているのかというと、彼女がこの学校で有名人だからだ。なぜミスコンテストに出ないのかと噂されるほどの容姿の上に、全国大会で優勝したほどの将棋の腕前をもつという。容姿もよければ頭もいいと学生の中で噂を何度も聞いたことがある。
しかも『絶零の眠り姫』との異名をつけられるほどの将棋の強さを持っているらしい。プロの世界に期待されながらなぜか普通の学生を選んだと不思議がられるほどだったと聞いている。
「ああ、そうだよ」
俺はそう答えると、彼女の携帯を机の上に置き、彼方がその携帯を手に取った時を見計らって、こう続けた。
「はじめまして、『カナ』」
彼方は動揺して後ろに一歩二歩と下がる。
「な…、わたしの名前は彼方光よ。間違わないでもらえるかしら」
「『カナ』は『カナ』だろ。有名強者のカナ。最高レートはたしか2167だったか」
「な、何を言っているのか。わ、わからないわよ」
「俺が拾った時、お前のスマホ電源ついたままだったぞ」
そう、俺が彼女のスマホを開いた時出てきたのはツイッターの画面。有名なカナのアカウントだったのだ。すでにログインされており、なりすましでなければ本人で間違いないだろう。
「なっ…!?!? くっ……」
彼方は羞恥に顔を真っ赤に染めながらそんな声を出す。
「あ、その画面とお前にこの携帯を返すための学生証以外は何もみてないから安心してくれ」
そう俺が言っても彼女は顔を真っ赤にしたまま唇を噛み締めている。
うんうん。わかるわかる。自分のツイッターのアカウントがリアルでバレた時の恥ずかしさは異常だよな。俺はまだバレたことはないがバレた時のことを考えただけで恐ろしい。
「…なんであなたそんなにわたし……『カナ』のことを詳しいの?」
「詳しいってほどではないが、一応フォロワーなだけだよ。まあカナは2000人近くいるし気づいてないだろうけど」
どのゲームでも一緒だと思うが、強者の元にはフォロワーが集まる。
ポケモンは特に自分が使っていたパーティをブログにまとめ、公開するということが頻繁に行われているため、良い結果であるほど、その記事が出回りフォロワーも増えていく。『カナ』もツイッターでその記事を拡散しておりフォロワーも多い。その中に紛れているので俺のことを知られているわけではないだろう。
「もしかしてあなた『くずけん』さん?」
俺は思わずけほけほとせき込んでしまった。
「『くずけん』?誰ですかそれ」
「ふーん。なるほど。あなたくずけんさんなのね。たまに痛いツイートで評判の」
「痛い言うな! いや、違うからな俺じゃねえし、ていうかなんでそんなこと予想できたんだよ」
「たまたま見つけたツイートにうちの大学の写真が写ってたから」
「………」
思った以上にガバガバだった。みんなはネットリテラシーに気をつけような泣。
俺のツイッターアカウントはフォロワー数100人くらいの小さなアカウントだからわかっていないだろうと思っていたが運悪く見つかっていたらしい。同じ大学のフォロワーなんて滅多にいないし、そこから順当に予想されたというところか。
「この前も何か痛いツイートしてたわよね。たしか…」
彼方はそう言って俺のアカウントを探そうとしているのか、さっき渡したスマホをいじり出した。
「や、やめろおおおお!! 認めます。俺が『くずけん』です…。だから許して」
過去のツイートを目の前で音読されるのは辛いものがあるのが容易に想像がついたので全力で謝っておいた。
完全にさっき彼方に同情してたのが倍返しで帰ってきた。
「ふふん、あまりにもかわいそうですし、許してあげましょう」
余裕そうに大層な胸を張る。あまりの大きさに少し目を奪われるがすぐに目線を戻した。
こいつには夕べ散々やられているのだ。まあネット対戦で負けただけなのだが何かやり返さないと気が済まない。
「その身長で許してあげましょうと言われてもな。全然偉そうじゃないぞ」
彼女の身長は俺の胸ほどの高さで、150センチほどだろうか。噂で聞いていた以上に小さい。下から見上げられても圧力は全く感じなかった。
「うるさい! 小さくないわよ! というか今は小さいなんて関係ないでしょ!」
「じゃあ身長の話するか?」
「女の子に身長で威張らないでくれる!? あなたが大きかろうと関係ないでしょ!だからそのあなたの身長十センチばかりよこしなさい」
「やっぱり気にしてるのか。まあ小さいから可愛いと思う人もいるからいいんじゃないか」
「小さくて可愛い言うな馬鹿」
「俺は大きくて大人の女性の方が好みだけどな」
「聞いてないわよ! もういい帰る」
彼方はグスンと涙目になりながら荷物をまとめて帰ろうとする。一つ言うことを忘れていることに気づき、声をかける。
「昨晩は対戦ありがとうな『カナ』」
「なに、たしかにわたしは昨晩ポケモンをしていたけれど、あなたと対戦したのかしら」
「ああ、昨日俺が初めての2000チャレンジが『カナ』とだったよ」
「ああ、あの下手くそな人の2000チャレもしかしてあなただったの」
「下手くそとまではいわないでいいだろ」
少し、いやかなり傷ついた。
「じゃあこうやって罵ればいいのかしら」
「お前、俺を罵りたすぎじゃないか…」
俺の反論を無視し、彼方は氷の目をして告げる。
「選出が弱い」
「くっ…」
「プレイングが浅い」
「カハッ…」
負けた相手にここまで弱いと言われるとめちゃくちゃ傷つく。
選出とは六匹の中から三匹を選ぶ段階のことで、プレイングとはポケモンをどう動かすかを決める段階のことだ。つまりほぼ全てを否定されたようなものだ。
「勝ちきれないのも納得だわ」
負けたとはいえ勝手に納得して頷いているのに我慢ならなかった。
「うるせえよ。怯まなかったり、一撃必殺技が当たらなかったら勝ててただろうが」
そんな俺の反応に、彼方は呆れたのかため息をついた。
「あのね。たしかにその通りかもしれないけれど、何回怯まなかったり、一撃必殺技を打つチャンスがあったと思っているの。全部で六回ほどよ。二割か三割の確率を六回も押し付けられてみなさい。引かない方がおかしいわ」
確率的なものを考えるとその通りかもしれない。けれど、そうしなければならない理由があったのだから仕方ない。
「でも、不利なパーティーだから仕方ないだろ」
前も説明した通りポケットモンスターにはパーティーの相性というものが存在する。それがはっきり言って不利な構築だった。だから確率に賭けるしかなかったと、そう思っていた。
「たしかに、わたしの方が有利なパーティーではあったわ。だからこそあなたは相手の交換に合わせたり、出てくる3体を読みきったりする必要があったのに、あなたはそれをやってこなかった」
もう何も言えなかった。たしかにそう言われてしまうと思い当たる節がかなりある。俺は甘えたのだ。あの試合は『カナ』への、そして俺自身への敗北だ。
「あなたは弱いわ」
彼方はそういい俺を切り捨てる。
俺が一番言われたくない言葉を突きつけてきた。言われたくはないけれど、わかってはいた。
そんな当たり前のこと。
「ああ、俺は弱いよ」
「あら、あっさり認めるのね」
「知ってるさ。それくらい。才能がないことくらい周りを見ればわかる」
特に、佐倉聡。
あいつを見てればわかる。俺より後から始めたはずなのにあっさりと俺を追い抜き、俺が届かない世界まで飛び出していった。劣等感をいだかないはずがない。
「なら、やめた方がいいわよ。このゲーム」
「なっ」
あまりに残酷なことを平然と言い切るので、彼方の目を見た瞬間、凍りつくかと思った。
本当に教室の温度が下がったのではないかと錯覚するほどのオーラとしか例える方法が思いつかなかった。ただたしかにこの梅雨が終わり、夏が迫った暑苦しい季節に寒気を感じたのだ。
まさに絶零、彼女は全てを凍り尽くすのではないか。そう思えるほどに。
「弱者が戦えるほどこのゲームは甘くないわよ」
「ああ、たしかに俺は弱いし才能はないかもしれない」
まずは認めよう。認めないと強くなれないから。
「だけど俺は諦めたくない。強くなるんだ。強くなってこのポケモンというゲームを楽しみ尽くしたい。勝てないときっと楽しみきれていないと思うから」
勝負事を本気で楽しむには勝つしかない。負けても楽しいなんてものはいらない。ただ強くなりたいと、願うからこそたくさんの時間をこのゲームに注いでいるのだ。
「そう?強くなっても楽しめるとは限らないわよ」
「え?」
「わたし自身このゲームを楽しくないもの」
「そんなに強いのに……か?」
「ええ、ただ対戦相手を倒してわたしが強いと認めさせたい。それだけ」
「そんなわけないだろ…」
どうしても認められなかった。
言葉にはならないけれど、彼女のそんな在り方が気に入らない。一生懸命に戦ってきたこのゲームがとてもつまらないものだと、そんな風に思いたくなかった。
「そう言われても、事実ですもの。もう一度聞くわ」
彼方は俺に宣言するように
「あなたはどうしてポケットモンスターというゲームをやってるの?
自分の弱さに悲しくなってしまう時はないの?
勝てなくてつまらないと感じることはないの?
義務のようにやることはない?」
彼方は重ね掛けで訪ねてくる。その質問の一つ一つに真剣に向き合い考え続け、何とか否定しようとした。けれど…。
「そんなこと…」
ないと言い切ることができなかった。焦りだけでポケモンをやらされていることもあるし、運悪く勝てなかった時なんだこの糞ゲーと思うこともあった。だから答えられない。生半可な答えじゃ彼方光は満足してくれないだろう。
答えられないまま、まごついてしまっていた。
「ねみゅい」
彼方はふらふらとあくびをしながら呟く。よく聞き取れなかったが様子から察するに眠いとつぶやいたのだろうか?
どうして今突然? 意味が分からない。
「はい?」
何のことだかわからず俺がそんな声を出したときには、ずっと出続けていた凍てつくオーラが消え去っていた。
「寝る」
がたりと彼方はすぐそばにあった席の椅子を引き、机に倒れこむようにしてあっという間に寝てしまった。
すぱーすぱーと子供かと言うほどの可愛らしい寝息を立てていた。
「えええええええ」
聞いたことがあった。彼方の異名『絶零の眠り姫』はまさに彼女自身を表していると。
具体的には集中している時は絶対零度のような圧力を出し、スイッチが切れるとどんな時でも寝てしまうらしく、授業中もかなりの確率で寝ているらしい。
俺はこれからどうすればいいのだろうか。もう七時になるのに、眠っている女の子を放っておけるほど薄情な性格はしていない。それにもうすぐこの教室を閉めに管理の人が来る時間だろう。
仕方なく彼方を背負いとりあえず学内から出て行くことにした。
すると、なぜか彼方の家の人とすぐに出会い何とか解放されることはできたが、散々罵られ、言い返すことができなかった悲しさや自分を否定されたような気がして、残されたのは悲しみと疲労感だけだった。