83.魔王術
私は──蜘蛛が苦手です。
特に巨大な蜘蛛がとてつもなく苦手なのです。
小さな蜘蛛はまだいいですよ、アンデッドにたまに巣食うこともありますし、そもそも墓地にはつきものの存在です。あまり好きではありませんが、なんとか対処はできます。
ですが──巨大蜘蛛はいけません。
実は前世の時、巨大蜘蛛に酷い目にあったことがあります。
それはダンジョンに巣食うギガンティアスパイチュラというハイランクモンスターなのですが、そいつのトラップにかかって危うく喰われる寸前までいったのです。
麻痺毒で痺れさせられ、腹に大量の卵を植え付けられたときは真剣に死を覚悟したものです。
幸いにも薬漬けだった私の肉が不味かったのか、孵化した子蜘蛛たちが少し肉を齧ったり体液を吸ったあとに全滅したので辛うじて生き残りましたが、もう少しで完全に蜘蛛の苗床になるところでした。
以来、私はどうにも巨大蜘蛛というのが苦手になってしまったのです。
ところが今回、ダレスが悪魔に身を変化させた姿は──まさに巨大蜘蛛そのもの。
ですから私は思わず……。
「ぎゃあぁあぁあぁぁああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああぁああぁあああぁぁぁぁぁぁあぁっっ!!」
と、絶叫を上げてしまいました。
「お、お嬢様!? 大丈夫ですかっ?!」
「ひぃぃぃいいぃ……」
あろうことか、私はイケメンにしがみついてしまいます。ですが今は仕方がありません。だって蜘蛛がいるんですものっ!
「無敵のお嬢様にも苦手なものがあったんでございますね……」
「ひぃぃい……蜘蛛は……いけません……」
「お嬢様を怖がらせる存在、このウルフェが成敗してみせます!」
こんなときは頼りになるウルフェが、双剣を抜いて巨大蜘蛛ダレスに切りかかっていきます。
ですが……。
がきんっ!
「うぐっ?!」
ウルフェの剣が、ダレスの黒い脚に弾き返されてしまいました。
『くくく……朕の最強の肉体、貴様ごときに傷つけられると思っていたのか? 愚かな、愚かなり……死んで詫びよ!』
「ぐっ?!」
あの巨大からは信じられないほどの速度で繰り出された太い脚の一撃。辛うじて剣で防いだものの、ウルフェはあえなく吹き飛ばされていきます。うーん、やはりイケメンは使い物になりませんね。盾にもならないとは。
一応治癒魔法は飛ばしてあげますが、私のフォローはこれが限界です。あの黒くて悍しい巨体が目に入ったとたん……。
「ひぃぃぃぃいぃぃ……」
やっぱりダメです。全身に悪寒が走り、慌てて私は目を逸らします。
「これは参りましたね。まさかお嬢様が使い物にならなくなるとは……。ここは逃げの一手しかございませんね」
『くくく、愚かものめ。朕が逃すと思うか?』
ネビュラちゃんが暗黒魔法で私とウルフェを回収し、逃亡を図ろうとします。ですが蜘蛛と化したダレスが猛スピードで襲いかかってきます。
うわぁぁぁ、巨大蜘蛛が来るぅぅぅ!
すぐに追いつかれそうになった──その時です。
横の壁が、まるで爆弾でも破裂したかのように一気に爆発しました。
『ぬっ!?』
瓦礫に襲われ、埋れていくダレス。ダメージを負わせるほどではありませんが、動きを止めることに成功したようです。
しかし、誰が壁を壊したのでしょうか?
崩れた回廊から日の光が差し込み、明るく照らし出します。
ぬっ、と巨大な影が現れて──。
「こんなところにいたのかい、オレッちの可愛い子孫さんよ」
『蜘蛛リュ! 巨大蜘蛛リュ!』
壁の奥から姿を現したのは──。
琥珀龍アミティと、背に乗った賢者クリストルでした。
◇
姿を表したのはアミティとクリストル。
良かったです。たしかトカゲはクモを食べたはずですからね。
「アミティ、あの蜘蛛を食べてくださいますか?」
『げっ!? そんなの無理リュ! そもそもあたちは普通の人間と同じものを食べるリュ!』
『ほう……真龍か、悪くない相手だな。だが朕に勝てると思うのか?』
「残念だが、あんたの相手はこのオレッちだよ」
そう言いながらアミティの背から飛び降りたクリストル。あの怠け者が何をするというのでしょうか。
「ここは最終手段を使わせてもらおうかね。おいアミティ、あの聖女様たちを守っててくれないか?」
「えっ?! でもクリスが……」
「心配すんな。可愛い子孫の跳ねっ返りを戒めるのも親族の役目ってもんさ」
『貴様……何者だ? ただの人間ではないな?』
「お初にお目にかかる、ダレス大帝。オレッちはクリストル。あんたの──遠い祖先の兄貴だ?」
『は? 何を寝言を言っている?』
「本当さ。オレッちはあんたの先祖であるダイヤールの兄。もっと分かりやすく言うと──『魔王術』の始祖さ」
『っ!?』
なにやら二人が話し込んでいる間に、人型に戻ったアミティがこちらにやってきます。せっかく龍の体を盾にしようと思ってましたのに……残念です。
『なぜ貴様が魔王術のことを知っているか分からんが……なるほど、我が【強化騎士】たちが駆逐されたのも貴様の仕業だったのか』
「んー、それはオレッちじゃないんだけど……んまぁそんなことはどうでもいいや。それよりダレス大帝さんよ、あんた……もう取り返しのつかないところまで行っちまったんだな? ダイヤールからちゃんと使い過ぎるなって伝言は残ってなかったのか?」
『ふん、怖気付いて魔王術を使いこなせなかった建国帝の遺言など無視してやったわ』
「そうか……だったら仕方ねぇなあ。身内の不備は身内が解決しなきゃな。めんどくさいけど……仕方ねぇなあ」
カリッ。
クリストルが指を噛んで血を出すと、そのまま中空に魔法陣を描き始めます。あの複雑な公式は──とてつもない術のようです。
『ふふん。どんな術だろうと、朕に届くことなど──』
「魔王術、最終術式──《魔王顕現》」
──バキバキっ!
クリストルの背が割れ、黒い──昆虫のような羽が現れます。
さらには額が伸びていき──巨大なツノへと変化を遂げ、瞳は複数に分裂し、ダレスのように複数の赤く光る複眼に変化していきます。
やがて──クリストルの姿が、巨大な甲虫へと変貌を遂げたのです。
『なっ……なん、だと?』
『魔王化が、自分だけの専売特許だと思うなよ、アホ子孫! おじいちゃんゴメンナサイって泣いて謝らせてやるからな!』
『ほ、ほざけ雑魚がっ! 朕が──魔王ダレスが、あらゆるものを手に入れてやる!』
『オレっちは、さっさとオメーを片付けて、怠惰な日々に戻らせてもらうよ!』
激突する巨大蜘蛛と巨大甲虫。
強欲と、怠惰の激突。
うーん、ものっすごいシュールです。
「お嬢様、如何致しましょうか?」
ですがこの状況で支援できることはありません。悪魔に治癒魔法は効きませんし、そもそもたとえ遠距離でもあの巨大蜘蛛に触りたくないですし。今は見守ることしかできないでしょう。
二つの黒い昆虫の激突は、最初はクリストルが押していました。
ですが、すぐにクリストルが変化した甲虫の動きが鈍くなっていきます。歳、でしょうか?
──バキッ!
ついにはクリストルの腕の一本がダレスによって砕かれ、吹き飛んでゆきます。
『なんだ、老いぼれ。この程度で朕に逆らおうとしたのか? だとしたらすぐに後悔させてやる』
『いや、まぁオレっちもこれでオメーさんを抑えられるとは思ってなかったよ』
チラリ、クリストルがアミティの方を向きます。
『なぁアミティ。お前に……頼みがある』
「なんだリュ?!」
『オレっちに代わって……聖女様に尽くしちゃもらえねえかな?』
「は? な、なに言ってるリュ!? クリスはあたちを──」
『うぉおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおっ!!』
雄叫びを上げるクリストルが、魔王ダレスへと突入していきます。ですがダレスはそのときを待ち構えていました。
『ふん、玉砕覚悟の攻撃か。無様だなぁ、散れっ!!』
ダレスの蜘蛛の脚が伸び──クリストルの胸元を貫きました。黒い血を吐くクリストル。
「クリスーーっ!! ユリィシア、なんとかならないリュかっ!?」
「……」
残念ながら悪魔化した肉体に私の治癒魔法は効きません。せっかくの素体が、悪魔化した挙句に失われようとしているのです。私にとってもこんな悲しいことはありません。
ですが、クリストルは諦めていませんでした。
『うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!』
べキンッ!!
胸に刺さった脚を強引にへし折ると、そのままダレスに突撃していったのです。
そのまま──ツノを蜘蛛の胴体へと突き立てます。持ち上げられ、ジタバタともがくダレス蜘蛛。キモいです、キモすぎます。
『ぐっ……やるじゃないか、ご先祖様とやら。でもこの程度か? これなら朕が──』
『くく……くくく……』
『なっ!? 貴様……なにがおかしい!?』
『なぁに、よく考えたらあんただって、オレッちの可愛い血縁者なんだなぁ思ってな』
『なにを寝言を言っている? 死に瀕して気が狂ったか?』
『可愛い子孫を悪魔なんかに捧げやしねぇってことさ。オレっちが……お前も丸ごと救ってやる』
『救う、だと?』
『あぁ、オレっちだけでは決してどうにもならなかっただろう。だが今のオレっちには解決策がある。何せオレっちは──賢者だからな』
チラリと、私の方を見るクリストル。
『とはいえ、オレっち一人だけだとどうにもならなかったかもしれねぇや。そういう意味ではユリィシア、あんたに感謝だな』
私に、感謝ですか?
『あばよ、アミティ。達者でな』
「なっ?! クリス!?」
『ユリィシア、一度生還したあんたなら──大丈夫だよな? このバカ子孫は、オレっちが責任を持って輪廻の輪の中に叩き込んでやるぜ』
なっ……。
それは、まさか──。
『ある意味、救済。なるほど、やっと意味がわかったよ。たしかにこれは救済でもあるな。なにせ賢者であるオレッちでさえも、その存在にすがってしまうくらいなんだから。永遠の救い。永遠の──救済』
『おい貴様、何をやる気だ? この朕に逆らおうなど──』
『オレっちと愚かなる親族に、救済を──』
「おやめなさいっ!!」
私は必死に声を上げました。
ですがクリストルは、ニヤリと口元を歪めると──決定的な名を口にします。
『呼びかけに応じて、慈悲を賜りたまえ!
いにしえの大聖女【エルマーリヤ・ライトジューダス】よ……!』




