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この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。

先日自殺した小説家です。

作者:さいこ
 先日自殺した小説家です。

 あのよく晴れた土曜日の昼、私は確かに自らの腕を剃刀で切って、狭い風呂場で死にました。溢れて滴る温い血を覚えています。多分痛かったと思います。錆びた鉄のような匂いに溺れて、意識を手放しました。

 生きるのは、正直苦手でした。空気を読むのが不得手な私にとって、とかく浮世は息苦しくて、荒波の合間でどうにか呼吸をするのが精一杯でした。
 刃を手に持った私は、この世を離れたらしばらくは地獄の池に沈んでいようと、一抹の安堵を覚えました。その方が、いくらかマシに思えました。

 ところが、私はここにいます。どこかも知れぬ部屋で机に向き合っています。壁に掛けられた質素な時計の針は先刻から少しも動いていません。何が何だかちっとも分かりませんが、私は一応小説家なので、取り敢えず筆を執ってみました。

 死んでも死にきれないなどという言い回しがありますが、私もそういうことなのでしょうか。私の短い生涯には、死にきれないような未練など多過ぎてどれのことやら見当がつきません。

 妹に借りた金を返していません。両親にはしばらく顔を見せていません。完成しないまま止まっている小説が二つあります。心から愛した人との性交を未だ経験していません。吉野の桜を見れていないままです。会っておきたかった友人が何人かいます。

 さて、私は何がしたくて此岸にまだ残っているのでしょうか。言葉を紡げば、眩暈のするような混乱も幾分か良くなるだろうと思いましたが、やはり特に意味はないようです。

 四畳半の部屋に一つだけ備えつけられた窓からは、名も知らぬ街が見えます。どこか懐かしい、淡い色彩の風景です。けれども音はありません。自動車も人も野良猫も、風すらも見当たりません。ただ嘘のような静寂(しじま)が、空気の代わりに街を満たしています。

 もしかしたら、ここは(うつ)し世の街ではないのかもしれません。所謂この世とあの世のちょうど境目、三途の川の半ばにある浮島のような街。そこには、私のように死にきれなかった者が住まうのかもしれません。この街のどこかで、私みたいに窓の外を眺める者がいると思うと、些か心が満たされる気がしました。

 そういえば、私はどうして死んだのでしょう。

 生きることが苦手であったのは確かですが、それでも私は二十八まで生きました。嫌なことは沢山ありましたが、今更命を捨てるほどのことは思い当たりません。金に困っていましたが、明日の分の食料はあったと思います。
 音のない街を眺めているのは中々に退屈なので、私はよく考えてみることにしました。

 死ぬというのは、存外に気力の要る営みです。頭で死のうと命じても、心臓の拍動は止まりません。息を止めてみても、やがて弾けたように呼吸が戻ります。
 人間というのは、生命というのは思いの外丈夫に出来ているので、私たちはわざわざ死なないといけないのです。
 私には、それをするだけの重要な何かがあったのだろうと思います。

 しばらく頭を悩ませましたが、それらしい出来事の心当たりはありません。何か取っ掛りがないだろうかと思っていると、どこからか声が聞こえてきました。
 私はふと顔を上げました。窓の外を見回してみますが、その微かな声の発信源らしきものはありませんでした。部屋の中をぐるりと歩き回ってみて、どうやらその声は頭の中から聞こえてくるらしいという考えに至りました。

 目を閉じてよく耳を澄ませてみると、それは聞いたことのある声のようでした。年若い女性の声は泣いていました。嗚咽を漏らしながら、大きな声で泣いていました。
 段々と明瞭に聞こえるようになってくると、その声は私の名前を呼んでいることに気がつきました。
 その声が私の死を悲しんでいるらしいということは、鈍感な私でもなんとなく分かりました。そして、やはり私はきちんと死んでいたのだと確信しました。

 しばらく喘鳴を聞いていて、もしかしたらこの声は妹かもしれないと思いました。
 妹は延々と泣いていました。私の名前を呼び、どうしてと小さく漏らしました。時折、両親らしき声も聞こえました。父も母も、悲しそうな声でした。

 胸が締めつけられる心地でした。痛ましいほどの啼哭(ていこく)が偽りなどではないということは、明らかでした。妹も両親も人並みには愛していたので、かなりこたえました。
 現し世に横たわる私の亡骸の横で、妹は泣いているのでしょうか。

 とても悲しいことでしたが、私はその声を聞いていたいと思ってしまいました。私のために誰かが悲しんでいる。そのことが、私の心に安穏を(もたら)していることを認め、自分を恥じました。けれどもそれは、どうしようもない事実でした。

 しばらくそうして瞑目したままでいると、何やら他の声も聞こえてきました。親族の声、友の声、恩師の声、後輩や先輩の声。そのどれもが悲愴に満ちていて、口々に私のことを話します。私の死を悼んで、悲しんでいます。

 嬉しさと悲しさが激しく混ざり合って、突沸して、雫になって瞳から零れ落ちました。静黙とした街に、むせび泣く私の声だけが溶けていきます。

 私は私を失って、初めて愛に気がつきました。
 温かくて甘い、愛される喜びの味を知りました。

 そこでようやく、私はそれが一番大きな未練だったということに気がつきました。そして同時に、命を絶つ原因となった渇きにも気がつきました。
 ひどく鈍感なものだと、辟易してついた溜め息は震えていました。

 目を開くと、視界が霞んでいました。ただでさえ淡かった街は、より一層朧気になって、今にも消えてしまいそうでした。私が望んでいた声は、いつの間にか嘘みたいに消えて、また静謐が四畳半を支配していました。

 私はすぐにここを出ることになるだろうと、直感しました。一休みを終えて彼岸へ行き、地獄を経て再び現し世に生まれ落ちるのでしょう。
 また過ちの多い生涯を送るのかもしれません。やはり生きるのが苦手なままかもしれません。しかしその時こそは、自身に降り注ぐ愛を生きたままに感じられるようにしよう。私はそう思いました。

 ここで私は筆を置きます。どこかも分からない街の静かな机に残したこの文章が、いつかここを訪れた誰かの助けになったとしたら、それはとても幸いなことだと思います。

 私の知らない誰かへ。愛を込めて。

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