チキンロック
TVを掴んだ両手があまりにも震えるので、ちょっと笑ってしまった。なぜあんたは平然に淡々と喋れる?原稿を読む仕事だからか?お願いだから嘘と言って。彼が死んだなんで嘘と言って。言え。言えよ。あたしには彼がいないとダメなのに。彼があたしの全てなのに。彼がいるから今まで生きてこれたのに。
あたしは額をTVの画面にくっつけて、右手で何度も何度も画面を弱弱しく叩いた。叩いたらこのガリガリに痩せた摂食障害みたいな女子アナが今のは誤報でした、と言いそうな気がしたからだ。でも何度叩いてもこの女子アナから訂正の言葉は出ず、次のニュースを読み始めた。
今度は涙が溢れてきて止まらなくなった。ヒックヒックするから上手く呼吸ができない。泣きながらヒックヒックしながら畳の上を行ったり来たりした。突然座り込んで天井を見て身体がぶるぶる震えた。涙が溢れて止まらない。全部止まらない。彼が死んだ。意味がわからない。けれど、身体は彼が死んだことを奇しくも認識しているようで涙と震えが止まらなかった。
類が泣き出した。そういえばこの部屋はかなり蒸していた。あの、夏の雨が降りそうなむわんとじっとりとした不快な空気だ。類は暑くて泣いているのだろうか。
畳の上を四つん這いになって涙を腕で拭いながら類のベビーベッドまで向かった。あたしも使ったベビーベッド。十八年前。十和子はよくもまぁこんなベビーベッドを取っといたものだ。まるで十八年後に違う男と恋をして類が生まれてくるのがわかっていたみたいだ。
顔を真っ赤にして類は泣いていた。ギャーギャー。定期的に発せられるその泣き声はメトロノームだ。あたしはそっと類の額に手を添えた。熱く火照っていた。
「類、熱いんか?それともお腹減ったんか?オムツか?」
泣き止まない。今はあたしが泣きたいのに。類は得。赤ちゃんだから誰かが必ず助けてくれる。滅多に運が悪くなければの話。でもあたしはそうはいかない。泣いたって誰も助けてくれない。十八歳だからか。十八歳だから大切な彼を失っても泣いちゃいけないのか。でも泣いて誰か来てくれたところで、彼はもう生き返らない。そっか。そっか。他人にどうこう出来る問題ではないんだ。
ようわからんよ、あたしは茹ダコみたいに泣きじゃくる類にそう言うと、とりあえず暑いのかと思って扇風機を類の方へ向けた。ミルクは一時間前にあげたし、汚物の臭いもしなかった。類は何が欲しいのか。何のために顔を真っ赤にしてまで泣いているのか。理解に苦しむ。
ベビーベッドを背もたれにしてあたしはうなだれた。いじめというのは、あたしの小学生時代を全て埋め尽くしていた。父親がいないこと。十和子がホステスであること。あたしが社交的でないこと。あたしが綺麗でないこと。あたしの箸の持ち方が変だということ。
今思うとあらゆる要素がいじめの原因だったのかもしれないけれど、最大のいじめの理由は彼女たちの暇つぶしだった。男子が外で野球やサッカー、ゲームなど健やかに遊んでいるなか、女子はまともな恋愛もできずにいる小学生という中途半端な発育期に持て余した時間と体力を、あたしへの傷めつけとして全集中を注いだ。気取った連中だった。あたしは一切抵抗しなかった。頭に給食の牛乳をかけられたときも。ランドセルの中にウサギの糞を入れられたときも。髪の毛をバリカンで剃られたときも。引き出しの中に使用済みの生理用ナプキンを入れられたときも。先生に呼び出され、いじめられているのか?と聞かれたが、いいえ、みんな大好きです、とても仲良しです、と答えた。
小学校を卒業し、ほとんどの同級生が地元の同じ中学校へ入学した。あたしは入学式の日に彼と同じ金髪のミディアムヘア、右耳にピアス、そしてアイラインを引いて登校した。すぐさま職員室に呼び出されこっぴどく担任に説教された。でもあたしは不良じゃない。成績は常にトップを競っていたし授業も真面目に参加していた。ただあたしは彼をあたしの中に取り入れたいだけだった。いじめはなくなった。あの気取った連中はあたしを恐れるようになった。別に金髪にしたからって噛みついて殺したりしないのに。
目を瞑った義務教育の期間。得るものは何もなかった。ただ繰り返される毎日を事務的にこなせば何も支障はない。なのに、周りのクラスメイトと呼ばれる人たちは毎日何かに悩み苦しみもがいているようだった。あたしには何故彼らが血迷ってああだこうだいつも休み時間に話しているのか意味がわからなかった。ただ、ただ、あたしは、彼が生きているような世界へ早く飛び込みたくて、ただ、ただ、それだけをじっと待って堪えていた。
担任は高校へ行けと言った。成績が良いからだと言った。しかし高校に行くのなら、容姿をなんとかせないかん、と言った。なら行かん、とあたしは言った。彼があたしの中から消えるなら死んだ方がマシだった。
中学校を卒業してあたしはすぐ近所の宅配ピザ屋のメイキングのバイトを始めた。その頃あたしの髪は少しオレンジ色が混じった夕焼けみたいな金髪であった。注文が来たピザを黙々と作る。トマトソース、オリーブ、バジル、サラミ、チーズ……乗せて、乗せて、乗っけて、乗っけて。
ピザを作って給料さえもらえればあたしは十分なのにこのピザ屋にもまた気取った連中がいた。しかも不思議なことに彼らはあたしくらいの子供をもつ四十代のパートのババア達だった。高校に行っていないこと。オレンジかかった金髪であること。愛想がないこと。当時十和子が三十四歳で彼女達よりも若く、そして中洲で働いていること。パートのババア達が十六歳の小娘を甚振るとは想定外だった。職場での決定的ないじめの原因は、十和子が中洲を男といちゃつきながら歩いていたという噂話だった。どうやらあたしと十和子は中学時代から地元では悪名高き有名一家だったらしい。噂好きなババア達はそれ以降、まるであたしをエレファント・マンみたいに扱った。あんたはみんなの倍以上消毒液つけな。あんたは何人目の子?食材には触るな。ピザには触ってはいかん。ピザに触らせてもらえなくなったので仕事ができなくなった。厨房の中で突っ立っているとただの邪魔である。辞めます、と店長に言うと、ビールっ腹をした中洲常連の店長は致し方ないというような顔をして目で頷いた。
もっと彼に近付きたいとその想いだけが加速ばかりした。彼に一メートル、一センチ、彼の息遣い、鼓動が聞こえるくらい近付けるようになるためにはどこに行けばいいのだろう、とそのことばかり考えた。
彼はよく言う。大人はよく夢や希望を持てと言うが全てはキレイごと。未来は不安であり、不安が未来を生、と。
十八歳になったら十六歳よりも少し道が開けた。バイトの職種が広がったのである。今あたしは雀荘でバイトしている。そこでバイトしている人は、あたしをいじめない。みんな夜のカラスみたいで、尖った目をしていて何やら秘密を持っている。他言できないもの。決して必要以上に優しくもされないし冷たくもされない。でも困った客にあたしが絡まれたりしていると、スッと助けてくれる。そして、そっと耳元でジュースおごれよ、と言う。
もっともっと大人になれば、もっともっと生き易くなるに違いない。金と自分の身体と彼さえいれば何も恐れることはない。なかった。なかったのに。
「彼は自殺するような人じゃありません」
「だって、昨日あんなに元気だったのに」
「ちょっとすいません、通して下さい!」
また再びTVが騒ぎだした。ベビーベッドを背もたれにして俯いて座っていると、背中が痛くなってきた。ポタポタとまた涙が零れる。自殺。
先月あたしの夢が一つ叶った。今あたしの背中には青い龍がいる。彼の背中にも青い龍がいる。彼は青い龍がいると、一人のときでも寂しくないから、と言っていた。だから、あたしも青い龍を下さいって言った。君は痛いの平気?と彫師が聞いてきた。あたしは無言で頷いた。男の人の前で裸になったのはこのときが初めてだった。あたしは痩せていて一六三センチで四十六キロしかない。裸で背伸びをすれば肋骨がぐっと浮き上がる。彫師は白く痩せこけたあたしの体が気に入ったのか、背中を舐めさせてくれ、と言ってきた。その代わりに刺青代は半額にするから、と。痛みは癖になった。一定にじりじりと背中を這う針が突然突拍子もない動きをして強烈な痛みを与える。その瞬間、あたしは今まで淡々と歩んできた事務的な人生が一気に炎を燃やして汗をかいた。そんなあたしはあたしをケラケラと無邪気に笑った。施術が終わって舐めさせてくれ、と言われたとき、頭の中の神経に蟻が大量発生するような不快感に襲われた。でも半額は願ってもないことだったから、彼にまた一歩近づけるためなら、と奥歯で蟻を噛み砕きながら背中を舐めさせた。彫師の舌が通った瞬間から空気が触れてひんやりとして鳥肌が立った。拳を握った。彼が言う未来はどこにあるのか?彫師が舐め終わったのを見定めてあたしはバスタオルを胸に当て、自分の荷物を持って店内を走って出た。金は払わなかった。胸だけバスタオルで隠して中洲商店街を走った。行き来する人があたしを見た。あたしを見ていたのか、それとも生まれたての背中の青い龍を見ていたのか。
あたしも寂しくはなくなった。毎朝着替えるときに、鏡に映った青い龍を見る。青い龍はあたしを見ている。ときどき嬉しそうに背中で飛び回る。あたしは無敵になった気分になった。でも彼が死んでしまったら、この青い龍も意味を成さない。彼の青い龍とあたしの青い龍は二つ存在してこそ一つであって、特にあたしの青い龍は彼の青い龍がいなきゃ生きていけない。ほら、あたしの青い龍が天を仰いで鳴いている。
部屋は真夏の西日でオレンジ色に浸食され、やたら眩しく、やたら蒸し暑い。雨が降るならとっとと降ればいい。自殺。苦しい。頭の中で蛆虫が湧く。彼がいないこれからのあたしの人生は考えられない。寂しい。寂し過ぎる。
トイレに駆け込んだ。便器の中に溜まった水と無言で見つめ合った。あたしは床に膝をついて便座の両脇を両手で掴んだ。そして顔を勢いよく便器の中に突っ込んだ。便器の中の水は浅いから深く深く顔を埋めた。あたしはこのまま便器の穴からどこか違う国にワープするような感覚で、もはや全身を突っ込む勢いだった。浅い水の中で目を開けた。水は予想以上に澄んでいるけれど、全身の毛穴からツンとした異臭を感じ取った。この築三十年のぼろアパートのトイレから流された汚物が最終的に全て一ヶ所にまとめられるのかと想像したら、一気にすっぱいものが口元まで上がってきた。なかなか死なない。早く意識遠のけ。彼と同じところへ行きたい。
徐々に無音になってきた。頭の中に次々と湧いていた蛆虫が消えていく。なんて穏やかで平和なんだろう。彼の歌声が聞こえる。あたしの一番好きな曲。
「あんた、何しとるん!」
肩を一気に引っ張られてあたしはそのまま壁に背中を強打した。
「あんた!なに便器に顔なんか突っ込んで!」
十和子が仁王立ちしてあたしに向かって怒鳴っていた。わなわなと肩と唇を震わせている。視界が全体的にオレンジだ。夕焼けのせいか。十和子はどうやら真っ赤なワンピースを着ているみたいだけど、それもオレンジっぽく見える。さっきまでピースフルだった感覚がもう無い。あぁ、無くなってしまった。失敗したんだ。
「死のうとしたんか?あぁ?ちょっとこっち見ぃ!」
十和子はしゃがんであたしの顔をべたべた触った。あたしはやめてよ、と言ったが、十和子は何度もヤクザみたいに問い詰めてきた。類が泣き出した。ひどく泣いている。十和子はベビーベッドの方へ向かいながら、臭いけん、風呂入りと言った。
十和子からタバコの臭いはするが酒の臭いはしなかった。むしろこんな夕方に帰ってくること自体が珍しかった。いつもは仕事がなくても、やれお得意さんに呼ばれとるとか美容院やとかで夜十時以降でなければ帰って来ない。しかも妙に上機嫌なのが不気味だった。
あたしは風呂を上り、金色の髪を濡らしたまま類にミルクを与えていた。類は目を見開いてゴクンゴクンと凄い勢いでミルクを吸っていく。その生命力にあたしは恐怖すら感じた。
てろんてろんのTシャツと短パンの部屋着には似合わない厚化粧のままで十和子は台所と食卓を行ったり来たりしていた。
「鶏すきやけん」
十和子は楽しそうに箸を並べながらそう言うと、次にガスコンロの火を付けた。脂を敷いて鶏モモ肉を皮からごろごろと豪快に鍋に入れた。
「今日はパチンコでいっぱい勝ったんよ。やっぱりそういうええことある日はおいしいもん食べたいもんなぁ。商店街でウロウロしとったらな、肉屋のおっちゃんがな、ほら、あんたにも前話さんかったっけ?最近よくお店に来てくれるっていう、肉屋のおっちゃん。まぁ、狙いは二十代の女の子やけど、けっこうあたしとも話が合ってな、よくしゃべるんよ。そんで、そのおっちゃんがサービスって言ってこの国産の鶏モモ肉くれたんよ。タダよ?タダ!信じられる?西川きよし師匠やないけど、毎日コツコツやっとたらええことあるもんやね。まぁ、おっちゃん、冗談で今度十和ちゃんのオッパイ触らせてね、なんて言っとったけど」
鍋からもくもくと上がる煙と鶏モモ肉が焼かれ煮える音で、あたしは十和子の話がほとんど耳に入ってこなかった。とりあえず肉屋から鶏モモ肉をタダでもらった、という話。あたしは緊張していた。十和子が作る料理を一緒に食べるなんて一体いつ振りだろうか。自分が十和子の前で箸を持ち、鶏モモ肉を卵に絡めて、口に運び、咀嚼できるのか自信がなかった。
十和子はボウルに山のごとく盛られた野菜を鷲掴みにして鍋に放り込んだ。野菜の水気で一気に鍋が煙と共に唸り出した。白菜の芯や葉の部分、葱、春菊がごちゃ混ぜに放り込まれていた。火の通り加減など一切考えていない。少なくとも、あたしはこの手荒い大雑把とはもう言い難い料理で十八歳まで成長した。十和子の料理で思い出に残っているものなど何もない。卵かけごはんと具なしのうまかっちゃんを小さい頃よく食べた。どれも料理とは呼べない。
福岡の熱帯夜の最中、鍋は勢いよく食材に火を通していき、室内はサウナ状態だった。あれだけ山盛りだった野菜はしんなりと三分の一くらいの量になり、鍋の中でぐつぐつと大人しくしていた。
タオルで首筋の汗を拭いながら十和子がテーブルを挟んであたしの向かいに座った。
「さぁ、できた。食べよ」
類は鼻くそが詰まっているのかスーピースーピーとオカリナみたいな音を出しながら眠っていた。あたしと十和子は無言で鶏すきを食べていた。こんな暑い夏の日に、何故鍋を食べているのか。あたしは鶏すきの熱さで垂れてくる鼻水をすすりながら何度も疑問に思った。
でもそんなしょうもないことを考えているのは、十和子の顔を見られないからであった。十和子と食事をすること自体に戸惑っているのに、あんな便器に顔を突っ込んで死のうとしたことも重なって更にどうしていいのかわからなかった。だから、ひたすら、鍋と、溶き卵が入った器と、無意味な考え事で、この場をやり過ごそうとしていた。
十和子とは目を合わせられない。でも淡々と鶏すきを食べているのが気配でわかる。別に何かを言いたそうな、タイミングを見計らっているような不自然さもない。目の前にあたしが存在しないかのように、十和子が咀嚼する音が聞こえた。
不意打ちだった。あたしが大きめの鶏モモ肉に食らいついた瞬間、あたしは十和子の視線が自分に向けられているのに気付いた。大きく、愛らしい瞳が、一筆書きでさっと引いたような瞳になって、あたしを捉えていた。あたしは鶏モモ肉に食らいついたまま背筋が凍った。
「さっきなぁ、パチンコの後ろの席の若い兄ちゃん達が、名前なんて言うたっけ?ほら、あんたが夢中になっとる歌手、そいつが死んだって騒いどったんよ。あんた、まさかそれでさっき便器に顔突っ込んでたんじゃなかろうね?」
あたしはくわえかけの鶏モモ肉を口から出した。唾液なのか肉汁なのかわからない粘っこい液体が顎についた。
「その兄ちゃん達の話やと、もうすでに何人かのファンが後追い自殺しているらしいやん。その歌手の曲を大音量で流したまま首吊ったり、湯船に彼の切り抜きとかを一面に浮かべて手首切ったりとか。アホらしいわぁ。いくらファンでもそこまでする?きっと良い恋愛してこんかったんやろうねぇ。気の毒やわ。私には理解できん」
そういえばいつの間にかTVは消えていた。彼はどうなったんだろう。後追い自殺。あたしだけじゃなかった。成功した子達がいる。その子達はこの世界ではないどこかで彼と再び出逢って、また彼の音楽を聴けるのだろうか。いいな。あたしは失敗してしまったから聴けない。なぜ。なぜ、あたしは本気になれない世界で未だにうだうだと生きているのだろう。彼の音楽の世界だけがあたしを本気にさせた。熱い血が体中を巡る感覚。彼が死んでしまった今、もうそれを体感することはない。
「普通女の子はね、アイドルとかモデルとか女優さんとかに憧れて、あんな風に可愛くなりたいって思うもんよ。それが見てよ、あんたのその恰好。汚い金髪に、ピアスいっぱい開けて、しかもまた刺青増えとるでしょ?」
十和子はあたしの右腕を覗き込む素振りをみせた。十和子、ご名答である。あたしは先日新しい刺青をこしらえた。本屋で彼の最新のインタビュー記事を立ち読みしていると、彼の右腕に新しい刺青が彫ってあった。大きな翼を広げて天を舞う瞬間を描いた鳩の刺青だった。青い龍のように彼にとって鳩が何を意味するのかはわからない。ただあたしは直観で、青い龍の仲間だと思った。
あたしは無言で立ち上がり、暗い台所へ向かった。台所の電気は付けず、ぼんやりと暗いまま、換気扇を回してタバコに火を付けた。換気扇のヴゥーという音に気付いたのか十和子が、うどんは食べんと?と聞いた。あたしはいらん、と答えた。
タバコの煙が換気扇に吸い込まれていく瞬間をただ見つめていた。ふんわりと上空に漂う煙が換気扇に近付くと、一気に不思議な円を描いて吸い込まれてしまう。あたしもあんな風に便器に吸い込まれて死にたかったのに。十和子は何やらぶつぶつと言っていた。あんたは大阪にいたときは〆のうどんが好きやったのにとか。そんなにガリガリじゃ男も寄ってこん!とか。あたしはぐるぐる回る換気扇とタバコの煙をただ見つめながら、左手で左胸を揉んだ。いや、実際には揉めなかった。笑いが下腹部からぐわっと押し上がってきた。当たり前だ。彼に近付くために、胸なんかないように、こうやって痩せているんだから。最近はついに生理もこなくなった。あんな煩わしいものはなくていい。あたしは外見だけじゃなく、内面も更に彼になっているんだと嬉しくてたまらなかった。生理がこなくなったと確信したときは、あまりの興奮でずっと類を抱っこしていた。類も嬉しそうにケラケラと笑っていた。
目が覚めると、あたしはきょとんとしていた。外は薄らと明るくなっていた。また一日が始まる。無音の小さな部屋では、首を回した扇風機の音しか聞こえなかった。ベビーベッドを覗くと、類はやすらかに眠っていた。十和子はいなかった。布団が部屋の隅に綺麗に畳まれていた。いつ出掛けたのかわからない。飲みに行ったのか、それとも男か。また男。あたしをつくって、類をつくって、またつくるのか。誰が何の権利があってそんなことをするのか。それか昨日のあたしの自殺未遂の腹いせか。しかも便器に頭を突っ込むというやり方がやっぱり気に食わなかったのかもしれない。呼吸が上手くできなくなってきた。目が覚めてすっからかんだった頭と心がねじ曲がってきた。彼は本当に、本当に、死んでしまったんだろうか。あたしの身体は彼だからあたしも消えるべきなのだ。なのに、どうしてあたしは朝を、またもや平然と繰り返そうとしているのだろう。
頭と心をねじ曲がらせた彼の死が真実だという確信となり、徐々にあたしを覆いかぶさってきた。陰で周りが暗くなる。黒いベールが目を覆った。しかし反射的に、窓の外はゆっくりと明るく白く輝き始めた。妬ましくて潰したい日常が始まるのに、あたしはまだ生きていて終わっていく。
ふと、彼は天才だからイエス・キリストのように奇跡を起こして復活しているのかもしれない。あたしは自分がどこまで馬鹿なんだろうと半笑いして、震える指でTVを付けた。
「中学一年生の女子学生五人がホームに飛び込み電車にひかれて死亡。妊娠八ヶ月の二十五歳の女性が睡眠薬を大量に服用し死亡。女子大学生が渋谷のビルから飛び降りて死亡。新宿のラブホテルで銃で頭を打ち抜いた三十代の女性が死亡。これらの女性は昨日亡くなったロックミュージシャンの……」
あたしはTVを消した。
愛を込めて、次々と死んでいく。生きている自分が情けなくて、あたしは妬ましさと怒りで激情した。
十和子が大切にしているものを奪ってやる。あたしは立ち上がってベビーベッドに近付いた。小さな小さな類の顔に枕を押し付ければそれで終わりだ。あたしと類は十和子という、いてもいなくてもいいような女の繋がりしかないわけで、類もこのまま生きていて生の喜びを得られるはずはない。それはあたしにも共通していること。
父親は違うけれど、どちらの男もクズで十和子の美貌だけに惚れただけの単なるオスでしかない。勝手に肉欲に溺れた大人の子は、何が正しく何を信じていいのかわからず、凝り固まった持論で勝手に死への憧れを抱く。そう、今のあたしが死にたいように。類ももっと大きくなったらわかってしまうはず。知ってしまうはず。この社会の不条理さと自分の運命の不制御を。でも彼はいつも言っていた。誰もあたしを奪えない、と。そして、あたしも誰も奪えない、と。
類は薄い唇をむにゃむにゃさせた。あたしは持っていた枕を八つ裂きにしたかった。恨んだり、優しかったり、中途半端な自分を誰よりも一番八つ裂きにしたかった。
「なんだ、お前、死んでないと?」
「死んでない」
申し訳なさそうにあたしは答えた。
哲さんはパイプ椅子に浅く座り、気怠そうに背もたれに寄りかかっていた。タバコといつもの甘いコーヒー牛乳を交互に口元に運び、あたしを見ていた。笑みはない。その他の表情もない。でも興味を宿した目をしていた。
「昨日シフトに入っていた奴らでよ、お前なら絶対後追って死んでるって言ってたんだけどなぁ。俺は別にあいつの曲は嫌いじゃねぇけど、あんなに後追って死んでいくんだもんな。すげぇ男だよ。んで、なに、お前は死ぬ勇気がなかったわけ?」
あたしはタバコをくわえて、髪を結わえながら哲さんの話を聞いていた。彼はいつもあたしをからかう。でも哲さんのからかいはいつも言い返せない。死ぬ勇気がなかったと言われればそうかもしれない。一瞬で死ねる方法を選べば良かったわけであって、わざわざ便器に顔を突っ込む必要なんてなかった。だから、今回も哲さんには言い返せなかった。
博多駅周辺の細々とした路地を入った雑居ビルだらけのとあるビルの5階にあたしがバイトする雀荘がある。その6階が事務所兼控室となっている。六帖ほどの狭い控室に入ると、すぐに丸いテーブルがあり、その周りに三つのパイプ椅子が置いてある。テーブルの上にはタバコの吸い殻の山となった灰皿や丸まったティッシュ、菓子の包み紙が放置されたままだ。基本的にこのテーブルを汚すのは哲さんだ。片付けるのはあたしだ。出勤初日、テーブルのあまりの汚さに自主的に掃除をしたのがいけなかった。哲さんは自分が汚しても、自然勝手に片付いていく摩訶不思議な現象が起きているとしか思っていないのかもしれない。
壁はタバコで黄色く変色し、至る所に不可解な染みがある。何の変哲もないグレーのロッカー。所謂、銀行勤めのOLが使用していそうな無難なものが九つ並んでおり、これもまたシールや落書きなどで原型を留めていない。そのロッカーの左横の壁には、約十五センチの穴がぽっかりと空いている。
あれは去年のクリスマスの夜だった。雪が降っていたのを覚えている。福岡は夏は灼熱地獄、冬は氷点下。九州イコール南国というイメージが強いのか、関東の人は福岡の冬を舐めているようだが軽率な格好で来ると痛い目に合う。この壁の穴を作った当事者二人の中の一人、神奈川から来た二十二歳のシオもそうであった。東京の大学を中退して、大好きなラーメンを研究するために福岡に来たのだと言っていた。自分の店を持ちたい、と意気揚々と夢を語るシオは、どこか軽さがあり、心が無かった。別に暴言を吐くわけでもないし、仕事ぶりも無難。ただなぜか信頼は出来なかった。あたしが夢というものがいまいち理解できないからだと思っていた。
そのクリスマスの夜、バイトに入って二日目の新人の女の子が控室で泣いていた。客に文句でも言われて泣いているのかと思い、あたしは面倒くさかったが仕方ないので、一応どうしたん?と声をかけた。彼女はプードルのような潤んだ瞳であたしを見上げた。
「昨日、シオさんとご飯に行ったんです。それで、そしたら、シオさんすごい酔っちゃって、シオさんの家までタクシーで送ったらいきなり部屋に連れ込まれて……」
はぁ、めんどくさい。
「やられたんや?」
「中出しされたんです」
彼女はうずくまってわんわん泣き出した。
「妊娠したらどうしよう!」
ヒステリックな金切り声が耳を貫いた。
「危険な日だったん?」
「わかりません」
彼女は頭を振った。
レイプなのか、同意の上なのか微妙な問題。ただ一つ、言えることはあたしには全く興味がなかった。シオがひどい男だとも思わない。男だからやりたいだけのときもあるだろう。十和子が相手をしている男のように。この子も不注意だったと言えば当然である。でもそんなことはどうでも良かった。お互いオスとメス同士でやり合って、ガキが出来て、一体なんの不平、不満、不都合がある?自分が自分の人生を歩んでいるなんて完全なる勘違いであって、人間生まれたときから死ぬまで誰一人自分の人生を掴んでやしない。
「泣いたって仕方ないけん、とりあえず病院行ったら?」
あたしの言い方が冷たかったのか、彼女は泣き止んでアイラインがぼやけた目であたしを見上げた。
とりあえず、もう人間のくだらないイザコザには関わりたくない。どうか、神様。あたしを機能的で回避的な人生を歩ませて下さい。
勢いよく控室のドアが開いた。菓子パンをくわえたシオと甘い缶コーヒーを持った哲さんだった。泣き崩れている新人の子を見て、二人のリアクションは面白いほど明白だった。まずい、と思った。特に哲さんが。
「あ?何が起こったと?」
哲さんは首をゆっくりと回した。ボキッボキッという鈍い音がした。
新人の子は涙目でじっとシオを見ていた。シオはその穴が開くような視線に耐えられないのか、しきりに頭を掻いたり菓子パンを見つめたりと挙動不審だった。
あたしはくだらない人間のイザコザに巻き込まれたので、溜息をつき肩の力を抜いて壁にもたれかかった。もう、お好きなようにして下さい、と頭の中で何度も呟いた。
「おい、何で泣いてんだよ」
哲さんがあたしに聞いた。既に不機嫌なのがわかった。あたしは胸の前で腕を組んでまだしゃがんだままシオを見続けている新人の子に視線を向けた。明らかに彼女の目はシオに対して怒りと不信感をぶつけていた。女の恐ろしい邪念の目をしていた。次にあたしはシオを見た。シオは完全に彼女の視線に殺されかけていた。でももう逃げ場はなかった。
「シオ、何かあったんか?」
哲さんが隣にいるシオに聞いた。シオは覚悟をしていたようだが、やはり恐怖に負けたのか両肩がビクついたのをあたしは見逃さなかった。一瞬、真空のような時間が流れた。
「いやぁ、昨日彼女と飲み行ったんスよ。そしたら、俺かなり泥酔しちゃってて、あんまり覚えてないんスよね~」
この場面に不自然すぎる台詞と不愉快すぎる声色が控室に響いた。
「訴えるから」
「へ?」
「無理やりやられたって、訴えるから!」
そう言って彼女は控室を走って出て行った。
「お前、何しとるん?」
哲さんがゆっくりとシオの方を向いた。両手首を軽く振っている。手を開いたり閉じたりしていた。五年前、ボクシング・アマチュア国内大会バンダム級の決勝戦で完敗した拳が疼いているようだった。シオは一歩後ずさりをした。
「哲さん、やめとき」
あたしの『やめとき』とシオの顔面が潰れる音は同時だったと記憶している。哲さんは殴り出したら止まらないから、あたしは腕を組んで壁にもたれかかったまま天井を見ていた。頬、顎、腹、どこを殴られているのか音で分かった。しかし、一度聞き慣れない人間を殴る音ではない破壊音が聞こえてあたしは顔を下ろした。すると、哲さんがシオの顔を殴っている横の壁に穴を開けていた。
哲さんは気が済むまで殴るとそのまま控室を出て行った。シオの顔は血まみれでどこに目や口や鼻があるのか判別できなかった。口っぽいところに耳を近付けると息遣いがあったので内心ホッとした。死んでないなら時間が経てば自分で帰るだろうと思い、あたしも控室を出て行った。控室のドアの周辺にはぐちゃぐちゃに踏み潰された菓子パンの残骸が落ちていた。
「ウェルテル効果だね」
爪を研ぎながら奥のソファに座っていた国王が言った。端正な顔立ちであたしと哲さんの方を向いてにっこりと微笑んでいた。
「何効果だって?」
哲さんが眉間に皺を寄せた。
国王は音もなく立ち上がった。肩幅は厚く、しかし無駄のない肉体で百八十センチ以上はある。彼はいつも縁に金を施したオーダーメイドのマントを着ていたため、そこから国王と呼ばれるようになった。
「ウェルテル効果。ゲーテって知っている?ドイツの詩人、小説家で法律家。名前くらいは知っているだろう?そのゲーテが書いた『若きウェルテルの悩み』で主人公のウェルテルが失恋して自殺するんだ。そしたら本に感化された当時のドイツの若者の間で自殺がブームになる。まさに今の後追い自殺と同じ現象さ」
「ほえー。さすが東大卒の国王だわ。知っている分野が幅広い!」
哲さんが茶化すように拍手をした。
「さて、質問だ。今回死んだロックスターはどうやって自殺したのでしょう」
「どうやってって・・・そういえば、知らねぇな。おい、ファンのお前は知ってねぇのかよ」
あたしは首を横に振った。
「マスコミが彼の自殺の詳細を報道しないのは、ウェルテル効果を防ぐためだ。彼ほどの影響力のある人間がどうやって死んだかなんてファンが知ったら同じ手法で死ぬに決まっている。主人公のウェルテルはピストルで自殺したから、ドイツの若者は同じようにピストルで死んでいる。でも実際、彼の影響力はウェルテル効果の定義を打ち破ったみたいだな。マスコミが彼の自殺の手法を報道しなくても、ファンたちはそれぞれのやり方で死んでいる。全く驚きだよ。僕はそこまで他人に入れ込んだことがないから、そういう感覚は理解できないけど、それほど彼が魅力的なんだろうね。きっと今僕たちがこうやってしゃべっている間にもまた誰か彼の後を追って死んでいるじゃないかな」
国王はあたしの前に立った。
「君は決して勇気がないわけじゃない。逆に勇気がある。世間に惑わされずに、まだ生きている。勇敢だと思わないか」
国王の澄んだ瞳にそう言われたが、あたしにはよくわからなかった。ただ国王の顔をじっと見ていた。
「こいつ、国王が言ったこと、ぜってぇわかってねぇって」
哲さんがタバコに火を付けながら言った。
「わからない?僕は君を褒めているんだよ」
国王が少し悲しげな顔をしたので、私は胸が痛んだ。
「わからんというか、今は頭の中が整理できとらんと。あのね、国王、頭の中で言葉が躍るんよ。勝手に踊り出して止まらんの。メリーゴーランドみたいにぐるぐるぐる言葉が回って、眼球の裏がくたくたになるんよ。だから今は褒めてもらってるかもしれんけど、嬉しくない。国王、ごめん」
「あらら」
哲さんは含み笑いをした。
「君は僕の説明がわからないと言うのかい?」
丁寧に言ったつもりだったがダメだった。あたしは国王に背き、怒りを買ってしまったのだ。これから処刑が始まる。刑の名は『国王を侮辱した刑』。
「ごめんなさい。国王の説明はちゃんとわかっとるよ。そのウェルテル効果っていうのも解りやすかった。国王はマジで頭良いと思うし、褒めてくれて感謝しとるよ」
「また手首切っちゃうよ」
「ちょっと、変なこと言わんで」
哲さんはヘラヘラしていた。国王は常習的にリストカットをしていた。それを見て哲さんは爆笑する。あたしは特に何も思わない。哲さんがはさみを国王に差し出した。
「やれよ。すっきりするんちゃろ?」
「国王、やめて。切ることのほどじゃないって。だってあたしごときのことやん?そんなダメージ大きくないやろ?」
「うるせぇ!女は黙ってろ!」
哲さんが怒鳴った。パイプ椅子から立ち上がり、挑発する目で国王の肩をぽんぽんっと叩きながら一周した。そして、はさみを国王の両手にしっかりと握らせた。
「国王はちと頭が良いかもしれんけど、ハートが弱いけん。甘噛みで国王の気が済むなら俺は全然かまわんと思う」
国王は渡されたはさみをじっと見つめた。大きな肩幅は強張ったように見えた。外見は誰よりも立派なのに、今は大袈裟なくらい小刻みに震えるチワワのようだ。
「国王、やらんでいいとよ」
あたしは国王のマントの上から左手首を握った。そこにはたくさんの傷がある。
「おめぇは本当に黙ってろよ。あっちのソファに座っとけ。お前だってあのロックスターの後追っかけて死ぬかもしれねぇんだろ?まともな精神じゃねぇよ。いっそパパッと後追っちゃった方が楽なんじゃねぇの?」
確かにそうなのだ。早いとこ彼を追って死んでしまえば、十和子も孤独も人生も自分からも解放される。
「ありがとう。ごめんね」
国王は握っていたあたしの手をゆっくりと離した。そしてマントの袖をめくった。左手首には四方八方から深い切り傷があり、よく天気予報の中継で見る渋谷のスクランブル交差点みたいだった。
「切らせてもらうよ」
そう言うと、国王ははさみを開いて持ち手と刃の部分を鷲掴みにして、もう一方を左手首に垂直に振り落した。哲さんが手を叩きながら笑った。余りにもオーバーリアクションだったため、持っていたタバコの灰が宙に舞った。あたしは一言も発しないまま、じっと国王を見ていた。はさみが国王の左手首に刺さった。スクランブル交差点のような傷跡にじんわりと血が流れていった。渋谷のスクランブル交差点の中央に人が集まっていて、信号が青になったと同時に駅方面、宮益坂、道玄坂に動き出したようだった。
後追い自殺についてうんちくを語っていた国王の澄んだ瞳は、否定によって白濁していた。国王は、優しいのだ。相手を追い詰め、困らせてしまうほどに。あたしには彼がとても温かく、もろくて、そして悲しい人だと、この国王の複雑な性質を初めて目の当たりにしたときに直観的に感じた。背も高く、ルックスも悪くない上、秀才なのに、ここにもまた社会の中で無理やり生かされている人間がいると思った。もっと性質の悪い秀才だったら良かったのに。自己中心的でクレイジーで平気で人を傷つけるような。そうだったら、ある意味楽で幸せだっただろう。センシティブだから生きれば生きるほど生きづらい。だから、東大卒なのに博多のしがない雀荘のバイトで人生を潰している。神様は一体何の不都合と恨みがあってこんな駄作をお創りになったのか。
「あー、ウケる」
腹を抱えて笑う哲さんの方を見て、国王は優しく微笑んだ。額には汗が滲んでいた。
この控室で起きているブラックユーモアは時として全く笑えなくなる。突如発生する竜巻のように恐ろしいこれらの現象は、行く場所がなく必然的にこの控室に流れ着いた特有の人物たちだからこそ創れるものである。
ここにいる三人は全て神様の駄作であり、ビョーキなのだ。そう、『神様』とか『ビョーキ』とかファンシーなもののせいにしとかないと治まりきれないし、あたしたちは生きていけなかった。
なんとも陰鬱な仕事を終え、外を出ると更に気分を暗黙の地に落とすかのように雨が降っていた。土砂降りならまだいいものを、こうシトシトと降る雨は如何せんあたしの自律神経をじわりじわりと追い詰めていく傾向がある。傘を持ってきていない自分に気付いて、雑居ビルが立ち並ぶ細い路地でぽつんと立ち尽した。こういうときに、ふと、帰る、いや、帰れる場所があればいいのに、と心から思った。
「あたし、寂しいんかいな」
ボソっと独り言をつぶやいて、あたしは一人でクスっと笑った。何を今更言っているんだろう。さっき哲さんが言ったように、さっさと彼を追って死んだ方が本当に惨めじゃなくて楽だ。
あたしは走ることもなく、急ぐこともなく、雨の中を淡々と歩き出した。頭の中で彼の雨をテーマにした曲が流れた。ちょっと歌謡曲チックなメロディ。艶っぽい彼の声がよく似合う。雨に打たれるのも感傷的で、たまには良い。
突然、黄色の物体が頭上から覆い被さるように後ろから視界に入ってきた。あたしは慌てて後ろを振り返った。
「あなた、昨日死んだミュージシャンのファンの人でしょ?」
鮮やかな黄色い傘をあたしに掲げ、一人の女性がそう言った。彼以外、むしろ人間に無関心なあたしが一瞬ハッと心を奪われてしまいそうな美人だった。艶のある黒いボブが、綺麗に鎖骨を見せているグレーのニットの上をちらちらと揺れていた。切れ長の目だが、優しい印象を受けた。ぷっくりとした下唇のせいだろうか。街灯に照らされた白い肌は触りたくなるほどもちもちさらさらしてそうだった。黄色い傘を持った女性はあたしを見てゆっくりと微笑んだ。美人というだけじゃない、人を魅了する何かを持った女性だった。
「すごいずぶ濡れじゃない。風邪引いちゃう」
彼女はミルクティー色のエナメル素材のバックからレースが刺繍されたハンカチを取り出し、あたしの肩を拭き始めた。よれた黒いタンクトップから出た骨張ったあたしの肩はレース素材に慣れていないため非常にちくちくした。
あたしはされるがままだった。今日の仕事内容のせいもあるだろうが、既に彼女のペースに巻き込まれていた。いつもあたしはあたしで、他人は他人であるのに、あたしは彼女の中にすっぽりと入っていた。それに気が付いたのは、彼女に誘われるがままについて行ったファミリーレストランのジョイフルのトイレで用をたしているときだった。
トイレから席に戻ると、彼女は真剣にメニューを眺めており、私は決まったけどあなたは?と言ってメニューを渡された。こんな風に他人と外食に来たことがないあたしは緊張感がじわじわと湧き上がってきて、メニューを早く決めなきゃいけないというプレッシャーから一体自分が何を食べたいのかわからなくなった。
「決まった?」
あたしは咄嗟に頭を縦に振った。
「すいません、注文いいですか?」
彼女は笑顔で隣を通り過ぎようとした若い男性の店員を捕まえた。
「私はオムライスとドリンクバーつけて下さい。あなたは?」
ドキッと心臓が大きく鼓動した。更にどれを選んでいいのかわからなかったので、あたしはモジモジした小学生の男の子みたいに小さな声で同じものを、と言った。
「スープとか頼まなくていい?あんなにずぶ濡れで体冷えてない?」
「大丈夫です。あ……タバコ吸っていいですか?」
「あ、ここ禁煙席。ごめん、吸うんだ。席変えてもらおうか?」
「いや、いいです」
「右腕のタトゥー素敵ね。彼とそっくり」
あたしは思わず左手で右腕にいれた鳩の刺青を隠した。
「隠すことないわ。あなたは有名人ですもの」
「有名人?」
「ええ。彼にそっくりなファンの子が博多にいるって。髪型からファッション、タトゥーまで。あなたはちょっとした有名人なのよ。知らなかった?でも今じゃ『ちょっと』どころじゃないかもね。彼が死んでしまったせいで、誰もがあなたをじろじろ見ているわ。まるで彼が生き返って博多の街を徘徊しているんじゃないかって感じで。さっき私が声をかけるときも何人かがあなたを見てヒソヒソ話していたわよ」
「あなたのお名前は?」
「ララ」
「何であたしに声をかけたの?」
お待たせしましたーっと若い女性店員がオムライスの皿を軽々しく片手で持って来た。
「あ、私たちドリンクバー行ってないね。先行っていいよ」
誰かと外食という経験が皆無に等しいので、完全にララのペースになってしまっていた。あたしはララに言われるがままにドリンクを取りに行った。
コーラを持って席に戻ると、ララはドリンク何にしようかな、と言いながら席を立った。あたしは彼女が戻ってくるのが遅いように感じた。目の前に温かいオムライスがあるからか。それともララのペースに巻き込まれて情緒不安定に陥っているのかもしれない。ただ、あたしがララを受け入れたというのは揺るぎ無い事実であった。
ララは温かい紅茶を持って戻って来た。
「夏なのにあったかいの飲むん?」
「冷え症なの。ここクーラーきついし」
そう言ってララは大事そうに紅茶を一口飲み、臓器を温めているようだった。そして、あたしをまっすぐ見て、いただきましょ、と嬉しそうに言った。
あたしはスプーンを持ってゆっくりとオムライスの卵に触れ、上目でこっそりとララを見た。ララはチキンライスと卵を美しく均等にスプーンですくい、大きな口を開いていた。美味しい、うんうん、と言うように頷いていた。オムライスが次々とララの中に入っていく。あたしは見惚れていた。ララがふとあたしを見た。一瞬目を細めて微笑んだ。あたしは慌ててオムライスを食べ始めた。卵のふわふわとケチャップの酸味は感じるが、美味しいのかはわからなかった。昨夜、十和子ととりすきを食べたときの緊張感とは違う種類の締め付けがあたしの食道をひたすら圧迫していた。
「ねぇ、彼が死んで寂しい?」
「あ?」
ララは三分の一になったオムライスをすくい易く皿の端へ寄せながら言った。あまりにも突然過ぎる質問だったのであたしは『彼』が誰のことか一瞬わからなかった。
「あなたみたいな熱狂的なファンにとって彼がどれほどの人なのか私にはイマイチよく理解できないの。私今まで誰かにのめり込んだことないし。好きなアイドルや歌手もいなかったから。あ、でも恋人とかはちゃんといたりしたわよ。そういう恋愛みたいなのは出来るんだけど、ああやってTVに出ている人とかって遠過ぎて現実味がないのよね」
「現実味がない?彼が?」
「ああいうショービズの世界にいる人って、存在しているけど存在していないと同じような気がするのよね。媒体でしか見ないから。TVで見ているときは生きているけど、チャンネルを消した途端死んでしまう。まぁ、これはあくまでも私個人の意見だけど。だから、あなたみたいに外見も彼のようにするほどの熱はある意味私には凄く興味深いの」
「だからあたしに声かけたん?」
「むしろ尊敬しているからこそよ」
ララは残りのオムライスを丁寧に食べ始めた。食欲旺盛なのは変わらないようだった。一方、あたしは喉を潰されたかのように更に食欲を失い、オムライスを半分食べきったところでスプーンを置いた。
『尊敬』という言葉はあたしにとって最も縁遠いものだと思っていた。学生時代からのいじめ、これからの人生、あたしは一生他人から『尊敬』されること、無論あたしが誰かを『尊敬』することもないだろうと思っていた。それなのに、この人はあたしを『尊敬』していると言った。
「食べないの?」
ララが顎であたしの前でしょんぼりしているオムライスを指した。
「食欲ない」
「そう?じゃあ、もらっていい?」
「え、まだ食うん?」
「生理前だからね」
ララは笑いながら前のめりになって、あたしの目の前にあった皿をひょいっと持ち上げて自分の前に置いた。そしてまた大口でオムライスに食らいついた。あたしは再びそれに見惚れていた。
「食べないから、そんなにガリガリなのよ。あ、それも彼のため?」
「彼は男やけん。女なんていらん」
ララは切れ長の目を丸めて咀嚼を止めた。スプーンを置いて、あと二口ほど残っているオムライスの皿を少しテーブルの中心へ押しやった。
「ねぇ、私今日宿無しなの。もしよければ今夜泊めてくれない?」
ララは頬杖をついて真っ直ぐあたしを見ていた。頭の中で一瞬、十和子と類の顔が浮かんだが、すぐに消えた。
「いいけど、狭くてボロいアパートやけど」
「助かる」
泊めてくれる御礼にと、ララはオムライス代を奢ってくれた。外はまだ深々と雨が降り続いていた。
何者かわからないララを泊めることがどういうことか、はて?と脳裏を過ったが、それよりも今はこうしてララと一緒に横に並んで歩いていることが何よりも興奮した。それは彼の曲を聴いているときだけ得ていたあの確かな生命力と似ていた。
まもなく日付が変わろうとする頃、あたしとララはアパートに着いた。洗練されたララがこのボロいアパートの周辺をウロついているという画だけで、次元がひね曲がった感じがした。しかし、当のララはそんな異様な空気感など気にも留めてないようで、出逢ったときの変わらぬ笑顔であたしのアパートにすんなりと入って行った。
玄関のドアの開けた瞬間、鼻孔を絞めつける強烈な科学的な匂いが襲ってきた。あたしもララも声にならない声を本能的に発した。玄関から暗い部屋を凝視するが、何も見えない。しかし、その不可解な匂いと背後でもんやりと漂う夏の雨の空気が背筋を凍らせた。
部屋の中で、あってはならないことが起きている。あたしは靴を脱いで、正面を向いたまま左壁の電気スイッチを押した。
陶器のように白い十和子の身体が畳の上で、異様な格好で横たわっていた。左足がほぼ頭部に付くくらい無理やり上げられているので、陰部がぱっくり空いていた。十和子の口には一口サイズの生の鶏肉の塊が溢れんばかりに詰め込まれていて、透明な赤い肉汁が十和子の口脇から流れていた。部屋は争った様子はない。ただ十和子の周りには、十パック程の鶏肉が転がっており、どれも2割引!などの黄色シールが貼ってあった。ラップが破られているものもあり、そこから透明な赤い肉汁が畳に染み込んでいた。
あたしは玄関で吐いた。さっき食べたオムライスのチキンライスのケチャップの酸味が苦しかった。でも、何より十和子の奇怪な格好が不気味で仕方なかった。
ララは四つん這いになってじっとしているあたしの脇を通って、軽やかに十和子の元へ近付いた。ぐるぐると十和子の周りを歩いて、ときどき座ってじっくりと十和子を観察したり、またぐるぐると歩いて、ときどきその場で立ち止まって何かを考えていた。
「フランシス・ベーコンの作品みたいね」
ぽつりと言った。
ララはミルクティー色のエナメル素材のバックからバズーカーのような一眼レフのカメラを取り出した。そして、おもむろに十和子に向けてシャッターを切り出した。
「ちょっと、何しとるん?」
「記録しているのよ」
ララはレンズ越しの十和子に夢中なようで、あたしの問いかけには適当に返した。
シャッターを切る音が鳴る度に、頭の神経をズキズキと刺激してきた。肉屋のおっちゃん。昨晩、十和子と一緒に食べたとりすきが眼球の中で鮮明に浮かび上がり、あたしはまた吐いた。もう吐くものがないのか、クリーム色のしゅわしゅわしたものがちょろっと出ただけだった。嘔吐の衝動でうっすらと涙が滲んだ。全てが恐ろしく、体が強張った。手を伸ばして、彼に触れようとした。彼ならいつも、いつでも、どこでも、あたしの側にいてくれる。あぁ、そういえば、彼もいないんだった。
ララは十和子の周りをうろつきながら熱心に写真を撮っていた。写真に撮られている十和子は強烈に不気味な故、イカれた現代アーティストの作品のようにも見えた。
鬱積していた哀しみと絶望と狂気の塊があたしの身体から出ようとしていた。もうコントロール出来なかった。あたしの唯一の理性だった彼がいないのなら、コントロールしようがなかった。
過呼吸のように胸を大きく開いたり閉じたりしながら、あたしは言葉にならない声で叫びながらララに飛び掛かった。ララは中腰で真剣にシャッターを切っている最中で、あたしのタックルで一眼レフごと吹っ飛んだ。あたしはララに馬乗りになって、ララの首に両手をかけた。ララの切れ長の目がグッと大きく見開いた。
「もっと力いれなよ。そんなんじゃ、死なないよ」
あたしは両手に力を入れようとしたが手の神経が笑ってしまって、徐々に力は抜け、ただララの首を握っているだけになってしまった。ララの冷めた切れ長の目があたしの思考回路を全て把握していた。
「母親がこんな変態野郎に殺されて、しかも私はそれを嬉しそうに写真に撮る。デリカシーの欠片もないわよね。そりゃ、あなたが怒るのも無理もないわ。怒るっていうか、この怒りをどこにぶつけていいのか分からず、とりあえず今私の首を絞めているけど、あんたには私を殺す勇気はないって感じ。当たり?」
ララは瞬時に体勢を変え、今度はあたしに馬乗りになり、あたしの首を絞めた。
「私は週刊誌の記者なの。アナウンサーのパンチラとか最近のOLのセックス事情とかをメインに扱っている低俗な雑誌の記者よ。その中で私は芸能人のスキャンダル担当。私は二年前からあんたが大好きなミュージシャンを追っていたの」
ララの両手には案外力が入っていて、あたしはもがこうとすればするほど苦しくなった。唾を飲み込むだけでも苦痛だった。
「もがくなよ。ちゃんと話聞けよ。ここからが面白いんだから」
ララは右手であたしの頬を掴んだ。あたしの全てを見透かしているララの切れ長の目が、否応なしにあたしに降り注がれた。
「あんたが愛したあのミュージシャン、『愛した』なんて大袈裟か。あんたはただの一ファンにすぎないんだからさ。でも、あんただけに特別に彼の秘密を教えてあげる。私だけが入手している特大スクープ。まだ他のマスコミも知らない。私が体を張って手に入れた情報ばかりだからね」
ララはそっとあたしの上半身に身を覆い被さり、口元をあたしの耳に近付けて囁いた。
「二年前のちょうど今頃、彼は自殺したのよ」
ララは上半身を起こし、再び馬乗りになり、あたしの首を絞める体勢に戻った。さっきよりは手に力は入っていなかった。ただ、あたしの方がララから逃げる気力も体力も残っていなかった。
「ちゃんと聞こえたかしら?」
あたしは目をつぶり、もう何も入ってこないようにした。しかし、涙が目尻から溢れて止めることが出来なかった。
「彼は三年前から曲が書けなくなって、鬱病、アル中、不眠症、色んな精神疾患を患っていて、最終的にはギターに触ることにさえも恐怖を覚えていたらしいわ。彼の口癖は『音楽が俺を殺す』ですって。出来ていたものが出来なくなるって恐ろしいわよね。しかも彼のように天才にとっては。彼の精神状態は日に日に悪化して、意味不明なことを言い続けていたり、話かけても返答も曖昧で、ずっと上の空だったそうよ。結局、彼は北海道にある知人の別荘で匿われることになって、外部との交流を一切遮断された。所属事務所は彼の状況がマスコミにバレることを恐れて、彼のゴーストを用意したの。ゴーストが作った曲を周りの人間が寄って集って彼のオリジナルに聴こえるか入念にチェックをして、世に出していた。とんでもない詐欺よね。ファンは彼の新曲だと信じて買う。そして、彼はその北海道の別荘で首を吊って死んだわ。所属事務所が自分のゴーストなんて使って金儲けをしているなんてきっと理解出来ないまま、自分を取り戻せないまま死んだんでしょうね」
ララはあたしの首から手を放した。
「目を開けなさい」
あたしはぎゅっと目を瞑った。
「開けな!」
ララはあたしの右頬を平手打ちした。パーンっという効果音が静寂を切り裂いた。あたしは目を開けた。
「いい?あんたが心の支えとしていた男はとっくに人生に負けて死んじゃっているんだよ。確かに彼には才能があった。一曲書くだけで多くの人を魅了したわ。でもその才能は歪んだ人間たちに利用されて、そして善良なファンであるあんたさえも騙されていた。こんな身体にタトゥーなんかいれて、彼になったつもり?だったら、彼を追って死んでみなよ。マスコミが頑なに秘密にしている彼の死に方を今私は言ったわよね?首吊りって。ファンの子は彼と同じ方法で死にたいって喘ぎながらも後追って死んでいるんだから、彼と同じ方法で死ねるあんたは本当に幸せ者なのよ。見てみなさいよ。あんたのお母さん。好き勝手生きて、最後はこの様だよ。生きたいって思っている奴はあっけなく死ぬのに、死にたいって思っている奴ほどしどろもどろ死ねない。本当に不公平だわ」
涙はもう止まっていた。耳の中に涙が数滴入ったようだ。あたしは上半身だけ起こし、馬乗りになっているララと向き合った。
「あんたは、何でそんなにあたしのことを知っとるん」
久々に正面から見たララの顔は初めて見たときの洗練された美しさは感じられなかった。雨の中、あたしに傘を差し出したララを見たときは彼女みたいな女性に生まれていれば、どんなに人生が生き易くて、人間に生まれて違和感など感じないことだと思ったが今はそうは思わないし、そんなことを一瞬でも思った自分を恥ずかしく思った。
ララは薄笑いを浮かべながら言った。
「この彼のスクープを独自入手してから私はもっとこの話に深みを持たせるために色々考えたの。時間はあると思ったわ。所属事務所は彼がダメになっていることを隠しているし、当分の間は公にはならないだろうと予測したの。彼に関するどの点を突っつくかとても悩んだわ。まずは手っ取り早く家族から攻めてみたの」
「ふっ、彼に家族なんかいない。親は死んでいるし、結婚もしていない」
「結婚はしていなくても、子供は存在するパターンは世の中にはあるのよ」
ララは勝ち誇ったように言った。あたしは上半身を起こすのに支えていた両手の痺れを一瞬にして感じなくなった。子供?彼の子供?
「あんたが動揺するのは無理もないわ。彼に子供がいる事実なんか知れ渡ったら、もっと後追い自殺が増えるかもしれないわね」
ララは思わず吹きだして、右手で口を覆った。
「彼の子供はもう高校三年生で、彼がメジャーデビューする頃に産まれたらしいわ。その子の母親である女性と何故彼が結婚しなかったのはわからないけど、まぁ、デビュー前という微妙な時期だったから事務所に止められたのかもしれないわね。いまどきの高校生の実態を調査するという嘘の街頭取材でどさくさに紛れてその子と話をしたわ。好青年、という印象ね。きっとお母さんが綺麗なんでしょう。でも、目は彼と同じ野心と妖艶さがあった。その子は自分には父親がいない、と言っていたからきっと彼が自分の父親ということを知らないのね。まぁ、知らなくていい事実よ、今は。時が熟して彼が大人になって知るときが来るでしょう」
両手の痺れが回復すると共に、彼の曲がシャッフル状態になって頭の中で高速プレイされていた。あたしの中にいる彼の姿が徐々に歪んでいった。彼は特別な輝きを失い、人間となり、普通の人となり、あたしと同じ目線になった。
「隠し子ネタは普遍的過ぎてつまらない。まぁ、彼クラスなら相当なゴシップになるけれど、私にはもっと違った角度のネタが欲しかった。もっと社会に物議をかます歴史に残るセンセーショナルなネタが欲しかった」
あたしは唇を舐めた。下唇は予想以上に乾いていて、一瞬にして唾液を吸い取ってしまった。あたしは慢性的に空っぽだった。
「重いけん、どいて」
あたしとララは見つめ合い、そこには沈黙の和解があった。
「ごめん、よいしょっと」
馬乗りになっていたララがどくと、あたしは立ち上がり、立ちくらみを覚えた。目の前の床が歪み平衡感覚が損なわれた。でも、立ちくらみが起きたことは自分の中だけに仕舞い込み、あたしは十和子の周りに散乱している鶏肉のパックを拾い始めた。鶏肉とラップの間に半透明な赤い液が血液のように流れた。いくつかのパックは、拾い上げたときには既に赤い液がパックの裏側まで漏れてしまっていて、畳を濡らしていた。ララは両膝をついたまま鶏肉のパックを拾うあたしの姿をじっと見ていた。
さすがに四パックを抱えるともうこれ以上拾えなくなった。手にはうっすらとパックから漏れた赤い液体がついているのがわかり不快だった。あたしはそのまま四つのパックを抱えたまま台所へ行き、流し台に四つのパックを放り投げた。そして簡単に水で手を洗った。そこで、あたしは頭を横から殴られたかのような気付きに襲われた。
類がいない。一気に全身から冷たくなっていくのがわかった。その反面、背中に一筋の汗が流れた。頭の中で言葉が連呼された。類がいなくなった。
ベビーベッドに駆け寄って覗き込んだが、類の姿はなかった。タオルケットをめくったがいなかった。ベビーベッドの下も覗いたが、いなかった。
どうして、みんなあたしを置いて行くのか。置いて行かれるのは嫌だ。一番嫌いなんだ。行ってしまったものは気楽でいい。何も背負わなくていいんだから。天国なり地獄なり新しい場所であたしのことなんか忘れて、また一からやり直せば済む。何故、あたしじゃない?どうしてあたしを連れて行かない?地獄だっていい。望んでもないのに生きている方がよっぽど地獄なんだ。なんでもします。だから、あたしを死なせて下さい。
あたしはうずくまり身体を震わせながら泣いた。泣き声は叫び声に近かった。死にたいのに死ねないもどかしさ、悔しさ、そして腹立たしさが彼の曲に合わせて頭の中で高速回転していた。それは、壊れたメリーゴーランドのようで誰も止めることができない危険な香りがした。今まで美しくも激しくもあたしの頭を撫でたり肩を抱いたりしてくれた彼の曲が調和を失くしていった。まるで軽快にダンスをしていた操り人形が一本一本糸を切られて、徐々に不気味な動きしかできなくなるように。もう、彼の曲は不協和音でしかなくなった。
「なぁ、類はどこに行ったんやろうか」
あたしはうずくまっていった顔を一気に天井へ向けた。涙で頬にくっ付いていた金髪の髪がうざったかった。
「あんたのお母さんを殺した奴に連れて行かれたのかもね」
ララは腕組みをしながら立ち上がって気怠そうに首を回した。細い華奢な首からポキポキっと関節の音が聞こえた。
「あんたはさぁ、何で類のことまで知ってるん?類のことなんて今まで一度も話したことない。なのに、なんでよ?」
ララは畳の上に置いていた一眼レフのカメラを取り、レンズをあたしに向けて一回シャッターを切った。
「言ったじゃない。私はもっとセンセーショナルなネタを探していたって。それがあんた。私はこの一年間ずっとあんたを追い掛けていたのよ」
「ははは。意味わからんし。なんで、あたし?」
「たまたま福岡で別の仕事で来ていたときに、中洲の商店街であんたとすれ違ったの。金髪の前髪から一瞬見えた目からは狂気と儚さがあった。まるで彼とすれ違ったんじゃないかってゾクッとしたわ。でも体型的には女の子だし、と思って振り返って色々思考を巡らせたけど、どうも気になって仕方なかった。彼の恰好や髪型を真似る過激的なファンはたくさんいるけど、あんたはそんな域じゃなかったのよね。私はあんたに賭けてみることにしたの。彼の病状と彼を取り巻く環境もそろそろ時間の問題だったし、彼が爆発したときにあんたはどうなるか。自分の直観を信じることにして、私は一年間、福岡に滞在してあんたをずっと追い掛けていたのよ。まぁ、あんたは追い掛けるほどの人間じゃなかったけどね。このアパートと雀荘のバイトの往復の日々。でも、彼と同じタトゥーを入れたりするのは傑作だったわ。そして、あんたの家庭環境。こんな母親に育てられたら私も捻くれ者になるもの。あんたがスーパースターの彼を崇拝する気持ちがよくわかる。私の直観は正しかったってわけ」
あたしはゆっくり立ち上がった。また立ちくらみがした。何だか妙に可笑しくて笑いが止まらなかった。もしかしたら、生まれて初めて笑ったのかもしれない。あたしはふらふらと笑う腹を手で押さえながらララに近付いて行った。
「あんた、狂ってるよ」
ララは眉間に皺を寄せながら言った。
「狂ってる、狂ってないって境界線は誰が決めるんやろうか」
あたしはララが首からかけていた一眼レフのカメラを掴んだ。
「少なくともあんたはまともじゃないよ。彼そっくりになってどうするの?彼もただの人なのよ。しかも弱いが故に死んでしまった。そんな彼を崇拝しているあんたは愚かよ」
「仕方ない。あたしの身体にはあそこで転がっている女の血が流れとる。愚かで当たり前やろ。命を持て余している奴には、命の扱い方がわからんで毎日が地獄なんよ。そん中で夢中になれるものを見つけて何が悪いと?生き甲斐くらい頂戴よ。でもね、ララ、今わかったんやけど、本当の地獄はこれからなんよ。あたしは彼を追って死にたいのに、死ねないんよ。死ぬのが怖い。後追い自殺しているみんなが羨ましい。なのに、あたしには出来ないんよ!情けない!あぁ、彼がいないのに、これからどうやって生きていこう……」
「あんたはもう自由なのよ」
ララがそう言うと、今までこの部屋に漂っていた行き場のない陰湿な空気が逆回りを始めた。
「もうあんたを縛り付けるものはいなくなったのよ。あんたの母親、そしてあんたを魅了し続けたスーパースターもういない。もう誰かに固執する必要はない。これからは好きな所へ行って、好きなように生きればいい。それは決して罪じゃないわ。自由は、人間が誰でも持っている究極の権利よ。もうそんな彼のような金髪にしなくたっていいし、痛い思いをしてタトゥーを入れなくたっていい」
ララは人差し指と中指であたしの毛先を挟んだ。毛先は痛んでパサついていた。
雨が未だに強く窓を打ち付けていることに気付いた。一体どれだけの時間が経ったのだろう。
「ここは私に任せて。あんたのお母さんのことを悪いようにはしないよ。とりあえず警察に連絡して変態野郎を捕まえてもらう。そして、あんたはここから出て行って、違うところで新しく生き直しなさい。全くあんたを知らない土地と人で、生まれ変わればいい」
頭の中に流れていた不協和音はボリュームが小さくなっていた。宿便のようにこびりついていた潜在意識や劣等感が窓を打ちつける雨音とともに流れ落ちるような気がした。
「あたしのこと、記事に書いていいけんね」
「ふん、それは私の直観で決めるわ」
ララは切れ長の目を意地悪そうに細めて笑った。
あたしは靴を履きながら呟いた。
「あぁ、類を探しに行かんと。きっとまた顔赤くして泣いとる」