知らない君の知ってる声
――ちゃん、――ちゃん。
目を閉じれば真っ黒で、目を開ければ真っ白。
どちらにせよ、気が狂いそうだ。
――ちゃん、――ちゃん。
薬品の匂いが鼻を突いて、呼吸するのも嫌になる。
静けさが耳鳴りを引き起こすし、そもそも何で、こんなところにいるんだっけ。
――ちゃん、――ちゃん。
体が痛くて起き上がるのも億劫だ。
ギシッ、とベッドのスプリングが軋む音を聞きながら、痛む体を無理やり起こす。
――ちゃん、――ちゃん。
真っ白な天井と薬品の匂いから分かってはいたが、病室のようで、わたし一人。
ベッド横の小さな棚には花瓶と色とりどりの花。
――ちゃん、――ちゃん。
上半身を起こしてから自分の体を見下ろしてみたけれど、別に特に骨折とかはしてなさそうだ。
ただただ、怠くて怠くて、体が痛い。
――ちゃん、――ちゃん。
それにしても、本当、何でこんなところにいるんだろうか。
首を傾ければ、ポキリと骨が鳴って、何も思い出せないことに首の角度を更に大きくした。
――ちゃん、――ちゃん。
そう言えば、思い出せないのは何でこんな場所にいるのかだけじゃない。
わたしって、そもそも、誰だっけ。
――ちゃん、――ちゃん。
首を元に戻して、今度は瞬きを繰り返す。
不思議と混乱したり慌てたりすることもないけれど、あれあれ、と記憶を引っ張り出そうとはする。
――ちゃん、――ちゃん。
まぁ、結局何も思い出せないから、ある意味時間の無駄だったんだけれど。
何かないかと病室を見回して見ても、特にめぼしい物は無さそうで、カチコチ煩い時計を手に取った。
――ちゃん、――ちゃん。
静か過ぎる病室にカチコチ煩いそれは、不釣り合いにしか思えなくて、電池を抜いた。
手の平の上で転がるアルカリ単三電池が二つ、取り敢えずゴミ箱に放り投げる。
――ちゃん、――ちゃん。
時計は止まったけれど、まだ煩い気がする。
時間なんて別に良いから、今が何年の何月何日なのか気になるんだけれど、カレンダーはない。
――ちゃん、――ちゃん。
あぁ、そもそも起きたのは今さっきで本当に良いのかすら怪しい。
もっと前に起きていたかも知れないけれど、何分何一つ思い出せないから分からないのだ。
――ちゃん、――ちゃん。
此処は何処でわたしは誰なのか。
何も分からないんだけど、どうすれば良い。
――ちゃん、――ちゃん。
それにしても、煩い。
ずっと何か、聞こえてくる。
――ちゃん、――ちゃん。
あぁ、なに、きこえない。
きこえるけど、きこえない。
――ちゃん、――ちゃん。
だれ、なに。
こえ、きこえる。
――ちゃん、――ちゃん。
――ちゃん、――ちゃん。
――ちゃん、――ちゃん。
***
ベッドの上で体を丸めて、どれくらい時間が経っただろうか。
電池を外した時計では、何時なんて確認は出来なくて、深く息を吐き出す。
聞こえていたような気がする声は聞こえない。
いや、そもそも本当に聞こえていたのかすら怪しいのだ。
記憶がなくて混乱してるんじゃない、と言われればそれまでで、自分自身落ち着いているように見えても、そうじゃないこともある。
だから、幻聴とか、そういうこともある。
「――ちゃん?」
体を起こす、顔を上げる。
兎に角反射的な行動で、わたしは微かな音を聞き取り、視線を向けた。
半開きの扉は、この病室と外を繋ぐものであり、その扉の前には一人の――男。
男、と呼んでいいのか迷うのは、彼が学生である証のように、何処かの学校の制服を着ていたから。
「……誰」
絞り出した声は思ったよりも冷たくて、固くて、掠れていた。
そんな声を聞いて、彼は目を瞬く。
後ろ手で閉められていく扉と、困ったように眉を八の字にした彼を見て、困ったのはわたしの方だよ、と言いたくなった。
彼は何も言うことなく、病室に入って来る。
カツコツ、床を叩く靴音を聞きながら、見つめた先には色素の薄い瞳。
よいしょ、と言いながら簡易的なパイプ椅子を引き寄せて、ベッド脇に座り込む。
不思議と恐怖のようなものはないが、何だこいつ、くらいは思う。
「――ちゃん」
今度はわたしが目を瞬く番。
彼の声が小さいのか、それともわたしの耳に何か障害があるのか、上手く彼の声が言葉が、聞き取れなかった。
軽く首を傾ければ、もう一度、その口から同じ言葉が紡がれた――のだと思う。
やはり、聞き取れなかったけれど。
眉を寄せて首を傾けるわたしを見て、彼は訝しげな顔になり、ねぇ、と声を掛けて来る。
一応答えなくては、と思い、はい?と返せば、俺のこと覚えてる?なんてちょっと論点の変わった問。
先程、誰、と聞いたばかりな気もするが、緩く首を振りながら否定、覚えていない。
「そっか」
小さく呟かれた言葉とほんの少しだけ揺れた目を見ていると、何だか凄くわたしが悪いことをしたような気分になる。
そもそも、覚えていないという言葉を選ぶこと自体が間違いだと思うのに。
何も思い出せないのだから、そこに確かな記憶が存在していたという確証も何もないのだ。
覚えているいないの問題じゃ、ない。
なのに、何で。
唇を噛めば、それにいち早く気付いた彼がこちらに手を伸ばしてくる。
ゆっくりと唇を撫でて、駄目だよ、なんて優しい声で注意してくるのが、何故か懐かしいと思った。
「さきしろ」
「……はい?」
「崎代 要。俺の名前」
彼の口にした名前を繰り返せば、嬉しそうに顔を綻ばせる。
ふにゃり、と締りのない顔を見ていると「崎代くんって呼んでね」と言われてしまう。
仕方無く呼んでみれば、弾んだ声でなぁに?なんて聞かれてしまうが、呼んだだけです。
しかし、彼は誰なのだろうか。
じっと彼の顔を見つめれば、彼はゆっくりと眉を下げてわたしの手を包み込む。
わたしの両手をすっぽりと。
「ねぇ、――ちゃん。もう、どこにも、いかないで」
赤い眼鏡が下がって、前髪がその表情を見えにくくする。
ただ、伏せられた瞳と小刻みに震える睫毛を見て、ズキズキと心臓が痛んだ。
同時に、血液が逆流したみたいな熱に体が包まれて、節々が痛み出す。
包み込まれた手の上に落ちる雫を見ていると、ぼんやりと視界が赤く滲んだような気がした。
赤、紅、朱、兎に角真っ赤。
何か思い出せそうな気がしたけれど、いかないで、お願い、という声でどうしても深く自分の意識に沈み込めない。
何でそんなに切羽詰ってるの、とか、聞いちゃいけないような気がして、わたしよりも高い体温を持つ手の平を見つめた。
いかないで、って、どの意味なんだろう。
いかないで、行かないで――逝かないで。
「お願いだから、俺を、僕を、置いて……いかないで」
――ちゃん、――ちゃん。
あぁ、同じ声だ。
聞こえていたような気がした声は、ずっとずっと気がしたんじゃなくて、聞こえていたらしい。
幻聴ではなかったようだ。
――ちゃん、――ちゃん。
また聞こえ始める声と彼の声が混ざり合う。
「作ちゃん」
聞こえた声に顔を上げれば、わたしの腰を抱き締めて顔を埋める彼。
ねぇ、わたし、何も思い出せないの。
貴方がわたしを呼ぶ声しか、思い出せないの。
「ごめんね」
彼はきっと、何に対する謝罪か分からないだろうけれど、顔を埋めたまま小さく首だけを振る。
それでもわたしのものらしい名前を呼ぶ声が聞こえてきて、何故だか知らないけれど、思い出せないけれど、一緒に泣きたくなった。