前輪
その日、夜が長かった
自分が何を考えているのか、誰を想っているのか
深いところで僕は自分の心と繋がっていた
時計をみると、深夜2時を指し示していた。
時間の概念をもう随分と忘れていたような気がする
真っ白な壁の曇った空間の中で、僕はひたすらに思い出を細切れにしていた…。
涙も出さず、表情を持たない僕の顔を道化が見たら、きっと鍛え甲斐のある上物だと職人魂に火がついたかもしれない。
それ以外に、もしかすると僕は、自分を表現する術をしらなかったのかもしれない…。
夏の大連は涼しさに混じって、やはりその土地の匂いというか、流れる時のようなものを感じさせていたように思う。
高校を卒業して、なんとなしに就職した企業系レストランで奮闘していた僕は、19歳の夏、自分自身の行く末について浅く軽く考えながら調理場でフライパンを振っていた。
もともと、何かを工作するのが多分好きで、イタリアンレストランなんてお洒落に決め込んで、その上料理の腕も上がると意気込んで入社した折、僕は早々と縦社会の洗礼を受けていた。
将来はイタリアのトスカーナ地方にでも武者修行に出かけて、三ツ星店から小汚い古びたリストランテまで網羅したあと、晴れて日本で錦を飾る。
なんて真幻想みたいなことを考えていたのだが、よくよく今の自分の環境を見直してみると、出来合いのハンバーグソース、火にかけて温めるだけのポークカレー。
それとおそらく、明け方3時過ぎぐらいに隣のパン屋の新人がこしらえたBLTサンドを冷蔵庫にいれるという、およそ本格イタリアンには程遠い仕込みをしている自分は何なんだろと疑問にも思い始めた。
そして、気の合わない先輩からの無駄なイジメのようなものもあり、夢への右足も踏み出せないまま、僕は一年でその会社を退職した。
なんとも根性のない話ではあるが、僕はさほど挫折感を感じてはいなかった。
なんせマネージャークラスになっても、準社員の1.2倍ほどの昇給と、地下暮らしにも似た職場環境に飽き飽きしていたから、その頃には夢もクソもなかったのだ。
もともと、根っからの夢想家ではなかったし、他人の期待に応えようとする節もあって、逃げる理由はいくらでも用意できた。
そして、僕は社会人一年で所謂プータローへと可憐に転身したのである。
今思えば、そこで出会った人々も、後々の自分を知る為には布石のようなものでもあり、自分を自分と、言わんとするような出来事も多くあったように記憶している。
話を戻すと、会社を退社して、叔父の経営する鉄鋼会社に転職するまでのプータロータイム中に、僕は車の免許を取り、叔父の計らいで、中国へ短期の語学留学へと取り組むことになった。
なぜそうなったのか?
レンコン頭の自分には状況が掴めなかったし、先のこともわからなかった。
ただ、イタリアに武者修行に出掛けるよりは、自分の臆病な心には断然中国行きが輝いて映って見えた。
黄色人種バンザイ。
漢字表記バンザイ。
そのくらい浮いた印象と、なんだかよくわからない使命感を持って、中国は大連へと飛んだのだった。
季節は夏前だったが、もう夏と言ってもいいような陽気と、入り乱れる人混み。
以外と東京の銀座あたりを思わせる高層ビルとファッショナブルな街並みに、僕は胸踊らされていた。
こんな都会で果たして、ネイティブな中国語を学べるのだろうか?
エルメスやグッチのブティックが並ぶ通りを、タクシーの車内から眺めながら、素直にそう思った。
中国とは。四千年の歴史とは。
流行りというものを纏った街の風景からは、そんなものは微塵も感じなかった。
しかし、人とはやはり現実的な物の見方の方が、自分の中には入り込んでくるらしく、中国語を勉強する教室に案内された時には、僕の心は中国色満載の現地人によって軽く撫でられていた。
やはりそこは中国であり、目の前の数人は本物の異国人なのだと。
そして、僕はこの教室で本物の中国語を学び、日本で錦を飾るのだと。
漠然とした成功への道標がとたんに出来たようで、わくわくする気持ちだった。
僕に中国語を教えてくれたのは、張 先生だった。
張 先生は小柄で、眼鏡がとても似合う、ユーモラスな女性だった。
小学3年生レベルの日本語で、ネイティブハイパーな中国語を教えてくれた。
時折、僕は持ち前の勉強嫌いのせいで、居眠りをすると、小学3年生レベルの日本語で、「アナタ ヤルキ アルカナー !?」
と、よく怒られたものだ。
張 先生は真面目に授業をしてくれているようだったが、僕にはなんだか、逆に力が抜けてしまうような、片言の授業展開に違和感を感じていたのを覚えている。
もちろん、中国語を覚えようという気はあったが、それにも増してインパクトのある 張 先生の物言いに中国語なんて入ってこなかった。
3ヶ月で、覚えたのは、数を示す動詞と200程の単語に、浅い理解で頭に入れた基本文法だけだった。
むしろ勉強は僕にとって、その程度の重要性しかなかったのかもしれない。
僕はどこかで、頭の良さとは、勉強ができることでは測れないと思っていたのだろう。
まったく狭い視野の中で、やってることは一丁前だったから、尚更歪んでいたのかもしれない。