Ⅷ 芸術家と旅人
皿を洗い、乾いた布で拭く。庭に出て、冷えた水に衣服を浸し、汚れた部分を重点的にこする。故郷にいた時から何度も経験のあることだったので、皿洗いも洗濯も苦にはならなかった。
初めは勝手のわからない部分も多かったけれど、一週間も経てばすっかり慣れた。
ただひとつ気になったのは、わたしが作業をする姿をじっと見つめている人影があることだ。かれこれ二、三週間が経つが、毎日その光景は繰り返された。
「ギルバードさん」
わたしは覚悟を決めて、背後の人影に声をかけた。
「ん? どうした」
「いえ、特にどうもしませんけど、お仕事とかは……」
働いているのか学校に行っているのかはわからない。けれど、わたしの前にいた世界ならば家を出ていて然るべき時間だ。
ギルバードさんは悪びれる風もなく、わたしのことを眺め続けた。
「オレはこれが仕事なんだよーん」
ふざけた口調で、両手の親指と人差し指を使って長方形を作る。その長方形を縦長にしたり横長にしたり、果ては斜めにしたりしながらわたしにかざした。
「もうちょっと肘を内側に」
よくわからない指示が飛び、洗濯ものをもったまま動作を停止した。ぽたぽたと落ちる雫が、足元を濡らす。
少し風が冷たい日だったので、指先が凍えて痛んだ。
「肘!」
檄が飛び、びくりと肩を揺らしながら従う。
「な、何なんですか?」
「いいから。……そうだな、首少し左に回して、顔上げて」
言われたとおりに顔を動かすと、太陽の光が網膜に突き刺さった。
「あ、あの……」
「いいよ、戻って」
よくわからないうちに終わってしまい、弄ばれたような気分になった。
まだ水滴を落とし続ける服を絞り、物干しへかけた。
ヴェンさんやギルバードさんに合わせて作られたのだろう物干し竿は、背伸びをしなければ届かない高さにある。
「そのままストップ」
目いっぱい背伸びをしていると、再びギルバードさんが指示を出してきた。
無茶な命令に、ふくらはぎの筋肉が震えだす。
「無理です」
「無理って言わない。せっかくモデルにしてやるんだから」
「モデル?」
おぅ、と気の抜けたような声を漏らして、長方形をわたしへ向けた。
「よそ見すんな」
叱られるたびに理不尽な気がしても、モデルという単語に惹かれて思わず従ってしまった。
ギルバードさんはどこからかスケッチブックを取り出して、鉛筆を走らせていた。
わたしの故郷では、画用紙も鉛筆も高級品だった。だから、よっぽど裕福な家の人でなければ絵は描けなかった。その尺度に合わせてみれば、ギルバードさんも相当なお金持ちということになる。
昼間から働きもせずにこんなことをしていられるんだから、あながち間違ってはいないのだろう。納得がいかないのは、ギルバードさんの身なりがお金持ちに見えないことだけだ。
「ギルバードさんは、絵描きさんなんですか」
「絵描きぃ? あんな奴らと一緒にしてほしくないね」
ギルバードさんが顔をしかめた。
絵描きは、かなりの才能の持ち主にしかなるのことの許されない職業だ。そう教えられて育ったわたしには、意外な反応だった。
わたしがきょとんとしているのを見て、苦い顔をしたギルバードさんが説明をしてくれる。
「絵描きってのはな、浮浪者の仕事だ。その辺に座って、行きずりの奴を描いて押し売るんだよ。あんな汚ねぇ商売と一緒にして欲しくねぇな」
「そうなんですか……、すみません。わたしの故郷では絵描きは高位の職だったので」
わたしが答えると、ギルバードさんは目を丸くした。
「へぇ? どうして絵描きなんかが」
「なんか、って。肖像画を描かれるのは中央の貴族の方ばかりですし、絵を描くのに必要な道具は平民にはそろえることのできない値段ですから」
「そかそか。ってこたぁ、ライザちゃんからすればオレもお金持ちのお坊ちゃまってことか」
嬉しそうに腕組みをして空を見上げる。放り出された鉛筆が転がって、庭に落ちた。
鉛筆を拾い上げようと屈んだ時に、玄関の戸が開く音がした。
――ヴェンさんにしては帰りが早いな。忘れ物でも?
「よっ、いる?」
ヴェンさんの声じゃない。
顔を上げると、体よりも大きな荷物を背負った人が立っていた。
ははは、とギルバードさんが笑う。
「これでこの家の奴ら全員と顔を合わせられたってことでさ」
ぽん、と肩に乗せられたギルバードさんの手が余計に羞恥心を呼び起こした。
わたしは耳まで真っ赤になってうつむいていた。
突然の来訪者を、泥棒と勘違いしたわたしはびしょ濡れの洗濯物を投げつけてしまったのだ。
「気にしないでー」
わたしの正面に座る人は、乾いた布で顔を拭っていた。浅く黒く日に焼けたその人は、一見しただけでは性別がわからなかった。顔のつくりは女性のそれなのに、短く刈り込んだ髪の毛やがっしりとした筋肉のせいで男性のようにも見える。声がややハスキーなこともあって、わたしはその人の性別を断定することができなかった。
「ま、そういうこともあるって。もっとひどい目に何度も遭ってるしさ。むしろ驚かせちゃったみたいでごめんね」
「ライザちゃん、ジェシー遠慮はいらねぇよ。なぁ?」
ギルバードさんが問いかけると、ジェシーと呼ばれたその人が苦笑いした。
「遠慮はいらないけどね。ギルバードは加減を知ったほうがいいよ」
「はっ、ジェシーが知らねぇだけでオレは外っ面だけはいいんだよ」
「それ自慢にならないし」
冷静なジェシーさんの突っ込みに、ギルバードさんが一瞬おとなしくなる。
「ええと……ジェシーさん? は何をされてる方なんですか?」
「ん、旅人。アタシは流浪の旅人ジェシカで通ってるよ」
「とんだ放蕩野郎でさ、年の半分以上ふらふら遊んで歩いてやがるんだ」
「ギルバード! 遊び歩いてるったぁ聞こえが悪いだろ。それに、家でぐうたらしてるアンタにだけは言われたくないね」
妙にケンカ腰なジェシカさんに、負けじとギルバードさんが食って掛かる。わたしはいつ掴み合いのケンカに発展するかとハラハラしながら見守っていた。
「そういえば、ヴェンは?」
「あ? ヴェンリアなら仕事だよ」
「だよねー。アンタみたいな阿呆とは違って真面目だから」
どうもひとこと多いジェシカさんに、ギルバードさんがにらみを利かせる。
「あ、あの、そろそろお昼なので何か作りますよ」
一触即発の緊迫した空気に耐え切れなくなって、わたしは逃げるための口実にすがった。
「あれ、もうそんな時間か」
ほっと一息ついて、ジェシカさんが立ち上がった。
ジェシカさんは小さな山を形成しているリュックの中身をあさり始めた。
中から次々と出てくる紙包みからは、香辛料や果物の香りが漂ってくる。
「おみやげ、冷蔵室に置いていいよね」
「いいんじゃね?」
「よし、やるか」
ニカッと口角を引き上げて、ジェシカさんが腕まくりをした。