Ⅵ 冷めたスープと
この国において、猫という生き物は神の遣いだった。中でも、黒い猫は神様の化身とも言われるほど高貴な動物らしい。
それが灰を片づける中でわたしの得られた知識だった。
「猫っていうのはね、もともとこの国にはいない動物だったの」
庭の隅に掃き取った灰を積み上げながら、ヴェンさんの話を聞く。
「大昔、猫を見た人たちはそれを神の遣いとして崇めていたらしいわ。それからしばらくして――といっても何百年も前になるんだけど――数十匹の猫が贈られたのよ。でも、その国とは随分と前に国交が途切れてしまってね。だから、国で管理している個体以外はいないはずなのよ」
「そんなに貴重な動物だったんですね。わたしの暮らしていたところでは、その辺に野良猫がいるのが当たり前だったから……」
「想像もつかないでしょ」
ヴェンさんに問われ、わたしは大きくうなずいた。ヴェンさんはなぜか楽しそうで、さっきわたしが猫を見た辺りの草むらを覗き込んでいた。
「特に、全身真っ黒の猫なんてそうそういないのよ。黒い猫には魔力が宿る、なんて言われていてね。その存在自体が神様みたいな扱いなの」
――黒い猫の、魔力か。
不幸を招くというのと、考え方は似ているかもしれない。それを吉兆と捉えるか、凶兆と捉えるかの違いだ。
わたしの故郷では悪の使い魔だった黒猫が、こちらでは神様だなんて不思議な気分だ。できれば、もう一度見てみたいな。
ヴェンさんと一緒になって草むらを探してみたけれど、鈴の音はおろか、黒い影すら見つけることはできなかった。
日暮れとともに、わたしたちは夕食をとるために城へ戻った。衣裳部屋の角を曲がると、そこには玄関と階段が待ち構えていた。
わたしが絵本で見知っているお城とは、若干構造が異なるようだ。
無駄な部屋を省き使い勝手を重視した建物、という表現がぴたりと合う。聞こえはいいが、実際は大広間の付いた普通の家だった。
一階の玄関の隣がキッチンと食堂で、二階に寝室がある。外から見たときに壮大に見えたのは、あの大広間のある棟だったようだ。
そういえば、この家では使用人らしき人の姿も見かけない。家のことを手伝ってもらうとは言われたが、使用人の仕事をわたし一人で全てこなさなければならないのだろうか。わたしは、次第に不安になってきていた。
ヴェンさんははじめ、自分が一般市民だといっていた。その言葉に偽りがないということなのだろうけれど、では、わたしは何のためにここに呼ばれたのだろう。
神様のお言葉をうかがうため、神様の花嫁となるために送り火を使う。わたしたちは一時の懸け橋となって、故郷の平和を守るためにこの尊い役割を請け負った。それなのに、辿り着いてみれば一般の家庭でした、では申し訳が立たない。
「ヴェンさん……」
わたしは、思い切って聞いてみることにした。
「どうしたの?」
「この世界では……、他の所から人を連れてくることが当たり前なのですか」
「え?」
ヴェンさんの表情が固まり、持っていたスプーンが指の間から滑り落ちた。乾いた金属の音が、静かなキッチンに響く。
「ど、どうしてそんなことを言うの?」
「申し訳ないのですが、見たところ、ここは普通の民家と変わりないように思います。何か特別な事情があって使用人の方々がいらっしゃらないだけなのかもしれませんが、それにしても、平民の暮らしと変わらない」
テーブルの上に並べられた食事は、わたしが慣れ親しんだパンとチーズと野菜のスープという組み合わせだ。
衣裳部屋だけは、見たこともないような豪華な服が取り揃えられていて圧巻だった。けれど、他の部屋の調度品はお世辞にも高級なものとは見えない。
「……そうね。貴女の言う通りよ」
落ちたスプーンを拾い上げ、水洗いをしてテーブルに置く。一連の動作を終えて、ヴェンさんは席に着いた。
「私にできるもてなしはこれしかないわ。最初に言ったはずだけど、私は神ではない。貴女たちが勝手にそう解釈しているだけです。
本当は、ただ業の深いだけの一族……」
そこまで言うと、ヴェンさんは急に言葉を切った。
瞳の端に輝くようなものが見えた気がして、罪悪感に苛まれる。
ヴェンさんはうつむいたまま唇を噛み、わたしはやり場のない視線を部屋の中で泳がせた。
決して高そうではないけれど、大切に使われてきたことが窺えるテーブル。擦り切れかけてもなお、色あせた様子のない絨毯。暖炉には燃えさしの一つも残らないほど丁寧な手入れがされていた。
どれも、この家を大切に思っていなければできないことだ。
――わたしはヴェンさんが守ってきたものを壊してしまったのではないだろうか。
自責の念に駆られ、湯気を立てる食事を前にしても一向に食欲はわかない。
「こんな暮らしは嫌よね。……嫌と言われても、私にはどうすることもできないの」
ぽたり、と涙が一粒落ちてテーブルクロスの上に溜まる。新しく下ろしたばかりなのか、布製のテーブルクロスは水を受け入れはしなかった。
「すみません。わたし、言い過ぎました」
気が付けば、わたしの目の前にもいくつかの雫が落ちている。
目元をこすって、次の涙が落ちないように瞬きを繰り返した。目の端を涙が伝って、そこだけ冷たい。
「どうして貴女が泣くのよ」
ヴェンさんの声は涙で潤んでいた。答えようと口を開いたが、喉がつっかえてうまく言葉が出ない。
「も、もらい泣きですよぅ……」
「もらい泣きって、子供みたいね」
「わたし、ヴェンさんとの暮らし、嫌じゃないですから。ヴェンさんと、楽しくやっていきたいと思ってますから」
「何よ、それ」
くすり、とヴェンさんが笑った。細められた瞳の端から、涙が線を付ける。
わたしたちは泣きながら笑った。
お互い、今日出会ったばかりだとは思えないほどにくだらない話をした。
気が付いた時にはスープは冷めていたし、どうも塩が効きすぎていた。
そのことを指摘すると、ヴェンさんは出した分を摂らなきゃ、と茶目っ気を込めてわたしの鼻先に人差し指を突き付けた。
こんなことまで見越していたなんて、とわたしが驚いた真似をすると、「そりゃぁ神様ですもの」と言って笑う。明日になれば、腹筋が筋肉痛になっているかもしれない。
二人で散々笑った後、わたしが皿を片付けた。
「明日、町へ行くわよ」
わたしたちが部屋に引き上げる間際、ヴェンさんは、思い出したように告げた。