Ⅴ 衣裳部屋にて
広間の灰を片付ける前に、とヴェンさんはわたしをドレスルームに通してくれた。
広間を出てすぐの、廊下の左手にある部屋がドレスルームだった。
廊下はその後すぐに角を折れていて、先には何があるのか見ることは出来ない。
「ここにある服は、どれでも好きなものを選んでちょうだい」
ヴェンさんが扉を開くと、色とりどりの衣服がわたしを出迎えた。衣裳部屋とは思えないほど広い空間に、溢れんばかりの洋服が詰め込まれている。
空気は少し埃っぽい気がした。それでも、湿気がこもらないように配慮はされているらしく、カビの臭いはしない。
ドレスルームには、パーティーへ行くときのような豪奢なドレスも、普段着として着られるような可愛いワンピースも、動きやすいパンツも揃っている。
壁には全身が映るサイズの鏡がはめ込まれていて、すぐにでも試着したい気分になった。
鏡の前で、ドレスを着てクルリと回る。その姿を想像した時、そこに浮かんだのはわたしの顔ではなかった。
一人っ子だったわたしの、唯一と言っていい妹分のシーナが、わたしを見つめて笑う。
――シーナはお姫様のような服が好きだった。ここへ連れてこられたら、どれほど喜んだことだろう。ここにはあの子の知らないデザインの服がたくさんある。細かな刺繍も、丁寧な縫い取りも、どれも村では適え切れないものばかりだ。
遠く離れた――ヴェンさんに言わせれば、別の世界にいる――妹のように可愛がっていた子の姿が脳裏をよぎった。
わたしがどんなに祈ろうと、会うことのできないシーナのイメージを振り払う。
代わりに、わたしにはもったいないほどの服の山を足早に廻った。一つ一つのデザインの違いなど見て取れるはずもない速さで、わたしは歩いた。
――どれも着てみたい。けれど、体は一つしかない。ファッションショーをやるだけの時間もない。
ジレンマにかられながら、自分のサイズに合いそうなものを二、三選んだ。そして、それぞれを鏡の前で体に宛がう。
見立て通り、サイズだけは合うようだ。
「どれがいいと思います?」
鏡越しに見えたヴェンさんに尋ねてみた。ヴェンさんは手に持っていた服を適当な場所にかける。
衣装選びを邪魔してしまったらしい。
ヴェンさんは嫌な顔ひとつせずに来てくれた。それぞれの服につけられていたタグを読み始める。
わたしには読めない文字だったから、気にも留めなかった。けれど、よほど重要なことが書いてあったと見えてヴェンさんの表情は真剣そのものだった。
「材質的にはこっちだけど、貴女にはこちらの色のほうが似合うわね」
ヴェンさんが差し出したのはモスグリーンのワンピースだった。
わたしはそれを受け取り、鏡の前で合わせてみる。
落ち着いた、大人っぽい印象。今まで着たことのない色で初めは抵抗があったけれど、確かに合うかもしれない。わたしは、さっそく着替えようとした。
慣れないウエディングドレスを脱ぐのに手こずっていると、ヴェンさんがそっと手を貸してくれた。
「それじゃ、私も着替えようかしらね」
ヴェンさんはいたずらっぽく笑うと、纏っていた服をためらうことなく脱ぎ捨てた。
透き通るような白い肌が無防備にさらされて、わたしの方が恥ずかしくなってしまう。
耳まで赤くなったわたしが目をそらしていると、ヴェンさんに肩をたたかれた。
「もういいわよ」
その発言が信用できなかったわけではないけれど、振り向くのがためらわれる。
恐る恐る視線を動かす。ヴェンさんは、思った以上に質素な服装に変わっていた。
薄紅を基調とした色遣いは同じでも、圧倒的に飾りが少ない。先ほどの煌びやかなドレスとは大違いだった。
――まるで、平民のよう。
自分の中に湧き上がったイメージを、すぐさま払拭する。
――そんなはずがないじゃない。こんな立派なお屋敷に住んでいるんだから。きっと、シンプルな作りでも、使ってるのは高級の布だ。
「す、素敵ですね」
「そう? こんな服、どこにでもある安物よ。貴女の故郷にだって売ってるでしょう」
反論は、できなかった。
――ああ、そうか。
やっと納得のいく答えが導き出される。
わたしたちはこれから広間の掃除をする。掃除をするのに、わざわざ綺麗な服を着る必要なんてない。だから、あえてこのようなものを選んだんだ。
ただデザインだけを見て、一度でいいから着てみたいと思ったものを選んでいたわたしとは違う。
あまりに利己的な自分に、呆れてしまう。
遠くで、チリンと鈴が鳴った。
わたしは音のした方へ意識を向ける。しかし、もう鈴の音は聞こえない。
「ヴェンさん、今音がしませんでしたか?」
「音? 何かしら……」
ヴェンさんは顎に指を添え、考え込む仕草をした。
「お客さんかもしれないわね」
口ではそう言ったものの、心では微塵もそうとは思っていないのが表情に浮かんでいた。
それでも、ヴェンさんは廊下へ出た。左右を見渡して、わたしを置いて出て行ってしまう。
本当に来客だった時、見慣れぬわたしがいては不都合だろうと部屋に留まった。
しんと静まった部屋に一人でいると、どうも心細くなる。じわじわと、ついて行けばよかったという後悔の念が沸き起こった。
チリン。
また、鈴の音が聞こえた。
チリン、チリン。
――近い。この壁の、向う?
小窓から外を眺めると、さっき座っていた木が目と鼻の先にあった。草むらがざわざわと揺れ、間から何やら黒いものが姿を現した。
よく目を凝らしてみると、そこにいたのは一匹の黒猫だった。赤い首輪を付けられた黒猫は、鈴を鳴らしながら悠々と草むらの中へ消えていく。
――……なんだ。怯えて損した。
張りつめていた緊張の糸が切れ、ほっと胸を撫で下ろした。
「変ね、誰もいなかったわ」
ヴェンさんが腕を組んで戻ってくる。
「猫でした」
「猫?」
わたしの報告に、なぜかヴェンさんが目を丸くする。
「猫って、貴女本当に見たの?」
「ええ、黒い猫でしたよ。赤い首輪をしていて、首輪に鈴が付いていたんです」
「まさか……そんなことあるはずないわ」
ヴェンさんの声は震えていた。心なしか顔色も悪くなっている。
「猫がどうかしたんですか?」
そういえば、わたしの生まれ育った村では黒い動物――特に犬や猫やカラスといった生活に密接に関わる生き物――は不幸の象徴とされていた。黒い動物は人を悪の道へと引きずり込むという。だから、それまで善人だった人が悪事を働くと「カラスに唆された」などと言うのだ。
そういった謂れがこちらでもあるのだろうか。
尋ねようとヴェンさんを見遣ると、ヴェンさんは祈りの姿勢をとっていた。
「おお、神よ。なぜですか。なぜ私ではなく、この少女をお選びになったのですか」
神様が神様に祈りを捧げている。それはとても奇妙な光景だった。
凛とした立ち姿は、まさに神としての風格を放っていた。今のヴェンさんは、敬虔な聖女のようにも見える。
その姿に圧倒されると共に、体は自然と祈りの姿勢へと変わっていた。
わたしはヴェンさんの後に続いて、まだ見ぬ神へと祈りを捧げた。