Ⅲ 敵の根城へ
何もない混沌の闇の中を落ちていく。
その感覚に、あたしは自分の死を知覚した。
この後あたしはどうなるんだろう。伝承の通りであれば、あたしは神のもとへ辿り着くはず。
神のもとへ辿り着けたら――。
その先の行動はもう決まっている。問題はこのまま墜落していくだけだった時だ。神にも出会わず、だだ久遠の時を落下に費やすとしたら。
想像しただけで皮膚の下が粟立った。早くなる鼓動を、荒くなる呼吸を無理に抑え込む。
それにしても、滞空時間が長い。
思考に費やす時間ばかりが増えた。
このまま落下し続ければ、地面に落ちた時の衝撃は相当なものになるのではないだろうか。嫌な予感がよぎる。
十メートルの崖から転落して死んだ狩人の話や、わずか数メートルの穴に落ちて亡くなった子供の話を聞いたこともあった。
今あたしが落ちている距離は、それとは比べ物にならないほど高い。数百、いや、千メートルになるかもしれない。
果たして落下の衝撃に耐えきれるのだろうか。
思案していると、下から吹き上げる風が変わった。変わったな、と知覚すると同時に、地面の感触が伝わる。妙に柔らかい地面は、足から着地した衝撃をきれいに緩和してくれたようだった。
ほのかに花の匂いがして目を開くと、そこは建物の中だった。どうやって天井をすり抜けたかは知らない。
視線を落とすと、真紅の絨毯の上に厚く灰が積もっていた。これがあたしを衝撃から守ってくれたのだ、と直感的に理解した。
それにしても、なぜ灰が。あたしを焼いた忌まわしき炎が、まだまとわりついているのだろうか。
「ようこそ、我が城へ」
不意に声をかけられて、弾かれるように顔を上げた。
あたしの前に、真っ赤なドレス姿の女性がいた。柔らかそうな白い髪が、視界に映りこんだ。
こちらを見下ろす彼女の赤い瞳は、深い憐れみの色をたたえている。目じりが赤く、声は少し潤んでいるようだった。
耳に残る響きが、じわりと脳髄に染みこんだ。言葉の意味を理解するために、染みこんだ単語を声に出す。
「我が……城?」
あたしが反芻すると、女性は首肯した。白い髪が流れるように波打つ。
……ということは――。
胸の奥底にくすぶっていた炎が爆ぜた。
「お前が神かァァァッ!」
あたしは、なりふり構わず女に掴みかかった。女が紙一重であたしの手をかわす。
ならば、ともう一歩足を踏み出してから気付いた。
――あたし、ドレス着て……。
慣れない恰好で動くには、あまりに急だった。
ただでさえ裾の長いウエディングドレスは、あたしの足に絡みつく。振りほどこうと動かした足がドレスの裾を踏んだ。
「っ……」
バランスを崩したあたしを、女は同情するような目で見つめていた。怒りを煽る態度に応えるため、すぐさま体勢を立て直す。
立ち上がりざまに女の鼻っ面にこぶしを向けた。
「待ちなさい」
女が制止の声を発した。さほど声量があるわけではないのに、空気が張り詰める。儀式のときの大神官さまよりも強い気迫だ。
けれど、そんなまやかしにに従うあたしではない。
腕を目いっぱい伸ばしてこぶしを振り抜くと、確かな手ごたえがあった。いくら神とはいえ、生身の肉体を持っているなら勝負は五分だ。
――いける。やってやる。
自然と口元が緩んだ。
半身になって打撃をかわそうとした女は、左の上腕を押さえて小さく呻きを漏らす。その瞳は相変わらずあたしを捉えていた。
まただ。またあの憐れむような目であたしを見ている。
押しつけがましい慈悲に、苛立ちが積もった。
――きっと、こいつはライザ姉さまにもこんな目をしたんだ。
自分が望んでこんなことをさせておきながら、今さら同情なんて馬鹿らしい。沸々と湧き上がる怒りが、体を突き動かした。
ドレスが裂けたって構わない。靴が飛んだって気にするもんか。むしろ、それが当たれば御の字だ。目いっぱい、女を蹴りあげた。
――捕らえた!
あたしのつま先が、女の頬に突き刺さる。
「止まりなさいっ!」
女が叫ぶのと同時に、足が弾かれた。女が振り上げた手が攻撃を防いだのだ。
小さく舌打ちをして、追撃の体制に入る。ドレスが破れたおかげで、幾分か動きやすい。
バン、と大きな音がして、反射的に身を引いた。すぐ目の前で、炎が爆ぜている。
このまま突っ込んでいたらと思うと、背筋が凍った。
女の様子を窺うと、冷ややかな瞳にうっすらと怒りの色が見て取れた。こちらに向けてかざした手のひらを起点として、炎が踊り狂っている。
神の炎、というのはただの昔話にありがちな作り話ではなかったようだ。確かな熱量を放つ炎はあたしの火照った身体をさらに熱くした。
こんな相手が本気になっては、たかだか人間ふぜいが敵うはずもない。
手を上げて降伏の意を表した。
お互いが戦闘態勢にあっては圧倒的に不利だ。相手が油断したすきを突くほかあるまい。
「参った。あたしの負けよ」
あたしの言葉に、女は呆れたように肩をすくめた。
「私は貴女を傷つけたくありません。どうか、そのまま大人しくていてください」
厳しい目つきだけは変えず、炎は収束した。
残り香のような熱を切り裂いて女が手を降ろす。
「神さまの存在は信じるよ」
「いいえ、私は神ではありませんよ。貴女たちがそう思い込んでいるだけです」
言い訳とも言えないようなことをのたまると、女は深く頭を下げた。
「私はヴェンリアと言います。貴女が怒るのも致し方ないことです。けれど、どうか怒りを鎮め、話を聞いてください」




