終 役目の終わり
猫が窓をカリカリと引っ掻く音で、目が覚めた。
せっかく遊びに来てくれたのに、もう帰ってしまうのだ。わたしが窓を開けなければずっとここにいてくれるだろうか。
良くない考えが頭をよぎった時、窓の鍵が開く音がした。突き回している間に、偶然鍵が開いてしまったのだ。猫は小さな体を窓に押しつけて、力づくで窓を開けてしまった。
そして、窓べりに立つとこちらを振り向いた。
――キミの願いはわかったよ。
そう言いたげな瞳だった。猫がぴょんと飛び降りると、小さく鈴の音が鳴った。
気まぐれな友人を見送るために窓から身を乗り出して気が付く。この辺りには足場になるようなものがない。窓の高さだってわたしの胸くらいはあるし、木の枝を伝ってとは考えにくい。おまけに、窓の外は数センチ張り出している程度でいくら身軽な猫であっても立つことは不可能なはずだ。
どうやってここに立っていたのだろう。
猫を見送った翌朝、いつになく重い頭痛に悩まされた。ヴェンと一緒にいても、彼女の話がちっとも頭に入ってこない。
その日を皮切りに、体調のすぐれない日が続いた。しかも症状は日々悪化していく。熱っぽく、体が重い。ついに耐えきれなくなり、家事もそこそこに、ヴェンに断りを入れてベッドに潜り込んだ。
段々と意識が朦朧としてきて、わたしは沈み込むように眠りに落ちた。
「ライザ、起きられる?」
ヴェンに体を揺さぶられ、重い瞼を持ち上げる。
目を開けるだけでも重労働で、とてもではないけれど体を起こすことはできそうもなかった。
首を振る力もなく、わずかに左右に頭を振れたかどうかという有様だ。それだけの動作にもかかわらず、激しい眩暈がわたしを襲った。
ベッドに横になっているはずなのに、足元が崩れていくような感覚になる。すがるようにシーツを掴み、目を閉じた。
「わかったわ。私につかまって」
ヴェンが何を言っているのか、理解が出来なかった。
わたしがじっとしていると、ヴェンは布団を引きはがした。唐突な冷気に、反射的に身を竦める。
眩暈に伴って、吐き気がこみあげる。無理に吐き気を堪えていると、大量の脂汗が噴き出してきた。
ヴェンはわたしにお構いなしで、体の下に手を差し入れた。
ベッドからわたしを抱き起こすと、車椅子に座らせる。
一連の動作は、よどみなく行われた。
「ヴェン」
わたしは耐え切れなくなって声を上げた。
「なに?」
「吐きそうなの。横になっていては駄目?」
「ごめんなさい。それはできないのよ」
ヴェンの声は、涙で潤んでいた。
熱でぼーっとした頭に、ヴェンの声が何重にもこだまする。
――彼女は何を悲しんでいるのだろう。
考えるのも気だるい体調のまま、わたしを乗せた車いすは廊下を進んでいった。
そうして連れてこられたのは、あの大広間だった。大掃除の甲斐あってか、部屋が輝いて見えた。
そんなどうでもいいことにばかり目が向いて、肝心のヴェンがどこにいるかを見失ってしまった。
広間の中に、わたし一人が残される。
熱のせいで朦朧とした意識の中、ぼやける視界に真紅のドレスがひらめいた。
――ヴェンだ。
きっと、わたしがこの世界に来た時と同じドレスを着ているのだろう。
「ヴェン……?」
「あら、まだ意識があったの」
ヴェンは意外そうに呟いた。こういう状況には慣れているようで、急いで駆け寄ってくる様子はない。
「そうね、それなら都合がいいわ。ライザ、立ってちょうだい」
立って、と言われても、体は鉛のようで指一本動かすのでも重労働だ。
「……無理」
わたしが音を上げると、すぐにヴェンが寄ってきた。ベッドから降ろす時にそうしたように、わたしを抱き上げる。
わたしを絨毯の上に座らせると、車椅子を運び去ってしまった。錆びた車輪の、甲高い音だけがわたしの耳に届く。
柔らかな絨毯に包まれたまま、わたしは静かに意識を手放した。
熱い。全身が、焼けるように熱い。
一年ぶりの感覚だった。一年前と違うのは、わたしの回りに炎がないことくらいだ。
「ヴェ……ヴェン」
わたしは熱に浮かされながら、ヴェンを呼んだ。
思ったよりも近くからヴェンの声が聞こえ、わたしは細く目を開く。
広間は金色の光で埋め尽くされていた。
目の奥を貫くような眩い光に、やっとのことで開けた目を閉ざしてしまった。
ヴェンの声はまだ響き続けている。詠うように語るその声が、何と言っているのかを聞き取るのは困難だった。
――“調律”、してるんだ。
それ以外は、何もわからなかった。
ヴェンの声に呼応して、金色の光が強弱を変えている。それだけは、瞼を閉じていてもわかった。
ヴェンがひときわ高い声を上げると、輝きが最高潮に達した。目を閉じているのに、顔を背けたくなるほどの明るさだった。
「ライザ?」
痛いほどの沈黙を破って、ヴェンがわたしの肩に触れる。
返事をする代わり、重い瞼を薄く持ち上げた。
心配そうにのぞきこむヴェンと目が合い、渾身の力を振り絞って体を起こした。わたしの意図に気付いたヴェンも、背中に手を回して支えてくれる。
ようやく少し高い位置から見回せた絨毯には、黄金色の光の筋が走っていた。光の筋は、絨毯の模様に沿って浮かび上がっているようだった。
「わたし、わかった気がする」
やっとのことで振り絞った声は、かすれてしまって声と呼べない代物だった。それでもヴェンは静かにうなずいてくれる。
最後に、とヴェンの頬に手を伸ばす。
ヴェンに触れた指先が、灰になって崩れ落ちた。指先が崩れたのを皮切りに、ボロボロと皮膚が剥がれ落ちた。
それまで普通だった皮膚が、灰色に変色して崩れていく。そして、崩れた下から、わたしのものではない“誰か”の肌が現れた。
小さくて可愛らしいつくりの、女の子の指。どことなくシーナの手に似ている。ほくろの位置なんて、そっくりだ。
どうすることもできないまま、わたしはその光景を見つめていた。
不思議と、恐怖感はない。
「……お願い。もう……、やめて」
意識が途切れる瞬間。
ヴェンの悲痛な泣き声が、聞こえた気がした。
これにて第一章は完結となります。ここまでご覧くださり、ありがとうございました。次章もよろしくお願いします!




