ⅩⅤ 歓迎の準備
ヴェンはすべての仕事を片付け、しばしの休業に入った。
そして、その休みを利用してほぼ一年振りに城へ戻ることになった。事情は知らされていないが、わたしも一緒に行かなければいけないらしい。
しばらく会えなくなるということで、ギルとジェシカさんには別れの挨拶をした。
永遠の別れという訳でもないのに、二人は寂しそうにしていた。
町に入る時には気付かなかったけれど、出入り口の門には厳重な警備が敷かれていた。
ヴェンさんは門に立つ軍人のような恰好をした人に一枚のカードを手渡した。それを穴が開くほど凝視し、わたしも頭から足の先まで調べられた。
「いつにも増して厳重ね」
「はい。上の方から警備を厳重にするようにと指令がありましたので」
「それじゃ、何かあるのね」
曖昧に笑う門番の人に軽く会釈をして、ようやく町を出ることが出来た。
城は相変わらずの姿でそこにあった。誰も手入れをしていないはずなのに、荒れた様子もない。
これも、“調律”のおかげなのだろうか。
裏の草むらには羊がのどかに暮らしていて、一年という月日は感じられなかった。
建物の中も、やはり前と変わらなかった。
「ここに来て、何をするんですか?」
「あら、忘れたとは言わせないわよ。もうじき花嫁が来るんだから、歓迎の準備をしなきゃいけないじゃない」
――シーナの、歓迎の準備。
一気に気が重くなった。こんなことをするなんて、考えたくなかった。
「あの……」
「……あ、ライザは次の花嫁と仲が良かったって言ってたわね。辛いかもしれないけど、その子のためにも手伝ってちょうだいな」
ヴェンが気を遣うような微笑みを浮かべた。小石を投げ込まれた水面のように、心がざわめいた。
「――貴女は、この日のためにここへ呼ばれたのよ?」
目の前にいるのは、わたしが知っているヴェンじゃない。
そう思わせるような、冷たい表情だった。
わたしは広間に通されて、そこの掃除を命じられた。初めてヴェンと出会った思い出の場所でもある。
ここを塵一つないくらい綺麗な状態にすることがわたしに与えられた使命だった。
はしごを使って高い位置にある燭台を磨き、壁や窓も丹念に拭き掃除をした。そこから徐々に下へ降りていって、最後に絨毯の掃き掃除をする。
ヴェンは数時間に一度の間隔で、様子を見に現れた。ヴェンの審査は厳しいもので、繊維の一本一本に絡みついた糸くずすら見落とすことは許されなかった。
「どうしてこんなに細かく掃除をするの?」
「口を動かす暇があったら手を動かしなさい!」
わたしの問いかけには叱咤の声が飛び、時には火炎が顔すれすれのところを飛んだ。
有無を言わせないその態度に不信感を抱きもしたけれど、ヴェンのことだから何か考えがあるのだろう。自分に言い聞かせながら、必死になって掃除を続けた。綺麗にしたつもりでも、わたしやヴェンの髪が抜け落ちていることもあった。そうすると、厳しい言葉の後にやり直しを命じられた。
わたしの実家よりも広い部屋を掃除するのには、思った以上に時間がかかる。気がつけば、あっという間に十日が過ぎていた。
「――ヴェン、これでいいでしょう?」
新品同然になるまで磨き上げた部屋の入口で、彼女の様子をうかがった。
鋭い目つきで部屋を見て回っていたヴェンが、気難しい表情のままでうなずいた。
「部屋に戻っていいわよ」
苦労をねぎらう言葉もないまま、彼女はわたしに背を向けて広間へ踏み出す。そして、指を軽く動かした。
一瞬だけ風が吹いて、扉が閉ざされた。
それを目の当たりにするまで、ヴェンは炎の魔法しか使えないと思っていた。けれど、初めてあった時に植物を急速成長させる魔法も見せてくれたのを思い出す。炎の魔法が「得意」なのであって、それ以外が使えないわけではないのだと改めて知った。
閉められた扉を開いて中の様子を覗くのははばかられた。
ヴェンが何をしているのか気になる気持ちは、炎への恐怖が打ち消してくれる。
部屋に戻ったのは良いものの、やることが特に無いので気がつけば部屋の掃除をしていた。
窓を拭いていた手が止まり、意識はその向こうの景色に向く。
わたしは聞いてしまったのだ。ヴェンが「さん」付けをやめるように嘆願してきたあの晩に、ヴェンとギルは口論をしていた。わたしが寝室に引き上げてからしばらく経って話し始めたので、きっとわたしに聞かれないように気を遣ってくれていたのだろう。
「情が湧くのはわかる。その場の空気に合わせて俺も話したけれど、いい加減にした方がいい」
そんな旨のことをギルは主張していた。その最後に付け加えられた「傷つくのはお前だぞ」という言葉が、今でもはっきりと耳に残っている。
ヴェンはきっと、それを聞いてからわざと距離を作っているんだと思う。冷たくされるのはつらいけれど、冷たくしなければいけないヴェンの方が何倍もつらいはずだ。
わたしが悲しい顔をすればするほど、ヴェンの態度は冷たく突き放すようになる。
それが答えだ。
「どうしたら……、ヴェンは笑ってくれるのかな……?」
ヴェンが聞いているかもしれないと思いながら、あえて口に出した。ジェシカさんのように魔法で気持ちが伝えられたらいいのに。
窓のすぐ傍を黒い影がよぎり、慌てて窓の外を覗き込んだ。
黒猫だった。前に見たのと同じ猫だろう。――こちらの世界でいうところの、神の使い。
猫はわたしの心を見透かすように、じっとこちらを見つめている。
黒猫の瞳に唆されたのかもしれない。わたしは無意識のうちに窓を開けて猫を迎え入れていた。
首にくくりつけられた平たい紐には、瞳と同じ黄金色をした鈴が付けられていた。
猫はするりと部屋の中に入りこみ、迷うことなくベッドの上で丸くなった。尻尾をゆらゆらと動かす姿は、ごく普通の猫と変わらない。
神の使いというのはただの迷信なのだろうか。
「おいで」
ベッドに腰かけて太ももをポンと叩くと、薄く眼を開けてあくびをした。そして、伸びをした姿勢のままで力尽きたように眠ってしまう。
やはり猫は猫だった。
「わたしを慰めに来てくれたわけではないのね」
乾いた笑いが漏れる。艶やかな毛並みを撫でようと手を伸ばすが、その気配を察知して威嚇されてしまった。
「つまらないな……」
ヴェンに相手をしてもらえなければ、猫にもつれない態度を取られる。わたしはとんだ嫌われ者だ。
こちらに来てからもうすぐ一年になるというのに、故郷に帰りたいという思いは消え去ってくれなかった。
――シーナ、できることならこちらへ来ないで欲しい。けれど、その運命は変えられないでしょう。ならば、せめて幸せに。
故郷の神と、目の前の気まぐれな黒猫に祈りをささげた。




