Ⅹ 氷の彫刻師
ジェシカさんが旅に出てから三日が経った。鼻をぐずぐずいわせていたギルバードさんが、ついに仕事場へ行くという。
ヴェンさんも同行するということで、わたしも付いていくことになった。
朝の町は、まだ薄暗く冷たい空気に包まれていた。
「あそこは寒いからな、風邪ひくんじゃねぇぞ」
「風邪っぴきの人に言われても、何の説得力もないわね」
いつものようにヴェンさんが指摘するも、ギルバードさんは応戦する気力もないのか大人しいままだった。
「そもそも、ギルは氷の魔法使いでしょう。寝冷えで風邪をひくなんて……」
「わかってるよ。オレだって想定外だっつーの」
ぼやきながら、ギルバードさんが一つくしゃみをした。
よく考えれば、街に出るのはヴェンさんに連れられて来た日以来だ。かれこれひと月近く同じ家の中にこもっていたなんて、いまさらになって驚きだ。
家の中にいても退屈しなかったのは、ほぼ毎日家にいてくれるギルバードさんのおかげだろう。
そんなギルバードさんも、毎日何時間か出かけていた。わたしが家事をしている時間と重なるように計らってくれているようで、家事を終えるのとほぼ同時に帰宅する。だから、わたしは一人で昼食をとったことがほとんどなかった。
村にいた頃からにぎやかな食卓に慣れていたわたしにとっては、ありがたいことこの上なかった。
「ありがとうございます」
前を行くギルバードさんの背中に声をかけると、不思議そうに小首をかしげて振り向いた。
「オレなんかしたっけ?」
「いえ、気にしないでください」
ヴェンさんもギルバードさんもぽかーんとしている。二人の間の抜けた表情がまた面白くて、わたしは笑いをこらえるのがやっとだった。
この街は、高い建物が多い。
笑いすぎて滲んだ涙を乾かそうと、空を仰いで気が付いた。
わたしの生まれ故郷で建物といえば、平屋ばかりだった。
空がこんなに狭いなんて、想像したこともなかった。
両脇に立ち並ぶ建物はどれも石造りで、日陰にはひんやりとした空気が漂っていた。
石畳の路地は複雑に曲がっては交差し、自分がどっちの方向から来たのかもわからなくなる。
わたしの脳裏には、目線よりも少し高いくらいがせいぜいの建物しかない風景がよみがえってきた。あの村であれば、多少道に迷っても空を見上げれば山の形で方角がわかったのに。
「ライザ、もうすぐ着くわよ」
わたしの足が止まりかけたのを見計らって、ヴェンさんが声をかけてくれた。
ヴェンさんたちに導かれてたどり着いたのは、一軒の建物の前だった。両隣の建物よりも背の低い、二階建ての家だった。
ヴェンさんたちの家のように、隣の建物とくっついてはいない。周囲を見回せば、この辺りの建物はどれも独立して建てられていた。
「ここの下を丸々借りてんだ」
窓がないために、外観からは中の様子がよくわからない。
ギルバードさんに案内されるままに、建物の内部へ足を踏み込んだ。
日陰の冷えた空気とはまた違う、体にしみるような冷気がわたしを包んだ。
一枚上着を羽織ってきた方がよかった、と後悔した。
「寒いか?」
「少し……」
身を縮めたわたしに気が付いて、ギルバードさんが案じてくれる。
腕をさすって摩擦で暖を取ろうとした時、肩に何かがのせられた。ギルバードさんが上着をかけてくれたのだ。
ギルバードさんは、薄手のシャツ一枚になっている。
「ギルバードさん、寒くないんですか?」
「あ? 大丈夫だよ。オレ様は氷の魔法つか……ヘクシッ」
盛大にくしゃみをすると、飛び散った鼻水が輝きながら凍り付いた。
わたしは静かに上着をお返しして、廊下の先へ進む。
暗い廊下を抜けると、電灯の光に照らされた部屋に出た。
部屋の中に飾られたものに目を奪われ、隣にヴェンさんたちがいることが意識から外れた。
息をのむ、とはまさにこのことだ。
どうやって作ったのか、透明な彫像がずらりと立ち並んでいる。
「これ、全部ガラス……?」
「違ぇよ。氷だ。氷の魔法使い様だっつったろうよ」
ギルバードさんは抗議をしたが、わたしには到底想像もつかなかったのだから仕方ない。
「これ、本当に氷ですか」
氷とは思えなかったのは、その彫像に継ぎ目や汚れがなかったせいだろう。
わたしが見たことのある透明な氷は、手のひらに載るくらいのサイズのものだけだ。大きさを重視するとなれば、ヒビや気泡が入って白くなっているものしかない。
碧く透き通る氷の芸術は、かすかに放つ冷気によってそれぞれの存在を主張していた。
「そりゃ、信じられないだろうなぁ。特別にオレが氷作るとこ見せてやるよ」
にやりと笑って、わたしをギャラリーの奥へ誘う。
関係者以外立ち入り禁止、という札が下げられた扉をくぐる。扉の先には、緩やかな上りの廊下が待ち構えていた。
人が二人、やっとすれ違えるくらいの幅の通路を一列に並んで上がる。
突き当りの部屋に入ると、壁に掛けられた物々しい凶器がわたしたちを出迎えた。
ギルバードさんはおもむろにバケツをとると、水道の蛇口をひねった。その間にヴェンさんが木製の枠をどこからか持ち出した。
床に敷かれた木枠より一回り大きな板の上に、枠を乗せる。
ギルバードさんが、水がなみなみ注がれたバケツをヴェンさんに託した。ヴェンさんはそれを無言で受け取ると、正方形の枠の半分くらいまで流し込んだ。
枠はわたしのひざ下くらいの高さで、その枠の半分に収まるくらいがバケツ一杯の水と同じ量らしい。
ヴェンさんがもう一度水を汲みに行く間に、ギルバードさんが枠の中の水に手をかざした。
水は板に接する辺りから順に凍り付いていく。上の方だけはわずかに水のままで残し、ヴェンさんが追加の水を足すたびに下から順に凍らせていった。
ヴェンさんは水を注いでは木枠を上へ引き上げ、見る見るうちに透明な氷柱が出来上がった。
「これ、融けはじめてません?」
床に敷かれた板には、小さな水たまりができかけていた。
「あ? 今から仕上げすっから。心配すんなって」
「仕上げをやるのは私でしょう」
肩をすくめたヴェンさんが、氷の前に立つ。
祈りの姿勢をとると、何やら不思議な呪文を唱え出した。
「な、なにを……?」
隣で静観しているギルバードさんに問いかけると、腕を組んだまま「いいから見てろって」と小声で叱られた。
ヴェンさんの祈りが進むと、氷が光りはじめた。表面が輝いているのではない。内側から、水の原子ひとつひとつが光を放っているようだった。
「……終わったわよ」
ヴェンさんに声をかけられるまで、わたしは身動きも出来なかった。動くことも忘れるくらい、その光景に見とれていた。
「うし、じゃあ始めるとすっかね」
ギルバードさんは棚からスケッチブックを取り出して、パラパラとページをめくる。
そのうちの一ページで手を止めると、壁にかかっていたチェーンソーを手に取った。
低いうなりを上げるチェーンソーを氷の塊に突き立てる。氷は細かいくずを生み出しながら切断されていった。木材を加工するときの様子に似ている。
「ライザ、邪魔になるから出ましょう」
「あ、はい」
「悪りぃな。終わったら呼ぶ」
片手をあげたギルバードさんを残し、わたしはヴェンさんの後ろへついて部屋を出た。




