「黄金色の大地」
黄金の粉を散りばめたような砂漠、大地からの照り返しのせいで、澄み晴れた空さえ暗く見える。大地は果てしなく広がり視野の大半を占めていた。
砂漠の大地は熱を帯び、土地を横断する者たちを死に至らしめる。それは動植物に別け隔てなく平等に降りかかる。その死の恩恵の数分の一を請け負うことになった男二人と女一人は今、憎々しげに黄金色に輝く大地を睨つけていた。
風が容赦なく吹きつけ、砂が肌を叩く。強烈な陽射しはそれだけで肌が焼けてしまいそうだ。
砂と空以外の何もない世界。ゆらゆらと陽炎が立ちのぼる中、三頭のラクダとその背に揺られる三つの人影。
…リン。
後方を行くラクダが立ち止まった。
「先生、今鈴の音がしませんでした?」
「………」
既に何も言う気力もないのか、先頭を行く男は黙ったままラクダの背に揺られ、むっとする風を顔に浴びている。
「昨日から鈴の音が聞こえているような気がするんですけど……やっぱり気のせいですかね?」
男は無言のまま振り向こうともしない。
「お嬢さん、それはただの耳鳴りだよ。砂漠じゃぁよくあることさ」
彼女の前を進んでいた男がタオルで汗をぬぐいながら振り返った。初老の男だ。彼が今回の案内役であり、砂漠での生きる術を持った者であり、現時点での砂漠を放浪する羽目になった原因でもあった。
「耳鳴りなんですか?」
「これだけ暑けりゃ体のあちこちがおかしくなっきてもおかしくないですよ」
そのおかしくなった方向感覚のせいで今の遭難があるのだということにこの男は気づいていない。
「先生は何か聞こえませんでしたか?」
「………」
答えを求められているのは分かっていたが、彼には彼女の言葉に答えるほどの気力はなかった。なけなしの気力を振り絞ってできることといえば、手に持った羊皮紙の地図と昨日からでたらめな方向を指し続けているコンパスを睨み、ラクダの手綱を放さないことぐらいだ。
額を汗が流れ落ちる。
暑さには何とか慣れたが、それにも限度というものがある。できれば砂漠になど来たくはなかったのだが、遺跡の調査のためならば致し方あるまいと男は自らを慰めていた。
男の名はアルテマ、考古学者の端くれであり、遺跡の発掘と研究を人生の全てだと豪語していた。女に興味を持たず、酒すら口にしない。口を開けば遺跡のことばかりで、周りの者たちは彼を変人扱いしている。
そんな彼についてきている唯一の助手は、果てしなく広がる砂漠を改めて見渡して大きなため息をついた。
「こんな砂ばっかりの場所にいったい何があるって言うんです? どうせ干からびたミイラとかがあるだけじゃないですか」
やや投げやりなその言葉だけしっかりと耳に届き、前方を行くアルテマは眉を吊り上げて、まだ若々しい助手を振り返る。腰に提げた皮袋の水を荒々しく喉に流し込み、助手の「水を無駄にしないでください」と言う声を聞き流しながら満足したように息を吐く。
「君にはこの発見のすばらしさがまだよく分かっていないらしいね」
ばさばさと日除けが風になびく。
行けども行けども代わり映えのない砂漠の風景ばかり。唯一変わったものといえば自分の影の長さぐらいだ。
「ええ分かりませんとも、天人の造った土偶が暴れ出して村を壊滅させたり、湖にあった遺跡が暴走して湖の水が干上がったり……以前は亡霊を封じ込めた壺の封印が解けて死霊と一緒に朝まで人生相談をしたこともありましたね……それが世間一般の人たちにとっていったい何の役に立つというんです?」
「………」
カルネの痛烈な一言に一瞬言葉を失ったアルテマだったが、すぐに気を取り直しやれやれと頭を振りながら「分かっていないな」とわざとらしい溜め息をつく。
「君に男のロマンを理解しろというのも無理な話かもしれないが……」
村を壊滅させ、湖を干上がらせ、死霊たちと語り合うのが男のロマンだというのか。
アルテマの言葉に助手カルネは、眉をしかめながら諦めたように首を振る。彼女は金色の髪を押えつけながら日除け用のフードを再度かぶり直す。きっと帰る頃になったら肌がかさかさになっているだろうと思いながら、カルネはアルテマを見る。彼は彼でまったく彼女とは別の方を見ながら、空に向かって語りかける。「またあの話か」と嘆く彼女の声はまったくアルテマの耳に届いていない。アルテマが遺跡について語りだすと、終日時と場所を選ばずしてその口を閉じることがない。それが分かっていながら思わず口が滑ってしまったことにカルネは自分の迂闊さを呪っていた。
「いいかい、そもそも遺跡というのは、天人……いや、古代人というべきだな。彼らの歴史そのものなんだ。遺跡には古代の神秘が宿っている。今まではたまたま運が悪かっただけだ。それを失敗ではなく次のステップとした考えていけば我々は貴重な体験をすることができたと言えるんだぞ」
かつて全世界を恐るべき技術力で支配していた者たちがいた。彼らは天を動かし地を浮かし、まさに神の領域にまで達したと言われている。故に彼らは考古学者たちによって畏怖をこめて「天人」と呼ばれていた。
彼らのあまりにも想像力を越えた技術は、今でも使用方法の解析すら困難な状況であり、遺跡調査中の事故なども後を絶たない。なぜなら遺跡は数千年もの時間を経ているにもかかわらず未だに機能しているからだ。考古学者たちのもっとも恐れているものは遺跡の暴走であった。扱いを間違えば世界を破滅させるほどの力を秘めているのだ。
数千年前に突然にして姿を消した彼らの失踪の原因は謎のままである。今現在様々な憶測が飛びかっているがどれも確たる証拠がなく、信憑性に欠けるものばかりであった。そして、今一人の考古学者が遺跡の調査に乗り出し、その謎の究明に挑もうとしている。
「それに、今回発見された遺跡というのが大変大きな規模のものらしくてね。今度ばかりは私も自信があるんだよ……」
アルテマの言葉にカルネはどうだかと首を振る。今まで嫌というほどこの手の話に踊らされてきた身にとっては今一つ信じる気が起きない。
「いいかいカルネ。我々考古学者にとって遺跡を調査するということは」
アルテマがぴっと指を立てる。
『古代の謎をひもとくことになるんだ』
アルテマとカルネの声が見事に重なった。決めゼリフを見事に奪われアルテマはむっとしたように黙り込む。
切りつけるようなアルテマの視線に首をすくめながら、それでもアルテマの話を中断させたことに安堵の息を吐く。
水は節約すれば3日は持つ食料も何とかなるはずだ。
「パパイヤさんはずっとこの砂漠で暮らしているんですよね、それったすごいことだと思います」
女の言葉に初老の男はただ乾いた笑みをこぼす。
「…私の名前はパパイロ・ヤナコッテです…」
「まったく……」
アルテマはふて腐れたように話をやめた。
ラクダの手綱を握りつめたままじっと前方を凝視している。
風の音がやけに大きく聞こえた。
「おや?」
ラクダたちは落ち着きなく嘶きその場で足踏みしている。耳を後ろに倒し緊張しているのが分かった。なだめようと何度手綱を引っ張ってもまったくいうことをきかなかった。
『ラクダの動きには注意しろ、奴らは鈍いが砂漠のことは何でも知っているんだ』
そう言っていたのは最後に立ち寄った宿屋の主人だった。
カルネも前を見たが何もない。そこには不気味な風の唸り声。地を這うような風の唸りがカルネの心にまで浸透し、底知れぬ不安感を植えつける。
「……あの先生」
カルネはおずおずと声をかけた。
「カルネ!」
突然に叫んだアルテマの声を、カルネは不思議そうな顔で聞いた。どうして急に怒り出したのだろう。もしかしてきっきの言葉に怒っているのでは? そう思った。だが次の瞬間、彼女は自分の判断が間違っていたことに気づいた。アルテマはカルネではなく目の前に広がる砂漠を凝視している。
カルネも前方を見たが何もない。
「何もないじゃ…」
言いかけたその時、叩きつけるような風と共に途端に視界が暗くなった。
「な、なんですんこれは!」
風の音がさらにはっきりと、しかもかなり間近に聞こえたのもそのはず、二人の眼前には巨大な砂の壁が唐突に現れていた。いや、もともとあったのだが、砂を巻き上げていなかったので音だけが聞こえ姿を捕らえられなかったのだ。あれだけの音を聞いておきながら今までどうして気づかなかったのか、彼女には突然にして風と砂の壁が現れたように見えた。
「神風巻だ。こっちに近づいてくるぞ!」
カルネにはアルテマの絶望的な声がはっきりとカルネに聞き取れた。
カルネの全身が恐怖で硬直していく。
いつの間にやら、辺りは暗くなっていた。空は陽の光でさえ遮ってしまうほどに厚い砂煙が舞い起こっている。何の前ぶれもなく突然にして現れ、最悪の場合は街を丸ごとさらっていく、それがこの土地の者がもっとも恐れるもの神風巻。砂嵐のようではあるが、砂嵐には神風巻ほどの破壊力はない。竜巻のようでありながらその規模は想像をはるかに超える。
はるか遠くにありながら、その大きさは視界に入りきらないほど。
空を二分するほどの巨大な天への道。かつて天人がこの道を遣い、天と地とを行き来したと言うが、それだけはどうしても信じることができなかった。神風巻を目前にして、人の力とはあまりにも無力だ。カルネはそう思った。
茫然とする彼女の前で、前のラクダが進路を変えた。
「何をぼさっとしているんだカルネ、さっさと逃げるぞ!」
「えっ、でも……」
カルネは茫然と呟く。いったいどうすればいいというのだ。壁のように迫ってくる神竜巻からはどうしても逃げることができないというのに。
アルテマが必死の形相でラクダの頭を巡らせ走らせる。
「ラクダを走らせろ、音が聞こえているうちは大丈夫。生きている証拠だ!」
じゃあ聞こえなくなったら? とカルネは思ったが、それでもカルネはラクダを爆走させた。普通の陸地ならば大したことのない速度だが、それでも二人は諦めずにラクダを走らせる。
影が頭上を覆っていた。背後にものすごい気配が迫っているのが分かる。もう既に逃げることなどできない。視界はまったく効かず、自分がどこをどう進んでいるのかさえ分からなかった。それでも二人はラクダを止めようとしない。カルネはもう自分がフードをかぶっているのかどうかさえも分からなかった。ただアルテマの操るラクダの息づかいだけがいやにはっきりと耳に届く。それだけを心の拠り所にして、カルネは目をきつく閉じた。もっとも開けたくとも吹きつける砂風で前を見るどころの話ではない。
叫んでアルテマを呼びたくとも吹きつける砂のせいで口すら開くことができなかった。
不意に下から突き上げるような強烈な一撃がカルネを襲う。不意に手綱の感覚がなくなった。慌てて手綱を探ったが、手綱どころか乗っているはずのラクダの背の無骨な感触や上下の感覚もなくなり、ふわりとした浮遊感が全身を包み込む。体がコマのように回転していることだけははっきりと分かった。
神風巻に捕まったのだ。
リン。
耳を聾するほどの轟音の中、澄んだ音だけがはっきりと響く。ああ、これは頭の中に響いているのだと、カルネはぼんやりと思う。
もしかしたら死ぬかもしれない。
思ったよりは冷静な気持ちで、カルネはそう思った。
夢見心地のままカルネは目を覚ます。柔らかくひんやりとした手触りがあった。
ぼんやりと目を開ける。最初に目に飛び込んできたのはただの白い空。今までずっと耳鳴りがしていたような気がしたがそれは気のせいだったらしく今では何も聞こえない。
自分ははたして生きているのか死んでいるのか。試しに頬をつねってみると、ひりひりとした痛みがある。
とりあえずは生きている。
カルネは我知らず安堵のため息をついた。
首だけ動かせば芝生の葉先が頬に当たる。その感触が心地好く、カルネはしばし目をつむる。だが瞼の裏に浮かび上がったのは迫り狂う神風巻。
「先生!」
自分がどういった状況に陥ったのか、カルネは瞬時に思い出す。そう自分たちは神風巻に巻き込まれたのだ。
カルネは慌てて跳び起きた。きょろきょろと辺りを見渡すが、そこにはアルテマの姿も、ラクダの影すら見当たらない。それどころか、彼女のいる場所は砂漠などではなかった。唇が乾き、肌もかさかさになっている。頭を振ればさらさらと砂が落ちてくる。何もかもがそのままの状態でありながら、突然場所だけが移動してしまった感じだった。
今はあの刺すほどの陽射しも、ちくちくとした熱風もない。
奇妙だった。カルネはつい先ほどまで灼熱の砂漠にいたというのに。
そこは建物の中にある庭のような場所。庭といってもかなり広く彼女の周りには草木や花が生い茂っている。その向こう、かなり離れた場所に石造りの建物があった。
何度も頬をつねってみたが、痛みは本物で手で触る植物は偽物などでは決してない。
何もかもが不可解で、投げ出してしまいたい衝動にかられる。カルネは芝生の上に仰向けに寝転がった。両手足を伸ばし体全体で空を受け止める。
空は青くもなく、ただ白かった。上の方から光が来るのは分かるのだが、その場所が正確に分からない。
不思議な感じの場所だった。風は緩やかに頬をなでる程度で暑くもなければ寒くもない。彼女の記憶の限りでは辺りに生えている植物のほとんどが見たこともない種類のものだった。そして、見慣れた植物はあらゆる季節のものがそろっている。
本当に先ほどまで自分が砂漠にいたのだろうかと疑いたくなるような豊かで奇妙な自然が彼女の周りには広がっていた。
しばらく寝転がっていたが、このままではらちが明かないとカルネは立ち上がり、草木を手で掻き分け進む。
歩いているうちに庭は周囲を建物に囲まれていることに気づいた。
カルネは反刻ほど歩き回ってようやく入口らしきものを見つけると意を決して建物の中へと入った。ひんやりとした室内の空気が肌に気持ちいい。
彼女が足を踏み入れた場所は巨大な回廊。回廊とはいっても既に老朽化し、壁やら床やら植物の姿が見える。天井はアーチ状になっており色とりどりの色彩が目についた。目を凝らして見たが、所々が剥がれ落ち、何かの叙事詩を描いたらしい絵画だということだけしか分からなかった。
無人になってからどれだけの月日が流れたのか、職業柄カルネはつい回廊の支柱に歩み寄って、根元の模様を調べ始める。繊細で緻密な模様は意外にも彼女のよく知っているものだった。
「これは!」
電撃が走ったように、カルネの全身が緊張する。
「……タネチリア時代の物だわ」
思わず声が出る。わずかだが震え強張った声。
かつて、この世界はタネチリアと呼ばれる文明が存在していたという。それは天人の時代であり、今からは想像もできないような文明が栄え、世界を支配していた。カルネもアルテマと共にいくつもの遺跡を見て回ったことがあったが、ここまで完全な形で残っている遺跡など見たことがない。アルテマほどの情熱のないカルネでさえ全身に戦慄が走る程に、それは完全なものだった。
自分自身が今目にしているものが信じられない。アルテマがいたなら興奮のあまり卒倒しているだろう。
遺跡のことしか頭にない男のことを思い出し、カルネは苦笑する。アルテマのことを思うと、今目の前にある遺跡のことなどどうでもいい気がしてきた。
「早く出口を見つけないと」
立ち上がり他の建物へと続く入口はないかと歩き出す。遺跡はまた後で来ればいい、だが、今彼女には師であるアルテマが必要であった。遺跡以外に興味はなく遺跡の調査以外にはまったく取り柄のない男だが、少なくともカルネにとって彼の存在が大きいことだけは確かだった。それに彼のことだ、もしここに着いているのだとしたらきっとどこかでこの遺跡の研究に没頭しているに違いない。
「先生!」
両の掌を口に添えてカルネは叫ぶ。声はだいぶ大きいのに、響きすらしない。建物がとてつもなく広いのか、それとも構造上そうなっているのか、どちらでもあるし、どちらでもないのかも知れなかった。
自分ではかなり歩き回ったつもりではいたが、彼女の思っていたのよりも建物は広く、いっこうに部屋どころか扉すら見つからない。不安にかられ何度かアルテマの名を呼んだが、返ったのは静寂ばかりでカルネはとうとう音を上げその場に座り込んでしまった。
服の間からさらさらと砂が落ちていく。それを指ですくいあげていると、すべてが幻のように思えてくる。
アルテマの顔を思い出すと、不意に泣きたくなった。
「まったく……なんであたしがこんな所に来なきゃいけないのよ!」
何の説明もなしにいきなり砂漠に引っ張り出され、神風巻に巻き込まれどことも知れない場所へとたどり着く、すべてが彼女の意思に関係なく勝手に起こってしまっている。それがどうしようもないということは分かっていた。神風巻が追ったのも、偶然の重なりにしかすぎない。
しかし、とカルネは思う。ここへとたどり着いたのも果たして偶然なのだろうか。タネチリアの遺跡には時として信じられない力が宿っているとアルテマは言っていた。それは天人たちが封印した力であり、この世に混乱をもたらすものだとも。
この遺跡にもそのような力が宿っているのではないか、カルネはそんな疑問を漠然とではあるが持っていた。彼女がここへと運ばれたのももしかすれば遺跡の力が働いたからかもしれない。
『焦っていても仕方がない。時には無駄な時間も必要なのだ』
以前遺跡に向かう途中で何日も降り続いた雨の中進行を阻まれ洞窟で過ごしたことがあった、その時アルテマはそう言ってカルネに笑いかけたものだ。不器用な笑みを浮かべながらのたった一言だったが、それはカルネの苛々とした気分を瞬時に霧散させてしまった。
「焦らない……か」
アルテマの言葉と背に当たるひんやりとした石の感覚に、カルネは心が落ち着いていくのを知った。今頃アルテマは何をしているだろうか。この遺跡に到着しているのならば捜し出さねばならない。そうでなければ食事をとるのも忘れずっと研究に没頭しているだろう。
奥の方で気配がした。
「先生?」
カルネは勢いよく立ち上がり気配のした方へと動く。遺跡の暴走や、悪霊怨霊の類いと接している職業柄、こういった気配などに関することだけは人一倍敏感になっていた。
それは気のせいだったのか、確かに誰かがこちらを覗き見ていたような気配がしたのだ。だが、あるのはただの石像。見事な彫刻であるが今の彼女には興味がない。
「あら、出口だわ」
石像の後ろ、そこから続く回廊を見つけた。その先が明るい。
はたして、回廊を行くうちにカルネは外に出る。
「すごい……」
扉を潜った瞬間、彼女は目の前の光景に目を奪われる。そこには大規模な街が広がっていた。彼女のいた建物はその中央に位置しているらしく、小高い丘の上にあった。放射線状に通路が広がっており、通路沿いに大きな建物が続いている。それは彼女の知るどの街よりも大きく整っていた。
外に出たというのに人の気配も何の音もしない。これほど大きな街でありながら静寂そのものだった。
「まったく、すごい技術だわ」
いったいどういった技術を用いれば作り出せるのか、建物はそれなりに風化してはいるもののきちんと窓には硝子が張られ排水溝もきちんと整理されていた。彼女が驚いたのはそれらがすべて一枚の岩を削って造りあげられているということであった。今まで気づかなかったのだが、丘から伸びる石段も、その脇に立つ石像、通路に至るまですべて一枚の岩を削って造られている。
この遺跡が、いや街がどれほど大規模なものであるのか、もはや想像の域を超え考える気力すら起こらない。街の果ては見えなかった。だが、きらきらとした壁のようなものがあることだけは分かった。中天は白いが、下るにつれだんだんと青くなっている。何か壁のようなものでもあるのだろうかと思いながら長い年月を物語るヒビの入った通路を歩く。どこかにアルテマの姿はないかとカルネは視線を巡らしたが、人影も、人の気配もまっくなかった。
静寂の中をカルネは歩く。砂漠用にと履いていた厚手の皮靴を手に持って、裸足で冷たい石畳の上を進む。空にも景色にも表情がない。まるで時間そのものが停止してしまったのではないかと思うほどに、音もなければ動くものもなかった。
「まるで絵の中にでも入ったみたいだわ」
かつて親の語ってくれた物語の中で、似たような街の話を聞いたことがあった。それは絵の中の世界で、物語の主人公は本の表紙の開くことでその絵の中に入り込むことができた。彼女はお伽の国の物語が現実にあればいいとその時思ったものだ。そんなものはないと子供ながらに分かっていたが、それでも彼女の夢の中では艶やかな絵の中の世界が広がっていた。
だが、それが現実のものとなった今、彼女の夢は崩壊した。もし絵の中の世界が現実にあるとしたなら、今彼女のいる場所がまさにそこであった。動く生き物の姿はなく、あるのは植物だけ。それも風すら吹かないこの街の中では全くのオブジェと化している。
もの悲しさを感じて、彼女は背後を振り返る。彼女の後ろにはいつも彼がいた。時々後ろを振り返るのは、遺跡に取りつかれた彼が自分にちゃんとついてきているのか、いつものように座り込んで床石を舐めるように観察しているであろう彼の姿、それを確認するためだった。カルネがいなければアルテマは研究に没頭したまま餓死しまっているだろう。
いつもよりも寂しくなった背中に、カルネは虚無感をつのらせながら死んだ街を歩く。
「先生……今頃どこでどうしているのかしら」
自分と一緒にここに飛ばされたのではという淡い期待を抱いていたのだが、それも街を歩いているうちに枯れてしまった。カルネはアルテマに会う以前に人間の姿をまだ見つけていない。これほど大規模な街にもかかわらず、人どころか生活の痕跡すら見つからない。
この街はまさに遺跡そのものであった。放置されて相当の年数が経っていることが伺えるにもかかわらず、すべてがほとんど風化していないことにカルネは驚きを隠せない。
街の大通りを何気なく歩いていたカルネは半日ほど歩き、ついに街の果てへと到達した。
街の果て、彼女はそこに水の壁を見た。左右を見渡せば、巨大なそれがぐるりと街を取り囲んでいるのが分かる。いったいどういった仕組みになっているのか。音もなく出所も分からない水の壁が、はるか頭上高くからごうごうと流れ落ちている。それなのに音どころか水飛沫すら飛んでこない。
先ほどきらきらと輝いて見えたのはこの水の壁だったのだ。
彼女の立つ街と壁との間には二十歩ほどの距離があり、その間には何もない。あるのは果てしなく落ち込んでいく大量の水と漆黒の闇に埋もれた底無しの谷だけだった。
街の縁沿いにカルネは歩き、やがて宙に浮いた建物を見つける。建物は谷の上に浮いておりそこだけが他の建物と雰囲気が違っているようにカルネは感じた。それはドーム状の建物で、継ぎ目のまったくない白い一枚石板でできていた。そこから伸びる道だけが街と建物とをつないでいる。もしかしたら建物もこの道だけで支えられているのではないかと彼女は思った。意を決して彼女が建物に近づくと突然、表面に黒い亀裂が入る。亀裂の向こうは初め、彼女の足下、水の落ちる底と同じだけの暗い面が広がっていた。だが、驚き後退する彼女目の前で、亀裂は音もなく拡がり、大人が三人ほど並んで入れる入口が出現した。入口の向こうには明るい回廊が続いており、奥へと向かっていた。
リン。
砂漠で聞いた鈴の音がした。それは微かだが彼女の耳はしっかりとそれを捕らえている。あの時の音だと思いながら、自らの本能の赴くままに進んだ。心のコンパスが一定の方向を示している自然とそれが分かることに何の不思議も感じなかった。
「あたしを呼んでいるのかしら」
しばらくすると広いホールへと出る。入ってすぐの正面には巨大な鏡があった。真直ぐに進み彼女が近づくと同時に鏡が消え、石の扉が現れる。驚くことはなかった。それは彼女の予想範囲の出来事で何ら奇妙さを感じない。
前からこの場所を知っているような気がした。
扉を抜けたそこは、白壁に囲まれた小さな半球の部屋。その中央には像があり、天人の遺跡でよく見かけた鳥神のものであると分かった。像は大きく彼女の背丈と同じ大きさだった。
鳥神の瞳の部分には宝石がはめられ、鈍く光を発している。誰も手入れをしていないはずなのに、像には埃一つついていない。
「奇麗な瞳」
カルネはゆっくりとした動作で鳥神の瞳に触れる。
リン。
触れた瞬間、光が頭の中を走った。慌てて手を引っ込めた彼女の耳に、優しい老人の声が聞こえる。
「やれやれ……最近の者は礼儀というものを知らないらしいね」
カルネは文字通り跳び上がりその場から一歩退く。彼女の背後にはいつの間に現れたのか、一人の老人が立っていた。
白髪の目立ち始めた薄い髪、法衣のような紺色の衣をまとい、右腕には短い杖を持っている。
「誰なの!」
それを面白そうに笑う老人をカルネは恨みがましく睨つける。睨つけているうちにカルネはあることに気づいた。
「……あなた幻影ね」
「そうです。私はこの街を管理し、市民の皆様に快適な生活を営んでもらうために造られました」
カルネの言葉に老人は頷いて答えた。彼女が老人を幻影だといち早く見抜いたのは、老人の姿が薄く足もとには影がなかったからだ。以前訪れた遺跡にも似たようなものがあった。
「あなた、この遺跡を管理している者なの?」
仕組みは未だに分からないが、しっかりとした幻影を彼女はこれまで見たことがない。それ以外にも彼女が驚いていたのは、相手が自分の言葉を理解ししっかりと返答しているということであった。とどのつまり、この老人は幻影でありながらそれなりの知性があるということだ。
「こんなに完璧な幻影なんて見たことないわ」
カルネは自分が興奮していることに気づいた。今まで何十人という学者たちが憶測でしか知ることのできなかったことを、彼女がその気になれば知ることができる。
天人の技術を一つでも解明したならば、巨万の富と名誉が与えられるという、天人たちの技術はそれほど、否それ以上の価値あるものであった。
もっとも、アルテマにとっては富は生活ができればよし、名誉は調査の時に役に立てばよしという程度しか望んでいないが。
カルネは老人の容姿に見入った。それは生きている人間そのものであった。
「でも、今はここに住んでいる人はいない」
カルネの言葉に老人は頷く。その表情は悲しそうであった。
「その通りです。私はそのことに関してひどく心を痛めております。もう二〇〇万もの昼と夜を私はこの無人の街と共に過ごしてきました」
カルネはかくる暗算をしながら唸った。彼は約五千年もの間、無人の街と共に過ごしてきたというのか。
「なぜこの街の人たちはここを去ったの?」
カルネの質問に老人は首を振った。
「分かりません、街の住民がここを去ると同時に他の都市からの連絡も絶えてしまいました」
「天人たちの歴史が終わったのね」
「いいえ、そんなことはありません。彼らは必ず帰ってきます。それまで私はこの街を管理し、運営しておかねばならないのです」
老人はカルネの言葉に即座に反応する。カルネは彼の姿に哀憐の情を覚えた。
だが、彼女には老人に真実を伝えることははばかられた、それに、たとえ言ったとしても彼は信じないだろう。いや信じることができない。彼は信じるように造られているのだ。
「早く彼らが戻ってくるといいわね」
カルネの言葉に老人は笑顔を見せ素直に頷いた。
その笑顔を見ながらカルネは自分が重大なことを忘れていたことに気づいた。「ねえ、ここってどこなの、それにここにもう一人アルテマ……じゃなくてあたしと一緒にいた友達がたどり着いていると思うんだけど」
「ここは砂漠の地底にある都市です。そしてあなたの友達はまだ上の世界にいます」
カルネは驚きに目を見開く。
「地底?」
砂漠ではないと思ってはいたが、まさか地底だとは思いもよらなかった。
しかしカルネの想像していた地底都市とこの街には大きな隔たりがあった。地底とはもっとじめじめとしたものであると想像していた彼女にとって、地上とさして変わらない世界を地底に造り出した天人たちの技術は感嘆に値するものだ。
「そうです。ご希望でしたら地上と同じ青い空、そして雨や風を起こすこともできます。この都市でできないことはありません」
「何でもできるんだったら、なぜアルテマを連れた来なかったのよ! 彼はあたしの友人なのよ」
カルネは牙を剥き老人に食ってかかる。彼女の形相は凄まじかったが、老人にはどこ吹く風だ。
「仕方ありませんね……では、会わせてあげましょう」
老人の言葉が終わると同時、カルネの視野が一転する。
彼女の瞳に最初に飛び込んできたのは、澄んだ空と黄金色の砂の大地であった。
カルネは空の上から砂漠を眺めていた。刺すほどに鋭い陽射しの中にいるというのに、暑さを感じないのが不思議であった。
ああ、自分は飛んでいるのだと心のどこかで思う。これは空から見た風景なのだ。カルネの意思の赴くままに、彼女の体は流れるように空を飛ぶ。やがて彼女は砂漠の上にぽつんと生える小さな黒点を見つけた。
『アルテマ!』
近づくにつれ、彼の姿がだんだんとはっきりしてくる。彼と二頭のラクダ達は途方に暮れたようにその場に座り込み、あらぬ方を見つめている。
彼女は静かにアルテマの横へと舞い降りる。
『……先生』
驚かさないように、カルネは優しく声をかけた。
びくりとアルテマの肩が震え、恐る恐ると振り返る。憔悴したアルテマの顔を見、カルネは悲鳴を上げそうになった。
「カルネ……カルネなのか?」
目に涙を浮かべ、アルテマは立ち上がる。
『先生』
カルネの目の前でアルテマは何度も辺りを見回していた。
「……やはり、気のせいだったのか」
えっ、とカルネは首を傾げる。アルテマに彼女の姿は見えていないのだ。
熱い砂の上にどかりと座り込み、アルテマは思い詰めたように自分の拳を見つめ、大きなため息を吐く。
『………』
何も言うことができずにカルネは、その哀愁に満ちた背をやさしくなでる。自分の姿が見えず、言葉を交わせなくとも、気持ちだけでも伝わって欲しいと思った。
「お前は……死んでしまったのか、カルネ」
『違うわ。あたしは死んでなんかいない』
手を伸ばすが、それは彼の体をすり抜けていく。
「私の、せいなんだ」
アルテマの声が耳に痛い。彼の悲しそうな目がひどく印象的だった。
「違うのよ!」
叫んだときには既に、彼女は元の場所へと戻っていた。彼女の目の前には石像と、幻影の老人とが立っている。
「どうでした。あなたの友人には会うことができましたか?」
老人は笑顔を見せながら言う。カルネは苛々と老人を睨つけた。
「会えたわよ。でも、全く話しができなかったわ」
「話をすることがご希望でしたら先にそう言って下さればよかったのに」
「もういいわよ」
カルネは腰に手をあてしばしの間考え込む。老人が不思議そうにカルネの顔を覗きこんだ。
「どうされました」
「ねえ、何であたしはここにいるの?」
今までどうしても気にかかっていたことがあったのだが、アルテマのことで失念していた。
「あなたの友人という方はここに来る資格がなかった。だから呼ばなかった。ただそれだけのことです」
老人の答えはそっけない。
「何言ってるのよ。じゃあ、あたしにはその資格があるって言うの?」
「そうです」
「馬鹿馬鹿しい、そんなものあるわけがないじゃない」
「ありますとも、ただあなたが気づいていないだけです」
「………」
カルネはううんと唸り込む。
その時彼女の脳裏に一つの疑問がわいた。
「あなた……あたしに鈴の音を聞かせなかった?」
カルネの言葉に老人は破顔する。
「ああ、やはりあなたにはあれが聞こえていたのですね」
「聞こえていたというか、聞かされていたというか。つまりはあれが聞こえた人だけがここに来ることができたというわけね、神風巻を起こしたのもあなたね」
老人は頷く。もともとの元凶がこの老人であることを知りカルネはいささかむっとしたが、彼に悪意がないことが分かっているので悪態をつきたい衝動をぐっと胸の奥に押さえ込む。
「ねえ、この街は何でもできるの」
「ええ、できますとも。この街にできないことはありません。地上の世界は辛い……自然の驚異、疫病、戦争、貧困、老い……そのすべてがこの街にいればすべて消えます。ここは永遠の楽園なのです」
老人の言葉を聞きながら、カルネはそれも一理あるのかもしれないと思った。人との争いの絶えない地上世界。貧困、飢餓、疫病、老い、すべての苦が解き放たれた世界はまさに楽園であった。
しかしとカルネは首を振る。苦の多い世界であるからこそ、また幸も多いのではないか。すべての苦しみを取り去ったとしても、人が果たしてそれを幸せと感じるかどうかはなはだ疑問であった。幸せとは不幸の中にこそあるものではないのか。苦労があるからこそ、それを乗り越えたときの喜びがあるのではないか。
以前カルネはアルテマと共に、遺跡調査のため一ヵ月もの間ジャングルの中をさ迷ったことがあった。毎日生きるか死ぬかの瀬戸際で、毒虫や獣、毒性の植物などに囲まれ寝ることさえろくにできなかったジャングル生活、その結果得られたものはたった一枚の銅貨だった。だが、それがその時どれほど輝いて見えたことか、部屋いっぱいの金貨よりも、彼女にはその一枚の銅貨の方が価値があった。何よりもアルテマと共に苦労して手に入れたものに、そもそも価値などつけられない。その銅貨は今彼女の胸に輝いている。どんなに古びていても彼女にとっては一生の宝なのだ。
辛くて苦しい世界だが、それた同じだけの幸せの可能性があるのだと、彼女は銅貨を手にとって思った。
カルネは意を決したように口を開いた。
「お願いがあるんだけど。あたしを地上に戻してくれない」
唐突の提案に老人は一瞬きょとんとしたようにカルネの瞳を覗き込む。
「それはここを出られて、元の世界に戻るというのですか。この楽園を捨てて、不自由な生活に戻るというのですか?」
老人の訴えには真摯な思いがあった。だがカルネはそれを分かっていながらも首を縦に振ることができない。
「あたしには……帰りを待っている人がいるのよ」
カルネの言葉に老人は小さく溜め息を吐く。老人にも分かっているはずだった。待っている者の心境というものを。
「あたしは帰りを待っている人がいるの。だから帰ってあげたい。どんなに辛い世界でも、苦しくて不自由な生活が待っているんだとしても、あたしにはその世界の方がいい」
彼女の言葉には何かしら決心らしきものが感じられる。どんなに進んで便利になった世界でも、アルテマがいないのでは意味がない。
カルネにはそう思えた。
しばらくの間老人は無言であった。もし彼が否と言えば彼女に帰る術はない。
「あなたの言うことももっともですね……分かりました。帰してあげましょう」 老人はそう言って彼女の背に手を触れさせる。幻影であるはずの彼の手のひらから温もりが伝わってくるような錯覚を覚えた。
「あなたと出会えて本当に良かったと思います。また会える日が……きっと来ると思っています。タネチリアの子供よ先祖の誇りを失わないでください」
カルネは目を見開いて振り向く。老人の寂しげな笑顔があった。
「ちょっと待って、それってどういう……」
「さようなら」
老人の笑みが靄の中に消えていく。カルネは何と言っていいのか分からないまま、まどろみの中へと沈んでいった。
「おい、カルネ!」
頬に鈍い痛みを覚え、カルネは首をねじる。もう一度、今度は激しい痛みと高らかな音が響いた。
「痛いじゃないですか!」
勢いよく起き上がりカルネは毒づく。
「ああ……よかった。生きていたんだね」
いきなり抱きつかれカルネは動揺したまま辺りを見回した。そこには街も老人の姿もなく、眩しい陽射しと暑い砂漠が広がっている。
彼女たち二人は大きな岩の下にできた小さな洞窟の中にいた。
「ここは……?」
「砂漠を歩いているうちにね、老人の幽霊が現れてお前がここにいると告げてくれたんだよ」
アルテマは涙を流しながら言う。岩陰には二頭のラクダ達が仲良く肩を並べて砂の上に寝そべっていた。
「あの……あたし、遺跡を見たんです。誰もいない街に、水の壁があって信じられないくらい保存状態がいいんです」
「いいんだ。何も言わなくていい。とにかく今は休むことが先だ」
熱っぽく語るカルネにアルテマにやんわりと言う。カルネはとりあえず砂の上に敷かれた毛布の上に横になる。岩の下は涼しく、熱い風すらもそこではひんやりとしていた。
「ど、どうだね、少しは落ち着いたかね」
「あたしはさっきから落ち着いていますけど」
「……そうか、そうだな」
カルネは笑いをかみ殺しながらも横になる。まるで出産を間近にひかえた妊婦の旦那のようにアルテマには落ち着きがなかった。
「そんなに心配してくれたんですか?」
「……ば、馬鹿なこと言っちゃいかん。な、何で私が助手の心配なんかしなければいけないんだ。私はただ研究を手伝ってくれる助手の心配をしただけで、き、君という助手の心配をしたわけじゃないんだ」
既に支離滅裂になっているアルテマの言葉を、カルネは笑いながら聞いていた。
「そんなに笑うこともないだろ」
あきれたようにアルテマ。だが、その顔が突然穏やかな表情になる。
「……もう帰ろう。砂漠はまた来ればいい。私はいろいろと学んだよ」
カルネは目を見開いてアルテマを見る。彼が遺跡を諦めるなど考えもしなかった。
「いったい何を学んだんです」
「いろいろなことだ」
アルテマはそう言って立ち上がった。何をするのかと視線で彼の姿を追うカルネの前で、アルテマはラクダの荷から皮袋を取り出す。
「何です?」
「酒だよ」
「お酒って……先生は飲めないんじゃなかったんですか」
「気が変わった。本当は見るのも嫌なんだが……怪我をした時に薬になるからと思って携帯しておいたんだ」
「そうじゃなくて」
「いいじゃないか、たまには飲んでみようかと思う時があるんだよ」
蓋を開け鼻を近づけたアルテマは盛大に顔をしかめて見せる。カルネはアルテマの変わりように驚くばかりだった。
「先生いったいどうしたんです」
「君がいなくなってから、いろいろ考えたんだ……なくなってからその価値に気づくってのは本当だな」
「ふーん」
カルネは返事をしながらアルテマを見る。彼は落ち着きのない様子でじっと砂漠を眺めていた。時々ちらちらと彼女の方を見るが、彼女はわざと気づかないフリをする。
もしかしたら、自分と同じことを考えているのかもしれない。
そう思うと突然、彼女の中に光が広がった。何もかもが光に満ちたような感覚。
「先生……」
「ん?」
振り返るアルテマにカルネが抱きついた。
一瞬の出来事にアルテマは目を瞬かせる。
「ありがとうございます……心配してくれて」
カルネはアルテマの首にしがみつく。
「い、いや……だから私は……」
狼狽するアルテマだったが、カルネを引きはがそうとはしなかった。そのかわり震える腕でやんわりとカルネを抱きしめる。
「ねえ、先生今度はどこへ行くんです?」
「分からん」
どこか遠くを見るような目で、あらぬ方向へと視線を走らせるアルテマの答えはそっけない。
「その時あたしも連れていって下さいね」
アルテマが微笑むのが気配で分かった。
「もちろんだとも」
10年ほど前に書いたものを「発掘」しました。