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紫陽花の唄

作者: 栗栖ひよ子

 この世界は、とても呼吸がしづらい。

 それでも雨が降ると幾分楽だ。

 耳に煩い雑音も、雨音が消してくれる。

 世界に蔓延した悪意も、黒い感情も、雨が洗い流してくれる気がするから。


 スリッパを履いた足が晴れの日よりもきゅっきゅと鳴る。湿度の高い空気が充満した、面会前の人気のない病棟。

 白いリノリウムの廊下を歩いてエレベーターに行く途中に「彼」を見かけた。

 顔が濡れるのもかまわずに、窓から身を乗り出すようにして外を眺めている。すこしつま先をあげて背伸びして、肘は窓枠に置くようにして。

 「彼」はこの病棟ではちょっとした有名人だった。たぶん、有名という言葉を聞いて想像するのとは逆の意味で。

 一度彼の前を通りすぎようとして足を止め、思い直して、水色のストライプのパジャマを着た背中を振り返った。

「ねえ、何を見ているの?」

 それが私と彼のファーストコンタクトだった。


 この病院に運ばれたのは一週間ほど前のこと。通っている高校の階段から落ちたせいだった。雨で湿っていた床と上履き、たまたま老朽化していた階段の滑り止め。悪条件が重なり、三階から転げ落ちた私は、踊り場で止まることなく二階まで、それは見事に頭からまっさかさまに落ちた。

 脳震盪で気を失って救急車で運ばれ、脳の検査と捻挫の治療のため、そのまま総合病院に入院することになった。

 私は内心、ほっと胸をなで下ろした。

 だって、階段から落ちたのは事故じゃないから。私は、偶然が重なったように見せかけて、「自殺しようとして階段から落ちた」のだから。

 でもそれは不幸にも失敗し、幸いにも誰からも気づかれなかった。

 精神病院に入れられたら、窓も開かない、ロープも持ち込めない閉鎖病棟に閉じ込められ監視されて、もう自殺ができなくなってしまう。

 足が動くようになったら、頃合いを見てどこかの屋上から飛び降りよう。今度は失敗しないような確実な方法で。そう思っていた。


 やっと、松葉杖をつかなくても歩けるようになった足。そろそろ「頃合い」だと思った。エレベーターで屋上に向かう予定だった。

 この病院の屋上が開放されているのは、入院してから知った。掃除のおばさんがシーツを干すのに使っているし、看護師の付き添いがあれば患者が喫煙に行くことさえ許されている。

 屋上へつながるエレベーターで誰にも見つからなければ、そして屋上に誰もいなければ、飛び降りるのは難しいことではなかった。雨の日は絶好の機会だった。これで自殺の「やり直し」ができる。

 なのにどうして、「彼」に声をかけてしまったのだろう。

 それは私が、彼に興味があったからに他ならない。死ぬ前に一度、彼について確かめたい、と思っていたのだ。


 私の声に、彼がゆっくりと振り向く。驚いた様子はなく、穏やかな笑みを浮かべて。

「紫陽花の唄を聴いていたんだよ」

 はじめて聞いた、彼の声。年齢は私と同じ高校生くらいだと思うのに、落ち着いていて深みのある声。声色自体は高校生の高さと透明感を持っているのに、何かを達観したような、すべてを許容したような、そんな声。彼の声は意外で、すこしだけどきっとした。

 彼が窓枠の片側に寄って半分のスペースを空けてくれたので、私は彼の隣に並んだ。

 ここは三階。身を乗り出すと確かに、建物に沿って植えられた花壇に紫陽花が咲いているのが見えた。でも、

「紫陽花を見ていたんじゃなくて、紫陽花の唄?」

土が酸性なのか、青や紫ではなくて赤い紫陽花。

「うん」

 それだけ返すと彼は目を閉じ、そのまま口を閉ざした。

 これ以上話しても無駄かな。彼は評判通りの人だったということでいいや、と結論を出して、私は再びエレベーターへ向かおうとした。

「ねえ」

 後ろから、彼に呼び止められて振り向く。

 分け目の分からないようなさらさらの髪に包まれた、白くてつるんとしたきれいな顔を何の邪気もなく微笑ませて、彼は言った。

「君が飛び降りたら、紫陽花の唄が聴こえなくなるから、やめてね」


「……なんで?」

 呆然と突っ立ったまま彼を睨んで、こまかく息が漏れる唇から、やっとのことで声を絞り出した。

「君の血を吸って、紫陽花が死んでしまうから」

「そうじゃなくて」

 よく分からない怒りが沸いてきて、ぎゅっと握りしめた拳がわなわなと震えた。

「なんで、私が飛び降りるって知ってるのよ!」

 気づいたら、伺うように私をじっと見ている彼に対して、つかみかかりそうな勢いで声を張り上げていた。

 彼はちょっと困ったような笑みを浮かべて、首を傾げた。

「知っているというか。分かってしまったから」

 どうして、と私が問うより早く、彼が静かに告げた。

「僕には生きているものの唄が聴こえる。花もそうだし、人間も」


 彼は、生まれつきの心臓の病気でこの病院に入院していた。退院してはまた入院し、を繰り返しているらしい。はっきりとした病名は分からないが、有効な治療法がないこと、つまり打つ手がないのだということは、私も噂で耳にしてなんとなく知っていた。

 彼は、きっとあまり長く生きられないのだろう。そう知った時、何だか勝手に親近感を覚えた。

 私は病気で死ぬわけではなく、自ら死を選ぶわけだけれど。「死に近い場所」に立っている空気が、おんなじだ、と思った。

 彼が有名なのは、不治の病だからではない。そんな人は病院中を探せば嫌というほど見つかる。

 彼が暇な入院患者の間で噂話の恰好の種になっているのは、その奇妙な言動のせいだった。

 私は直接彼と話したことはなかったが、まともに会話にならない、とか、訳の分からないことを言い出す、突然誰も知らない歌を歌いだす、とか、一週間入院しているだけでも何度も耳にした。彼は頭がおかしい、とも。

 実際、精神科にもかかっていて、外科病棟なのに精神科の医師が定期的に診察に来るらしい。

 この世界は、「自分とは異なるもの」に冷たい。「自分が理解できないもの」は、ないもの、おかしいもの、間違ったものにしようとする。

 それの、何がいけないんだろう。頭がおかしいことが、どうして悪いんだろう。理解を超えていたって、その人が実際にそう感じているならそれは真実だ。

 誰が狂っているかなんて分からない。何が本当かなんて分からない。もしかしたらこの世界の誰もが、狂っているかもしれないのに。

 見ているもの、聴こえているものが真実かどうかなんて、他人には分からないのに。


「どうして死のうと思ったの」

 こんなこと、さも重要なことじゃない、というように自分の台詞をさらっと流して、彼は逆に私に訊ねた。

「さあ。わからない」

 どうして私はわざわざ正直に答えているのだろうと思いながら、また彼の隣に並んだ。適当な理由でもつけたほうがまだ、追求されずにすむのに。でも嘘を考えることすら面倒だった。

 窓枠から手を伸ばすと、しとしと降る雨で湿るように腕が濡れる。

 死ぬなら雨の日がいいと思った。少しでも世界から雑音が消える日に。そして、なるべく猥雑な感情が浮遊していない場所で。

「どうして死にたいのかなんて分からない。どうして生きているのか答えられないのと同じに。ただ、この世界は苦しくて生きづらい。解放されたいと思うのに理由が必要?」

 誰にも言ったことはなかった。打ち明けても、ノイローゼ扱いされるか、そんなことない、この世界は美しい、人生は楽しいなどと個人的な人生論を振りかざされるだけだ。

 うんざりだった。耳を塞ぐことも、目を閉じてしまうこともできないなら、消えてしまえばいい。

「そうだね。この世界は息苦しい」

 驚いて、彼の横顔を凝視する。灰色の空と同じ色を映した瞳。感情の読めない瞳。でも同意してくれたその声はとても優しかった。

「君が解放されたいと思うことは少しも不思議なことじゃない」

 分かってくれる人はいないと思っていた。理解してくれる人なんていないと思っていた。同じ感覚を共有している人はいないと思っていたし、求めてもいなかった。

 優しいと感じたのなんて錯覚かもしれない。彼の言葉はただ事実を述べているだけのようにそっけないのだから。

「じゃあ、どうして止めたの」

 彼が止めなかったら、今頃はアスファルトの上で轢かれた蛙のような姿になっていたはずだったのに。要らない目玉も、耳も、ぐしゃりと潰れて。じわりと広がる血痕は、雨が洗い流して。

 ああそんな無惨な姿がこの世界を終わりにするにはお似合いだ。綺麗なままでなんて終わりにしたくなかった。

 この気持ちが分かるなら、どうしてそのまま死なせてくれなかった。それは半分恨みで、半分はよく理解できない戸惑いだった。

「言っただろ。唄が聴こえるって。君の唄も聴こえたんだよ。それはね、赤い紫陽花にとても似ていたんだ」


 初めて世界の矛盾に気付いたのはいつだっただろう。子供の頃は、世界に隠された悪意にも暗さにも気付かずに、陽のあたるあたたかい場所で生きていた。神様はいつだって、誰にでも優しいものだと思っていた。

 きっかけは今でも覚えている。秋の夕暮れ、真っ赤に染まった校舎と友達。一瞬にして姿を変えてしまった世界。


 神様なんていない。世界は美しくなんかない。人は優しくなんかない。人は生まれた時から不公平で、それは私が生まれる前から変わらないし、これからも変わらない。

 その事実に気付いた時、深い絶望を覚えた。今まで何も気にせずに繰り返してきた呼吸が、急に陸に上がった水棲動物のように苦しくなった。

 今まで見えてこなかった、教室の隅、カレンダーの裏、箪笥の奥、誰も通らない路地裏に、それは潜んでいた。目を凝らせばどこにだって、黒くて苦しいものは隠れていた。一度気付いてしまったら、捕らわれてしまったら、黒くて苦しいものは「獲物がきたぞ。さあ、しめたものだ」というように嬉々として襲ってきた。

 どこまでも増殖する。どこまでも浸食される。私が死ぬ時までそれは続く。

 多くの、普通に生きている人たちがしているように、「見なかったことにして普通に生きる」ことは私にはできなかった。

 見なかった、気付かなかったことにするには、きっと私は弱すぎたのだ。


 弱いものは淘汰される。自然界ではそう。ならば私が死ぬのもごく自然なことなのだろう。どうして人間だけ、弱いものを無理やり生かそうとするのだろうか。自然淘汰されることが、本人にとってはしあわせなことかもしれないのに。

 そう、息苦しい思いをしながらこのまま生き続けるよりずっといい。


「赤い紫陽花は、この世界は煩い、息苦しい、とずっと歌っているんだ。それはそれは美しいメロディーで。咲いていたくない、枯れてしまいたいと嘆いているのに、その唄はとても綺麗なんだ。僕が今まで聴いた花の中でも、そうだね、一番と言っていいくらい綺麗なんだよ。ねえ、世界を否定しているのに、どうしてそんなに綺麗な唄が歌えるんだと思う? 君もね、同じだったんだよ。息苦しい、死にたいと叫んでいるのに、切なくて、胸が締め付けられるほど美しい唄が聴こえたんだ」

「そんなこと、知らない。世界は美しくなんかない」

 吐き出すように答えた。感情はあまり外に出さないようにしていた。でも、嫌だった。美しいだなんて言われることが。それが自分に自覚のないことでも。

「うん。そうだね」

 特に気を害した様子はなく、彼は頷いた。

「本当に聴こえたんだ、私の唄。私は何も歌ってなんかいないのに」

「やっぱり、君も信じられない?」

 そう言って彼は自嘲するようにひっそり笑った。

「そう言うとね、みんな、お前は頭がおかしい、と言うんだ。むりやり医者に診せられて、統合失調症だと言われた。僕の聴いている唄は幻聴だと。そんなものは聴こえるはずがないんだ、と」

「他人の聴こえているものを、どうしてありえないと決めつけられるの? 本当かどうかなんて、分からないじゃない」

「君は否定しないんだね」

「否定も肯定もしない。何が本当で何が正しいかなんて、誰にも分からないもの」

 医者だって同じよ、と呟くと、彼は少しだけ嬉しそうにひっそりと笑った。

「薬を飲まされて、定期的にカウンセリングを受けているけれど、いくら治療されても唄は聴こえなくならないよ。僕は病気ではないし、それに、僕に聴こえていても聴こえなくても、唄は世界にあることに変わりはない」

 彼の横顔に雨粒が当たり、髪も頬もしっとりと濡れている。長くて濃い睫毛に乗った雨の滴が、蜘蛛の巣にくっついた雨粒みたいに見えた。

 生きているものの唄が聴こえても、彼には自分自身の唄は聴こえないのだろうか。それはとても勿体ないことのように思えた。

 彼からならどんな唄が聴こえるんだろう、聴いてみたいと思ってしまった自分に苛ついて、きつい口調で彼を問い詰めてしまう。

「あなたは、紫陽花の唄が聴こえなくなるのが嫌だから、私を止めたのね」

「それもあるけど」

 急に苛々し始めた私にきょとんとした顔をして、戸惑うように答えた。

「なら、心配しないで。紫陽花の植え込みがない側の柵から、飛び降りるから」

 捨て台詞のように、彼の顔を見ないで言葉を吐いて、私はそのまま、背を向けて自分の病室まで歩き始めた。


 病室に戻ると、スチールケースの上に飾ってある花瓶が目に入った。生けてある、赤い紫陽花。

 彼は、生きているものの唄が聴こえると言っていた。では、手折ってしまった切り花は、歌わないのだろうか。

 今にも紫陽花から、「煩い煩い。息苦しい息苦しい」と聴こえてきそうな気がして、私はベッドに頭までもぐりこみ、両手で耳を塞いだ。


 その夜は、久しぶりに夢をみた。「脚が痛くて眠れない」と言って睡眠薬を処方してもらって以来、深く眠れるようになって、この夢をみることもなかった。

 秋の夕暮れ。間延びしたように校庭に反響するチャイムの音。放課後、友達と蜻蛉を捕まえて遊んでいた。蜻蛉が目を回すのが可愛くて面白くて、それは最初は無邪気な遊びだった。

 捕まえるだけには飽きたのだろう、一人の友達がこう言った。

「蜻蛉の頭って、すごく飛ぶんだよ」

 私は意味がよく分からず、口元をゆがめて笑う友達の表情を、首をかしげて見つめるだけだった。

「知ってるよ、私だって飛ばせるよ」

 もう一人の友達が言った。どういう意味? と聞き返すよりも早く、私の顏すれすれを、ふたつの小さな頭が飛んで行った。それを、友達が指で弾いた蜻蛉の頭だと理解するのに時間はかからなかった。

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 それからの記憶は、途切れ途切れのフィルムのようにしか覚えていない。絶叫し、うずくまる私。笑いながら蜻蛉の頭を飛ばし続ける友達。

「逃げて! 早く逃げて!」

 泣きながら草むらを走り回り、蜻蛉を逃がす私。赤くにじむ、一瞬にして姿を変えてしまった世界。

 胸郭をつきやぶりそうなくらいの動悸で、私は目を覚ました。この部屋だけ酸素がなくなったかのように呼吸が苦しい。ベッドの上で胸を押さえて上体を折り曲げる。

 枕の下から紙袋を取り出し、口に当てる。もう何年も習慣になっていた行為。

「もう……いやだ……」

 つぶやいた言葉は、赤い紫陽花だけが聞いていた。


 梅雨も終わるというギリギリの時期に、私は退院を告げられた。

「やっと明日退院だね。治療もリハビリも真面目に頑張ってくれたから、入院が長引かなくてすんだよ」

 まだ若い、柔和な顔に眼鏡をかけた形成外科医が、カルテに文字を書き込みながら微笑みかける。

 脚のレントゲン写真がボードに張られた、無機質な灰色の診察室。

「はい。今までありがとうございました」

「これからは階段から落ちるなんてことがないように気をつけるんだよ」

 いたずらっぽく言う主治医に、私もとびきりの笑顔を作って返す。

「もう二度と、階段からは落ちません」

 そう、もう一生、階段から落ちることはない。


 退院の日。荷物をまとめ終わって、通っていた高校のセーラー服に着替えた私は、親が迎えに来る前に屋上に上った。

 雨が、点々と染みのように灰色のコンクリートを黒く濡らしている。

 良かった、最後のチャンスの日が雨で。

 灰色の空に囲まれた、灰色の病院。色を失くして、音を雨に吸い取られた世界。

 ああ、これなら。これなら穏やかに死ねる。

 長い髪が雨で湿って、つめたくなる。でも、頭が冷えてちょうどいい。湿度の高いつめたい空気をすうっと吸い込むと、肺が軋む。痛い。でも、息苦しくはない。もう私は解放されるのだから。

 つめたく、暗く、穏やかに凪いだ心。死ぬことは怖くない。私にとっては、生きることのほうがずっとずっと怖かった。

 シーツを干すための大きな物干し竿も、雨が降っている今は何もかかっていない。

 格子状になっているフェンスに近づいて、ここまで履いてきたローファーを脱ぐ。白いソックスの足の裏が、じんわりと湿る。

 フェンスの間から地上を確認し、そこに誰もいないこと、植え込みに紫陽花がないことを確認すると、私は足をかけてフェンスを登った。

 フェンスは二メートル近くあって、手のひらが滑って皮がむけて血が滲んだけれど、気にせず登りきった。

 フェンスの向こう側のでっぱった部分へ、転がるようにして背中から落ちる。

 打ちつけた身体を叱咤激励しながら、フェンスにすがってよろよろと立ち上がる。

 建物の下から吹いてくる風が、ひょおおお、ひょおおおと泣いているような音をたてる。世界の終りの谷。そこから上ってくる悲鳴。ああ、きっとここは地獄につながっている。

 怯まなかった。死を目前にしてやっと、世界の全容が見えた気がした。今まで怯えて見てこなかったものも全部理解して、受け入れてこなかったものも全部私の中に入って、そしてそのまま終わりにしようと、私はコンクリートの縁まで足を踏み出した。

 神様が人に翼を作らなかったから、人はとても有効な死の手段を手に入れてしまった。

 自殺を罪だと説いている神様が、人には翼を授けなかったこと。それはこの世界の息苦しさを分かっていたからではないのか。

 ほら、やっぱり。神様も優しくなんか、なかった。

 足をギリギリまで踏み出すと、小石がぱらぱらと落ちる。そしてそのまま、上半身を倒すようにする。ちゃんと頭から、落ちるために。

 階段から落ちた時のような浮遊感を感じ、ああ、これで――。

 そう意識を閉じた時だった。


 腕をぐいっと掴まれ、傾いていた身体が誰かに引き寄せられる。そしてその勢いのまま、私はその人物の上に倒れかかった。

 痩せた、骨の浮き出た、なのにその身体はとてもあたたかかった。

 うっすらと目を開くと、目に入る水色のストライプ。そして見上げると、泣きそうな顔で私を見ている――彼。

「……どうして」

 嗚咽が漏れそうになる。

 本当は、一生分の勇気を振り絞った。怖くないなんて嘘だった。ずっと脚はがくがくと震えていた。

 チャンスは一回しかないと思った。一回しか、勇気を出せないと思ったから。

 身体がぶるぶると震え出した。目から、熱い液体が溢れ出した。

 上体を起こした彼が、私の頭をきつく抱き締める。私はいつの間にか大きな声で泣いていた。

 それは本当に久しぶりの、子供の頃以来のことだった。

「……ごめん」

 苦しげな声で彼がつぶやく。その声も、泣き出しそうに聞こえた。

「あの日からずっと、たくさんの雑音の中から君の唄を探して、聴いていた」

 静かな声が、私の頭のすぐ上から降ってきた。とても近いところから、直接胸に響くような話し方で。頭に口づけするような恰好で、私を抱き締めてくれているのだと分かった。

「今日、遠くからかすかに聴こえていた君の唄が、とても安らかなものに変わったんだ。それで、ああ君は死ぬことに決めたんだなと分かった」

 私より大きな男の子の手が、私の濡れた髪を、恋人にするように撫でる。

「紫陽花のためじゃない。君の唄が聴こえなくなるのも、嫌だと思ったんだ」

 降り続ける雨が彼のパジャマを濡らして、薄い身体が透ける。胸には肋骨がうっすらと浮いていて、なぜだか私の胸は、切なげな音を立ててキシキシと痛んだ。

「……私は今日で退院だから、私を助けたとしても、あなたに唄は聴こえなくなる」

 喉の痛みを抑えながら、彼の胸に縋りつきパジャマを握りしめて、その事実を伝える。

「そうだね。でも、この世界から君の唄が消えることが、たまらなく苦しかったんだ。世界は美しくなんかないと歌う、世界で一番美しい唄が」

 そうして私の顔を自分に向けさせて、雨に濡れた、泣き出しそうな笑顔でこう言った。

「息苦しい世界に、そんなものがひとつくらいあって欲しいと願ったって、いいじゃないか」


 私はその日退院した。あれからあの病院には行っておらず、彼がどうしているのかは分からない。

 生きているのか、死んでしまったのか。

 確かめようと思えばいくらでも確かめられたけど、私はそれをしなかった。

 彼が息苦しい世界で美しい唄を探しながら生きていても、すでに解放されて死んでしまっていても、私にとってそれは大きな意味を持たない。

 あの日の彼の言葉と、世界に逆らって生きているような、なのにあたたかい彼の身体と、雨に濡れた最後の笑顔は、何年経っても鮮明に甦り、私の記憶から消えない。

 世界を生き続けるのに、他のなにもかもがなくても、その記憶さえ持っていれば充分だと思った。


 彼には本当に唄が聴こえていたのだろうか。

 本当かどうかなんて、どうでもいいし、誰にも分からない。ただ、彼には確かに聴こえていた。それで充分だ。

 世界が美しくないと歌う、世界一美しい唄が。


 今でも世界の息苦しさに、消えてしまいたくなる時はある。

 そんな時は梅雨を待ってみる。

 雨に濡れて咲く赤い紫陽花を見ると、あと一年だけ生きてみようかなと思う。


 あの日からもう、十年が経つ。

 私はあれから一度も、屋上に登っていない。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 凄いですね。 思春期のお若い方々に、ぜひ読んで頂きたいお話だと思います。 感動しました。
[良い点] 『私』も『彼』も、一度として名前が出てきていないというのに、物語の中で二人はとても強い存在感があります。 読む人によって、いろいろな読了感がありそうな作品ですね。 個人的に、この作品は薔薇…
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