受験戦争最前線
三題話、「受験」「思春期」「電車」
一年が終わるなぁ、と色々と麻痺した頭で思った。ここ最近勉強漬けだった脳ミソが、羊水みたいな不定形の液体みたいな何かの上にプカプカ浮いてるみたいだった。足元も、なんだかふわふわしてる。眠いような気もするし、このままだと目が冴えていて眠れないような気もする。
十二月いっぱいは死ぬ気で勉強して、一月に入ったら体調の調節に入れと某塾のナントカ先生も言ってたことだし、これからはあまり無茶な勉強の仕方はしない方が良いのだろう。無茶な勉強って何なんだという話でもあるけれど、実際私は風邪引いてぶっ倒れた。
鞄を肩にかけ直して、携帯の時計表示を見る。PM 21:13、あと三時間せずに今年が終わるのだと思うと、感慨深いものがある。
同時に頭がぼうっとする感じがして、軽く心音が耳に聞こえた。緊張だろうか。今頃からこんなにアガッてて、本番私はまともにやれるのだろうか。試験問題をパッと見た時、頭が真っ白にならないでベストな状態で解きにいけると、言えるのだろうか。模試は何回もやった。だけど、受験というのは“本番である”というただ一点で、緊張の度合いが増してしまうものなのだ。
意識した途端にただでさえ不確かだった足場が、崩れさってしまいそうなものに思われた。息が上がる。今年の初めからずっとのしかかってきていたプレッシャーという名の何か得体の知れないものが、形を持って私の首をやんわりと絞めあげる。
“受からないかもしれない”ではなく、“落ちるかもしれない”という不安。“受からなければならない”という強迫観念と“人生失敗するかもしれない”という恐怖。“ここが人生の大一番、転けたら一生泣くことになるぞ”なんて、言われ続けた言葉が、先の見えない未来を不安で覆い隠してしまう。
私はまだ18だ。なのに、この先何年泣き続けろと言うのだろう。そんな風に形の見えない不安を煽るのは止めて欲しいと、叫び出したくなる。でも叫んだって、私の周りの人達の誰もが、私と同じような不安を抱えていて、それを自分だけでも何とかやっつけてしまわなければと必死になっていて、結局誰の悲鳴も誰の耳にも届かない。
いつだって、私達は独りぼっちだ。
「来年は、ついに受験本番だな」
声に二重の意味で現実に引き戻された。夜も遅い、少し考えが悪い方にいってしまったのは、きっとそのせいだ。軽く額を叩いて、嫌な考えを払った。
十二月の晦日を迎えた街は慌ただしいながらも静かだ。自習室の気詰まりな雰囲気からは解放されたけれど、外の空気は鋭い。冷気が骨身に沁みて、思わず身震いした。電車はまだ来ない。
「俺、受かるかな、落ちるかな、受かりたいな」
隣に立つ彼はなんだかふわふわした口調でそう言う。ネックウォーマー越しの声は僅かにくぐもって聞こえた。
「私も、受かるといいなー、と思うよ」
そう応えた私の口調も、なんだかふわふわしている。不安を口にはしない。それをしたら彼に負担がかかってしまうと分かっていた。相手が彼ではなくて、仲の良い友達だったとしても、私はそう応えただろう。勉強疲れか、心なしか視界も白かった。
「死ぬほど勉強したもん、受かるよ、多分」
自分に言い聞かせるように言って、白い息を吐く。これで受からなければ、一体自分はどうしたらいいのだろうかと、また少し思いながら。考えても仕方無いことなのに、そう考えざるを得なかった。
しかし彼は、自信無さそうに俯く。自信が無いというより、何かに疲れたように。
「俺、別に死ぬほどは勉強してねぇよ。お前に比べたら、全然だ」
「全然って?」
「落ちたら、言い訳に出来るくらい、かな」
落ちた人にどのくらい勉強したかと聞くと、大概勉強が足りなかったかもしれないと言うんです。と、某塾の何とか先生は言っていたけれど、それはきちんと勉強しろという警告だったのかもしれないな、と思った。幸い、私はちゃんと勉強していた訳だけど、それも、どうだろうか。落ちた言い訳に出来てしまう程度のものなのだろうか。
「俺さ、中学受験で入ったんだよ。ほら、この学校って初等部からの持ち上がりがあるじゃん?」
「うん、そう言えば君はそうだったね」
「でも、俺中学受験の時、そんなに苦労してないんだよ。この学校も一発で受かったしさ。まあ第一志望は落ちたんだけど。…………大学受験って知らない戦場が、凄く、怖いんだ」
またなんとなくで受かる訳ない、と彼は呻く。それを分かっていて必死に勉強しなかったと悔やむように。でも、と思う。でも私は受験を知らない、覚えてない。でも、仮に彼が言うように全然勉強出来ていなかったとして、このままだと合格は厳しいとして、でも。
「でも、今、それを後悔出来てるならいいと思う。遅いなんてことはないよ、今からでも出来ることをすれば」
彼はきょとんとした顔で私を見る。アナウンスが、電車がそろそろ来ることを告げていた。
「君はもう試験受けたんだっけね、K大学。発表はいつ?」
「一月入ってからだけど…………」
うん、と頷いた。発表がまだなら頑張れると思った。先に不安があるなら、たとえ不完全でも、それを消せるだけの努力を重ねればいいのだ。だから彼の肩をぽんと叩いてそう言った。
「大丈夫、まだ頑張れるよ。頑張る時間も、気持ちもある。大丈夫」
また頷いた私に、彼は不満そうな、拗ねたような顔をしてそっぽを向く。
「…………俺、頑張れって言葉嫌いなんだよなぁ」
「頑張れじゃなかったら、何て言えばいいの?」
「いや頑張れでもいいんだけどさ」
でもなんか強制されてるみたいだよ、と言って彼は鼻をすすった。言われてみれば、頑張れという言葉は命令形だ。つまり、応援されるというのは結果を要求されるということで、それはとても残酷なことに思えた。
「…………強制、されてんだろうなぁ」
また不安にかられて少し俯いた私に気付かず、彼は白く息を吐く。何かを口にすべきだった。でも何も言葉は浮かんで来なかった。だから、何も言わずに息を吐いた。
その時、ベルと共に電車が滑り込むようにホームに入ってきた。じゃあねと彼に手を振って、開いた扉にそそくさと乗り込む。一人になればまた元の思考の穴に嵌まると分かっていても、今、彼とはもう話せそうになかった。
おいと呼び止められた。振り向くと帰る方向の違う彼は電車には乗っていなくて、何か意を決めたような顔をしていた。真剣な顔に思わず息を飲む。
「あのさ、…………俺、頑張るよ。頑張ってみるよ。だからお前も」
だからお前も頑張れよと、言えばいいのに彼は一度口を閉じた。頑張れなんて言葉は嫌いだと言った彼は、それでも頑張ると言って、少し迷って、それからやっぱり真剣な顔で言った。
「お前も、あとはやるだけだから、やれるだけやれよ」
一度息を吐く。
「後悔、しないように、やれるだけやれよ」
最後に無理に笑って、軽く親指を掲げて見せた。普段自習室に来るような彼ではないから、恐らくそれが試験前最後の激励なのだろう。そう察して、私も同じように笑って親指を突き出した。
「勿論、君もね」
電車の扉が音を立てて閉まった。人のまばらな車内の静かさが、耳にこだまする。ふぅと一つ息を吐いて、適当な席に座った。
暗く、鏡になった窓の向こう。寒さに頬を紅くした私の口元は緩く微笑んでいた。
「やれるだけ、やるだけ、かぁ」
どうだろう、わりと視界はしっかりしているじゃないか。酷い緊張感も、今は無い。まだ一月はある。その間にやれることも多い。
私は大丈夫。きっと、彼も大丈夫。
窓の外は暗い。輝かしい街の灯りも、闇を払うことはない。電車は闇を切り裂いて、ただ次の駅へと進んでいた。
受験生激励用(?)話、これも確か日誌に書いた。結構最近、そういう時期なのだ。
ところで自分は三題話の意味を履き違えているような気がするのだが、お題にそって短編書くんだよな、うん。