ある日の夏祭り
「はぁ…………」
「少し休もっか」
「…………………うん」
人混みから外れたベンチに腰を下ろした洸祈は俯いて視界を手で塞いだ。重たい体を支えるようにもう片手をベンチに突かせる。
陽季は太陽の眩しさも人の騒がしさにもすぐ体力を失う洸祈の頭にパーカーを掛けた。
「……ごめん」
「金魚鉢は俺が後で買ってくるから、今は真っ直ぐ帰ろう?」
「そう…する」
静かな住宅街に住み、来る者は拒まないそこで穏やかに過ごす洸祈はいつもより高い密度も大きい音も苦手で、ある意味お坊ちゃまだった。
陽季が祭りに誘うと、かなり嬉しそうにしていたが、実際に外に出ると、俯き具合が激しくなった。金魚すくいで一匹も取れず、しゅんとしていたら屋台のおじさんが二匹くれ、笑顔を振り撒いて立ち上がろうとすれば、立ち眩みでその場にダウン。金魚だけは死守し、金魚鉢を買って帰ろうとしていた矢先だった。
青白い顔で踞り、小さくなる。ふらつく足で物に掴まって引き摺るように動くしかない。目元をしきりに強く押さえ、目を開けることも億劫なようだった。
「タクシー拾ってくるからここで待ってて」
「あ……うん」
頷く洸祈。彼の膝で金魚が優雅に泳ぐ。
時々、息切れする。
苦しい。
平衡感覚が失せて体が傾いた。そのまま前のめりに突っ伏すかと思えば、頭が誰かにぶつかった。ボールみたいに頭が跳ねる。
「っ……」
謝んなきゃ。
「ごめんなさ…―」
「魚のきたねぇ水かかったんだけど」
金魚の無事を確認しようとして、金魚のビニール袋が取られた。
一体何?
見上げれば男二人。小指程度の水が一人のパーカーに染みていた。もう一人は金魚を見詰める。
「か、返せ!」
奪われる金魚。
「なぁ、汚れた。クリーニング代、1万出せよ」
男は袋を乱暴に振り、金魚が慌てたように騒いでいた。洸祈はいざこざの回避に素直に1万を財布から出そうとして、その腕が掴まれる。
ぐらぐら揺れる頭。
「金あんじゃん。俺達を遊ばせろよ」
「なら、あんたらで行けばいいよ」
お金が欲しいなら持ってけばいい。煩いゴミをクリーニングする代金だ。
「ふうん。足りない」
計3万の財布はカツアゲには十分な収穫のはずだ。中身を確認した金魚泥棒は俺を値踏みするように上下を見た。
「親が金持ちとか?」
何言ってんの?崇弥家は他の名家と違って貧乏だし、親は二人とももういない。
「もっとくれよ」
下品で下劣な奴らだ。
死ぬ覚悟で犯罪者と対峙なんてしたことないくせに、
体張って傷付いてまで稼いだことなんてないくせに、
うざい。
「パパやママにおねだりすりゃ貰えるだろ?あと5万でいいよ」
「―――」
「?」
消えて。
「こ……き?…っ!?洸祈!」
ベンチに寝転がった洸祈は顔を手で隠していた。陽季は慌てて洸祈に駆け寄る。
「どうしたんだ…―」
震える洸祈の足下には金魚の入ったビニール袋。多分、その中の金魚は死んでいる。
「洸祈…何が…」
「……………金魚…死んじゃった…」
「お前はどうしたんだよ!」
金魚じゃない。聞きたいのは洸祈のことだ。
しかし、洸祈はただ震えているだけ。
陽季は金魚の袋を開けると、近くの植木の土を素手で堀り始めた。爪に泥を付けても掘る。いくらか掘ると、金魚を二匹そっと置いた。
これだけ掘れば、猫が漁る心配もない。
土を被せようとして、曲がった背中に柔らかいなにかがくっつく。
「苦しい?」
「うん」
「痛い?」
「うん」
「バイバイってしてあげて」
「……………バイバイ」
汚れた手では抱き締められないから、コツンと額と額を陽季はぶつけた。
「今日は…ごめん。嫌な思いばっかりさせた」
「祭りはまだまだあったし、土を素手で掘ったしな」
「……ごめんなさい」
「洸祈が泣くし」
「……………泣いてない」
「心が泣いてる。苦しくて痛いって」
「……………」
「ホテルにした。一旦、休もう?帰りたかったらその後でタクシーで送るよ」
「ありがと……」
陽季の前で膝を立てる。
陽季は俺の頭を撫でて、首から流れた指が浴衣をずらす。
上腕まで下がった浴衣姿で俺が陽季の肩に凭れれば、背中から入った手が浴衣を脱がしに掛かる。
陽季の匂い。
陽季の温度。
肌で触れれば、交わっている気になる。
まるで疑似性行。
疑似と言うよりただの妄想。
体に染み込んだ感覚が先を想像させる。
馬鹿みたいに阿呆みたいに陽季の剥き出しの首にすがり付く。
欲しい。
陽季が欲しい。
ううん。
陽季の体が欲しいのかな。
女の柔らかさと情熱をくれる陽季。
男とやる快感をくれる陽季。
邪な考えばかりでごめんなさい。
「あ……何も穿いてない」
「…………ヤダ?」
「厭じゃないけど、洸祈、今日はずっとこれ?」
「ううん。さっき脱いだ」
「俺が脱がすからいいよ。まさかの非常事態に他の奴等にお前の大事なとこ見せたくないし」
「陽季が独占したい?」
「今更訊くの?」
「今日は陽季の独占だよ」
「洸祈を抱き枕にするってあり?」
「枕?抱かないの?」
「俺はドSだから」
「ひぁ!…ん…………バカ」
ちょっと陽季の足が重いけど、思いっきり抱き付けてるからいい。でも、当たってる場所を軽く擦ってきて擽ったい。
「枕が煩いぞ」
ぐりぐりとわざと押し付けてきているようだ。股に確かな感触がくる。
「んっ……あ…………う」
「抱き枕、静かに」
「だって…はる……触って」
俺が耳に囁けば、陽季の体が跳ねた。陽季は俺の首筋に唇を触れさせる。
嗚呼……俺にキスマークを付けてるんだ。
陽季の独占欲が気持ちい。
「抱いていい?疲れない?」
俺のこと心配してる。
好き。
大好き。
「触りっこなら」
「んー。お前は別に気を遣わなくていいからな」
触れて、陽季。
俺に触れて。
「陽季……触って」
どうしてこんな体勢なのだろう。
俺は……洸祈の胸にいた。
浴衣では寒かったのか、パーカーを着ていた洸祈は俺の頭を抱いて寝ていた。
「嗚呼……体が出てるよ。冷えちゃう」
俺を抱き込むように……俺は洸祈に守られていた。
太陽……お日様……。
俺の光。
俺は洸祈の腕を脱け出すと、枕を抱かせて毛布を肩まで上げる。
なんて幼い顔だ。無邪気な天使の寝顔。残酷な表情。
「やっぱり……熱ある」
風邪薬を今から貰ってこようか……。買いに行こうかな……。
シャワーを浴びた陽季はメモを残して部屋を出た。
「あ、また風邪?」
二階のベランダで簡単な洗濯物を干していた葵は店先で陽季に支えられてタクシーを降りる洸祈を見下ろす。既に迎えに行っていた琉雨が洸祈の顔色を見ていた。
「夏祭りだったんですよね。洸祈、途中で?」
「風邪は今朝からでね。昨日は人に酔ったみたいだからホテルに泊まったんだ」
「すみません。町内の祭りにしとけば……いえ、陽季さんのせいではなくて、洸祈は自分の体調も知らずにはしゃぎ過ぎるから」
「年上の俺もちゃんと見てられなかったから……気付かなくて」
「この歳でそんなこといいですよ。二十歳になったからには、自己管理能力を付けるべきなんです」
陽季に紅茶を入れる葵は菓子を運ぶ呉の頭を撫でた。
「陽季さん、どうぞ」
「ありがとう」
「こーき、グズグズ泣いてどうした?」
「泣いて……ない。涙が……出てるだけ」
「ふーん」
風邪の副作用で涙ぐむ洸祈はうーうー唸りながら陽季の手を強く握っていた。
「あー……うー……汗キモい」
「着替える?」
「着替え……させて」
「下着から替えちゃっていいわけ?」
「パンツ脱がしたら殺す」
「………………案外元気だね」
「うー…うー……」
くたりと力を抜いた洸祈は再び眠りに入ったようだ。
首もとを汗ばませた彼は襟を掴んで引き延ばそうとする。
「服がよれちゃうよ!」
陽季が慌てて洸祈の手を掴むと、手は物凄く熱かった。
「あ…つ……熱い……」
寝返りを打つ洸祈の冷却シートを変えてやると、幾らか治まったが、洸祈は吐く息を熱くさせて布団から出ようともがいていた。
「出して……熱いよぉ……」
「駄目。寝て」
「熱い……あづいぃ……」
陽季がスポーツドリンクを飲ませてやると、今度はぷるぷる震えて布団に潜る。
そして、洸祈は眠った。
「夏まーつぅりぃい!」
「なにそのイントネーション」
「花火大会だぜい!」
「キャラ崩壊だよ!?」
「琉雨、行くぞ!貯金はたいて完全制覇だ!」
「完全制覇!?む、無理です!」
「つべこべ言わずに夜明けは近い!タイムリミットありの戦いなんだから、肩車でしゅっぱーつ!」
「ひゃ、はぅああ!!!!」
「琉雨ちゃん……御愁傷様」
洸祈が寝込んでから1週間。
洸祈はすっかり元気になった。しかし、元気になりすぎた。
『祭り行ってくる』
朝方から電話をしてきたと思ったら、祭りに行くときた。
「よせ。また気持ち悪くなるぞ?」
『店から駅行く途中に急な上り坂があるだろ?そこ行くと神社があるんだけど、そこで小さいけどそれなりに本格的な祭りがあるんだ。近所だし』
「俺も行く」
『ホント!?荷物係!?』
「荷物係とは言ってないんだけど」
『うわあ、ありがと。俺、琉雨を抱っこする両手しかないから困ってたんだよね。陽季優しい~』
「………………仕事あるから、5時でいい?」
『5時ね。司野は5時30分って言ってたから、30分まで遅れても大丈夫だから。神社の境内のとこで待ってる』
司野さんいんの?って言おうとしたら、電話が切れた。
5時に向かったら、葵君と千里君が既にいい雰囲気でりんご飴を買っていた。
浴衣の葵君に私服の千里君。さりげなく葵君をエスコートする千里君がかっこよかった。
そして、洸祈を発見。
葵君とペアの浴衣を見付けて近寄れば、これまた花柄の浴衣の琉雨ちゃんを……―
「琉雨、背中向けて、顔だけこっち」
「は、はひ……こうですか?」
「髪飾りがよく見えない。顔もうちょっとこっち」
「はうぅ、転んじゃいますぅ!」
「魔法を使えばいい!」
洸祈は写真撮影に真剣で、鬼監督さながらだった。
琉雨ちゃん涙目だぞ。気付いてやれよ。
「ほら洸祈、使い捨てカメラなんだから、祭りで撮らずに撮影可能残量なくなるぞ」
「これは境内で待つ間撮るようだから問題ないわけ。祭りは祭り用があるし。花火はないけどお囃子あるから琉雨の踊る姿用も……」
「陽季さぁーんっ。旦那様が、旦那様がぁ」
俺に抱き付く琉雨ちゃん。
普段の下ろしている姿も可愛いが、髪を上げているのは新鮮だ。少し頬紅も付いている。
「琉雨ちゃん可愛いね。なんかおかしい洸祈が?」
洸祈ならネットに本を駆使して調べそうだ。
「呉君です!呉君がルーの初のお化粧をしてくれました!」
呉君!?
不思議な子だとは思っていたが、ここまでとは!
当の呉君は欠伸をして蟻の行列に目を凝らしていた。
「着付けまでしてくれちゃったわけだ。呉は」
洸祈は不満そうな顔をするくせにうるうる目の琉雨ちゃんをぱしゃり。
まぁ、自分も乙女チックなのに表現が凛々しい洸祈には琉雨ちゃんの髪をアップにして髪飾りを挿してあげるなどできないだろう。
「琉雨ちゃんかわええなあ!」
そこに司野さんだ。
私服姿は……スーツより幼く見える。
「司野、早かったな」
「皆と遊ぶの久し振りやったから。頑張ったんや」
「荷物持ち二人揃ったし、行くぞ!」
「荷物持ち?なんの話や!」
「え?やだ?嫌なら一人で行ってらっしゃい」
手をふりふり。
「ひ、酷いやんか!」
それは俺も思った。
ネガティブなら泣いてたぞ。
「うそうそ。一緒に楽しもうな。だけど、琉雨の抱っこはないから」
「抱っこしたら崇弥に半殺しやろ?一緒に祭り見れるだけで嬉しいわ」
すぐさま子供のように満面の笑みを見せる司野さん。そんな彼の手を呉君が握っていた。
なんて優しい子なんだ。
「では、しゅっぱーつ!」
なんやかんやで、用心屋一行諸々は祭りに繰り出すのであった。
「あお、これ食べて」
「チョコバナナ?まあ……いいけど」
「うわぁ、食べ方エロい」
「は?」
「いや、あおが僕のアレを……あおのご奉仕…………」
「…………冗談だよな?」
「目が……怖いよ。冗談だって。ね?」
「ならいい。あ、射的だ」
「あお、手加減してあげないと屋台のおじさん可哀想だよ?」
「あのクマ欲しい」
「クマのぬいぐるみ?あおって可愛い」
「クマのぬいぐるみじゃなくてクマの首のリボン。千里にやるよ」
「え?本当?」
「だから、手加減はしない。あのクマに辿り着くには前衛の4体を倒し、額に狙いを定めて……」
「あおの目が本気……」
「行くぞ。戦いだ」
「戦い……なの?」
「おじさん、1回やらせて」
「あ、葵、頑張って」
「俺の命中率ナメるなよ」
「う、うん。ナメてないよ。銃の命中率なら洸より高いから恐ろしいくらいだよ……」
「まず1回試し射ちをして、軌道を確かめる。弾の重さを考慮し、水平方向等速、鉛直方向等加速で……一回6発。1発も無駄は許されない。千里、俺の計算の確認頼むからな」
「ははは……冗談だよね?」
そうして、一番てっぺんのボスはあえなく落ちたのであった。