第二話 栄司は今日も眠れない
パチッと青年は目が覚めると枕元にある携帯で時刻を確認する。
「……三時前か」
幾分か低い声で呟いた後、青年は起き上がるとジャージに着替えだした。
それなりに高い身長に無駄のない引き締まった体。そして坊主頭にやや精悍な顔立ち。この青年こそがあの日から成長し現高校三年生となった栄司である。
着替え終わると栄司は部屋からバットを持ち出し外へと出て行った。
外に出ると暗い中、栄司はただひたすら無心でバットを振り続けた。流れる汗もそのままに彼は一心不乱に振り続けた。
がむしゃらにバットを振っても意味はない。そのぐらい長年野球を続けてきた栄司には分かっていた。 それでも栄司はただバットを振り続ける。
黙々とバットを振り続けながらも栄司は先ほどまで見ていた夢の内容を思い出していた。
あの頃はすべてがうまくいっていた。何をしてもどんなことをしても栄司は輝いていた。だが今の自分はどうだろうか。順風満帆にやっているのだろうか?
「啓……」
栄司は自身の幼馴染みの名前を呟いたとき、何か込み上げてくるものを感じたがそれには気付かない振りをした。
それは間違っても幼馴染みに感じていいものではない。
だから栄司は黙々とバットを振る。余計なことを考えなくてもいいように。
小学生の頃からずっと一緒に栄司は啓と野球をやってきた。それは高校生となった今も変わらない。変わったとすれば啓と自身の立ち位置だろうか。
朝日が昇るまで、栄司はただただバットを振り続けた。
*
「ふぁ~あ」
「眠そうだな栄司。ここ一年ぐらいそんな感じだけど、夜あまり眠れてないのか?」
学校に登校中思わず気の抜けるようなあくびを栄司がすると、彼の隣に歩いている腐れ縁、もとい、幼馴染みの啓が心配げな表情で声を掛ける。それに対し栄司は手をひらひらと振って答える。
「大丈夫、大丈夫。いつもお前と夜遅くまで練習してるから少し寝たりないってだけだよ」
「そうか、それじゃ今日の部活終わりの自主練は無しにするか?」
「お前がそれでいいならいいよ」
「そうだな、たまには無しでもいいか」
バットを振るような動作をしながら話す啓に栄司は視線を向けた。
小、中学の頃は栄司の方が大きかったのだが、高校に入ると啓は成長期を迎えたのかあっさりと栄司を追い越し、ひ弱そうな体も成長と共にりっぱな筋肉が付き、彼の着る制服が少しきつそうに見える。
(成長を遂げて追い越されたのは身長だけじゃねぇけどな……)
少しきつめの視線を送ると何か感じたのか、啓は人懐っこそうな愛嬌のある顔を向ける。
「ん? どうかしたのか?」
「なんでもねぇよ」
「そうか?」
不思議そうな顔をしながらも栄司と並んで歩く啓。
栄司と啓。その二人は同じ道を歩みながらもその道の先はどこか違って見えた。
*
その日の放課後。
栄司は部活が終わるとすぐに着替えて、部室に残っている同期の仲間たちと話していた。
「えーいーじー、栄司はまだいるかー?」
栄司は聞きなれた声に振り向くと、開いたドアのところに啓が立っていた。
「おっ、部室にいたのか。探したぞ」
「探したぞって、お前随分と汗だくだな。部活終わってから今まで走ってたのか?」
「まあな。それより、少し練習に付き合ってくれないか」
「今からか?」
「朝はしないって話だったけどさ、やっぱりどうしてもやりたくなってさ。駄目か?」
栄司は手元の携帯で時間を確認してみると時刻はそろそろ十時を回ろうとしていた。彼が返答しようとする前に、他に部室にいた仲間たちが啓に向けて口を開く。
「お前まだ練習するのか? 後二ヶ月で最後の夏大会が始まるし、キャプテンのお前が怪我したらまずいからほどほどにしとけよ」
「そうだぞ。ただでさえお前はやりすぎなんだから少しは休め。岡本だってもう制服に着替えちゃったしな」
仲間から休めと忠告を受けた啓は幾分か落ち込んだ様子を見せると外に出て行こうとする。
「うん、そうだな。外でダウンしてくる」
「啓!」
「ん? どうした栄司」
呼び止めた栄司に啓の視線が向けられる。
「今ジャージに着替えるから、先に行って待ってろ」
「えっ? いいのか?」
「いいも何も、お前が聞いてきたんだろ」
「分かった! 先に室内練習場のところに行って用意してるからな!」
啓は嬉しそうな顔をしながら、勢いよく部室を飛び出していった。後に残されるのは仲間のため息のみ。
「お前はほんとつくづくいい奴だよな。俺だったらまた着替えてやろうなんて思えねぇよ」
「ほんとほんと。そもそも部活後に自主練しようなんて中々できないよな」
好き勝手に言っている彼らを尻目に栄司は制服からジャージに着替えると、
「ったく、そんなんだからお前らは練習試合にすら出れないんだよ」
まだ部室に残っている仲間に聞こえない程度に呟いて、啓が待つ室内練習場に向かった。
室内練習場ではすでに用意を終えた啓が黙々とバットを振っていたが、栄司に気付くと素振りをやめた。
「遅いのに悪いな栄司」
「いいさ別に。帰る方向が同じ奴はお前しかいないからな。一人で帰ったところでつまんないだろうし、最後まで付き合うさ」
栄司は言いながら用意されていたカゴいっぱいに入ったボールの中から一つを手に取る。
「さて何やんだ? マシンで打つのか? それともティーか?」
「久々にトスを上げてくれ、お前とティーがしたいんだ」
「はいよ」
構えを見せる啓に向かって栄司は次々とトスを上げていく。それを啓は一つも打ち洩らすことなくすべてのボールをバットの真芯で捉える。
「さすがうちの四番だねぇ。他の奴とは金属バットの響きが違うね」
「毎日夜遅くまでやってたら誰だってこうなるさ」
それができないからこそベンチ入りができる選手とできない選手の差が出てくる。
栄司はそう思ったがそれを口に出すことはなかった。なぜなら彼は夜遅くまで練習をしていながらベンチに入ることができなかった選手なのだから。
「最近の練習試合を見て栄司、お前はどう思う?」
「どうって先月の四月にやった練習試合、十試合だっけ? は、全部勝ったし、昨日の日曜にやった二試合だって勝ったし、チームの調子はいいみたいだから特に言うことはないんじゃない?」
栄司の答えが不満だったのか、啓は表情を曇らせる。
「……栄司、俺が聞きたいのは俺の打撃についてだ」
「わかってるって。大丈夫大丈夫。お前はここ最近ちょっと不調で打てないだけだよ。すぐに直るって」
「先月の十試合に昨日の二試合、そのすべてで俺は四番で使ってもらいながら、たったの三本しかヒットを打てなかったんだぞ」
打つ手を止めずに啓は自分への怒りを口にする。
「気楽に考えろって。お前が打ててなくてもチームは負けてないんだからさ。取りあえず啓はもっと楽にプレーすることを考えろよ」
「だが、俺が打ってればもっと楽に勝てた試合もある。これは気楽に考えてもいい問題じゃないだろ」
「だーかーらー、今までの試合がそもそも間違いなんだよ。確かにここ最近の試合はお前が打てなくて辛い展開が多かったけどさ、それってつまりお前に頼ってばっかで、他の奴がだらしないってわけ。本来なら四番が打てない時でも周りがフォローして勝つってのが、強いチームには必要なことだろ?」
「それはそうかもしれないが」
啓は一端バットを振るのを止める。
「だからな、そういう意味では今のチームはうまく機能してるってことだからさ、そんなに気負うことはないって。バッティングだってそのうち戻ってくるよ」
「そのうちでは困る。夏大会までもう二ヶ月もないんだ。それに予定では練習試合は後二試合しかない。そこで何とか打撃を戻さないと」
「ああ、もう。お前って本当に昔から面白いぐらいに面倒くさい性格の奴だな」
真面目というか融通が利かないというか、啓は何でも一人で抱え込もうとする癖がある。最後の夏大会が近いせいもあるのか最近の試合では余計にその傾向が多く、それが大きな重圧となって啓は不振へと陥っていたのだ。
それから黙々とティーをし続けて三十分ぐらいが経った頃、ふいに啓は打つのを止めた。
「どうした? もうすぐ十一時近いし、やめるのか?」
「ああ、明日もまた練習があるしな、ここら辺でやめておくよ。最後に栄司、お前も久々に打たないか? 最近練習の手伝いばかりでろくに打ってないだろ?」
栄司にバットのグリップの方を突き出しながら啓はそう言った。
「いいよ、俺は。番号貰ってないんだからさ、打ってもしょうがないって」
「いいから打てって。お前にトスを上げたいんだ。ほら、小、中学のころは同じクラブチームでよく上げてたろ?」
「そりゃそうだけどさ、試合に出る可能性の無い俺がやったって意味無いだろ」
「意味はある。今決まってる背番号はまだ仮のものだ。最終的な決定は週末にある練習試合の後に決まるって知ってるだろ? まだ番号貰えるチャンスはある。お前だってそれを知ってるから、素振りをしてそんなにまめだらけの手なんだろ?」
栄司は啓に言われて自分の手を見てみる。そこには両手共に指紋がなくなったのではないのかというぐらいまめだらけでゴツゴツしている手があった。この手は毎日本人でも分からないぐらいバットを振ってできたものだった。
「……啓、監督はミーティングで言ってただろ? その最終決定をする試合は監督が名前を挙げた選手二十五名を使い、その中で二十名を決めるって。その中に俺の名前は入ってない」
啓の顔が少し辛そうに歪む。
「そんな顔するなって、俺はもう十分やってきたし、後は子供の頃から一緒にやってきたお前の応援をするだけだよ」
「栄司……お前はそう言うが、それならなんで手がまめだらけになるぐらいバットを振ってるんだ? ほんとは諦めきれてないからバットを振ってるんじゃないのか?」
啓が言ったことに栄司は軽く頭を振ることで否定した。
「それは違うよ、啓。この手は諦めきれないとかそんなんじゃない。ただバットを振っててなっただけだよ」
「ただバットを振るってなんだ? 選手になりたいから練習したってことじゃないのか?」
このままでは同じことの問答の繰り返しになる。そう思った栄司は片付けをすることで話を逸らすことにした。
「そんなことはいいから、ほら、もう終わりにするんだろ? 早く片付けて帰ろうぜ」
「あ、ああ」
啓はまだ納得していない表情をしていたが栄司が話さないということがわかると、それ以上の追求は止めておとなしく片付け始めた。
「よし、片付けも終わったし帰るぞ、啓」
「そうだな」
啓と肩を並べて帰りながら栄司は、先ほど追及されたことについて考えていた。
(俺が手をまめだらけにするぐらいバットを振る理由か)
なぜ手がまめだらけになるぐらい素振りをしているのか。その理由を栄司は啓に言えるわけがなかった。なぜならその原因は少なからず啓にあったのだから。
ふと栄司は横にいる啓に視線を向ける。啓は何か物々と呟きながら素振りのような動作をしている。おそらく自身の振りのチェックを行っているのだろう。
何かにつまずき、悩みながらもそれを越えていこうとするその姿勢が栄司には輝いて見えた。
「羨ましいよ、お前が」
ボソッと口に出したそれは啓に聞かれることはなかった。
*
「ただいま~」
栄司が家に帰るころには時刻はもう十二時に近かったが、別段このぐらいの時間に帰ることは珍しくなく、普段と比べるとむしろ早い方かもしれない。
彼がリビングに行くとそこには歳が三つ下の弟の祐希が居た。
祐希は栄司の姿を見ると真っ先に駆け寄って来る。
「遅いぞ、兄ちゃん。今日こそは俺の素振りを見てくれるって言ってたじゃんか」
「悪い悪い、もう遅いから明日な」
「昨日も兄ちゃんそう言ったぞ。いつになったら見てくれるんだよ」
「とにかく今日は俺は疲れてるんだから、その話はまた明日な」
それだけ言うと栄司は二階にある自室へと向かって行った。
「ふー」
自室に着くと栄司はひとつ大きな息を吐いた。
息を吐いたことによって少し落ち着いたのか、そこで初めて自身の右手が硬く握られていることに気が付いた。あと少しで弟の祐希を殴り飛ばすところだったかもしれないと思いながら、栄司は硬く握られた手を開いていく。
別に栄司は祐希のことが嫌いではない。自身が高校に入るまではよく祐希に野球を教えていたし、野球のことで頼られるのは非常に嬉しく感じていた。だが、高校に入りすべての時間を野球に費やすようになると少し心の余裕が無くなったのか、多少のことでイラついたりするようになり、家に帰ってゆっくり休もうかと思うと、野球の話ばかりしてくる弟が正直目障りに感じるようになっている。
いつか本当に硬く握られたその手で弟を殴ってしまうかもしれない。段々とストレスが溜まっていく中、栄司は不安を大きくしていくのだった。
*
ふと夜中に、栄司は目が覚めた。
枕元に置いてある携帯で時間を確認してみると、時刻はまだ二時を過ぎたところだった。
「くそ、また今日もか……」
一つ悪態をつくと起き上がりジャージに着替える。その後はいつも通りにバットを持って部屋を出ていく。
今日もまた栄司はバットを振り続ける。
眠れなくなった原因を栄司は完全に理解していたが、栄司にはどうすることもできなかった。
やがて夜が明け太陽が顔を出してきた頃、ようやく栄司はバットを振るのを止めた。
「俺は……どうしたらいいんだ?」
その問いに答えてくれる者は誰もいなかった。