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リタのおむすび ~王国を救った英雄は、一つのおむすびに救われた~

作者: Moonshine
掲載日:2026/06/19


静かな静かな物語です。

ざまあも溺愛もありません。穏やかな魂の救済のお話です。

ただひたすら癒されたい皆様、どうぞリヒトと一緒に緑豊かな場所で、素朴なおむすびで心と体と魂を癒してくださいね。


はあ、はあ、はあ


俺はこのまま死ぬのか。


ベッドの上で目をあけると、リヒトの視界ははぐるぐると回る。

回る天井に気分が悪くなって、リヒトは本日何度目かになる嘔吐を催した。

もう胃には何もない。胃液すらも空っぽになって、吐瀉物には血が混じった。


「リヒト様! せめて、せめて水を! ああ、神よどうぞリヒト様に慈悲を!!」


豪奢なベッドの隣で悲痛な叫び声をあげる乳母の声と共に、吸い飲みの冷たい感触が唇に感じた。

冷たい水が喉を通るその瞬間、リヒトはすくむほどの恐怖をおぼえて思わず吸い飲みを激しく床に叩き落とした。


「リヒト様!  リヒト様! 気を確かに! このままではお命が!!」


乳母の叫び声と遠のいてゆく意識の中、リヒトは一月前の晩餐会での出来事をぼんやりと上の空で思い出していた。


リヒトはここ、スタンレー王国の第一王子として生を受けた。

産みの母である側室、第二王妃ソランジュは外国の出身の踊り子であった。

低い身分の出身ながら、ソランジュは父王からの寵愛が篤く、また、二人の間に生まれた王子であるリヒトは美貌の美姫であった母によく似て容姿端麗で、また武術にも魔法にも長けた、将来を嘱望される王子に成長した。


そうなると、王とは政略で結ばれた第一王妃エレナは、自らの生んだ、心は優しいが平凡な第二王子である王太子の立場を危うくするものとしてリヒトの存在を疎んじるようになった。


母ソランジュが 「病死」 したのは、リヒトが敵国に出陣している間だった。

父王と第二王子である王太子が北の大国に出撃している間に攻め込んできた東の隣国を迎え撃つ戦いの最中であった。

リヒトは非凡なる戦闘の才をいかんなくこの戦いで発揮して、東の隣国を打ち破り、そのまま東の国に出撃をして平定したのだ。


華々しい勝利を母国に飾るリヒトの軍に、国民は熱狂した。


そんな中、ソランジュは第一王妃エレナの催す茶会に招待された、

その後ほどなくして体調を壊して半月後には儚くなった。

ソランジュを診察したエレナの親戚筋である典医は 「流行り病」 と診断し、身分の低い后であったソランジュの葬儀は、リヒトが戦場から到着する前に、ひっそりとしめやかに執り行われた。


「エレナ王妃がソランジュ王妃に毒を盛った」

人々はそう噂した。


リヒトの戦勝祝賀会はそんな中、華々しく王宮で開催された。

東の国を平定したリヒトの活躍に、劣勢であった北の大国とも一時休戦の条約が締結された。

リヒトに比べて王も、そして王太子も戦には凡庸な才しかなかったのだ。

自然、市井では、次の王は王太子ではなく、リヒトがふさわしいという声が上がってくる。


リヒトがエレナ王妃の茶会に招かれたのは、そんな時だった。


リヒトは茶会から帰って次の日、発熱した。

度重なる戦の後の祝勝会の疲れが溜まったものだと、リヒトは気にも止めなかった。

だが次の日、その次の日どんどんと症状は重くなってくる。

そしてリヒトは何も食事を受け付けなくなって、食事をすべて嘔吐するようになった。


エレナ王妃の親戚筋である典医は、リヒトを「流行り病」と診断した。

母ソランジュの命を刈ったそれと同じ診断だった。


時を同じくして、リヒトがエレナ王妃の茶会に連れて行った愛犬が、茶会から1週間後、急に衰弱して命を落とした。

犬には茶会でリヒトの皿に乗っていたサンドイッチを与えた覚えがある。

「エレナ王妃の茶会で、遅効性の毒を盛られた」

リヒトがそう気がついた時には全てが終わろうとしていた。


エレナ王妃から睨まれる事を恐れた治療魔法師や医師たちは、リヒトの診察を拒んだ。

だが幸いにもリヒトの学生時代の師に治癒魔法の大家がいた事が幸いし、乳母の必死の看病のかいもあって、数カ月もの激しい命の戦いの末、リヒトはなんとか一命をとりとめた。


だが、毒に苦しんだ記憶はリヒトを激しく苛み、リヒトは回復後もまともに食事ができなくなった。食事を見るだけで毒に苛んだ記憶が蘇ってくるのだ。


体が全力で食事を拒否する。飲み物も拒否をする。


かつて王国の一番星と称えられた、東の国を平定した勇敢なる第一王子の姿はもう、どこにもなかった。リヒトは棒のようにやせ細った体で王宮を抜け出して、毎日、夢遊病者のように街をふらふらと放浪する、そんな日々をすごしていた。


第一王妃との婚姻によってその実家の後ろ盾で玉座についた父王には、そんな息子に何もできる事はなかった。


その日もリヒトは、傷病兵達がたむろする公園の一角に座り込み、じっと虚ろに空をみあげていた。

傷病兵達の中には心を病んだもの、腕を失ったもの、目が見えなくなったもの、様々だ。

棒のように痩せこけて、虚ろな目をしたリヒトに構うものはここには誰もいない。


(私はこのまま死ぬのだろうか)


リヒトがぼんやりと座り込んでいると、目の前にすっと粗末な握り飯が差し出された。

どうやら炊き出しが行われていたらしい。

リヒトは何も考えずに握り飯を受け取った。

リヒトの隣に座っていた顔が半分爛れた男が、

「やあ、今日はリタのおむすびだ。なんてありがたい」

そう独り言を言って静かに祈りの言葉を紡ぐと、それはそれは大切そうにその粗末な握り飯を一口づつ、口にした。

リヒトはその様子を見るともなしに眺めていたが、その男は一口ほおばるごとにゆっくり、まるで食物と会話をするかのごとくゆっくり、ゆっくりと噛みしめると、やがて最後の一口を口にして、深く頭をうなだれて、そして泣き出した。

「おい・・大丈夫か」

おもわず隣の男にリヒトは声をかけた。

涙を流して感慨に浸っていた男はリヒトの声に気がつくと、にっこりと笑顔になって言った。

「ああ、兄ちゃん大丈夫だ。ただ、このおむすびがありがたくてな」

「この握り飯がか?  何も変わった所がないようにみえるが」

リヒトがよほど不思議そうな顔をしていたのだろう。他の男達も話しに加わってきた。

「いいから食ってみろ。このおむすびは、命の味がする」

「このおむすびを体に入れると、生きているという気になるんだ」

(だが、私は・・・)

毒殺未遂以来、リヒトは食事というものがほとんどできない体になってしまっていた。

食物を口にいれると、毒が苛んだ記憶が戻ってきて、体が全力で拒否をする。

何気なくうけとってしまった握り飯に困ったリヒトがそっとあたりを見渡すと、リヒトの周りにいる大勢の傷病兵達が、それぞれリヒトが受け取ったものと同じ素朴な握り飯を手にして大粒の涙を流したり、天を見上げていたりしている。


その光景の異常さに気圧されたリヒトは、己の手にある握り飯をそっと見た。つやつやとした美しい米は、それぞれがよく粒立って、ほんのりと美味そうなよい匂いがする。

リヒトは恐る恐る、その粗末な握り飯をほんの少しだけ口に運んでみた。

(・・・旨い)

口に運んだ握り飯は、リヒトの口の中でほろほろと溶けていった。とても柔らかく握られているのだろう、まるで半分は空気でできているような柔らかな握り飯には、丁度よい塩梅で優しい塩の味がした。

そのあまりに優しい口当たりにいざなわれるように、おもわず二口目にすすんでゆくと、今度は滋味深い味のする梅の具に行き当たった。梅は自家製の漬物なのだろう、きゅっと咀嚼すると、弱い酸味とまろやかで高い香りが口いっぱいにひろがった。

梅を嚥下すると、梅の弱い酸味は体の中に遠慮がちにおしひろがってゆき、体の隅々の細胞をゆっくりと冬から春に覚醒させるような、呼び覚ますようなそんな優しい刺激が細胞のひとつひとつに満ちてゆく。

梅の穏やかな酸味に背中を押されて、また一口、そしてまた一口とすすめてゆく。

優しい塩味に包まれた柔らかな米は、まるで朝の光が入ってくるかのごとく少しずつ、すこしずつリヒトの弱りきった体の中にいざなわれ、気がつけばリヒトは、一つの握り飯を完食していた。


「・・信じられん」


いつの間にかポロポロとリヒトの両方の瞳から涙がこぼれていた。

この粗末なにぎり飯によって、ほどんど生が失われたリヒトの命と魂がまた、リヒトの体の中からゆり起こされたような、そんな気がしたのだ。

(力が、腹の奥からみなぎってくる)


リヒトの視界は何か月かぶりに、ようやく霧が晴れたように澄み渡って世界が晴れ渡って見える。


リヒトはあらためてすっく、とその場から立ち上がると、ようやく冴えた頭で辺りを見わたした。


リヒトが到着した時、この小さな公園には大勢の傷病兵が、うつろな目をしてたむろしていたはずだった。だが今、どの傷病兵達も虚ろな目をしているものはもういなかった。その代わりに、光をとりもどした目から大粒の涙をこぼして、大切そうに握り飯を押し抱いているものばかりだった。リヒトのように立ち上がって、公園を後にする男たちもいた。

そしてこの握り飯を渡してくれた女の姿はもういなかった。


「・・・なあ、この握り飯をつくったのは誰か知っているか」

リヒトは隣に座っていた顔の半分焼けた男に訪ねた。

「ああ、リタという女の子だ。たまにここにおむすびを持ってやってくるけれど、あの娘が誰なのかは誰も知らないし、いつ来るのかも何処からくるのかも誰もしらない」

「前に来たのは一月前だったか。その前は一週間くらいで来てくれた」

向かい側に座っていた、足のない男が言った。

「リタのおむすびはここでは有名なんだ。生きる希望を失くした俺達みたいな人間がリタのおむすびを食べると、まるで心と体に命が戻ってきたような気がする。あのおむすびは元気な普通の連中が口にしたら、ちょっと旨いくらいの味だから、俺達以外はわからないんだよ。あのおむすびがどれほど特別なのかが」

周りの男たちはそれぞれ静かにみな頷いた。


(あのおむすびをもうひとつ食べたい)


ここ数ヶ月、全く食事を受け付ける事ができず命の崖っぷちに立ちすくんでいたリヒトは、己の心と体にふと沸き起こったその思いに愕然とした。

そしてそのおむすびを手渡してくれた白い手と、その奥にぼんやりと浮かんだ若い娘の微笑みがまぶしく眼裏に映る。


「どうやったらまた会えるんだろうか」


ぽつりとつぶやいたリヒトに、男たちの一人が答えた。


「ここに毎日来るといい。そのうちいつかはまたリタに会えるかもしれない」


その日以来、今までの苦しみの日々がウソだったかのようにリヒトは少しずつ、食事を取ることができるようになった。

毒殺未遂依頼、まるで幽鬼のごとくのようであったリヒトの復活に乳母は狂気乱舞して喜び、王は王国の英雄たる第一王子の回復に涙を流した。


心と体が回復したリヒトは、政務に復帰しながらも、あの日以来あのおむすびの事ばかり考えていた。


リヒトにおむすびを渡してくれた娘の名はリタというらしい。だが、リヒトはその娘が一体どんな顔をしていて、どんな姿だったかも、おぼろげな記憶の中でよく覚えていない。

公園にたむろしている傷病兵達に片っ端から詳しく聞きこみもしたが、リタという娘については名前と、そして茶色の髪の茶色の目の、小柄なめだたない若い娘だとだけ、そう皆覚えていた。


リタが渡してくれたおむすびの米も、中に入っていた梅の漬物も、この王国のどこでも手に入る何でもないものだ。

リタという娘の姿もどこにでもいるような平凡な農家の娘の姿だったように覚えている。


だが、リヒトの生と死の境目をさまよっていた魂は、リタのおむすびによって生者の世界に引き戻されたのだ。


(リタという娘に会いたい。そしてあの命の味のするおむすびをもう一度、食べたい)


リヒトは朝のめざめのその瞬間から、夜の就寝まで、リタとリタのおむすびの事を夢見るようになっていた。


心と体の健康を取り戻して、政務に戻り多忙を極めるようになったリヒトは、それでも人を使ってリタを探し続けた。


結局リヒトが恋い焦がれた 「リタ」 を探し当てたのは、リヒトがあの公園で握り飯を口にしてから二月以上も後の事だった。



リタはどこにでもいる山間の村の、農家の娘だ。


田畑と山の他、何もない辺鄙な田舎の村で農家として生まれ、そして育ち、おそらくはそこで一生を終えて死んでゆく。

山と川、畑。その他は何もない場所だ。

一緒にそんな村で生まれ育ったリタの幼馴染達は、何もない田舎をきらい、自由をしばりつける大地を憎しみ、そして都会に出ていった。

この田舎に残った若い娘は、もうリタだけだ。


友人達はこの田舎は何もない、とそういう。

だがリタにとって、生まれたこの村は命の喜びに満ちていた。

冬の厳しさを超えて、春をむかえた山々は息吹き、豊かな山の恵みを惜しみなく与えてくれる。

硬く冷たい雪の土をそっとおしあげてくれるふきのとう。冷たく厳しい冬の雪解け水は、春には水田を満たし、秋には甘くやさしい米となる。

強烈な夏の日差しでぐんぐんと育つニガウリ。秋の収穫。冬の眠り。

全ては命の奇跡。全ては命の恵みだ。

そしてリタは朝日の瞬きから夕日が沈むまで、ただ命を育む土と向き合っていた。

代わり映えのしない、そして命の奇跡のような村での毎日を、ただ静かにリタは喜んでいた。


リタの変わらない日々はだが、静かに変わる。


きなくさい戦争の知らせは、こんな田舎の村にも訪れていた。

去年の秋の収穫の季節の後から、一人、また一人と秋祭りに帰ってくる若者がいなくなった。みな戦場に行った、そう聞いていた。戦場に行った後皆一体どこに消えてしまったのか、リタには分からなかった。


リタの父があっけなくこの世を去ったのはその頃だ。

ある朝、座ったまま山を見て、事切れていた。

リタは父がずいぶんと年を重ねてからの子供だったのだ。命の時間がやってきたのだろう。

リタは父を、山の巨木の下に葬った。

そこは静かで、涼しくて、そして綺麗な鳥が訪れる場所だった。


それからリタは父がそうしていたように、収穫した農作物を卸に何か月かに一度、街にでるようになった。


街には沢山のモノがあり、沢山の人がいた。

大勢の人々が行き交う街は、とても魅力的だった。

街には公園があった。

そしてそこには戦争帰りの傷病兵がたむろしていた。先に起こった戦に出た兵だという。

みな虚ろな顔をしていた。

みな苦しそうな顔をしていた。


公園を見渡すと色んな人達が食事や飲み物をそんな兵たちに提供していた。

「あの兵隊さん達は国を守る為に心と体を壊した連中さ。かわいそうに」

スープを配っていたおばさんが、そう言った。


リタは馬車に売れ残った農作物を事務所に寄付すると、次の訪れからはリタの村でリタが収穫した米を握り飯にして配る事にした。

リタはあの苦しそうな顔をした傷病兵達の顔に、村をでてから戦に出て、そしてそのまま帰ってこない、村の幼馴染の面影を見た気がしたのだ。


リタの素朴なおむすびは、リタの村そのものだ。

冬の冷たい雪解け水を体いっぱいに満たして、春の月明かりを浴びて、夏の日差しでぐんぐんと育ち、秋の恵みの時に黄金の稲穂の湖となる。稲穂はリタの手によって大切に収穫されて、一粒の米となる。朝の井戸の水で、かまどで炊かれた米は、リタの優しい手によって、澄んだ空気と共に結ばれてゆく。

結ばれたおむすびは丁寧に竹の皮に包まれて、リタの手によって傷病兵に与えられるようになった。


リタの何もない村の、何という事もない素朴な握り飯は、リタの村で大切に育まれた命と空気をいっぱいにはらんでいる。

素朴なそれを一口、口にほおばると、命の風が体に満ちるような、そんな気がする。


そうして王都の小さな公園で、魂と命を体から手放しそうな傷病兵達の集まるそこの片隅でひっそりと配られていた素朴なおむすびは、傷ついた男たちの間で、とても大切な存在になっていた。



「リヒト様、今日もおむすびを」


「ああ、ありがとう」


多忙な国政の執務に戻るようになったリヒトの元には、毎日あの公園で傷病兵に配られるおむすびが運ばれるようになった。

傷病兵のために善意の提供されたおむすびを取るのは申し訳ないと、公園の傷病兵にはリヒトからも匿名で、毎日食事や飲み物が配られるようになった。


公園では毎日、誰かしらがおむすびを配っている。毎日それをリヒトの部下が公園で待っていて、そのおむすびを一つだけ受け取って、リヒトに持ち帰る日々が続いていた。


(これもちがう・・)


あのおむずびにもう一度出会いたい。

リヒトは毎日公園で配られているおむすびを食べるが、それから数ヶ月も、あの恋い焦がれたおむすびに再び出会う事はなかった。


ある日。

何気なくいつものように部下が公園からもらってきたおむすびを口にふくんだリヒトは、ガタリ、とその場で席を立った。


「リヒト様?」


訝しげな部下にはなにも答える事なく、リヒトはそのまま全速力で公園に走った。

口の中で柔らかくひろがる米。米に含まれている澄んだ優しい空気、あくまでみずみずしい米。丁度よい優しい塩加減。

これこそが、リヒトが求めてやまなかった、夢見ていたおむすびだった。


リヒトは公園に走った。死にものぐるいで走った。

息が切れて、目の前が暗くなる。心臓が痛くなるまで全速力で走った。

馬にでも乗ればもっと早かったのに、と考える事さえできなかった。

心が、体が、そして魂が、このおむすびを渇望していた。


(いた)


公園にたどり着くと、リヒトはおむすびをまだ配っている粗末な格好をした若い娘を見つけた。

娘はおぼろげな記憶の中と同じ茶色い髪をして、茶色い目をしていた。


娘の配るおむすびを、まるで天からの恵みのごとく傷病兵達はありがたがって受け取っていた。

大勢の男たちが静かにおむすびを口にふくんで、そして静かに涙を流していた。


「はあ、はあ、はあ・・・リタ」


リヒトはぜいぜいと、切れる息をなんとかつないで娘に声をかけた。

目の前のリタは急に見ず知らずの身なりのよい男に声をかけられておどろいた様子だったが、じっとリヒトを見つめて、ゆっくりと握り飯を差し出した。


「どうぞ」


リヒトはおそるおそるリタの差し出すおむすびを押し抱くように受け取ると、そっと宝物のように口に運んだ。


(うまい・・)


命の味がする。生の喜びの味がする。

ひとすじの涙がほほにつたった。

王族としての作法も忘れて、おもわずガツガツとむさぼるようにリヒトはおむすびを食らった。

柔らかくむすばれたそのおむすびが体に入ると、まるで乾いた砂漠に水が染み込むかのように、心と体と魂に、生の光が入り込んでくるような気がする。


米のひとつぶひとつぶが体の中に落とされる。

その一粒ごとに、リヒトの心に巣食っていた不安とおそれが収まって、心の水面はまるで静かな湖の湖面のように平静を取り戻す。


「よかったら、おかずもどうぞ」

リタは短くそういった。


手渡されたのは、塩でゆがいただけのふきのとうだ。

苦みの残るそれを噛みしめると、体の中に痛みとして残っていた、怒りや悲しみが苦みと共に排出されていくような、そんな気がした。


リヒトはポロポロと涙を流しながら、リタの手を握った。


「リタ。君に、君にあって伝えたかったんだ」


リヒトはその場で少年のように泣きじゃくって言った。


「ありがとう。君のおむすびで私の魂は救われた」


リヒトはその後、2度とリタの隣を離れる事はなかった。


リヒトはそのままリタの住む何もない村について行って、リタの村の空き家になっていた木こり小屋で暮らしはじめるようになった。


リヒトは毎日リタが向かう所に訪れて、ただ隣でじっとリタのしている事をみていた。


そんなリヒトにリタは笑って言った。


「リヒト様、別に私の隣にいてもなにもありませんよ。毎日同じ畑で同じ仕事をしているだけです」


木の切り株に座って王都から送られてきた執務をこなしながら、リヒトも笑って言った。


「かまわない。君の暮らしを見ているだけで幸せなんだ」


その内に、執務をひきつぎ終えたリヒトは本格的にリタの暮らしを手伝うようになってきた。


リタの隣でリタの暮らしを真似事をはじめたリヒトは、リタのその生活がいかに豊かで、いかに命に丁寧に向かい合って毎日を生きているか、そして王宮で人々にかしずかれて生きてきたリヒトの今までの暮らしがいかに命の営みから遠ざかる暮らしであったのかを知るようになってきた。


リタの朝は鳥の鳴き声と共に目覚め、牛の乳をしぼり、卵を集め、畑にでる事からはじまる。

井戸の水は山の雪解けの水をすくう。朝一口の冷たい水を口にふくむと、冬の厳しさのなごりと、春の命の目覚めに満ちた、山の喜びを体で感じるようなそんな気がした。

牛の乳房は優しく柔らかい布であたたかい湯で丁寧に清められ、卵は一つ一つ、まるで宝物をひろうようにそうっと集められ、畑のいもの収穫は、大切そうに、まわりの土ごとそうっと、まるで土からすくい取るように拾われる。


リタは山にも登る。山の斜面からは面白いように山菜が生えてくる。

リタがどれほど取っても取っても、次の日にはまた山菜が取り切れないほどリタの為に生えている。

山の圧倒的な恵みの豊かさに目を白黒させているリヒトに、リタは笑って言った。


「山は惜しみなく与えてくれるの。まるで孫にお菓子を与えるおじいちゃんのようだわ」


夢中になって山菜を集めて一休みしていると、いつのまにか目の前には紫色の果物がふるふると白い実をいっぱいにして、待っている。

そうっと中を開けてみると柔らかで甘い、瑞々しいゼリーのような果実が疲れを癒してくれる。

王都のどんな菓子店にも売っていないその上品な果実。

足の早いそれは日持ちしないので、山に入った者だけの秘密の楽しみなのだと、そう言ってリタは笑っていた。


そうして一日を費やしてあつめられた山と大地の恵みの豊かさに打ち震えて、いつのまにか静かな夜が来る。

夜になると王都のどんな夜会のきらめきよりも美しい星空を見上げて、惜しみなく星降る光を一身に浴びながら、月の青さに感動し、星の瞬きに心を動かされて、粗末な干し草のベッドのおひさまの匂いに包まれて、静かな眠りにつく。



ここには何もない。

ただ、この何もない圧倒的に豊かな村で、静かに満足に暮らす、愛するリタがいる。

そして山の雪解け水で炊いた、命そのもののような尊いおむすびを、リヒトの為に毎日結んでくれる。リタのおむすびを口する度に体の細胞のひとつひとつが、魂そのものが、歓喜を覚えた。生きる喜びが湧いてくるような気がした。

リヒトには何もこれ以上を望む事はなかった。


「リヒト様。王よりリヒト様直々に、舞踏会に参加するようにと、呼び出しがきています」


静かな村に似つかわしくない、赤い軍服を身にまとった一軍がリタの粗末な小屋にやってきた。軍服には王家直属の軍属である紋章が示されていた。


その頃にはリヒトはリタと共にリタの粗末な小屋で暮らすようになっていた。


リヒトは東の国を平定してから一度も袖を通さなかった赤い軍服を身にまとって、小さな村を後にした。

リタは不安そうにその立派な馬車を見送っていた。



「リヒトよ。毒をうけてより地方で療養しているとの知らせを受けていたが、もうずいぶんと回復の様子、これほど喜ばしい事はない。今日はよく帰ってきてくれた。お前が苦しみのさなかにある時に、何もできなかった父を許してくれ」


貴賓室で父王の前に頭を垂れる、リヒトの健康そうな日焼けした顔を見て、王はリヒトの父として涙をこぼした。

王の傍らの女は忌々しそうな顔をしてリヒトを睨みつけていた。

だがリヒトの心は父の涙にも、女の憎々しげな表情にも、何も動く事はなかった。


「今日はお前に重要な知らせがある」


「私ももう年だ。次の戦争には前線で戦う事ま難しいだろう。幾夜となく熟考した結果、この王国の王冠を継ぐのは、先の東の国を平定した、第一王子のお前であるべきだと私は結論に至った。世論も日に日にお前への期待が高まってる。王太子ではなく、 戦に長けたお前にこの王国を継ぎ、北の大国との戦争を勝利に導くのだ。私はお前にこの国の行く末と王冠を預けたいのだ」


リヒトは薄く笑った。


貴賓室の眼下に広がる豪華絢爛な王宮の舞踏会。キラキラと輝くシャンデリア。重厚な音楽。さざめく豪奢な装いの貴人達。宝石をまとった美女達。テーブルの上には珍しい外国の珍味が所狭しと並べられていた。


だが、リヒトの心は王宮にも、王冠にもどこにもなかった。

リヒトの心と魂は今、満天の星空の下で、自分で織った布で作った簡素な夜着に身をつつんだ、この世で一番美しい娘の元にあった。

リヒトの魂を救済した、あの娘のむすんだ世界で一番旨い素朴なおむすびの元にあった。

娘とはじめて口づけを交わした、川べりのホタルのあの夜にあった。


リヒトは王の目をみてはっきりと言った。


「私は王にはなりません」


王は声にならない声を喉の奥で押し殺して、リヒトに問うた。


「なぜだ!  王冠を受け取れリヒト。 さすればお前は全ての王国の民の中で最も尊いものとなる。最も神に近い存在となる。この王国の全ての富も権力も、お前の望むままだ。王妃も、この私でさえお前の前に頭を垂れるのだ。それがお前と、お前の母を助けてやる事ができなかった、せめてもの父としての償いだ」


傍らの女はぎりぎりと憎らしそうに歯ぎしりをすると、だが深く頭を垂れた。


リヒトは静かに言った。

「私は何も欲しくないのです。王位も、北の大国も、権力も何も。私が欲しいのは、心と体と魂の満ちた穏やかな日々だけです。私は毒を受けて一度死んで生まれ変わり、そして生まれ変わった私は、もう心から望むものを手にいれたのです」


「リヒト!」


リヒトは赤い軍服の上着に付けていた幾つもの勲章を外してテーブルの上において言った。


「私は王になる資格はありません。私は一度死んだ身です。第一王子として生を受けて、今まで受け取った全ての名誉と全ての権利を今、ここでお返ししましょう。今の私はこの身一つで十分なのですから」


「兄上、ですが・・」


女の隣でじっと静かに頭をたれていた若い男は、困惑した顔をした。

この凡庸で心の優しい弟は、己と違い、知性に溢れ、美麗で勇敢なる兄こそがこの国の正当なる王冠の継承者である事、そして己の母の兄とその母への所業を知って心を痛めているほどには、愚か者ではなかったのだ。


「シクリッド。お前は王位が欲しいのだろう? では私の可愛い弟にそれをやろう。私の持っているもので、お前が欲しいものは全てお前に譲ろう。私はもう、私が欲しいものは全てもっているのだから」


優しくて凡庸な弟は、涙を流して兄に言った。


「ですが兄上。私は何をもって兄上に報えばよいのでしょう」


「ただ幸せになってくれ、シグリッド。そしてお前のやり方で幸せになってくれ。私が幸せであるように」


―――――――――――――――――――――――――――――――――


「おかえりなさいリヒト様」


「ただいまリタ。私が留守の間何事もなかったかい?」


「リヒト様、大事件がありましたよ。 なんと、リヒト様がお出かけの間にもうあそこの桃の木に営巣したツグミが卵を産んだのです。 リヒト様がいない間に卵が孵ったら、どれほどがっかりするかと心から心配していました。間に合ってよかった」


胸をなでおろすリタに、リヒトは言った。


「ああ、それは大事件だ。少しの間でも君の元を離れたりするから、そんな大事件を危うく見逃す所だった。ああよかった。君の顔を見たら安心して急に腹が減ったよ」


「リヒト様。 夜会に行かれたというのに、ごちそうがたくさんあったでしょう? 」


「君のおむすびより旨いものなんか、夜会にはでないよリタ」


「まあ、本当に仕方のない人。ありものでよければお夜食をつくってあげますよ」


エプロンを翻して台所に向かうリタの後ろ姿に、リヒトの顔は自然にゆるゆるとゆるんでくる。


リタは台所でリヒトの為に、冷たい飯を、あのきれいな小さな手できゅっとむすんでくれるのだろう。

その中には、リタの漬けた優しい味のする酸っぱい梅の漬物が入っているのだろう。

王宮で感じた嫌悪感も悲しみも、心と魂の澱になったそれを、リタの漬物の梅の酸味が洗い流してくれるのだろう。


「リタ。 君のおむすびを思い浮かべるだけで口が酸っぱくなってつばがわいてきたよ。ああ、早く食べたいなあ」

「はいはい、少し待っていてくださいね。今温かいミルクにはちみつを入れてもってきますよ」


やがて、リタの住む田舎の村にも、北の大国との停戦の知らせが入った。

同盟の条件として北の大国の第一王女と、王太子シグリッドとの結婚が発表された。

この結婚をもって、王太子シグリッドは王冠を継ぐ。

人見知りの激しい第一王女と、ゆっくりと文通をして気持ちを育んでいったと、そう新聞には書かれてあった。

凡庸で穏やかな新王は、凡庸で穏やかな方法で己の幸せを選び、この国を平和を導いたのだ。


長い戦争に苦しんでいた人々は喜んだ。

公園の傷病兵達は、戦争の終わりに涙を流して喜んでいた。


やがて世紀の大結婚式と、そして戴冠式が行われた。

大陸中の富という富が集まり、ありとあらゆる大陸中の貴人達が祝福に訪れ、宴は一月の間朝もなく夜もなく続いた。両国の強固な同盟関係の礎となるこの大婚礼は後世まで語り継がれるものだった。

王太后となったエレナは、その人生の悲願であった息子の戴冠を見届けると燃え尽きたように、その宴の最中にこの世を去った。好物のピーナッツを喉に詰まらせた、あっけないものだったという。


そんな頃、リタとリヒトは村役場にいって、婚姻の届けを提出した。

役場の人は、おめでとう、と言ってくれた。

リタは下ろしたばかりの白いワンピースに身をつつんで、嬉しそうに恥ずかしそうに俯いていた。

リヒトは幸せだった。


リヒトは幸せだった。

ここにはリヒトがほしかった全てがある。

朝は日の光と共に目覚め、夜は月の明かりと共に眠る。リタは隣で静かに笑っていて、山も大地も豊かな恵みを惜しみなく与えてくれる。

リヒトは満たされていた。


ある日、義勇軍と名乗る若者の一群がリヒトの元を訪ねてきた。


「正当なる王位継承者であるあなたが王権をとりもどすべきです。あなたが民衆とともに立ち上がるのであればここに100万の兵が王権を奪取する盾鉾となりましょう」


「私は王権などいらないよ」


「なぜですか」


「私の欲しいものは、リタとのここの暮らしだ。王権ではない。それに私はシグリッドを愛しているんだ」


「ですが!」


それからも、遠い外国の学者や古代王権派の学者など、時々そうやってリヒトの事を訪ねてきた。リヒトは笑って皆を迎えて、だが笑ってだれの後をついてゆく事もなかった。

リヒトを腰抜けだというものもいた。リヒトをバカだと罵るものもいた。

だがリヒトは幸せだった。


幾年月もそうやって同じような日々をすごし、いつのまにかリタとの間に3人の子供に恵まれた。

みなリタのように、おむすびが上手に結べる子に育っていった。

リヒトはそれに、とても満足だった。

おむすびが上手に結べるリ子供たちは皆、このなにもない田舎にとどまる事はなく、みな王都にいったり隣村に嫁いだり、それぞれの幸せを探しに行った。

やがて、春の赤い月の日に、隣のむらに嫁いだ上の娘のが子供を産んだ。リヒトと名付けられたその子は、リタに良く似た茶色い髪をしたいたずらっ子だった。


リヒトは幸せだった。


ある日牛舎の掃除をしていたリヒトは、目眩を覚えて膝をついた。

ふと手元を見ると、すべすべとした白い手に剣だこがあったあの手は、ゴツゴツとしたしわだらけの農夫の手になっていた。

幸せな年月を重ねて、いつのまにかもうリヒトは年をとっていたのだ。


リヒトはそれからもう立ち上がる事はなかった。

熱にうなされるリヒトの額には、いつもやさしいリタの手が添えられていた。雪解け水の井戸の水でひやされた布があてられていた。

リタのおむすびはもう食べられなくなっていた。


やがてある日、王都に行った息子も、隣村に嫁いだ娘達も帰ってきた。

リヒトは自分に残された時間が多くない事を知った。

だがリヒトは怖くも悲しくもなかった。リヒトは、リタの父が眠る、巨木の下の綺麗で涼しいあの場所で、眠りにつく事を知っていた。

小さなリヒトは、あの木の下で夢中でどんぐりを拾うのだろう。


(悪くない)


夜も更けてから、真っ黒な馬車がこの田舎のなにもない家の前にとまった。

中からはベールに顔をかくした立派な貴人があらわれた。

貴人はリヒトのベッドの横で膝を折ると、ワンワンと少年のように泣き出した。


「兄さん、兄さんずるいよ。僕をおいていかないで」


リヒトは子供にするように頭を撫でてやると、言った。


「シグリッド、兄さんばかりいい思いをして悪かったよ。お前のおかげで私は本当に幸せな人生だった」


一国の王がお忍びでこの小さな田舎を訪問したという噂がまことしやかに流れたそのすぐ後に、リヒトは息を引き取った。

そしてリヒトの愛してやまないリタの優しい手によって、静かで美しい場所に眠った。


あと季節が何度かめぐれば、リタも同じこの静かな美しい場所で共に眠るのだろう。

そして小さなリヒトがどんぐりを探しに訪れて、母のむすんだおむすびを食べるのだろう。


人知れず、スタンレー王国の英雄リヒトはそうして何もない田舎で、何もない人生を終えた。



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