5
再び足を踏み入れる事になった狐が化けた≪嵌りの森≫は、まるで本物の嵌りの森をそのまま再現しているかのように、精密に出来上がっていた。今、余裕を持ってこの自然を味わうことが出来ないのが残念である。後方からは絶えず狐たちの罵声が轟き、地面には震動が伝わってくる。
さて、とユギに抱きかかえられたままのアノが声を発した。前方を見つめ走り続けるユギの顔を見上げ、彼女は落ち着いた声で言う。
「一先ず、コロッセオからの脱出は成功しました。次は≪嵌りの森≫そのものからの脱出な訳ですが」
「森に化けてる奴に、干渉が出来ればベストなんだがなあ。私が行けば一発でOK貰えるのに」
「今更なんだが、なんでお前は着いてきてるんだ?」
「後ろの奴らに言ってんのか」
「もうそれでいいよ」
「冗談だよ冗談。いじけんなって。さりげなく足をひっかけようとするな」ははん、とセキコは得意げに鼻で笑う。「まああれだ。ここまで強い奴を見つけたのは久しぶりだからなー。狐魂が燃えるというか」
「狐魂ねえ」
「燃えたらうどんになるんじゃないんですか?」
「どっからその発想がくるんだよ……」
珍しくセキコがアノに突っ込みをいれた。ふっ、と気を取り直すかのように素早く息を吐き、走る速度をあげてユギに並ぶ。
「とーりーあーえーず、このまま走り続けても、おそらく埒があかねえ。どうにかすっぞ」
「具体的には?」
「ダイレクトアタック……いや……ううむ」
「だから、具体的な作戦をだねえ」
にやけ顔のセキコに問われ、人差し指を顎にあて考え込むアノ。答えを出したのは、僅か数秒後の事だった。
「セキコさん、今化けるくらいの気力はありますか?」
「あ? ったりめーだろ、誰が何と言おうと私は最強セキコちゃんだぜ。今なら分身だって出来んぜ」
「それは好都合です。では――」
そしてアノは、真面目くさった顔で、信じられないことを言ってのけた。
前方を逃げるユギたちが、突然方向転換し、森の中へと突っ込んだ。
突進する狐たちの先頭は当然戸惑い、足を止めようとした。しかし情報が後方に伝わるのはそう容易な事ではなく、場は一時的なパニックに陥った。そのパニックも覚めやらぬ内に、狐たちはユギたちが逃げ込んだという森の中へ駆け込んだ。
しっかりと道が開けていない森の中を、大勢の狐たちが、我先にと走っていく。途中何匹もの狐が転びリタイアした。それでも皆顔に興奮を滲ませて、ユギたちを――自分たちの祭りの出し物を――追っている。
やがて彼らは、森の中に切り開かれた広場のような場所に出た。頭上に太陽の光を遮る葉は無く、広場の中央の地面は明るく照らされていた。そして、その場所に、大きな看板が一つ、意味ありげに立てられていた。
なんだこれ、と先頭の狐が看板に眼を走らせた瞬間。
その表情が、猛烈な憤怒に変化した。
うおおおおお、と獣のような叫び声をあげ、その狐は森の中へ走り去っていく。訝しげに彼の背中を見送った狐たちは、皆同じように看板に眼をむけ――そして、咆哮と共に走り出した。
――看板に書かれた言葉。それは、≪嵌りの森≫に対するありったけの侮辱の言葉だった。
そうして、次々と狐たちは怒りに駆られて森の中へと消えていく。いつの間にか看板の数は増えていき――やがて、森全体に陰湿な言葉が書かれた看板が広がった。あちらこちらから狐たちの悲鳴と怒号が上がり、狐の化けた森は、一気に混沌へと迷い込んだ。
ユギとアノは、広場に生えた木の上から、狐たちの様子を観察していた。もう広場に狐たちはいない。とはいえ、まだ森に変化は無い。いくら彼らを欺けたとしても、森から脱出できなければ意味は無いのだ。
「しかし……効果てきめんだな、これは」
「でしょう? 狐を化かすには狐しかいませんから」
アノは得意げに顔を緩めた。ユギは一つ頷き、辺りの様子を確認する。
「……まあ、これで追ってくる奴らはほとんど撒けたけど、肝心の森は――っと」
不意に、足元の木が揺れる。それだけではなく、目の前の風景が全て歪み、崩れて見えた。やがて景色は再び形を取り戻し、元通りになったが――。
「なんだ、今のは」
「なんだか夢から覚めた気分です」
「おーい、てめぇら、降りて来いよー」
木の下から声がしたと思うと、猿のような動きを見せてセキコが上ってきた。広場の中央に眼をやる。先程まで狐たちを混乱させていた看板が、跡形も無く消えていた。
あの看板は、全てセキコが化けていた物だったのだ。
「≪嵌りの森≫の化けが解けたぜ。今なら森から抜け出せる」
「ん……でも景色は変わってないぞ?」
ユギが疑問を口にすると、セキコの長い眉が綺麗に逆さ八字を描いた。
「馬鹿かお前。森に化けてた奴は、本来の森に覆い被さるように化けてたんだよ。ふん、偽物の森でも、森その物が侮辱されるのは許せなかったんだろうねえ、ひはは」
「それにしても、よく協力してくれましたね」
うん? とセキコは首をかしげた。アノが微笑む。
「セキコさんだって≪嵌りの森≫に住んでいるんでしょう? だったら、この提案をした時、怒るのが普通じゃないですか」
「あー、まあ、そうだな。愛情が無い訳じゃねぇんだが……そんな記憶が無いんだよなあ」
「え……何故です?」記憶、という言葉にアノは反応する。
「村長が、今日の祭りは帰ってきたばかりの狐を祝うためとか何とか言ってなかったか? その狐ってのが、私のことなんだよ」
「ふむ……じゃあ、何故師匠が薄汚いって言った時、怒ったんです」
「ありゃあ演技だ」けろりとしてセキコは答える。
「ああやって主人公が怒ってる雰囲気を演出しないと、会場が盛り上がんねぇだろ」
「で、俺に負けた訳だ」
「負けてねぇよてめぇの反則負けだ」
セキコは後ろ向きのまま宙に飛び、空中で二回回転して地面に着地した。なんともなさそうにこちらを見上げる顔には、邪悪めいた笑みが浮かんでいた。
「帰ってきたってのは、今までお前何処に行っていたんだ?」
アノを抱えたまま木の上から飛び降り、ユギはセキコの前に着地した。アノが腕の中から降り、ありがとうございますと礼を言う。
セキコは眼を閉じ、んー、と思い悩むように呻いた。苦しげに眉が寄っている。ユギが声をかけようとすると、再びその眼が開かれた。
「言うべきなのかどうかは微妙な所だが……まあいいだろう。話してやる」
「何分くらい使います?」
「五時間くらい」
「……とりあえず歩きながら聞くよ」
「おいてめぇ、今私が何言ってもその言葉を言っただろ! ええ!? 少しは語るこっちの身になってみやがれこのソース野郎が!」
「アノ、行くぞ」
騒ぎ出したセキコを無視し、ユギは森の出口を目指して歩き始めた。待て、待て待てと後からセキコが追いついてくる。
「てめぇら薄情だなあ。子供じゃないんだから五時間くらい我慢しろよ」
「自分を幼女とか言ってた奴がよく言うよ」
「幼女!? てめぇ今私を幼女と表現したか!?」
びくり、と擬音がつきそうな程に、セキコが勢いよく後ずさった。
「呆れた……成程、てめぇはそういう眼で私を見てた訳か。かー、これだから男子ってのはいただけねえ。いただけないよなあ、まっしろしろすけ」
「ええ、全くです。屑みたいな思考ですね」
「此処で人生の引導を渡してやろうか、セキコ」
「上っ等だこのケチャップ野郎。代わりに私がお前にインド王を渡してやんよ」
「インド王?」
「突っ込んじゃいけない」
はあ、とユギはため息を吐く。それから、隣を歩くセキコに眼を向ける。
「で、何処に行っていたんだ? 簡潔に頼む」
「ふん。エルトアの庭で働いてた」
「エルトアの庭?」アノが鸚鵡返しに尋ねた。
「あー、なんだよてめぇら。そんな事も知らないのか? まあ、そりゃ私の名前を知らなきゃエルトアの庭も知らねぇよな」
「……そんな有名なのか、お前の名前も、エルトアの庭ってのも」
ついさっきも同じような事を尋ねたような気がしながら、ユギは言う。返事は早かった。
「そりゃ、世界の創造源だからな」
「……は?」
まさに、寝耳に水。
ユギはぽかんと口を開け、セキコを仰いだ。あまりにも唐突だった。アノも眉を上げ、不思議そうな表情をしている。
同じような顔をする二人を交互に見、セキコは満足げに笑みを浮かべた。
「まあ驚くわな。荒唐無稽にも程がある――私だって、森にエルトアの庭の使者が話をしにきた時は、全身化かして森の奥に送ってやったぜ」
「……結局、話は本当だった訳か」
セキコは片目を閉じる。何かを思い出しているようだった。
「そうだな。あの雰囲気は本気でやばい。狂ってるというか、終わってるというか」
「そうか……」
静かに、セキコの話を反芻する。
まさかこんな所で、旅の最終目的地の事を知れるとは思わなかった。エルトアの庭。当然、聞いたことの無い単語だ。
「ま、そこで働いてて、色々あってな……結局この森に戻ってきて、てめぇらと会った訳だ。聞きたいこともあるだろうが――はん、それはともかく、ようやく外が見えてきたぜ」
歩き初めて、数分が経っていた。辺りの風景に変化は無く、鬱蒼と生い茂る自然が、歩く三人を取り囲んでいる。しかし、彼らの向かう前方に、大きな光の束が見えていた。ふあ、とセキコが暢気に欠伸を漏らす。
「一日ぶりだなあ、外を見るのも」
「そんな実感あるものなんですかね」
「私は感受性豊かなもんでね……私みたいなのが、世界を動かしていくんだよな。間違いない」
「……で、お前はどこまで着いてくるんだよ」
「おいおい、そんな私のことが気になんのか? 初だねえ」
「お前帰れよ」
口々に冗談を言い合い、彼らは進んでいく。森の出口は、すぐそこにまで来ていた。
その時だった。
「――セキコ」
突然、小さな老人が森の中から姿を現し、彼らの前方に立ち塞がった。ユギは咄嗟に身構えたが、脇にいる二人は自然体のままだ。よく見ると、目の前に居る老人の顔には、見覚えがあった。
んお、とセキコが驚きの声をあげる。
「村長。どうしたんだ、こんな所で」
そこに居たのは、ユギとアノが狐たちの村で話をした、あの老人だった。セキコが一歩前に出て、眼を細めて言葉を紡ぐ。
「まさかお出迎えか? ありがたいねえ。こいつらは頼りない奴らだが、面白い奴らだぜ――」
「セキコ」
「ん……、なんだよ」
老人の声の調子は変わらない。ただ一点を――僅かに動揺したセキコの顔を――見つめ、口を開いた。
「この二人に、ついていくのか?」
「あ? ああ、そのつもりだけど」
おい、と言うユギの突っ込みは無視された。
「……そうか。森の者たちは、色々考えるだろうな」
眼を伏せて言う老人は、本当に何かを考えているようだった。彼らが何故そこまでセキコを慕うのかは分からなかったが――ユギは何も言わずに、セキコと老人の会話を見守ることにした。
「あー、おい、村長」
セキコは困ったように頭をかき、後ろのユギとアノを仰いだ。アノは一つ頷き、黙る。ユギは眼を閉じ、腕を組んで顔を背けた。はあ、とため息を吐き、セキコは老人と向かい合う。
「そんな考え込まないでくれよ。何も永訣の朝って訳じゃないんだし」
「渋いな、おい……」
「師匠静かに」
「こいつらの旅が終わるか、もしくはきりが良さそうな所で、私は戻ってくる。だから、なんだ、それまで頑張れ」
しどろもどろに、セキコは老人に言葉をかける。その声色から、彼女が困惑してるのがありありと伝わってきた。彼女自身、こういう別れの挨拶が苦手なのかもしれない。
やがて、老人が顔をあげた。皺くちゃになった口が開く。
「お土産は」
「は?」
師匠、とアノが厳しい目つきで咎めてきた。しかしユギは驚きを隠せずに、老人の発した言葉に反応してしまった。慌てて、前に出る。
「ちょ、ちょっと待て。今あんたなんて言った?」
「お土産と言ったが」
「なんでそうなる!?」
「るっせぇぞユギ。そういう決まりになってるんだ」
そう言うセキコの顔には、気まずさと恥ずかしさがないまぜになった複雑な色が浮かんでいた。お土産の請求。セキコの表情。未だユギには事がよく分からない。
ぐい、とTシャツの裾をひかれ、ユギは半ば強制的に後ずさる。眼を向けると、吊り眼になったアノが、言葉を鋭くして説教を垂れてきた。
「師匠何やってるんですか。人の会話に乱入しないって、母親から教えられていないんですか? 折角感動のシーンだったって言うのに」
「お前にはあれのどこが感動に見えるんだよ」
その傍らで――セキコと老人は、話を続けていた。
「お土産。今度は何を買ってきてくれるんだ?」
「……うーん。滅びのピコちゃん人形とか」
「もう少し可愛げのある物がいいんだが」
「だー、面倒くせえ。可愛げだァ? 村長、あんたそういう趣味じゃなかっただろうが」
「狐たち全員の意思さ」
「……ああそーかい」
セキコは忌々しげに髪をかきむしり、大きくため息を吐く。そして、少し躊躇うようにした後、おもむろに小指を老人に向かって突き出した。
「……なんの真似だ?」
「指きりげんまん」
「子供かお前は」
「御年16だ。はん、ピッチピッチの幼女ってな」
にぃ、と邪悪な笑みを口元に浮かべ、セキコは指を前へ突き出す。その頬は薄い朱に染まっていた。老人は暫くセキコの顔を見つめ――そして、小指をだした。
「まあ、戻ってくるさ。安心しろ」
「元々心配はしていないさ。しているのはお土産に関してのみだ」
「あっそ。……指きりげんまん。嘘ついたら……」
「ついたら?」
「死ぬ」
「まあ、そうだな」
老人は、愉快げに口をゆがませた。
やがて、指を離す。それじゃあ行くぜ、とセキコが言った。老人は頷き、道を開ける。
「おい、てめぇら。いつまで時空漫才やってんだよ」
「なんだよそのハイブリットな漫才は」
「格好いいですね」
「黙れ弟子」
一喝され、アノはやれやれと言いたげに肩をすくめる。セキコは振り返り、演説でもするかのように両腕を広げた。
「って事で、私もお前らに着いて行かせてもらうぜ。文句無いな?」
「私は大賛成だよ。ユギもいいよな?」
「何お前が主導権握ったような事言ってんだよ」
「まあてめぇらが断ったとしてもついていくけどな」
ひはは、とセキコは笑う。そんな彼女を見て、ユギはため息を吐き、勝手にしてくれと、呻くようにして呟いた。
しかして、ユギとアノは新たなる仲間、化け狐のセキコと共に、世界を滅ぼす旅を続ける。旅の目的地、エルトアの庭。創造主との邂逅は、一体何時になるのか。その答えを知る者は――少なくとも、ここにはいない。
真夏の草原を、彼らは歩く。
第二章終。赤狐のセキコが仲間になりました。
≪嵌りの森≫のお祭りは恒例行事。秋の果実収穫の祝いとして毎年開催していますが、今回に限り、セキコが帰ってきたためその祝いとなりました。劇中の描写にもあるように、セキコは≪嵌りの森≫の中ではかなり高い立場に居る狐で、化ける能力も群を抜いています。