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怪しい怪しいと考えて、実際考えていた通りだったとしても、まず的確に正しい行動を取る事が出来ないのが人間というものである。
狐たちの集落を半ば追い出されるような形で後にした二人は、共に暗澹たる思いで森の中を歩いていた。ユギと比べてアノの顔色はそこまで酷くは無かったが、それでも、まずい事になったと言う感情がそのまま表に出たような表情をしている。事実、普段無頓着な彼女が苦汁を舐める思いをする程には、先の見通しがまるで見えていなかった。
門が閉まる直前、老人がしたり顔で呟いた言葉。全てが過去の話だったら。その意味はまるで分からなかったが、なんだか得体の知れない気味の悪さを感じる。底の知れない沼の中で、不安定な位置から抜け出せないように。足掻けば足掻くほど沈み込んでいく。
置かれている状況がどうであれ、今のユギとアノに出来ることは、ただ只管に前進することだけだった。
「なんか、まんまと罠にかかった感じだな」
「恋みたいなもんですね」
「思いつきの単語のみで話そうとする奴と会話を成立させるのがどんなに難しいか、今分かった」
「またまたご冗談を」
「足引っ掛けていいか」
軽口を言い合い、二人は切り開かれた道を直進する。互いに表情は硬くとも、まだ漫才をやるだけの余裕は残っていた。この余裕が消えた時が、彼らにとって真なる意味でピンチである。
複雑に絡み合った木の幹に足を取られないよう注意を払いつつ、ユギは無言で考えを進める。罠にかかった事が何を意味するのか。狐たちはどのような行動に出てくるのか――。
「あ、師匠」
不意に声をかけられ、ユギはびくりとしてアノに顔を向けた。顔を向けられたアノは、表情の硬いユギを見て露骨に嫌そうな顔をした。
「何びっくりしたような顔をしてるんです。ここはお化け屋敷じゃないんですよ」
「お化けの森ではある。いや、突然声をかけられたから驚いただけだよ」
ユギの弁解に、アノは短くふんと鼻を鳴らす。
「このシュールストレミングメンタルが」
「なんだそれは。俺が臭いって事かよ」
「師匠口臭いんですもの」
「冗談であってもその手の精神攻撃はタブーだ。いじめかっこ悪い」
ユギは深くため息を吐き、やる気の灯らない眼を前方へ向ける。遥か先に白い光が見えた。あそこが森の出口だろうか。一瞬だけ喜びかけたが、先程の狐の言葉を思い出し、その気持ちも一瞬で萎えてしまった。こういう場合、何処かしらに全回復のポイントがあって、それからボス戦が始まるのである。
「師匠、これは現実なんですよ」
「俺にとっちゃゲームと変わりない。まあ痛みは体感式だけど」
「その冗談はナンセンスです」
「黙ってろ、シュールストレミングメンタル二号機」
気温は高くなくとも、どこかじめじめした空気が辺りに漂っていた。ユギは額の汗をぬぐう。肺が重い。呼吸が鈍い。空を仰げば、木々の間に太陽が見えると言うのに、この閉塞感は何処から来るものなのか。思わず、舌打ちを漏らしてしまう。
「……大丈夫ですか、師匠」
先程からユギの様子を窺っていたアノが、僅かに声のトーンを落とし、そう言った。ユギは彼女に眼を向ける。アノもアノで、十全とは言い難い顔をしたが、その表情には僅かながらユギを心配する色があった。彼女の深い黒色の瞳をじっと見つめた後、ユギは顔を再び前に向け、そして一つ頷いた。
「大丈夫だ。とっととこの森を抜けよう」
その瞬間だった。ユギの足元の地面が、底が抜けたように黒色へと変わった。遅れて、木々のざわめく音。木から木へ、葉から葉へ、その振動が伝わっていく。生命のもらす呼吸。その息吹。ユギは眼を見開き、その者の気配を感じ取った。
「――陸上式ジャンプッ!」
ユギは強引にアノの手を引っつかみ、前方へと跳躍した。
直後、爆発音。
数拍の浮遊感の後、衝撃が足の裏に響く。倒れないようにアノの身体を支え、ユギは、今まで自分がいた場所を仰ぎ見る。
道の真ん中に、もうもうと土煙があがっていた。周辺の木々や草花が、黄土色の霧の中にその姿を隠している。ユギはアノを支えていた手を下ろし、代わりに彼女を庇う様に横へ突き出した。絶えずその者の気配はそこにあったが、それが何であるかまでは把握が出来なかった。いや、状況を考えれば狐としか思えないが。
「なんですか、お祭りですか」
「こんな時によくそんな事言う余裕あるなお前」
横からひょいと顔を出したアノが、首をかしげてユギの顔を見上げる。そして一つため息を吐き、また何か下らない事を言おうとした所で――
「天に百舌。地に百足」
土煙の中から、若い女の声が聞こえてきた。ユギは身を強張らせる。アノは相変わらず無表情だ。
女の声が続く。
「東に灯台。西に闇」
「……何言ってるんだ?」ユギは眉を上げた。
「前口上じゃないですか?」アノは眉を顰めた。
「朝日と共に姿を崩し夕日と共に姿を溶かす」
「ああ、狐か」ユギは眼を落とした。
「おお、ヒーローですね」アノは眼を細めた。
「彼は言う、人に言う。彼女は叫ぶ、誰かを叫ぶ」
「熱が入ってるな」ユギはやれやれと頭を左右に振った。
「格好いいですね」アノはうんうんと頭を上下に振った。
「聞け、旅人、その名をしかと記憶しろ。我が名はセキコ――構築と分解を繰り返す、万物の王である!」
そして、辺りを覆っていた土煙が消え、そこに居る存在の姿があらわになった。
燃えるような赤色の髪。東洋の忍が着るような黒装束。その裾から、肌色の足が伸びている。靴は履いていない。素足のまま、硬い地面を踏みしめている。整った顔立ちは少女特有の柔らかさを持っていたが、今の彼女の表情は、まるで獲物を捕らえようとする獣のように、鋭く尖っていた。そしてその赤い髪の間に、ベージュ色の耳が二つ、己が人外の生物であることを証明するように、天に向かって直立していた。
狐だ、とユギは確信した。それもとびきり凶悪な種類である。「原型種」という単語が、脳裏にくっきりと浮かび上がる。
狐はふっとその険しい表情を緩め、笑顔になった。口角がニヤリと吊りあがる。細まった眼は、ユギとアノをじいっと見つめている。
「おいおい。もう少し反応をくれたっていいんじゃないですかね、旅人諸君」
不意に、狐が口を開いた。挑発的な声色だった。装束に覆われた両腕を左右に開き、仕方が無いと言いたげに肩をすくめている。
ユギは一歩前に出て、赤髪の狐に言葉を投げつけた。
「あんたは何者だ? 見た感じ、狐にしか見えない訳だが」
「狐ェ? はん、よく分かってるじゃないか。名前はさっき言ったとおりさ――セキコ。てめぇら二人とも貧相な顔をしてるが、一度くらいは聞いたことあるだろ?」
「セキコ?」
アノが狐の名を反復する。前に出ようとしたが、ユギの手がそれを抑えた。一瞬だけむっとした顔でユギを睨んだが、すぐに再びセキコと名乗った狐に眼を向けた。ユギが口を開く。
「いや、聞いたこと無いな。あんた、そんなに有名なのか?」
「知らないだぁ?」セキコは大きく眼を見開いた。
「お前さんお前さん、冗談は良くないな。出来立てのケーキが狸の形をしてるくらい良くない」
「それはきっとケーキじゃない」
「ケーキじゃなかったらなんだっていうんだよ!」
「なんで怒るんだよ」
「てんめぇ分かってねえなあ、今時のケーキは全て狸の形で出来てるだろうが! そんなん知らないで私と友達になろうってのか?」
セキコはきりりと眉を吊り上げ、何故か憤慨する。ユギはため息を吐き、頭を抱えた。またこういう訳の分からないキャラクターが登場してしまうのか。今の自分にはアノの対処をするだけで精一杯だというのに。
苦悶の表情でうずくまったユギを横目にいれながら、アノはセキコと向かい合った。
「……こんな人ですが、私の師匠です。以後お見知りおきを」
「師匠? この薄汚いスパゲッティ野郎がか」
セキコは顎でユギをしゃくった。アノは相槌を打つ。
「そうですよ。いや別に尊敬はしていませんけど」
「しろよ」
ゾンビのようなうめき声を発し、ユギがゆっくりと立ち上がった。その表情は虚ろだ。何度か瞬きを繰り返し、自らの髪をくしゃくしゃにかき回すと、ようやくその瞳に光が宿った。
セキコは腕を組み、ニヤリと邪悪な笑みを浮かべた。
「ふん。おもしれえ。お前ら二人とも名乗りをあげな」
「名前? ……ユギだ」
「後藤です」
「ほう、ユギと後藤――いやちょっと待て、てめえそれ偽名だろ。ユギってなんだそりゃ」
「俺かよ」
「師匠、つまらない冗談はやめてくださいよ」
「お前がだ! 何ちゃっかり話あわせてんだよ!」
荒々しくアノに突っ込みを入れた後、セキコを見る。
「こいつの名前はアノだ。で……セキコとやら、あんたの目的は何だ? さっきの爆撃、下手したら俺ら死んでたぞ」
「たまには刺激になるかなって」
「近所のお姉さんっぽいこと言ってんじゃねえ」
「お師匠さんはつれねえなあ。もう少しゆとりを持てよ。なあ、弟子」
こくこくとアノは頷いている。何も見ていないことにした。
「結局の所、お前にはなんの目的も無いんだな? 俺たちは早く、この薄気味悪い森の中から抜け出したいんだが」
「――薄気味悪い、だ?」
ぴくり、とセキコの額に青筋が浮かんだ。黒装束に包まれた全身が、小刻みにわなないている。まるで憤怒に身を高ぶらせているようだ。突然なんなんだと、ユギは警戒に身を固めた。
不意に、風が吹いた。葉のこすれあう音がする。服が身体に張り付き、ごうごうと吹く風に弄ばれている。セキコの艶やかな紅蓮の髪が、燃え上がる炎のように、宙に広がった。
「村長の話は聞かなかったのか、ユギ」
細長の瞳がユギを捉える。
「狐はよぉ、自分の住む森を汚すことを何より嫌うんだ――それが、誰の行為であったとしても」
吹き荒ぶ風の中、地面が振動を開始したのはその時であった。唐突に訪れた衝撃に、思わずユギとアノは地面に手をついた。腕を組み、見下すように二人を見据えているセキコのみが、揺れ動く地面の上で仁王立ちをしていた。
「な、なんですかこれ。アトラクションですか」
「随分手の込んだやり方だなおい」
地面が隆起する。轟音と共に、三人がいる大地が上へ上へと上がっていく。木々が姿を変え、解けていく。花の香りも、吹いていた風も全て消え、やがて振動が停止した。
ユギはおぼつかない足取りで立ち上がった。ここは何処だろうか。なんだか騒々しいのは何故だ。ぐるりと、辺りを見回して――彼は絶句した。
大量の人間が、ユギたちを取り囲むようにして騒いでいた。彼らがいるのはユギたちが居る場所から少し上で、手元の柵から身を乗り出すようにして野次を飛ばしていた。柵の下には壁があり、此処から登っていくことは難しい。どうやら自分たちは、コロシアムのような物の中に入れられているようだ。
人間――否、狐たちは、一同にセキコの名を叫んでいた。その熱狂ぶりたるや、一国の王の姿を前にしているかのようである。ユギは肩をすくめ、前方に立ち構えるセキコと向き合った。
「どういうつもりだ、セキコ」
「見て分かれ。私とてめぇらは、祭りの出し物なのさ」
村の老人の言葉が蘇る。全てが過去のことだったなら。
つまり、もう既に祭りは始まっている――?
「賑やかですねえ。まさにお祭りって雰囲気です」
「こういうのは外野から眺めてたかったんだがなあ」
「でもここは野外ですよ」
「そういう意味じゃねえよ」
アノに突っ込みをいれ、ユギはため息を吐く。それは憮然のため息であり、安堵のため息でもあった。
大丈夫、まだなんともない。俺らにとって、この程度、ピンチでもなんでもないのだ。
そう思わなければ、こんな状況、やっていられない。
セキコが腕をあげた。同時に、観客たちがどっと沸きあがる。
「――構えろ、ユギ。まずはお前から化かしてやんよ。お師匠様の次は、弟子だ」
「おいおい、RPGは基本弱い奴から倒さないといけないんだぜ。それでいいのか?」
「師匠、余計なこと言わないでください」
「分かった分かった足を踏むな。いいからお前は下がってろ」
アノは先程のように、一度だけユギを睨みつけたが――すぐに、後方の壁際へと走っていった。
そうして、コロシアムの中央にはユギとセキコのみが残った。互いに睨み合い、全身からはえもいわれぬ気迫を滾らせていた。額から垂れた汗を拭い取り、不意にユギが笑う。
「セキコ。本気でやってもいいのか?」
「たりめーだ胡麻野郎。別に手をぬいてもいいがな、その瞬間お前はプラグアウトするぜ」
「ここは電脳世界なのかよ」
ぶん、と大気を震わせ、セキコは右腕を振り回す。水分が飛び散る様のように、段々とその黒色の形は姿を変え、やがて再び形を確かなものにする。セキコの腕、肩から下の部分に出来上がったそれは、歪な形状を模した剣のようだった。
ははは、と乾いた笑い声が口から漏れる。あれが姿を化かす能力。どうやら自分自身が変化するだけでなく、一部分だけを何かに変える事も出来るようだった。
「勿論こんな事出来るのは狐の中でも極少数さ。原型種って呼ばれる奴らのパフォーマンスだなァ」
「器用なもんだな。地味すぎるが」
「褒めるなよ照れるぜ。うっせぇよ人間風情が」
まるで叩き合うように、二人は会話を交わし――そして、二人同時に、動き出した。
長いです。章末までずっとこんな感じ。
狐が化けられる物の範囲は化ける狐の知識量によって決定する為、当然より多くの知識を持っている方が多くの種類の物に化けることが出来ます。しかし、現代の狐の祖先に当たる存在は、自ら化ける事により新たな物体を生み出したことから、必ずしも知識が全てだとは言い切れません。彼のように化けることで新しい物を生み出そうと躍起になっている狐も大勢いますが、今の所そのすべてが失敗に終わっています。